第十四話 深い闇を抜けて-1

 瘴気とは、大陸の果ての大穴「嘆き落とし」から溢れ出る、正体不明のエネルギーである。


 歴史的にも古くから存在を知られているこのエネルギーについて、判明しているのは人間の強い思念に引き寄せられる性質を持つことのみだ。


 恐怖、怒り、悲しみ、後悔。


 思念の種類には様々なものがあるが、大抵の場合、瘴気が引き寄せられる程の強い感情を抱いたものは死亡する場合が多い。


 そしてその死体に、瘴気のエネルギーが力を与えることで彼らはアンデッドになるという。


 肉体の残っている者はゾンビ、あるいはヴァンパイアに。


 また肉体の残らない者はバンシーと呼ばれる、姿の見えない霊体思念へと変化する。


 アンデッドは、魔獣と異なり、人の強い思いが死者をも動かしたものなのだ。


 -『忌むべき死者の書〜サバトを開く前に〜』より-



 ♦︎



 間一髪、ルギフが剣を引き抜く前に、マテルナは弾かれたように起き上がると、急いで駆け出した。それに追い縋るように、ルギフもよろよろと後に続く。


 どうやら、白い魔獣の方は、マテルナに直接襲いかかるつもりはないようだった。相変わらず超然と、まるで石像のようにその場に立ち尽くし、身動き一つみせない。


 不気味なことには変わりなかったが、ひとまずは生きる希望を繋ぐことができたので、マテルナは気を抜かずに大部屋のように開けた空間から走って抜け出した。そして通路のように細くなっている場所へ出ると、足を止めた。


 体力が尽きたわけではない。そこには灯りがついていなかったのだ。


 さきの空間から漏れでるランプの光が無くなると、辺りはほとんど真っ暗闇に包まれて、右も左も分からない。これではとてもではないが、走ってなど進めそうになかった。背後の方からは、着実に足音が迫っている。どうやら、ルギフはこの暗闇の影響を受けていないようだった。


 マテルナは途方に暮れ、必死で辺りに手を伸ばす。とにかく少しでも逃れようと、手足の感触を頼りに進もうとした。


 と、不意にそんな彼女の手を、何者かが握った。気のせいなどではなかった。その掌はやけにひんやりと、まるで洞窟の岩肌のように冷たかったが、確かに彼女の手を握りしめたのだ。


 マテルナは一瞬たじろいで肩を震わせたが、暗闇の向こうから聞こえてきたか細い声を聞いて驚いた。


「マテルナ、大丈夫?」


「……え!?」


 その声は、先程彼女が目を覚ましたばかりの時に話しかけてきた声だった。再び現れた声の主に、マテルナはひどくびっくりした。


「か、カナ? カナなの!? やっぱり無事だったのね!」


 マテルナが、自然とその声音に喜色と安心を入り混ぜて問いかける。確かに、あの空間にいた「少女たち」の中に、カナのものと思える姿はなかった。彼女は生きていた、やはりさっき聞こえてきた声は気のせいなどでなかった。


 闇の向こうのカナは、そんなマテルナを冷静にたしなめる。


「しっ。あんまり大きな声を出しちゃダメ。聞こえちゃうから」


「聞こえちゃう?」


「うん。だから、小さな声で話して、いい?」


「分かった」


 姿こそ見えないが、かつての頼もしく、憧れさえ覚えたカナがそこに居て、自分の手を握ってくれているという状況に、マテルナは強く勇気づけられる。そんなマテルナに、カナの声は問いかけるのだった。


「マテルナ、私のことを信じられる?」


「え? 信じる?」


「そう。暗闇の中じゃ、カナは洞窟の中を歩けないでしょ? でも私は長い間ここにいたから、洞窟の構造を覚えちゃってるの」


 そして、カナの手が強くマテルナの手を握った。


「だから今から、出口に連れていくためにあなたの手を引っ張って走るわ。あなたにとっては何も見えない場所を走ることになるけど、それでも私のことを信じてついて来れる?」


 果てしなく広がるような闇に響く声。肌を撫でる冷たい空気。背後から近づいてくる足音。


 マテルナは迷いなく、その手の感触を確かめるように頷いた。


「信じるよ。ううん、ずっとカナを信じてる」


 その返事をくれてやると、一瞬の沈黙の後に、嬉しそうな、それでいてどこか悲しんでもいそうな、複雑な声色が返ってきた。以前はマテルナ達の心を強く惹き付けた筈の彼女の声は、いつになく弱々しかった。


「そっか。……ありがとう。じゃあ、行くよ?」


 刹那、言葉を置き去りにするかのように、マテルナは前方へと強く引っ張られる。カナが走り出したのだ。マテルナも、自分を引っ張るカナの手に逆らわず、鼻の先すら見えない深い闇の中を走る。それに伴い、背後に聞こえていた足音は遠ざかり、代わりに狭く冷たい世界に反響する彼女の足音だけが耳に届いた。


 どこまでも、どこまでも。深淵に吸い込まれていくように、マテルナが地面を蹴る音が鳴り続ける。冷えきった空気が鼻の奥を刺す。指先を硬い岩盤が何度も掠める。


 必死に、カナの手のひらだけを頼りに、深い絶望と孤独の中を無心に走り続けた。


 何度もみんなの姿が浮かんだ。在りし日の笑顔が、最後に見せた不安そうな表情が、そして変わり果てた姿でカナを手招きする幻像が。


 きっと、もっと生きて行きたいと思っていただろう。もっと沢山の明日を見たいと思っていた事だろう。そんな「少女たち」の姿が幾度も幾度も彼女の心を過ぎり、その度に挫けて躓いてしまいそうになった。瞳からは涙が溢れ、駆け抜ける彼女の後に落ちて土に染み込んだ。


 それでも、何も見えない世界でマテルナは走り続けた。カナの言葉を信じて、心の中の悲しみを振り払い、友人を慰める言葉さえ持たない自分だけが幸運にも助かるために。我が身の可愛さのために。




 …………。


 どれ程も走っただろうか。


 時間さえ分からない場所で、もうかなり長いこと彼女は走り続けていた。前を行くカナは何も喋らない。


 辺りは一向に塗りつぶしたような闇だ。それどころか、その闇が濃くなって行っているような気さえする。洞窟の中の薄い空気に、もう既に肺がばくばくと悲鳴をあげていた。凍えるような寒さが彼女の体力を奪う。硬い地面を蹴り続けたせいで、足がずきずきと痛んだ。


 そして何より漠然とした不安が、ふとマテルナの弱い心に問いかけていた。


 ――いつまで、この道は続くのか。


 ――本当に自分は出口に向かっているのか。


 ――むしろ、洞窟のもっと深いところへ向かっているのではないか。


 そんな疑念が浮かんでくると共に、喉の奥の空気が淀んだように重くなる。カナは未だに、無言で彼女の手を引いていた。


 大体、こんな真っ暗闇の中で、何故カナは止まりもせずに走り続けられるだろうか。構造を覚えているといっても、流石に不自然だった。


 声だけで、姿の見えない人物に手を引かれ、ひたすらに暗黒の中を走り続けるという不安。そこに居るのはカナだ。カナのはずなのだ。マテルナが憧れた、あの勇敢で闊達な少女のはずなのだ。


 だが、それでも、疲労と恐怖と混乱が、彼女の心を揺さぶる。疑うわけではない。だが、少しだけ。一度だけでも立ち止まって小休止を挟むか、彼女の話を聞くかするべきではないだろうか、という考えが浮かんでくる。


 ――そうだ、自分はもう体力的にも限界が近い。カナだって疲れているのではないだろうか。私を先導しているせいで、それを言い出せないだけなのではないだろうか。


 ――この深い闇の中で、本当に迷わず進めているのかどうかも確認するべきではないか。


 まとわりつくような形のない闇が、段々と恐ろしく思えてくる。進めば進むほど、姿の見えない怪物の喉元に飛び込んでいるようで。早くこの永遠に続くかと思われる途方もない時間を終わらせたかった。


 だから。


 マテルナはカナに提案しようとした。息を荒らげながら、一度立ち止まって休憩をとることを。そして叶うなら、現在の状況確認を行うことを。


 だが、彼女が口を開き、喉から言葉を絞り出そうとした時。


『私のことを信じてついてこれる?』


 果てしない闇の中、自分の手を握ってくれたカナの言葉が、彼女の頭に蘇った。あの時の安心感が、喜びが、興奮が。カナはいつも頼もしかった。自分達を引っ張ってくれた。導いてくれた。


 ――今もそうだ。


 ――私が一人では一歩として踏み出すことさえできない、こんな暗闇の中でも。迷わず私の手を引いてくれている。きっとカナも同じくらい不安なはずなのに。


 そう思うと、自然と喉元にまで込み上げていた言葉は、周囲の闇に滲むように消えていった。マテルナは振り払うように首を振り、再び真っ直ぐな瞳で前を見つめ続けた。



 やがて、更にしばらくも行った時。マテルナにとっては気の遠くなるような時間、洞窟の中を走り続けた先。暗闇にすっかり慣れてしまった目に、一筋の微かな光が映りこんだ。


 前方から漏れ出るような僅かな光。それは本当に小さく、暗闇を照らすには足りなかったが、確かに近づいてきていた。


「ねえ、マテルナ」


 そんな時、ようやく前を歩いていたカナが話しかけてきた。マテルナは息を切らしながら、先を促す。不思議なことにカナはまるで疲れていない様子だった。


「私ね、謝らなきゃ行けないことがあるの」


 ポツリと、寂しそうなカナの声が届く。息を吸うのに必死で、マテルナはそれに答えられない。


「あのね。マテルナを……みんなをこんな目に遭わせた原因は、私なのよ」


 先導するカナの言葉に、マテルナは首を傾げる。


 それはどういう意味だろうか、と。


 確かに彼女の意思を受け継ぐような形でルギフの一味に捕まった。しかしそれは自らの意向であり、決してカナのせいではない。


 マテルナには、カナを責める気持ちなどまるでなかった。


 だが、カナの声は続ける。


「もしかしたらマテルナには、私が自分を犠牲にして村を救おうとした勇敢な女の子に見えてるかもしれない。でも、本当はそんなんじゃないの」


 何故か、とても頼もしく思えたカナの手が、今は心細げに震えているような気がした。


「私ね、騙されたの。一月前に村にやってきた……ほら、あのストアっていう人に」


 ストア……ドクター・ストアだろうか。魔導研究所の所員だとかいう、あの痩身で人の良さそうな笑顔をした。そして何より、魔獣の襲撃から知恵を振り絞って、可能な限り村を守ろうとしてくれた。


「え……? そ、それ、どういう……」


 荒い呼吸を繰り返しながら、途切れ途切れにマテルナは聞く。カナはそれに対して、静かに話し始めた。彼女にとって閉ざされた世界だった生まれの村で、初めてあの男に出会った時のことを。

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