永訣
……やっぱり、ちゃんと言えなかった。
秋人が帰った後、美冬は後悔に苛まれていた。
美冬のもとに、秋人の死の知らせが届いたのは、1週間前だった。美冬と秋人の共通の友人から電話があり、交通事故で亡くなったのだと聞かされた。どうやら小さな子どもを守ろうとしたらしい。その子は助かったから良かったものの、一歩間違えば危なかったという。
知らせを受け、頭が真っ白になって、何も考えられなかった。
秋人は、美冬にとって初めての友達で、なおかつ初恋の相手であった。
いつも何かにつけてからかってくる秋人が、時にはうっとうしかったが、それでもなぜか秋人は憎めないところがあった。秋人は、口下手な美冬にとって、唯一遠慮せずに本音で話せる相手だったのである。感情表現が苦手な彼女は、幼い頃から本気で怒ったり、泣いたりすることができなかった。そのせいで冷たい人間だと思われていたようだ。しかし、秋人に対しては自分の感情をむき出しにできた。お互いに気を許していたからかもしれない。
秋人はいじめっ子ではなかった。確かに散々からかわれたが、美冬のことを誰より気遣ってくれたのもまた彼であった。美冬が転んで膝をすりむき、大泣きしたことがあった。その時、秋人は美冬のそばにいた。泣き虫だとからかわれると思ったが、彼の反応は意外なものだった。
「美冬! 大丈夫か!? 待ってろ、今何とかしてやる」
今まで見たこともないくらい真剣な顔でそう言って、秋人は、美冬を背負って歩き出した。
秋人は、本気で美冬を傷つけようとしたことはなかった。むしろ、美冬が傷つくことに対しては非常に敏感だったのである。
秋人は、美冬にとって掛け替えのない存在となっていた。そして、そんな彼に、いつしか美冬は惹かれていった。
しかし、秋人をただの友人ではなく、一人の異性、あるいは恋愛対象として見るようになると、次第に美冬は秋人に対してさえも、素直に接することができなくなってしまった。一方で、秋人の方は、美冬のことをそんな風には思っていないようだった。相変わらず、美冬のことをからかおうとしてきた。美冬は、その温度差に耐えられなかったのだ。
秋人と話そうとすると、ついそっぽを向いてしまうことが多くなった。秋人はそんな美冬のことを不思議そうな目で見ていた。好きなのに口も利けない状況で、彼女は自分の無力さを感じていた。
いつしか二人は疎遠になり、卒業までろくに口も利かなかった。別々の高校に進学して以降は、連絡を取り合うこともなくなっていった。
美冬は大学を卒業して地元の企業に就職し、職場で知り合った男性と婚約した。秋人のことは忘れたつもりだった。しかし、ある時ふと、婚約者は秋人にどことなく似ていることに気づいた。引きずってるのか、女々しいなと美冬は内心自分に呆れた。
その秋人が亡くなったと聞き、美冬は放心状態になり、ただ呆然と、窓の外に音もなく降り積もる雪を眺めていることしかできなかった。感情という感情全てを、雪が全部吸い込んでしまったように感じられた。
葬儀には行かなかった。秋人の死を受け入れたくなかったから、というのも、間違いなくその理由の一つだったが、自分の気持ちを結局伝えられなかった、という事実を認めたくないというのが、むしろ主たる理由だったのかもしれない。
だというのに、その秋人が突然美冬の前に現れたのである。死んだはずの、しかも10年以上連絡のなかった人間が、いきなり訪ねてきたら、驚かない者などいないだろう。
秋人は、最後に会った時からさらに背が伸びて、身体つきもたくましくなっていたが、それでもやはり秋人だと分かった。人懐っこい微笑みと、
幻覚でも見たのかと思い、美冬は試しに彼の手を取ってみた。普通に触ることができた。その事実は、彼女を驚愕させるとともに、一瞬、秋人はまだ生きているのではないかという考えを抱かせた。彼の葬儀に出席せず、遺体を確認しなかったことが、より一層その思いを強くした。
だが、まさかそんなことはあり得ないだろう、とすぐに美冬は思い直した。確かに電話はあった。着信履歴にもきちんと残っていたはずだ。
……だとすれば、秋人はやはり死んでいるのだ。つまり幽霊になって、自分の元を訪れたということなのだろう、と美冬は直感した。非科学的なことなど信じていなかった彼女だったが、いざ自分が直接怪奇現象と対峙したら、もう信じる以外の選択肢は残されていなかった。
幽霊は未練を残した者の魂であるはずだ。では、秋人にとっての未練とは何なのだろうか。自分に関係することなのか? と、美冬は思考を巡らせた。
秋人の未練について思い当たることは見つからなかったが、美冬にはある考えが浮かんだ。
秋人は、彼が死者であるということを、美冬が知らないと思っているのではないか? だから、「旅に出る」などと、曖昧な表現をしたのではなかろうか。……その「旅」とは、死出の旅を指すのだろうと思われた。
もしかしたら秋人は、自分を死者として扱ってほしくないと考えているのかもしれない。ならば、彼の望む通りに振る舞おう。そう考えた美冬は、秋人に対し、極力冷静に接するように努めた。
秋人の話を聞いているうちに、彼は勘違いをしているようだと分かった。どうやら彼は、美冬に嫌われていたと思い込んでいるようだった。そして、昔、美冬から取り上げてしまったペンダントを返したいと言った。
……何も分かってないんだから。まあ、ペンダントはありがたく受け取っておくけど。
美冬は半ば呆れながら、高鳴る胸の鼓動を感じつつ、それをひた隠しにした。秋人の顔を見上げると、涙がこみ上げてきて、彼に心配されてしまったので、秋人の気をそらそうと、美冬は反射的に大声を出したのだった。
美冬はふと、今度こそ、秋人に自分の思いを伝えたくなった。今はもう婚約者がいる身だが、それでも確かに秋人のことが好きだったと、ただ一言告げられればそれで良かった。たとえ相手がもうこの世の人ではないとしても。
しかし、ついぞ「好き」という言葉は、美冬の口から出てくることはなく、嫌ったことはない、という遠回しなことしか言えなかった。美冬は内心、歯ぎしりするほど悔しかった。
秋人はすぐに帰ると言った。できればもっと話していたかったのだが、彼はそれを望まないようだったし、激しく降る雪が、逃げる彼を追いかけるのを妨げた。今別れれば、もう二度と会えないかもしれないと思ったが、すぐに秋人は雪の中に姿を消してしまった。
美冬は改めて、自分と秋人の間に冷酷に
今生の別れに際しても、なぜか涙は出なかった。
その夜はろくに眠れなかった。頭の中に、秋人と過ごした日々の思い出が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返していた。
翌朝、浅いまどろみから目を覚ました美冬は、何気なく窓の外を覗いた。雪は夜の間に止んだようで、空一面を覆う分厚い雲の切れ間から、幾筋もの朝日が差し込んでいた。美冬は、天使でも降りてきそうな神々しい光景だな、と思った。
すると、どこからともなく、黄金色の大きな鳥が飛んできて、美冬の目の前をすごい勢いで通り過ぎていった。
「……!?」
見たこともないほど大きく美しい鳥だったので、美冬は自分の目を疑った。
唐突に、幼い頃交わした秋人との会話が蘇った。
「なあ、美冬。人って、死んだらどうなると思う?」
「……え、何よそれ。死んだことないから分かんない」
「いや、そりゃそうなんだけどさ。俺、死んだ人の魂は鳥になって、天国に行くんだって聞いたことあるんだ」
「秋人、見たことあるの?」
「いや、ないけどさ……」
「じゃあ、地獄に落ちる人はどうなるの?」
「うっ……えっと……」
あの時は、秋人の言うことなんて信じていなかった。でも……。
気づいた時には、美冬は寒さも忘れ、寝間着のまま外に飛び出していた。そして、大きな鳥が、翼をはためかせながら、悠然と彼方に飛び去って行くのを、ただ瞬きもせずに見つめていた。
「……秋人」
あの鳥はきっと、彼の魂なのだ。未練を晴らし、黄泉路へと旅立っていくのだろう。美冬は本能的にそう思った。
しかし、秋人は秋人の人生を送ってきたのだから、美冬と疎遠になった後も、多くの人と関わりがあったのではなかろうか、と考えた。美冬の記憶の中の秋人は、常にたくさんの友人に囲まれていた。秋人は美冬と違って話好きで気配り上手だったから、多くの人に好かれていたはずだった。それなのに、なぜ最後にわざわざ美冬に会いに来たのだろうか。
「……秋人は私のこと、どう思っていたのかな」
今更その答えが出るはずもなかった。だが、一つ明らかになったのは、秋人は美冬に対して強い未練を残していたということだった。
もしかしたら秋人も、私のことを……。
そう思いたかった。しかし、それはあまりに、自分にとって都合の良い考えだった。何か証拠が欲しかった。だがそんなものなどあるはずもない。
どうあがいても、もう秋人に自分の思いを告げることはできないのだ。それに、彼の本心を知ることももはや不可能なのだ。
美冬は、胸にずしんと鉛のようなものが重くのしかかるのを感じた。
鳥の姿が見えなくなり、美冬は静かに目を閉じた。目から熱いものが迸り出てくるのを、両の頰で感じた。
もう、遅すぎるのだ。
溢れる涙が雪に落ちて、雪に小さな窪みを作った。
秋人の両親が亡くなった時、美冬は葬儀に出た。湿っぽい別れは嫌だと、秋人は涙を見せなかった。彼がもし今ここにいたのなら、自分のために涙は流さないでくれと頼んだことだろう。
しかし、美冬には到底無理な話だった。それに、彼女は知っていたのだ。気丈に振る舞っていた秋人が、本心を隠していたことを。
息子を亡くした女性が、涙一粒流さず平然としていたが、実は千切れんばかりにハンカチを固く握り締めて、ひどく悲しんでいた、という内容の小説を美冬は読んだことがあった。著者名は忘れたが、表情に出さない感情の巧みな描写に、衝撃を受けたことをよく覚えている。
……あの時の秋人もそうだった。でも握っていたのはハンカチではなく、自分自身の拳だった。葬儀関連のことが一段落した後、一緒に登校した時、彼の両手のひらに絆創膏が貼られていたのだ。彼は転んで怪我をしたのだと言ってヘラヘラ笑っていたが、美冬は葬儀の間中、秋人の膝に置かれた両手が固く握られていたのを見ていた。あれはきっと、爪が食い込んで血が滲むほど、秋人が固く拳を握り締めていたことの証左だったのだろう。
「お前ってさ、人前で素直になれないタイプだろ」
小学生の頃、秋人は美冬にそう言った。クラスメイトに一緒に遊ぼうと声をかけられても、みんなとうまく話せるか不安で、つい「行くわけないじゃない」と突き放してしまい、一人で落ち込んでいた時に言われた言葉だった。
「……どの口が言ってんのよ。あんただって、私に弱み見せまいとしてたじゃない。そうやって、いつも、ヘラヘラ笑って、……あんた、本当の気持ち、自分からも隠してたんじゃないの?」
秋人は未練を晴らすことができたのだろうが、美冬の心には一生消えることのなさそうなわだかまりが残った。しかし、美冬は、そのことについて婚約者に話すつもりはなかった。
あのバカ。眠ってた恋心を叩き起こしやがって。
このことは、墓場まで持っていってやるわ。いつか私がそっちに行く時がきたら……覚えてなさい。魂だけになっても会いに来て、私の心を乱したって、散々あんたのこと罵倒してやるんだから……。
涙は止まる気配がなかった。いっそあの時の秋人の分まで泣いてやろうと、美冬は感情のままに、大声を上げて泣き続けていた。
黄金にきらめく朝日が、泣きじゃくりながら雪の上に倒れ伏す美冬の姿を明るく照らしていた。
雪を溶く熱 雨野愁也 @bright_moon
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