Episodio 2 暗黒の大陸(Mozambico)

1

 来る日も来る日も単調な景色の中を船は進み、たいくつな毎日が続いた。

 リスボンを出航したのがまだ肌寒さを感じる三月下旬で、それから何日もたっていないのに、船が南下しているせいか一気に夏へと季節は変わっていく。日差しが強くなって、甲板に出て風に当たらないと暑くて耐えられなくなってもきた。

 しかし厳密には、閉鎖された空間の中でどれだけ時間がたったのかも、また自分たちが今どこにいるのかさえもわからない。

 とにかく、やることがない。

 毎日が祈りと黙想の中で過ぎていくが、まさか四六時中祈りと黙想ばかりというわけにもいかない。しかし、ほかに何もすることがない。あとは船べりからとにかくだだっ広い海を見て暮らすか、同行している神学生や司祭たちと話をするくらいしかないのだ。


「穏やかだなあ」


 私が一人で海を見ていると、隣にいつの間にかマテオが来ていた。二歳ばかり私よりは若いが、ほぼ同年代といって差し支えない。我われは実際、同じ年の友人のようにうちとけていた。

 それよりも何よりもマテオは私にとって、故郷の言葉で会話できる相手だ。出身はマチェラータという町だが、教皇領である。パシオ師も教皇領のポローニャという町の出身だし、アクアヴィーヴァ師やルッジェーリ師も同じ言葉で会話はできるが、やはり司祭であるから、同じ神学生であるマテオと違って少し遠慮感がある。


「本当に穏やかだねえ。だいたいこれまでの航海の記録とか実際に行ってきた人たちの話によると、途中で大時化しけに遭って死ぬ思いをしたなんてことはお約束なのに、我われはなんと守られていることだろうか」


ディオのご加護…だな」


 にっこりとほほ笑み合う二人。たしかにそうとしか思えない。


「こうやって遠い遠い所に派遣されるのも、ご加護かな」


 と、マテオが言う。私は彼から、視線を大海原に戻した。


「だろうな」


「どういうみ旨かは分からないけれど、まだまだ救いの訪れを待ち望んでいる人びとがたくさんいる。そのために、たまたま我われが選ばれたのだけれど、選ばれた以上はご付託にお応えせねば」


 私はここで不用意に「たまたま」という言葉を使ってしまったが、この時はそうとしか思っていなかったのも事実だ。


「ジョバンニ、君の一途さには頭が下がるよ」


 マテオも視線を海にと投げて、冗談めいた様子で言った。


「何が君をそう突き動かしているのだろう」


「主は計り知れないものをお与えくださった。その恩寵の中で生かされている。だから、そのお返しをするのは当然だ。君もそう感じるだろう?」


「ああ、『天主ディオ』が必要とされればどこへでも行く。我われは『天主ディオ』の尖兵だからな。そう教えられている」


「それだけでなくて」


 私は目を船べりの下の白いしぶきに落とした。


「罪びとだ。この罪をあがなうためには、少しぐらいのことではかなわないだろう」


「それは私だって、いや、みんな同じだろう。この世に罪びとでない人などいないのではないか?」


 マテオがどれほどの重みを含めてその言葉を言ったのかは分からないが、私は自分の罪、そして賜った恩恵に対しては、あえてこの時は具体的に話さないでおいた。

 そして、目を大海原に戻した。

 すべてが自然である。『天主ディオ』が「し」とされた自然が視界いっぱいに広がり、人造のものは何一つ見えなかった。このような体験をするのは、この船に乗る前は経験したことがなかった。すべてが『天主ディオ』のみ手によるもの、『天主ディオ』のせるわざ、大いなる『天主ディオ』のみ力を全身で勘じ取れる瞬間であった。


 その数週間後である。

 なぜかその日は船内がやたらとにぎやかで、みんな船員や商人たちが甲板に集まって何やらお祭り騒ぎをしていた。

 私とマテオは連れ立って甲板にのぼり、そんな人々の様子を見ていた。

 近くに腕っぷしの強そうな船員がいたので、私が聞いてみた。


「何ごとですか?」


「赤道を通過するんだよ」


「赤道?」


「地球を北と南に分ける境界線さ。このあたりは風もないことが多くて、そうしたらハンセンは勧めないから、無事越えられるように海の神ネプトゥーノに祈るってことで祈るって儀式があったんだけど、まあ、今では退屈を紛らわせるためのお祭りさ」


 私はマテオと顔を見合わせた。そして小声のイタリア語で、早口でマテオに言った。


「この人たちもキリスト教徒だよなあ。なんでそんな土着の神への祈りなんかするんだ?」

 

「いやあ、由来はどうあれ、ただ騒ぎたいだけだろ」


「それでなあ」


 さっきの船員が私たちのイタリア語の会話はわからないだろうから、平気で話を続けてきた。


「俺ら船乗りにとっては、別の意味もあるんだ。この赤道の祭りを何回経験するかによって、それで一人前の船乗りになっていく」


 そして彼は高らかに笑って行ってしまった。

 私はそんな土着信仰に基づいた祭りにかかわりたくなかったので、マテオを促して船室に戻った。ほかの司祭の方々もみな、甲板には出ようとしてはいなかった。


 それから何カ月も過ぎて、船は一度「暗黒の大陸」の東岸にある小さな島に寄港した。ここで水や食糧を補給する。知らない間にいつの間にか、大陸最南端の喜望峰カポ・ディ・ボアナ・スペランザは回っていたことになる。

 ポルトガル語でモサンビーキというこの小さな島は、陸からそう遠く離れているわけではなかった。

 ポルトガルの商人ロウレンソ・マルケスがここに到着してから四十年ほどになり、多くのポルトガル人が移住していた。

 しかしまだ完全にポルトガルの支配下にあるわけではなく、上陸した島には多くの現地人が生活しているのを私は見た。その家は乾燥した草を屋根にし、壁は泥をこねて丸めて固めたものを乾燥させて積み上げ、縄で縛っているというだけの実に粗末な家であった。どれもきれいな形などしてはおらず、指でちょっと突っついたら倒れてしまうのではないかという心配すらしてしまう。

 そんな小さな家、(家というよりも我われの感覚ではどう見ても小屋なのだが、この土地の人びとにとっては家なのだろう)、それが雑然とひしめき合っている。そう、ローマ以上に雑然とだ。

 その集落のところどころに、家をはるかに見下ろすヤシの木が数本ずつ突き出ている。


 そしてさらに驚いたのは、そこに住んでいる人々だ。

 世の中にこのような人間が生息しているのかと驚くほど、顔も手も真っ黒な人びとなのだ。私は最初そういう人々を見て、恐ろしくもあった。いわれのない恐怖感だとは分かっていても、自分たちと「違う」ということで怯えてしまう。だが彼らは実に友好的で、上陸した我われの一行に笑顔さえ向けていた。顔が黒いだけに、笑うと白い歯が実によく映える。


 日差しが暑い。まさに夏の真っ盛りだ。島は狭いだけで全く起伏はなく、目の前に手に取るように見える対岸の大陸もどこまでもまっ平らという感じだ。大海原になんら人造物がないのは当然だが、上陸してからも少なくとも対岸にはやはり何ら人造物は見えなくて、水平線の代わりにはるか遠くの地平線まで草木以外は何もないまっ平らな大地が続いていた。

 私は暑いのに、うすら寒くなった。今まで自分が生きてきた世界と、何から何まで違いすぎる。そのことにただ呆然としていた。


 とにかくずっと夏が続くので、リスボンを出てからどれくらいたったかも分からなくなった。船長カピターノに聞いてみると、約四カ月たったそうだ。四か月も船で旅をしてたどりついた地がこんなにも自分の中の常識を覆すような場所だとは、世の中にはまだまだ自分の知らない世界があるのだということをいやというほど突き付けられた思いだった。

 そうなると、自分がこれから目指す日本というところは、果たしてどんな所なのか…。これまでは『Ilイル Milione・ミリオーネ』の記載や、人から聞いた話だけをもとに、日本という国について勝手に想像し、勝手にイマージネ(イメージ)を作り上げて、勝手に妄想し、日本が分かったつもりでいた。だが、今この想像だにしなかった風景を目にして、日本もこんなふうに、いやこれ以上に未知の世界なのかもしれない。

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