第十四話 深い闇を抜けて-2

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 約一か月前。


 その時カナは、ちょうど村の外で薪を集めている最中だった。風もないのに突然近くの草むらが揺れたのを見て、小動物でも潜んでいるのかとそこを覗き込んだのだ。


 そして。


「痛ててて……」


 そこに蹲って足首を抱えている、一人の痩せた男の姿を発見したのだった。



「やあ、どうもありがとう。どうやら足を挫いちゃったみたいでね」


 その男の名はストアと言った。クロコールの村がある国、デルクラシアの王都で研究者をしているらしい。それを証明するかのように彼は白衣を身にまとっていた。


 カナにとっては彼との出会いは途方もない出来事だった。生まれてからずっと、狭くてちっぽけで、何よりも堅苦しく詰まらない村に押し込められるようにして過ごしていたカナにとって、外の世界、それも大都会である王都からやってきたという研究者の姿はとても眩しく見えた。


「一体なんでこのような所に?」


「うん。魔導研究の一環でね」


 ストアは、カナの貼ってくれた湿布を摩ると、気さくな笑みを浮かべる。


「魔導研究……?」


「そうだよ。君は知らないかい?」


 カナが頷くと、ストアは「よし」と言って、説明を始めた。自分の仕事のこと、広い世界のこと、その世界に現れた魔獣という怪物のこと、魔導研究という職業の素晴らしさ、等など、本当に様々ことを。


 そのどれもがカナにとっては刺激的で、同時に自分の無知さ、小ささを嫌という程に思い知らせるものだった。カナはたまらず、自分の世間知らずさと村のスケールの小ささを恥じた程だ。


 だが、そんなカナに対して、ストアは優しく語りかけた。


「知らないということは、何も恥じるようなことじゃないんだよ。知らないという事を知る事から探求は始まるんだ。私たち研究者も同じさ、この世には知らない事が溢れかえっている。常にその知らないを私たちは探しているんだ」


 心が踊った。素敵だと思った。素晴らしいと心酔した。自分の生まれたちっぽけな村の何十倍、何百倍、いや、何千倍でも全く足りないほどに広い世界に目を向け、遍く未知を探し出して解明しよう、という彼の考えに。


 ストアと話している内に、あっという間に時間は過ぎて、夕暮れとなった。集めた薪を村に持って帰らなくてはいけなくなった。


 地平線に沈みいく太陽を眺めながら名残惜しそうにすると、ストアはカナの頭を優しく撫でた。


「私はすぐそこの木の下にしばらくテントを張ろうと思ってる。よかったら明日も来るといい」


 そう言われて、カナは喜び、頷いた。それからの毎日は、代わり映えのしないそれまでの日々とは違うものとなった。


 村の同じ年頃の少女との集まりは、カナにとってはひどく退屈なものだった。何せ、みんな等しくこの村から出たこともないのだ。狭い村の中の見聞などとっくに枯れつくしており、集まったところで話すことと言えば、いつもの話の蒸し返しか、身近に起こったちっぽけな事件のことが精々だ。


 なにか目新しい発見があるわけでもなく、刺激が訪れる訳でもなく。それどころか、村の娘達はみな、カナをリーダーのように慕う。彼女が最も先頭でみんなを引っ張る役割にあり、誰も彼女の知らない事は知らないし、できない事はできない。


 年頃の女の子であるカナを引っ張り、心を高鳴らせることは出来なかったのだ。勿論、友人達のことは決して嫌いではない。むしろこの鬱屈とした日常に疑問を抱き、傷を舐めあうことのできる大切な同志だ。長い時間を一緒に過ごしてきた仲間だ。一致団結して、心の前倣えを覚えた親友だ。


 その中で、時に頂点に立つことでつまらない自己顕示欲や優越感を満たすことも出来たが、彼女の内なる欲求の堆積から見れば、そんなものはその場しのぎの満足でしかなかった。


 だから、それからは毎日のように村の人には内緒でストアの元へと通った。その度に彼は外の世界の様々なことをカナに話して聞かせ、そのどれもが魔法のように彼女を魅了した。


 ある時は、魔導仕掛けという見たことも無い仕組みで光るブレスレットなどをプレゼントしてくれることもあった。カナは村人には見つからないように、しかし必ずそれを身につけていた。


「いやあ、勿体ないなぁカナちゃんは」


 ある日、ストアはいつものようにテントにやってきたカナを出迎えると、何やら本のような物を読みながらそう呟いた。何のことかと尋ねると、ストアは笑いながら答える。


「いやね、こんなに好奇心旺盛な女の子が村を出ることも出来ず、素晴らしい知識をただ聞いて終わりだなんて勿体ないと思ったんだよ」


「そうなんですか?」


「うん。君のその探究心は、もう立派な研究者のものだよ。非常に惜しいね、私に君みたいな助手がいればなぁ」


「助手……私が、ストアさんの?」


「そう! きっと素晴らしい成果をあげられたと思うんだけど」


 本気で悔しがるようにストアはそんなことを言う。それはカナにとっても魅力的な話のように思えた。


 この小さな村を出て、大きな世界を知る研究の一助になる。それがどんなに素晴らしいことか、想像しただけでも心が弾んだ。


 そうだ、きっとそれがいい。自分は、この人の助手になりたい、と強く思った。


「えぇ? 本当に僕の助手になりたいのかい?」


 カナがその真摯な気持ちを打ち明けると、自分の方から言い出したというのに、ストアは戸惑った様子で答えた。


「参ったなぁ、本気にしちゃったのか」


 それでも、少しおかしそうに笑うと彼女の髪を撫でながら言う。


「分かった。考えてみよう」


 その返事に、カナは強い希望を覚えた。この憂鬱で、先の見えない箱庭での生活が、終わりを告げるかもしれない。突如外の世界から現れた、目の前の救世主によって。


 そんなことを考えるだけで、胸が高鳴るようだった。実際、どこかでそんな虫のいい話が通るわけない、とカナ自身考えており、最終的にストアからの返事が自分の意に沿わないものだったとしても構わなかった。


 たった数日のことだ。それでも彼女には充分すぎるくらい、日々を充実させる素晴らしい体験だった。後はただ、ずっとリーダーとして村の少女達を引っ張ってきた自分の……これまで誰にも打ち明けられなかったささやかなわがままを、ただ聞いてくれる相手がほしかったのだ。


 それが、自分の尊敬する相手であれば、よかったのだ。



「いいよ、カナちゃん。君を私の助手にしてあげよう」


 ストアは、魔獣とやらの研究に着手しているらしい。土地柄、魔獣というものが発生しないクロコールの村に住むカナは、魔獣を見たことがなかった。その恐ろしさについても、ほとんど理解していなかったと言っていい。少し凶暴な野獣と大差がないだろうと考えていた。


 そして、ストアは平和なこの地域で魔獣の研究を行うためにカナに協力してほしいというのだ。内容は極めて簡潔だった。


 ストアの同業者が山賊を装い、この村に魔獣を連れてくる。当然、その魔獣は完璧に制御されたものであるので、村に直接被害を及ぼすことはない。


 しかし、万が一にも村に現れた魔獣が被害を及ぼさないよう、カナには皆がストアの指示を仰ぐように誘導してほしいとのことだった。そして無事、被害を抑えることが出来たら、そのままストアの同業者がカナの身柄を要求する。


 大人しくそれに従い、取引に応じれば、カナはそのままストアの助手として帯同できる、というのだ。


 なんだかやけに回りくどい実験だな、とカナは少し不思議だった。そもそも実験の目的が見えてこない。だが、最早そんな疑問を投げかける気も起こらないほどに、彼女はストアという男に心酔していたのだ。ただ盲目的に、愚かで世間知らずな辺境の村の少女は彼の言葉に従うだけだった。


 この人の言う通りにしていれば、きっと大丈夫だと。


 やがて、事態はストアの言った通りとなった。謎の山賊「ルギフの一味」を名乗る連中と共に、村に突如として、これまで見たこともない生物「魔獣」が現れた。村の誰もがその事態に動揺したが、ただ一人、訳知りのカナだけがいつも通り、リーダーシップを張ってみんなを先導した。


 そして、村の外からやってきたストアという男の指示に従うよう、諭したのだ。


 お陰で、被害と呼べる被害は出ず、村人はストアを歓迎し、カナのことを称えた。その一方で山賊の一味は、やはり村の若い娘、即ちカナの身柄を要求してきた。もちろん、カナは躊躇なくその要求に応じることを決めた。


 事情を知らない村の者たちはそれを止めた。今になって彼女の身を案じるような言葉を投げかけ、いつも通りに村に引き留めようとした。しかしそれは表面的なもので、最終的に彼らは自らの安穏が脅かされているという状況では、いとも簡単に彼女の申し出を飲み込んだのだった。


 最初からそのつもりだったとはいえ、カナは村人のその都合の良い態度につくづく辟易とした。


 それでも、これまでの時間を共に過してきた、カナを慕い、敬愛する少女たちには最後の挨拶をしようと思った。


 みんなのいつもの集合場所、村の奥手の小山の中腹に集まって改めて見下ろすと、彼女の育ってきた世界は本当に狭くてちっぽけだった。カナが足を踏み入れた最も遠くの林だって、その先に広がる果てしない地平線から見れば、ほんの近所にすぎない。世界はあの地平線の、そのまた先に広がる地平線さえ遥かに越えて、遠くまで広がっているというのに。


 いざ、不安げに、そして縋るように自分を見つめる少女達の視線に囲まれてみれば、やはり愛着というものを感じないこともなかった。カナがこの村に残している、唯一の未練といっても過言ではないものだったから。


 何も知らず、怯えた様子で顔を青ざめさせているみんなを見ていると、これは本当はただの実験だから心配しなくても構わないのよ、といつものように安心させてやりたくなる。だが、それはストアから止められていた。カナが知っていることについては誰にも言わないように、と。


 だからカナは、もしかしたら今生の別れとなるかもしれない仲間たちに、最後の言葉を投げかけた。まるで彼女らからしてみれば、カナは自らの身を投げ打って村に献身する勇敢な存在のように映っただろう。


 本当は違う。自分のエゴと欲求のためにみんなを騙し、この狭い世界から一人抜けするつもりなのだ。自分はとてもずるくて汚いことをしているのかもしれない、とカナは思った。


 それでも、カナは省みなかった。


 むしろ、自身の内より湧き上がる衝動に奮い立ちさえした。この場所から見える景色の、そのずっと先に思いを馳せて高揚した。


 ――ああ、私はとても幸運だ。

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