第十二話 耳とナイフと怪物と-2

 レミルは低く腰を構え、呼吸を整えて意識を集中させると、こちらを見下ろす異形の上級魔獣と対峙する。その姿、その佇まいには、レミルでさえ簡単には踏み込めない程に隙がない。自分と相手との距離、そして予測される間合い、初動の前兆や風向きなど、自身を取り巻く全てに注意を払いながらも、レミルは血走った瞳から目を逸らさなかった。


 対するフンババは、レミルがマテルナの前に立ち塞がり、自分の目的を阻みにかかろうとしている事を察知すると、いよいよ我慢が出来ないとでも言いたげに頭を振りかぶる。そして悶えるように天を仰ぐと、一度大きく体を痙攣させた。


「っ!」


 刹那、フンババが怒涛の踏み込みをかける。瞬く間にレミルとの間合いを縮めると、形振り構わず両手の爪を薙ぎ払い、脆弱な細身を寸断しにかかった。無論、レミルは即座に相手の動作に反応し、背面に飛び退いて魔獣の一撃を見事にかわす。しかし、彼が思わず息を漏らしたのは、その後の顛末が予想していたものとはかなり異なっていたからだ。


 レミルは縦横に木と枝が生え茂る森の中では、フンババの持つ長い爪はデメリットになるだろうと予測していた。立ち位置を計算すれば、木の幹や枝の網に小回りの効かない爪が遮られ、敵の動きを制限してくれるだろうと思ったのだ。まともに貰えばただでは済まないが、このフィールドで無闇にそれを振り回すこと自体がフンババを拘束する鎖になってくれるだろう、と。


「ブルルルッ!」


 だが、彼の目論見は外れる事となる。恐ろしい膂力を持った上級魔獣は、周囲の木々のことなど意に介さずに長爪を振るうと、いとも簡単にそれを遮る障害物を打ち払い、切り裂きながらレミルの残像を引き裂いたのだ。


 その光景を見て、レミルは変な笑いが込み上げてくるのを感じる。


「へへ、筋肉バカ。フィールドトラップなんてお構い無しかよ」


 あの爪が自分に直撃した時のことはあまり考えたくないな、とレミルは思った。それから改めて、頭の中で段取りを立てる。


 そんなレミルを逃すまいと、フンババの追撃が追い縋った。


 ある時は身を低く、またある時は横に飛び退いて、レミルは隙を生じぬ連撃を回避する。どうやらスピードでは完全にレミルが勝っており、気を抜かなければ相手にやられるということはなさそうだ。


 このままスタミナ勝負に持ち込み、フンババが疲弊するのを待っても良かったのだが、山賊に捕らわれている人間がいるという状況である以上、あまり悠長なことをしてもいられない。何より敵の余力がどれ程のものか分からない以上、その選択はあまり利口なものとは思えなかった。


 そこでレミルは入念に相手の動きを観察しながら、片手一本で器用に飛び上がると、背後の木の幹を踏みつけて自身も攻勢に転じる。相手が爪を振り下ろした所に合わせて、無防備な頭部目掛けて飛びかかったのだ。


 目いっぱいの反動をつけたレミルの膝蹴りが、的確にフンババの眉間を捉える。軋むような音と共に、魔獣の頭蓋に彼の膝がめり込んだ。今まで逃げるばかりだった人間から半ば虚をつかれたに近い形で攻勢を受け、防御を怠ったフンババは堪らずに腕を振ってレミルを追い払おうとした。


「……っと」


 すかさずレミルも飛び上がって、がむしゃらに振り回される剛腕を避けると、空中で一回転を決めてから華麗に怪物の背後に着地する。すぐさまその姿を追おうとしたフンババだったが、渾身の一撃で脳を揺らされた影響は流石に大きく、後ろを振り向きざまによろめいた。


「グガァッ」


 そのまま体制を立て直し切れず、毛むくじゃらの巨体がかしいだかと思うと、なんと頭を抱えて膝をついてしまった。恨めしそうにレミルを睨みつけるその瞳は相変わらず獰猛な炎を絶やさないでいるものの、それでもフンババはすぐには立ち上がれなかった。


「ちゃんとおつむはついてるみたいじゃねえか」


 まだまだいつもの余裕を崩さないレミルは、そんなフンババの姿をみて唇の端を釣り上げる。その台詞の意味が伝わったのか否か、フンババは膝を着いた姿勢のまま上体を前のめりに突き出し、牙を向いた。


「ガギャアアアアア!!」


「おうおう、おっかないね」


 唾液を撒き散らしながら喉をふるわせる上級魔獣の咆哮に、レミルは肩をすくめる。フンババは、そんな生意気な細身の少年に対して憤怒を顕にし、バネの要領でつま先で地面を蹴ると、その体制のまま飛びかかった。巨体からは想像もつかないほどの跳躍力が、一瞬にして両者に空いた距離を詰めた。


 両腕を広げ、爪を囲い込むようにして振り下ろし、レミルの逃げ場を奪おうとする魂胆のようだ。しかしレミルは、相も変わらず癇に障るほど涼しげな表情をしたままそれを見上げると、今度は後ろに飛び退いてかわすことをせず、思い切って自分もフンババに向かっていくように踵から地面を蹴って前方に跳んだ。


 予想に反した相手の動向にフンババは思わず目を見開いたが、構わずに両手の十の爪でレミルを襲う。射程の長さは歴然であり、真っ向から戦う分にはフンババの有利は明らかなものであった。レミルの拳や足が届くよりもはるか前に、残虐な魔獣の尖爪が彼を肉片へと変えてしまうだろう。


 そう思われたのだが。


 しかし結果として、フンババの爪がレミルに届くことはなかった。お互いに距離を詰めた結果、自身の至近距離にまで迫ったレミルに対して両手の爪を振り下ろしたことで、そのリーチの長さが災いして爪同士が弾き合い、障害になってしまったのだ。猛り狂い、思考を欠いた魔獣には、その結果が理解できなかった。


 レミルは悠々とフンババの懐にまで滑り込むと、不敵な笑みを浮かべて相手の顔を見上げながら言う。


「よう、ご機嫌麗しゅう、肉だるま。木の幹は簡単に切れても、自分の爪同士じゃあそうはいかなかったみたいだな」


 そして、がら空きになった怪物の鳩尾、筋肉と筋肉の隙間に的確に肘打ちを叩き込んだ。鈍い音が響き渡り、細腕からは想像もつかない膂力の一撃を見舞われて、フンババは白目を向いて大きく後ろに吹き飛ぶ。そのまま背中から地面に落下し、臓腑の空気を全て吐き出して痙攣した。


 しかし、それでもなおしぶとい怪物は、周囲の地面を掻きむしりながらしばし悶えると、おぞましい形相で体を起こし、辺りを見回す。そして今度は、腰を抜かしているマテルナとそれに寄り添うアリアの姿を目に止めた。


 レミルとの位置関係を確認してから標的を変更すると、躊躇なくそちらへと飛びかかった。思わぬ反撃をくらったことで、まずはより仕留め易そうな獲物から狙いに行ったのだ。

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