第十三話 明日無き者-4

 狙いの通り、自らの前に超常の魔獣を現界させると、ルギフはその姿を見上げて大声で呼びかける。後ろで本能的な不安を感じ、顔を見合わせている仲間のことなどお構いなしだ。


「はは! はははは! 最高だぜこいつぁ! とんでもねえ上モンが来やがった! これならもうどんな公安組織も警兵も恐かねえ! 思う存分暴れられる!」


 そして大仰に両手を振り回し、この魔獣を自在に使役した自分に齎される大いなる力を想像した。最早ちんけな山賊業などをやっている必要もない。もしかしたら大陸の勢力図を書き換えることすらできるかもしれないと思うと、哄笑が止まらない。


 続けて、得意げにその手で、地面に伏せているマテルナを示す。


「よく来たな、魔獣よ! 俺はお前を歓迎するぜ! まずはケチなもんですまねえが、是非俺の手土産でも受け取ってくれ! お前ら魔獣の大好きな、新鮮な人の血を啜るといい!」


 すると、魔獣は一度、その言葉に反応するように長い首をおもむろに動かした。口だけがついたのっぺり顔がルギフへと向けられる。


 どうやら言葉が通じたようだと安堵するのも束の間、にわかにどこからともなく、


 ピュー


 と、狭い所を風が吹き抜けるような音がしてきた。聞きようによっては笛の音のように聞こえなくもない。


「な、なんだ、この音は?」


 奇妙な風鳴りに、ルギフは動揺して辺りを見回す。仲間の二人もきょろきょろと忙しなく周囲に目をやった。


 だが、その音の正体は突き止められそうにない。


 否。


 正体として考えられるのは、目の前に立つこの魔獣だけだ。この魔獣が、何かの小細工を仕掛けているのだ。


「お、お頭ぁ、本当にこんなもん呼び出して大丈夫だったんですかね? この音も明らかにおかしいですよ」


 ルギフの仲間の一人は、そんな風に自分達の頭領に呼びかけ、そこで彼の瞳が既に焦点を結んでいないことに気がつく。ルギフは、意識すら混濁した様子で口元から涎を垂らしながら、岩肌の壁の一点を見つめていた。


 夢うつつ、いや、これではまるで夢遊病か何かのようだ。


 事態の異常さに気が付き、仲間がルギフに駆け寄ろうとした時、その意識もがまた深い闇の底に引き込まれてしまう。そちらの男はそのまま糸が切れたかのようにがくりと項垂れた。


 それを見て、残った最後の一人があわあわと慌てふためく。突如として、まるで精巧な人形のように無表情で立ち尽くす他の二人の姿に、直感的に危険を感じ取り、後ずさるようにして離れようとした。


 しかし、項垂れていた仲間が、にわかに反り返るように背筋を伸ばしたかと思うと、腰にさした剣を抜き、振り払った。かくついた手つきでぎこちなく、その剣はもう一人の仲間の首を躊躇の欠片もなく跳ね飛ばしたのだ。


 それから体中を痙攣させて、よろよろと歩き出す。そのまま、鮮血を吹き出して倒れる仲間の体を踏み越えると、洞窟の大部屋から出て行った。


 一方のルギフも、ただ事ではないようだった。ぼんやりと岩壁を見つめて固まっていたかと思うと、矢庭に手に持っていた松明を打ち捨てて剣を抜く。そしてなんと、例の指輪をつけている自分の手の指を切断したのだ。


 ぽとりと指が落ち、一瞬のうちに色を失っていく。だが、そんなものには目もくれず、ルギフは揺れるようにマテルナの方へと目を向けた。


 手に持った錆だらけの剣を引きずりながら、ゆっくりと歩き出す。身動きの取れないでいるマテルナの元へと。


 一連の光景を目にしていたマテルナだったが、それでも彼女の心はどこか落ち着いていた。というよりは、半ば諦めていたのだ。


 目の前で絶望的な、かつての友人達の変わり果てた姿を見せつけられ。山賊が喚び出した怪物は、微動だにせずにこの異常な事態を眺めている。そこに表情と呼べるものはなく、反応と呼べるような動作もない。


 普通ならば、恐怖のあまり叫び出して泣き喚いて、暴れ回ってもおかしくないような状況だろう。生に縋りつき、惨めに助けを求めたはずだ。


 しかしマテルナは、ただじっと待ち受けた。自身に迫り来る運命を。希望を抱くには、彼女の弱い心を襲った現実は過酷すぎたのだ。心のどこかで漠然と思っていた。


 私はここで死ぬのだ、と。


 そして目を瞑ると、ただひたすらに謝罪の言葉を心の中で唱え続けた。


 ごめんなさい。


 ごめんなさい。


 ごめんなさい。


 そんな彼女の瞼の裏に、何者かの姿が浮かび上がってくる。


 運命を共にした友人達は、醜く形なき者へと変貌した。その間にも自分は、恐れと不安と、そしてちっぽけな同調意識の狭間で自己憐憫に浸り、あまつさえ逃げ出したいとすら思っていた。


 自分から行動を起こすことすらせず、怠惰にも彼女を親切に気遣う者たちの言葉に、助けに、ただ甘えていた。カナという少女につまらない憧憬と理想像を押し付け、手前勝手な自己満足の後悔と自責を重ねていた。


 そんな自分が、彼女らを差し置いて助かり、生き延びるなんてことがあるはずがない。この世に神がいるのなら、そんなことを許すはずがない。


 マテルナが、押しつぶされそうな孤独と絶望の中で、自らに言い聞かせるようにそう思って、再び目を見開くと。


「……!」


 不意に、ゆらゆらとおぼつかない足取りで近づいてきていたルギフが、何もない場所ですっ転んだのだ。恐らくは単純に覚束なく動かしていた足を絡ませたのだろうが、マテルナにはまるで見えない誰かが、彼に足払いをかけたように見えた。


 綺麗に後ろ向きに倒れるルギフの手から、剣が離れて宙を舞う。その剣はなんと、偶然にも彼女のすぐに近くに落ちて、地面に刺さったのだった。


 錆こそ入っているが、まだ物を斬る力を失ってはいない剣。


 彼女の頭の中に一つの考えが浮かんできた。


 ――この剣を使えば、縄を切れるかもしれない。


 だが。もしそれが可能だとしても。


 今更自分にそれをする気力が残されているだろうか、とマテルナは黙想にふける。


 ――例え力を振り絞り、自由の効かない体を動かしてこの剣の元まで這ったとしても、錆びついた剣では縄は切れないかもしれない。


 ――切れたとしても、その前に起き上がったルギフが私に凶刃を振り下ろすかもしれない。


 ――そもそも、体が自由になったとしても、あの魔物から逃れられる保証はどこにも無い。


 一瞬の内に、次々とそんな想い、逡巡が彼女の内を廻った。最早、明日を持たない存在に変わり果ててしまった「少女たち」の姿を見て、そんな無様で往生際の悪い自分の足掻きを見せたくない、とも思った。


 何より、まるで「少女たち」が自分を呼んで、手招きしているような、そんなヴィジョンが頭の中に浮かんできたのだ。


 ……それでも、今。目の前に、一縷の望みは舞い降りた。ルギフは今もじたばたと、慣れない動きで地面をかき、立ち上がろうとしている。


 もしかしたら、本当に万が一助かるかもしれない。勿論助からないかもしれないが、もしここで諦めれば、確実に助からないだろう。


 ――それならば私は。


 ――私はどうするべきなの?


 その時、先程マテルナの瞼の裏に浮かんだ人物……あの頼もしく、お人好しで、どこか底抜けに達観したような二人組が彼女の心にそっと囁いた。


『あなたは助かってもいいんです』


 ――そうだ。


 ――そうだ、私は。私は……助かる!


 マテルナは歯を食いしばると、全身の力を振り絞り、体を這わせる。芋虫のような動きで、無様に、醜く土をまといながら、ゆっくりと目の前に刺さった剣の元へと擦り寄った。


 ――切れろ! 切れろ!


 擦り付けるように、自分を縛る縄を剣の刃先にあて、何度も体を揺らす。やがて、繊維のように密に巻きついていた縄が少しずつ細くなっていった。


 猶予はなかった。もたついていたルギフが、だらしなく涎を垂らしながら、虚ろな目で立ち上がったのだ。そして、悶えるように剣に体を寄せているマテルナの元へ、再び歩き出した。


 ――切れろ! 切れろ! 切れろ!


 彼女は恐怖と緊張の涙をこらえて、心の中で叫び続ける。その時初めて、マテルナは本当の、心の中の根源的な本音。ただ一つの「生きたい」という願いにようやくたどり着いたのだ。


 今まで積み立ててきたどんな建前も、独りよがりも、意地も強情も、反抗心も、そして友への哀れみすらもかなぐり捨てて。自分の命のために、彼女は極限の状況下で全てを投げ打った。気取らずに、醜く、浅ましく、汚らしく生きさらばえることを受け入れた。


 そうして遂に。


「っ!」


 マテルナの想いは成就した。体中に巻き付く縄が音を立ててはち切れ、縛りが緩む。思い切り両手と体幹を動かすと、すぐに彼女の体に自由が戻った。

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