第十二話 耳とナイフと怪物と-1

 エルフとは、大陸に住む八つの種族の中でも外見的には最もヒューマンに近い者達である。


 彼らは皆一様に白い肌を持ち、長く美しい金髪とエメラルドの瞳を持つ。そして何よりも特徴的なのは彼ら特有の尖った耳であろう。


 この種族は温和で理知的であり、高度な技術と自己への追求を怠らない姿勢を持ちながら、同時に自然への調和も忘れない。そしてまた、他種族への理解と受容という意味合いにおいても、彼らは極めて寛容だ。ヒューマンのような差別意識もなければ、ティターンのような排他的制度も持たず、かと言って文化を迎合することもなく、棲み分けを確立している。


 近年では、この貴重で優秀な種族が数を減らしているというのは、看過せざる事態であろう。五年前、「白銀の大国」メルキセドの諸国遠征により、大陸史上最も残虐な事件の一つとして名高い「エルフ大粛清」が起こった。これによりエルフの総数は趨勢期の二十分の一ほどにまで減り、彼らは散り散りとなって隠れ潜むようになった。しかしその影響で、元々繊細で成育のために澄んだ水と空気を必要とするエルフの間には奇病が蔓延するようになり、彼らの減少に更に拍車をかけることとなっている。


 もしもこの聡明で誇り高い種族が我々の大陸から永遠に失われるような事があれば、それはこれまでの歴史的などんな技術や文化よりも重大な損失となることは間違いない。


 -大陸歴史学者サルコフの著書『この愛すべき種について』より-



 ♦︎



 突如として襲い来る、鋭利で長大な爪。その残虐な凶器は一瞬の内に、言葉を途切らせて固まっているマテルナの眼前にまで迫り来る。殺意を持ってして彼女を引き裂こうとする怪物の姿を視界一杯に映してなお、マテルナは縛り付けられたかのように動けなかった。


「危ない!」


 しかし、間一髪、咄嗟に反応したレミルとアリアが彼女を突き飛ばす。あわやという所で爪の先端がマテルナの頬を掠め、そこに紅線を刻んだ。そして、地面に身を投げ出して尻もちをついたマテルナは、慌てて顔を上げると、今しがた自身を八つ裂きにしようとした異形の姿を目に捉える。


 それは、燃えるような悪意と敵意に満ちた、獰猛で血走った瞳を持っていた。一見すると立ち上がった虎と熊の中間のような容姿に見えるが、その本質はそれらよりも遥かに残忍であろうことがすぐに分かる。猛り狂ったように荒い鼻息を忙しなく立て、肉を食らう衝動を抑えきれないかのように大きな口を開けて、奥にずらりと並ぶ牙を剥き、仕切りに噛み合わせていた。更に恐ろしい事に、耳の後ろからは水牛のように立派に捻れた大きな角を生やしている。


 人の倍ほどはあろうかという体高を、血のような赤く逆だった毛並みで包み込んだ二足歩行。体幹の筋肉は隆々と盛り上がっており、過剰なまでの怒張により、所々に血管が浮き上がっている。先程、一人の少女に向けて振るわれたその五本爪は、まるで鍛えあげられた青銅の柱のように長く、鈍い照り返しを放っていた。もしもそんな物で引き裂かれようものなら彼女の細身など簡単にばらばらになってしまうであろうことが容易に想像できた。


 そんな、紛うことなき「化け物」とも呼べる存在が、今しも不釣り合いなほどか弱い一人の少女を見下ろして、鼻息を荒らげているのだ。今まで彼女の村を襲っていたような無数の低級魔獣とは違う、明らかな破壊と殺戮の衝動の体現。これまで彼女達は、あの低級魔獣達にすら為すすべなく蹂躙されてきたというのに、まるでそれらが可愛げのある存在であったかのようにさえ思えた。


 マテルナはその威容を目にしてようやく、自分の身に起こったことを理解すると、全身から冷や汗を吹き出した。


「あ……ああ……」


 瞳孔が開き、恐怖と緊張の余り体が硬直して、喉の奥から掠れたような声が滲み出てくる。しかし、そんな行動は最早この状況において、なんの助けにもならない無力なものだった。ただ、本能的な「死」への警鐘が心臓に早鐘を打たせ、その張り裂けんばかりの鼓動の音が周囲にも聞こえるのではないかと思ったほどだった。


「だ、大丈夫ですか!マテルナさん!」


「くそっ!」


 体がすくみ、動けないでいるマテルナに、アリアが焦った様子で駆け寄ってくる。同時に、彼女と化け物の間を割るように、レミルが舌打ちをしながら立ち塞がった。怪物は狂気の瞳で眼下の人間たちを見下ろすと、いきり立つように体を震わせる。正しく、こんなものとの意思疎通は絶対に不可能だと断言できるほどの殺意。それが巨体の全身から溢れ出していた。


「ひっ……な、なによ、あれ……」


 口元を震わせながら、這うようにして化け物から何とか遠ざかろうとするマテルナ。段々と過呼吸となり息を荒らげる彼女に寄り添うようにしながら、アリアは突然現れた巨体の魔獣に視線を移し、そして目を見開いた。


「アリア! マテルナさんについていてくれ!」


 そこに、体制を低くして身構え、戦闘態勢に入ったレミルが背中を向けて言ってくる。アリアは彼の言葉に頷きつつも、自身もメイスを構えて、真剣な声音で答えた。


「分かりました。ですが気をつけて下さい。今までの敵と比べて、少し厄介ですよ」


「知ってるのか、このバケモン」


「ええ。恐らくこの魔獣は「フンババ」。ギルドの公表ではランクBに位置する、いわゆる「上級魔獣」の一種です」


 上級魔獣、その定義はギルドの定める危険度ランクA~Cに当てはまり、手練の戦士や軍の兵士であろうとも、その討伐には中隊規模の人数を要すると推定されるほどの頑強さと獰猛さを持つ魔獣の総称である。


 彼らの多くは、火山や洞窟の奥部など、人間のほとんど寄り付かない地域に発生する事が多く、専用の討伐依頼がギルドから下されることが多い。何故なら、もしこれらの魔獣が人里に降りてくるような事があれば、その被害は一大都市をも脅かすものになりかねないほどだからだ。


「なるほど、そいつは厄介そうだな」


「しかし、これほどの魔獣がなぜこんな所に? まさか、これも山賊の一味の仕業……?」


 だとすれば、にわかには信じ難い話であった。意思を交わすどころか、その討伐にすら大陸中が手を焼いている程の魔獣を使役する人間がいる、だなどと。これまでの常識を根本から覆す事実である。


「とにかく、適宜私も援護します。レミルさんも油断しないでください」


「おうとも、気を抜かずにやるさ」

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