第十話 絆-2

 しかし、その答えを考えようとしたことはなかった。自分には、はじめから何も無かった。記憶も、親も、友も、自分を形作る何も、存在しなかった。そこに夢、などと馬鹿馬鹿しいとさえ思った。何者かも分からない人間が、夢など持てるはずがないと。せめて、自分の存在を取り戻してからであろうと。それまでは、ただ必死に生きよう、と。


「そういうお前……アリアにはあるのか?」


「私、ですか」


 そこでアリアは一度、躊躇するように言葉を途切らせる。それから、彼女の迷いを示すように、沈黙がしばらく流れた。夢を持たない自分が無理に聞き出すようなことでもないと思い、レミルも別に急かしたりはしなかった。


 やがて、アリアがおもむろに口を開く。


「アルカディア……と言って分かりますか?」


「アルカディア?」


 どこかで聞き及んだことのあるような名前だったが、果たしてレミルの記憶の限りではその言葉の意味までは引き出せなかった。


「この世界のどこかにある、と言われている楽園の名前です。これまで多くの冒険者たちが、その場所を探し求めてきました」


「楽園……?」


「はい。アルカディアというのは本来、創世神話「星海の歌」に記される、神々が最初に降り立った国の名前から取られました」


「神話ねえ……つまりおとぎ話ってこと?」


「似たようなものかもしれませんけど……分別がない言い方ですねぇ」


 レミルの無神経な物言いに、アリアは大きくため息をつくと、またもや呆れたように肩を竦めて首を振る。


「でも、そのアルカディアってのはどんな所なんだ?」


「はい。かつてアルカディアに至ったと言われる冒険者達の手記によると、その秘境では八つの人間種族と動物たちが争いなく暮らし、永遠の命を与えると言われる奇跡の果実が実っているらしいです」


「永遠の命!? そりゃあまた随分と突拍子もないな」


「まあ、とは言っても人間が口にしても本当の意味で永遠の命を得ることは出来ないみたいですけれど」


「ふうん?」


「ただし、奇跡の果実を口にすればアルカディアにいる間は決して老いることがなく、そして外の世界に戻ってきたとしても普通の人間とは比べ物にならないほどの寿命を得られるそうですよ」


「そりゃ大したもんだな」


 それと同時にレミルは、随分眉唾な話だな、とも思った。まさしくおとぎ話のようなものだ。もし本当にそんな話を信じているのならば、思いのほかこいつは相当なロマンチストだな、と。


「んで、その楽園を見つけるのがお前の夢だってか?」


 レミルがそう問いかけると、アリアはそこで俯く。途端に、彼女の声がボソボソと小さくなった。


「そう……ですね。私の、というよりそれは師匠の夢です」


「師匠……って、リアスさんか」


 レミルはリアスの姿を思い浮かべ、意外に思う。確かに以前、出会って間もない頃に彼女は自分に夢があるというような旨のことを言っていた気はするが、あの飄々とした余裕を常に崩さない女騎士には、もっと皮肉なリアリストのようなイメージを抱いていたからだ。まさか神話に出てくるような楽園を追いかけているとは。


「はい。師匠は、この世界のどこかにあるアルカディアを目指して旅を続けているんです」


「へえ……でも一体なんで?」


「それは、私もまだ教えてもらっていません。それを聞くとすごく嫌がって、はぐらかされてしまうので」


「なるほどね」


 なんとなく、リアスがからかうような口調でアリアの追求を躱す姿が脳裏に浮かび、レミルは苦笑する。そして、レミルは改めてアリアに問う。


「んで、結局それはリアスさんの夢なんだろ? お前の夢はなんなんだよ」


「はい。私の夢は……」


 アリアはそこで一度大きく息を吸うと。


「その師匠の夢が、叶うことです」


「……はあ?」


 アリアの答えに、レミルは思わず腑抜けた声で聞き返していた。


「リアスさんの夢が叶うこと?」


「はい、そうです」


 どこか誇らしげに頷くアリアに対して、レミルは首を傾げる。


「それってなんか、不思議な感じだな」


 しかしレミルが、包み隠さずに思ったままの感想を口にすると、アリアは少し戸惑った。


「え……そ、そうですか?」


「俺にはよく分かんねえけどさ、それって要するに他人に夢を見てるってことだろ?」


「他人に夢を?」


「夢を見るリアスさんに自分の夢を重ねてるっていうのかな。少し自信がないようにも思えるけど……どうしてそこまでリアスさんに?」


「それは……」


 アリアは暗闇の中で、果てしなく広がる遠くの空を眺めながら言葉を途切らせる。答えを見つけよう、などと無粋なことは考えなかったが、結局自分が盲目的にリアスの「夢」に乗っかっているだけだということは、とっくに彼女も気がついていたからだ。だからこそ、どんなに無茶を言われても、あしらわれても、あの高邁な女騎士に付き従い、旅を続けている。なぜなら彼女にとってそれこそが……。


「私にとって、絆なんです」


「……絆ぁ?」


 またまた歯が浮くような生ぬるい単語が飛び出してきたな、とレミルは目を白黒させた。


「この夢は師匠が、私に打ち明けてくれた唯一の絆なんです。私にとってはそれしかないんです」


 胸の前で両手を握りしめ、どこか不安そうに呟くアリア。珍しく、自分に対して弱気な態度を見せる彼女に、レミルは肩を竦めた。


「それしかないって、どういう意味だよ」


「私は、師匠との絆以外、何も無いんです。何も持ってないんですよ。……だって師匠は私に全てをくれた人ですから」


「全てを……」


 そこでふと、レミルの頭の中に何かが過ぎる。それはほんの一瞬の、フラッシュバックのような回想だったが、彼の記憶にはない出来事だった。


 誰かがこちらに向かって、何かを語りかけている。その言葉も、相手の表情も、声も、何もかも分からなかったが、ただか細く、そして真剣に自分に対して語りかけている人物の光景が、唐突に頭の中に浮かんできたのだ。


 ――これは、昔の記憶か?


 まるで川の流れのごとく、一瞬にしてそのイメージは心の奥底へと沈んでいったが、レミルにはそのシーンが、かつて自分が実際に目にしたことのある光景だという確信があった。


 はじめての経験だった。例えどんなに微かであったとしても、昔の記憶の手がかりを掴むなんて。一体、これの意味するところはなんなのか。そして、自分に語りかけていたあの人物は何者なのか。


「……レミルさん? どうかしましたか?」


 と、思考にふけっていたレミルの意識を、不意にアリアが呼び戻す。


「ああ、いや、悪い。何でもない」


 このタイミングで、彼女に話すようなことでもないだろう、とレミルは首を振り、自らの考えを頭の中にしまい込んだ。そして代わりに、アリアに対して頷く。


「……でも、ちょっと分かるよ。アリアの言いたいこと」


「分かる?」


「ああ。結局、さ。何だかんだ言ってお前も分かんねーんだろ? 夢ってどういうもんか」


「えっ……」


「だから、わざわざ俺なんかに夢の話なんか振ってきたんじゃないのか?」


 レミルに言われて、アリアは俯く。


「それは……」


「お前がどういう経緯であの人と出会って、旅をしてきたのかとか、俺は知らないけどさ。それまでは……あの人と会うまでは知らなかったんだろ? 夢ってやつをさ」


「……」


 何となく、レミルはアリアの言葉に自分と近しいものを感じていた。彼女もきっと、何も持たない、何者でもない存在だったのだ。自分の証明、自分の意味、それらに答えをくれる人物もいない。その孤独と不安の中で、リアスに出会い、そして何かが変わったことで彼女の供になったのだろう。


 だが、その詳しい顛末を彼女に問い質そうとするほど、レミルも野暮ではない。今はまだ、それを聞くべき時ではない、そんな気がしたのだ。


「……やっぱり、変ですよね。こんな話、普通はしないのに」


 アリアは俯いたまま、レミルの言葉には答えずに独白するように言った。どこか自嘲気味に、そしてどこか虚ろげに笑う。


「あなたと仲良くなろうと……思ったんですけどね」


 彼女の何を知っているわけでもないが、らしくもなくしおらしいその姿に、レミルはやれやれ、と目線を上にやった。


「よせやい。柄にもないだろ、気色悪い」


「……」


「……いや、本気かよ!」


「当たり前です」


「んん……いや、それはだなぁ……」


 いよいよ、アリアの態度に背筋が薄ら寒くなってきて、レミルはヘドモドとしながらも彼女にかける言葉を探す。


「なんだ? まあつまり、どうしたっていけ好かない奴はいるし、無理して仲良くなろうとしなくてもだな……」


 と、言い始めてから、明らかにこの返事は違うだろ、とレミルは自分で自分にツッコミを入れた。案の定、暗闇の中で隠す気もなく、アリアの表情が不満そうになっていく。レミルは言葉を切ると、取り消すように一度ブルンブルンと首を振り。


「……じゃなくて! そうだな、折角だし。俺と一緒に探すか」


「一緒に探す?」


「おう。俺もアリアも、まだ見つけられてないんだよ。夢を持つくらい自信満々な自分をさ」


 きょとん、とした顔で目を丸めて続きを促すアリアに、レミルは拳を差し出して見せる。


「だから、折角の縁だろ? どうせだったら一緒に探さないか、俺と」


「レミルさんと……」


「ああ。そうしたら、きっと夢だって見つけられるさ。それだけじゃない、お前がまだ持ってない色々なものも、きっと」


 そして、相手に見えているかは分からないが、ニカっと歯を見せて笑った。アリアは彼のその言葉に一瞬、目を見開いて口をぽかんと開けた。

それからにわかに下を向き、黙りこくる。


「……」


「……あーっと?」


 彼女のその反応を見て、もしや自分のセリフが気に食わなかったのか、と心配になり、レミルは途方に暮れて頭をかいた。だが……。


「……くす」


「あ?」


「……くすくす、ふふっ。あははは!」


 しばし下を向いたまま、漏れ出るような声とともに肩を震わせていたかと思うと、突如、アリアはせきをきったかのように笑い出す。一体なにごとかと顔をしかめるレミルだったが、アリアはそんな彼のことなどてんでお構いなしに、口元に手を当ててけたけたと笑うのだった。


「ははは、あはははは」


 割と相手を慮ってかけてやった言葉に対してまさかの大爆笑をかまされて、今度はレミルの表情がくもっていく。しかし、その様子が見えているのかいないのか、アリアはお構い無しといった様子で、ついにはお腹の辺りに手を当てて息を切らせた。


「くふふ、あはっ! はあっ、はあ〜。……ふふ、やっぱりレミルさんって変わってますね」


 満足に笑い終えたアリアは、呼吸を整えながら、人の気も知らないでそんなことを抜かす。それを見て、馬鹿にしてら、とレミルは憤るのだった。


「なにがそんなにおかしいんだよ、こら。別におかしなことは言ってねーだろが。こちとらお前を気遣ってだな……」


「それは充分分かってますよ! でもなんていうか……あんまりにも慣れてなさそうな感じだったから」


「む、むうう」


 看破されていたか、とレミルはうなる。今までの暮らし上、人のことを気遣う、ということに慣れていないのは正解だった。それが透けて見えたのか、随分下手な芝居を打ったようにアリアには映ったかもしれない。途端にレミルは、なんだかこっぱずかしくなってきてそっぽを向く。


 アリアは、そんなレミルに対してどこか嬉しそうに続けた。


「それに……変なことを言ったのは私の方なのに、無理をしてそんな大真面目に答えてくれるなんて、本当変わってますよ」


「そ、そうかな」


「お人好しなんですね、きっと」


 無邪気に笑うアリアの顔が本気で愉快そうなのを見て、段々と怒る気も失せてきたレミルは、調子が狂ったように苦笑する。


「ったく、変人はお前も変わんねーだろ?」


「私は至って真人間です」


「馬鹿言え。この世界の真人間は魔法で魔獣を倒さねーよ」


「ふふ、まあそれもそうですね」


 アリアは遠くの空を眺めながら微笑み、そしてふと、真面目な表情になる。


「……本当は、師匠に言われて。結局それでレミルさんと話してみようと思ったんですけど」


 でも、と付け足しながら、上目遣いでレミルに視線を移した。


「誰かと話をするのって楽しいものですね。良かったです、話せて。明日はひと仕事ですけど、よろしくお願いしますね」


「ああ、俺も良かったよ、よろしくな」


 まだまだ分からないことだらけではあるが、少しだけ、このたっぱの小さい魔法使いのことを知ることができたように思えて、レミルも素直に喜び、頷いた。


 次いで、ふと頭に浮かんできたことを考え無しに口から吐き出してみる。


「普段は口喧しい女だと思ってたけどよ、話してみれば素直な所もあるじゃん。これからもさ、ちょっとくらい淑やかにというか……」


 自分としては褒めたつもりでそんなセリフを並べていたのだが、それを聞いたアリアの朗らかな表情は見る見る内に消え失せ、代わりに眉根を寄せて不機嫌な様相へと変わっていくのが見て取れる。レミルはすぐに、浅はかな自分がまた、かけるべき言葉を間違えてしまったのだな、ということを察して青ざめるのだった。

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