7章 ダ・カーラ :ルートα NEXT
10万回。つまり100000ヶ月。
それが雪奈の答えた年月だ。
年数に直すと8333年ほどになるらしい。
永遠の6月というのは嘘偽りではなかったようだ。
心のどこかに疑念があったのだが、もはや信じるしなかった。
この世界は死が一定数を迎え輪廻から外れるまで、生き続けられる。
生き証人である三人、俺と雪奈、香夢偉。
他に知る者はいないし、俺たちがそれを教えることも不可能だ。
6月7日、01:43。
もはや知るのも無意味だとわかっているが、たった20年弱の間についたクセは、今も抜けきっていない。
「香夢偉ちゃん、寝ちゃったね」
俺と雪奈は、間で安らかな寝息を立てている香夢偉を見下ろしていた。
ここは俺の家じゃない。
街にあるホテルだ。
宿泊代は払っていない。
払う相手もいない。
サイドデスクに置かれた空き皿に盛られていた料理も、俺たちで作った。
今や世界中がゴーストタウンだ。ゴーストワールドと言い換えてもいいかもしれない。
そう言うと、雪奈は笑った。
「お兄ちゃんって、本当にネーミングセンスないよね」
「……じゃあ、雪奈だったらなんてつけるんだよ?」
「うーん、そうだね」
腕を組んで、メトロノームのように頭を左右に振る。
その間、俺は香夢偉の髪をいじっていた。
さらさらしていて触れ心地がいい。
可愛い寝顔に、晒された白い肩も相まって、幸福感で胸がいっぱいになる。
「あっ、そうだ」
雪奈がぱっと顔を輝かせて声を上げた。
「お、何か思いついたか?」
「エターナル・エデンなんて、どうかな?」
「……まんまじゃないか」
「それもそうだね」
二人の笑い声が重なる。
10万回。それだけ過ごしてもなお、俺たちは今の日々に満足していた。
少なくとも俺はそう思っていたが……。
ふと雪奈は笑みを掻き消し、ボタンを全開にしたパジャマの間から見える、永遠に用事体形の名残を残した丸みを帯びたお腹をそっと撫でた。
「近親の間で生まれた子供はね、奇形児が多いっていう説があるんだ」
「奇形児って……体に異常をきたした子供のことか?」
「うん。よく知られているのは指が六本あるとか、頭が異常な形になって脳の発達を妨げる頭蓋骨縫合早期癒合症(ずがいほうごうそうきゆごうしょう)かな」
「……単なる説だろ?」
「でもね、劣性遺伝子が引き継がれやすくなるのは事実だよ。そのせいで虚弱な子供が生まれやすくなるんだ」
雪奈は蒲団から這い出て、白い布一枚に包まれたお尻を見せて床に下りた。
そして放られていたズボンを手に取り、それを見下ろしたまま、ぽつりと言った。
「だから、これでよかったんだよ」
俺はかける言葉も見つからず、じっと雪奈の小さな背中を見つめていた。
それに気づいた彼女はあからさまな作り笑いを浮かべた。
「そんな暗い顔しないでよ」
「だけど……」
「元の世界じゃ、こうして三人でホテルにお泊りとかできなかったんだから、さ」
少し顔を俯けて、雪奈はぽつりと言った。
「だからこれで……よかったんだよ」
爪が手の平に食い込む。
「嘘つくなよ」
「嘘じゃないよ」
「……だったらなんで、泣いてるんだよ」
「えっ……?」
雪奈は頬に手をやり、触れた指先を見やった。
そこには透明な雫が丸い粒となって載っている。
「あれ……」
気付いたら、心に嘘をつけなくなったのだろう。
雪奈の頬を冷たい雫が伝い、濡らしていく。
俺も蒲団から抜け出し、涙をぬぐい続ける彼女の傍に行き、そっと頭の後ろに手を回して抱いた。
「……ごめんな、雪奈」
「うっ、うう……あぁああああっ……!」
雪奈が胸に顔を押し付けて、嗚咽を漏らす。
俺は彼女の小さな背中を、撫でてやることしかできなかった。
その時。
「だったら、ツユバライを見つければいいにゃ」
ずっと昔、どこかで聞いたような声が聞こえた。
足元を見やると、黒い猫がいた。尾が二つに割れており、二本の足で人間のように建っている。
雪奈はその猫を目にして、ぽつりと言った。
「……猫又ちゃん」
「おお、覚えていてくれたのかにゃ。人間のクセに、大した記憶力にゃ」
……ああ、思い出した。
永遠の6月が始まった時、サヤの世界の教室で会ったヤツだ。
確かコイツから色々と事情を聞いたんだ。
「なんでお前がこっちの世界に来てるんだよ?」
「いい加減、永遠の6月に飽きたからにゃ。そろそろツユバライをみつけて、この時間を終わらせてほしいにゃ」
「……今の時間でも、俺たちは十分に満たされてる。命の危険を顧(かえり)みずにそんなものを探すメリットなんてあるのか?」
「満たされてる? 雪奈にゃんが鳴いてるのにかにゃ?」
雪奈は慌てて涙を拭いているが、もう遅い。
猫又は口を前足で隠し、わざとらしく笑った。
「別に隠さなくていいにゃ。それにさっきの話を聞いた限り、にゃあが来たのも無駄じゃなかったみたいだにゃ」
さらっと盗み聞きをしていたことを暴露(ばくろ)されたが、それ以上に気になることがあった。
「……無駄じゃなかったって、どういうことだよ?」
「すっかり伝え忘れていたんにゃけど、ツユバライには永遠の6月を終わらせる他にもある力が存在してるんだにゃ」
猫又は飛び上がってベッドの上に着地し、さっきよりも目線近く俺達の顔を見てきた。
「その力は単純明快にして、おみゃあ等にとって最高の力にゃ」
そこで一度言葉を切り、猫又は目を開いて笑う。じれる俺たちを眺めるのを楽しむかのように。
「……なんだよ、力って」
根負けして訊くと、猫又はゆっくりとした口調で言った。
「どんな規格外の願いでも叶える力にゃ」
俺と雪奈はほぼ同時に息を呑んだ。
「……それ、本当か?」
「本当にゃ。だからおみゃあ等が子供を作っても、その子を虚弱じゃなくすることだってできるにゃ」
雪奈と、安全に子供を作ることができる……。
そのことに俺の心は大きく揺れ動いた。
雪奈も同じだったようで、瞠目して猫又を見やっていた。
俺は雪奈の手を取って言った。
「行こう、雪奈」
「……お兄ちゃん」
「俺は雪奈との赤ちゃんが欲しい。今のままでも幸せだけど、もっと先の未来を一緒に歩んでみたいんだ」
雪奈は俺の目をじっと覗き込んできた後、大きく一回うなずいた。
「わかったよ。でも、香夢偉ちゃんは……」
俺と雪奈はベッドで眠っている香夢偉を見やった。
安らかな、幸せそうな顔で寝息を立てている彼女を起こすのは、気が咎めた。
「書置きをしていくか。必ず帰ってくるって」
「また6月1日になったら、あの教室で会うことになるけどね」
「……ううん。なんか気まずいな」
くすっと雪奈は笑ってから言った。
「雪奈ね。最初の一歩は、お兄ちゃんと一緒に踏み出したいの」
「最初の一歩って……」
「両想いになってからの、一歩。香夢偉ちゃんに内緒でね」
ぺろっと舌を出す雪奈。
俺の胸中がドキリと音を立てた。
「……お、おいおい。遊びに行くんじゃないぞ?」
「大丈夫、大丈夫。最初はまた情報収集からやり直さないといけないから、危険なことはしないよ。……だから、ね?」
俺の腕を取った雪奈は体を寄せて、上目遣いに見上げてくる。
「一緒に、行こ?」
顔が燃えるかのように、熱くなってくる。
「……そこでその言い方は、反則だろ」
「ふふっ。八千年以上も一緒にいればどこら辺がツボかなんて、まるわかりだよ」
「あーもう、わかった。だけど謝る時は一緒に頭を下げてもらうからな」
「もちろんだよ」
「話がまとまったようで結構にゃ。サヤへの行き方は覚えてるかにゃ?」
「うん。ツユバライのアプリを使うんだよね」
俺たちは各々のスマホを手に取った。
「書置きはどうすっかな。SNSでコメントを残すか……」
「でも最近、スマホ使ってたのお兄ちゃんぐらいだよ?」
「あー、そっか。俺も時計代わりにしかしてなかったしな」
三人でずっと一緒にいたうえに、八千年も同じ場所で生きてきたのだ。
最先端技術のつまったスマホも、もはや無用の長物と化していた。
「筆記用具なら、マジックペンがあるんだけど……」
「ああ、じゃあハンカチに出も書いていくか」
「ハンカチ? でもそれって、お兄ちゃんのじゃないの?」
「別に向こうでも手拭いとかあるだろ。それにのんびりしてたら、香夢偉が起きちゃうぞ」
「わっ、早くしないと! お兄ちゃん、急いで急いで!」
「ったく、急(せ)かすなよ。字がぶれるだろ」
雪奈から借りたペンでハンカチに伝えたいことを記す。
美文字とは言い難いが、まあ読めないことはないだろう。
「よし、できた」
「見せて見せて」
横から除き込んできた雪奈は、一読してうんうんとうなずいた。
「バッチリだね。これならたぶん、ちょっとの間一人にしても怒られないよ」
「いや、さすがにそれは無理だろ」
「あはは、そうかも」
俺はやれやれと肩を竦めて、スマホを手に取った。
「じゃあ、行くか」
「うん!」
ツユバライを開き、転移魔術のボタンを押した。
視界が霞んで消えていく。俺は現実が目の前から消える最後の一瞬まで、香夢偉のことを見ていた。
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