終章 ダ・カーラ :ルートα :ツユイツマデモ
……頭が痛い。
二日酔いの時みたいに、ガンガンと響く鈍痛。
けれどその痛みが吸われていくような柔らかさが、頭の下にあった。
目を開くと、眩しい陽光が瞳孔に刺し込んできた。
慌てて目を閉じる。その寸前に、一人の少女の顔が見えた気がした。
「あ、お兄様。お目覚めになりましたか」
……お兄様?
涼やかな鈴の音みたいな声で発せられた単語に、疑問を抱く。
俺は今度はゆっくりと瞼を持ち上げる。
やはり少女だ。
声の雰囲気から想像していたよりも、幼い顔立ち。
愛らしいという言葉がぴったりだ。
俺の頬にかかった少女の髪は白い。まるで雪原を思わせるような明るい白色だ。
「おはようございます、お兄様」
花が咲き零れたような笑み。花弁が顔に舞い降りてきそうだ。
困惑で頭が回らなくなってくる。
とりあえず積もり積もった疑問の積雪を少しずつ掻き分けていかねば。
「お前、誰だ?」
「これは失礼。初対面の相手には、まずは名を名乗るのが礼儀でしたね」
少女は心持ち背筋を伸ばし、改まった声で言った。
「セツナは宵香刹那(よいかせつな)と申します。性は初夜の宵が香る、名は瞬く間の刹那と書くんですよ。でも漢字だと皆さんなかなか読めないので、普段はカタカナでセツナと書くようにしているんです」
「識字率、か」
「あら。よくそのような言葉をご存知ですね」
セツナに言われて、はたと思った。
確かに。識字率なんて言葉、今まで一度も耳にしたことがないはずなのに。なぜ俺は知っていたんだろうか?
考え込むより先に、セツナが話し出した。
「先刻、お兄様が急にお倒れになられたので、僭越ながらこのセツナが看病をさせていただきました」
「倒れた? 俺がか」
「はい、お兄様が」
意識を失う直前の記憶を思い出そうとする。しかしそうすると鈍痛が蘇ってきて妨げられてしまう。
「……なんで俺は倒れたんだ?」
「今の御気分はどうですか?」
「気分? なんか、二日酔いしたみたいで頭がずきずきするが……」
「覚えておいでではないですか」
ふわりと微笑みかけられる。
「……酒か」
「今後は少々お控えになられた方がよいかと。徳利を十本は空(あ)けていましたので」
「徳利十本? それぐらいなら余裕で飲めると思うが……」
「……お兄様、なりません。アルコールなるものが体を蝕みますよ」
わけのわからぬ横文字に内心俺は首を傾げた。
いやでも、これもなんとなく覚えがあるような……。書物で目にしたことがあろうか。
だが二日酔いの頭で思考を巡らせても意味はないと思い、考えるのをやめた。
頭を働かせるにしても、現状の理解へと尽力させるべきだ。
たとえばこの小娘。妙な風采(ふうさい)に、横文字に理解があることから察するに、もしかしたら南蛮の出身やもしれん。
その割には顔立ちは東洋風で、サヤの言葉を流暢(りゅうちょう)に話しているが……。
「そういえば、そのお兄様というのはなんだ?」
「お兄様は、お兄様ですよ」
まるで答えになっていない。が、セツナの笑みを見ていると不思議とそういうものかと納得してしまいそうになる。
「……すまんが、もう少し詳細な説明をしてくれないか?」
「ううん、詳細……ですか」
唇をタツノオトシゴみたいにちょっと突き出させて、上向くセツナ。
ややあって彼女は言った。
「一目見た瞬間、ビビッと来たんです」
「ほう、ビビッと?」
「直感です。この方こそ、わたくしのお兄様だと」
どこか陶酔したような表情に口調。
どこから突っ込めばいいんだと、二日酔いとは別の頭痛がしてくる。
「……なあ。兄という存在は、血のつながった妹がいて初めて成立するものなんだぞ」
「なるほど。勉強になります」
真面目腐った返答。コイツ、絶対に聞き流す気満々だ。
「……はあ、もういい。お兄様だろうが、兄貴だろうが、好きに呼んでくれ」
「はい、お兄様」
いい笑顔でうなずくセツナ。この笑顔だけで一億露(ろ)稼げそうだ。
「それでその、お兄様のお名前も教えてくださるとうれしいのですが」
「俺か? 俺は――」
……あれ?
言葉が続かない。
「……俺、俺は……」
痛い、頭の中を激痛が走っている。
脳が肥大化して、頭蓋骨を押し上げようとしているかのようだ。
「俺っ……俺、はッ……!」
「お兄様」
頭を抑えて悶える俺に、セツナはすっと顔を近づけてきた。
暖かく湿った吐息が鼻にかかる。甘い花のような香りがした。
「無理に思い出そうとしないでいいんですよ」
「でもっ、これって記憶喪失……!」
「はい、記憶を失くされているようですね。ですが、それで不都合はありますか?」
「あるだろっ、色々と……。家族とか、友達とか、仕事とか……」
「それはお兄様にとって、本当に必要なものですか?」
セツナの紅い瞳が、俺の目を覗き込んでくる。
「必要かって……、そりゃ……」
「お兄様。これからは、セツナがお兄様の家族になります。それではいけませんか?」
真摯な声に表情。どうやら本気で言っているようだ。
「生きるうえで必要なことは、セツナがお兄様の代わりにやらせていただきます。お兄様はただ、セツナの傍にいてくださるだけでいいのです。それでも、思い出せない家族や友人の方が大事なのですか?」
俺は記憶の想起を中断し、ぼんやりした意識でセツナの顔を眺める。
華奢な少女だ、しょせんは子供の戯言(たわごと)かもしれない。
だけどこの子と共に生きるというのは悪くない気がした。
「セツナは、他に家族とかいるのか?」
「おりません。セツナの家族は、お兄様だけです」
セツナは世間的に見ればもう十分に嫁ぎに行ける年齢に見えた。
多分、14かもう一つ上ぐらいか。
だとしても一人で生きていくには、少しか弱すぎる気がした。
誰かが傍にいてやらなくちゃいけない。
その役目を俺に担う資格があるのかどうかは、わからない。
わからないが、心はもう決まっていた。
「……そうか。じゃあお前は俺にとって、たった一人の家族で妹ってことだ」
セツナは嬉しそうな、ほっとしたような表情で、ちょっと目を潤ませた。
「はいっ、お兄様!」
胸の内が膨らんでくる。この子を笑わせるだけで、幸福になれる。それになんだかどことなく、懐かしい気分にもなった。
ぽつっ、額を冷たいものが叩いた。
なんぞやと思っている内に、冷たいものが断続的に体を打った。やがて雨となり、雲のヤツが全身にやたらめったら矢みたいな冷水を放ってきた。
「マズいな。どこかで雨宿りしなきゃ」
俺は体を起こして、そういややけに頭の下が柔らかかったなと見やると、それはセツナの膝だった。
「すまない。重かっただろ?」
「いえ、お兄様に膝枕ができるなど、恐悦至極です」
「野郎に膝枕して、嬉しいもんか?」
「もちろんです」
セツナは俺の手を取り、にこりと笑った。
俺はもう片方の手で自分の頭を軽く掻きながら、目を逸らした。
「では参りましょう……と、その前に」
セツナは脇に置いていた、鞘に収まった刀を差しだしてきた。
「こちらをどうぞ」
「……これ、俺のか?」
「はい。腰に吊るしていましたよ。横になられるのに少々お邪魔でしたので、外させていただきましたけど」
実感はなかったが、とりあえず受け取ってみた。
まあ、確かに手に馴染むような、そうでもないような気がする。
試しに抜いてみて、仰天した。
「なんだこりゃ……、剣身が全部錆びてるじゃないか」
ほぼ真っ赤に染め上がっている刀。どれだけ多くの人間を斬れば、こんなになるのかと呆れるぐらいに。
「まあ。これはもう……、使い物になりませんね」
「そうだな。捨てるしかないか」
ふとすぐ近くにあった湖が目がついた。
軽く紅く淀んだ湖。
赤潮……、というわけじゃないだろう。周りは木々に囲まれており、その向こうには峻嶮な山々が連なっている。
どう見ても、海の近くというわけではなさそうだ。
気味が悪い。
だからこそ、この刀を沈めるにはふさわしいかもしれない。
俺は握った刀を、そのまま湖に向かって放ろうとした。
……いいのか?
頭の中の、何かが問いかけてくる。
いいのか、この刀を捨てても。
これはお前と共に、歩んできた武器なのだぞ。
逡巡が生まれる。
……何か、大事な何か。
忘れている気がする。
気を失う前。いや、それよりももっと以前に。
探し物。……そうだ、俺は何かを探していた。
このサヤの世界で。
何か……大切な何かを。
違う。大切な人のために。
俺は探していたんだ。
そう、ツユ――
途端、脳天を貫くような痛みが俺を襲ってきた。
「あっ、ああっ、ぐっ、ああっ……!」
全身を冷たい痺れが襲う。
皮膚が別の何かに変じてしまいそうなほどの、恐怖さえ覚えるほどの痛み。
俺は叫び声を上げて、苦しみに抗いながらも、飛び交う感情の向こうから答えを引きずり出そうとする。
ツユ、なんだ?
……ツユ、ツユ……。ツユ、ツユ、ツユ、ツユ、ツユ、ツユ……ッ!
喉元まで出かかっている、イガイガしたもの。
それを吐き出そうとするのに、絶叫が掻き消してしまう。
でもこれはすごく、大事なものなんだ。命に代えても、思い出さなきゃいけない。
使命感は風前の灯火になっても、声を大にして言う。
線香花火の燃え尽きる最後の一瞬のような煌めきを放って。
ツユ。ツユ。ツユツユツユッ……。
ツユ……バ。
ツユバ……。
ようやく霧が晴れ、何かが見えてきた瞬間。
刀を持つ手に、温かな何かが触れてきて。
「お兄様、いいんですよ」
柔らかな声が、頭の中にすっとしみ込んできて、乳(にゅう)のような濃霧を頭の中にふうわりと広げた。
「捨ててしまいましょう。お兄様を苦しませる、こんなものは」
痺れも冷えも潮のように引いていく。
そうだ。
俺は何をしているんだ。
こんな得体の知れない刀など、持っている必要はない。
見ているだけでおぞけを覚えるような赤茶けた剣身。護身にも使えないなまくら。
誰が生み出したか定かでない、こんなものは。
捨ててしまえばいいのだ。
手から鞘の滑らかな質感が離れていく。
雨を弾いてそれは飛んでいき、湖の水面を割って、沈んでいく。
それはあっという間のことだった。
雨の幕、湖の濁りに消え、それは見えなくなった。
まるで最初から存在しなかったように。
雨脚は強くなってきた。
体の体温を奪うかのように、冷気を放って降りしきる。
周囲をばちゃばちゃと大地を穿つような音がしきりに響く、耳が痛くなるぐらいに。
そんな中でも、セツナの声ははっきりと聞こえた。
「行きましょう、お兄様」
繋がれた手だけは、春の陽気に包まれたかのように温かった。
「ああ」
俺はその手を握り返し、湖に背を向けた。
セツナは一度立ち止まり、肩越しにちらりと背後を見やった。
「どうした?」
「いいえ。なんでもありません」
首を振ったセツナは、俺を先導するかのように、足を速めて歩く。
もう二度と、歩みを止めずに俺達はその場を後にした。
「お兄様」
「なんだ?」
「これからは二人きりで、ずっと一緒ですね」
妙に引っかかる言い方だが、彼女の声音はその違和感さえも瞬時に溶かしていく。
雨の中なのに、温かい。
春雨だろうか。
だが道の端に咲いていた花は、紫陽花(あじさい)だった。
梅雨。今はおそらく、梅雨なのだ。
蛙の鳴き声が聞こえる。
鼻から息を吸うと、湿った空気の中に森と土の臭い。
身も心も、六月に染め上げられていく。
六月に。
水を吸って肌に張りつく着物も、濡れてぐしゃぐしゃになった髪も、やがては気にならなくなってくる。
俺は雨の冷たさと、セツナの温もりをいつまでも感じていた。
〈αルート:序 了〉
いつか病む雨 ~comment sortir de l'éternité~ 蝶知 アワセ @kakerachumugi
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