第十話 絆-1
目を覚ました時、私は見覚えのない場所にいた。
遠くまで続く白い砂原と、そこに小波を打ち付ける更に果てしない一面の水。
そして、後ろを振り返れば、鬱蒼とした森と、その向こうにそびえる無骨な岩山が目に入る。
人気のない静寂の中で、空を飛び交う鳥の声だけがやけに私の耳に残っていた。
一体ここはどこなのか。いや、それよりも私はなぜこんな所にいるのか。
見渡す限りの広大な水は、おそらく今まで見てきた大陸のどの湖よりも広く思える。
はっきりとしない記憶を抱えながら、私はゆっくりと立ち上がった。
兎に角まずは、動き出さなければなるまい。
見知らぬ地へと迷い込んだ異邦人を、この地は歓迎してくれるだろうか。
人の手を感じさせない、高く伸びた木々と黒々とした岩塊ばかりが目立つ新たな世界へと、恐る恐る踏み出してみることにする。
或いはここが、世に言う「楽園」である、などというはずもなかろうが。
-冒険王スウォルツ・ラードによる「大陸紀行」第四巻「夢の島」より-
♦︎
「……」
あの後マテルナを含め、一行は改めて明日のことを確認を行った。その後、彼女を家まで送ってやってから、レミルは今しがた宿舎の方へと帰ってきた。もう夜も遅いということもあり、つい数時間前に魔獣の襲撃があった村の中を女一人で帰すのも危ないと思ったからだ。
マテルナは帰路の途中、どこか心ここにあらず、といった様子でそわそわと落ち着かなかったが、流石に家の前まで来ると何度もレミルに丁寧に頭を下げて、彼の気遣いに感謝していた。マテルナを迎えたパンネッタは心配そうに彼女に駆け寄り、それから複雑そうにレミルのことを見つめてきた。恐らく姉が明日、レミル達に同伴するつもりであることは本人から聞いているのだろうが、パンネッタ自身としては反対であり、彼女の身を案じているのだろう。
だが、部外者であるレミルにはその視線に対して、何か効果的な反応を示すことは出来なかった。結局彼は、まだ目を覚まさないティシアのことをよろしく頼むということだけ伝えると、後は二人が、どこかぎこちなく並んで家の扉の向こうに消えていくのを、ただ黙って見送るだけだった。
もう少し自分が器用な、こういう時に気の回る人間だったら、と思わないこともなかったが、まあ人には得手不得手があろう。記憶にある限り、放浪と戦いの中にいたレミルには、その手の芸当が自分には向いていないということがよく分かっていた。
そのまま、月明かりと、ポツポツとまばらに家屋の窓から漏れる光だけが照らす、薄暗くて寂れた村の道を戻る。彼は夜目が効くので、暗がりを歩くというのはそう苦労はしなかった。そうして、村の中心の広場の奥まで戻ってきた所でふと立ち止まり、腕を組んで考えた。
もう少し、風にあたっていようか。
そう考えたのは、まだこの時間が、彼が眠るには早すぎる頃合いだったためだ。
元々、身の安全などとは無縁の生活を送ってきたレミルにとって、夜とは必ずしも眠りにつく時間ではなかった。常に警戒を怠らず、最低限の睡眠でやり過ごし、時には寝ずの暮らしを送ることもある。それが暮らしの常だったため、安穏と寝床に着くということに、どこか不安を覚えるような体質になってしまったのだ。今、部屋に戻ったところで、すぐに寝付けるとは思えなかった。
そうして、レミルがしばしの間思案していると、不意に宿舎の入口から何者かが出てきた。影になっていてよく見えなかったが、現れたのはやや背が低いローブ姿の女性のようで、なにやら杖のようなものを手にしていて、その先端が淡く光っている。彼女は辺りを照らすように杖を自分の前に掲げると、にわかにレミルの方を振り返って、一度後ずさった。
「だ、誰ですか」
特徴的な服装と、手に持った杖を目にした時点でレミルはほとんど気づいていたが、飛び出た声からして向こうの正体は、あのチビで生意気な魔法使いであるようだ。彼女は、魔法で灯りを灯しているその杖をこちらに向けると、恐る恐るといった様子で暗がりに佇んでいる不審人物の姿を伺おうとする。そこでようやっと、相手が自分の見知った人間だということが分かると、安堵した様子で胸をなでおろした。
「……って、なんだレミルさんですか。びっくりしました」
淡い光で、栗色のボブヘアーと、それに包まれた可愛げのある顔立ち、それにキラキラと照り返しを放つ彼女のイヤリングが浮かび上がる。大きくてくりくりとした赤い瞳が、灯りに照らし出されたレミルのシルエットを写しこんでいた。
「そんな所で立ち尽くしてどうしたんですか? マテルナさんを送ってきたんですよね?」
「ああ、そんで今戻ってきたとこ」
「なら、早く入ればいいのに」
そう言って、彼女は促すように入口の扉を開けてくる。だが、それでもレミルが迷い、その場を動かないでいると、不意に。
「ああ、もしかして……」
それから、ゆっくりと扉を閉めると、レミルの元につかつかと歩み寄ってきた。そして、上目遣いで彼の顔を覗き込み、微笑した。
「レミルさんも寝れないんですか?」
「……じゃあ、お前も?」
「だから、お前じゃなくてアリアです」
「……はあ、あの、アリアも?」
一度、人差し指を立てて細かく訂正した後で、アリアは頷いた。
「はい。私、あんまり寝れない体質なんです」
「へえ、奇遇だな。実は俺も」
いつもは中々気が合わないのに、こんな特徴が一致するのは何ともおかしな気分だった。その事実に、二人はどちらともなく苦笑する。
「やっぱり変わった人ですね、レミルさんは」
「そっちが言うかよ」
「私は至ってまともですから」
そして、アリアは杖に込めた魔力を少し強めて、灯りを増幅した。それから静寂が広がる広場の方へと顔を向けて、レミルに言う。
「まあでも、そういうことなら折角ですし。少し歩きますか? ご一緒に」
杖に灯った灯りを手に、アリアはレミルを先導して進み、宿舎の裏手、ちょうど村の中央広場の奥まった場所へ、すたすたと歩いていく。そうして少し行くと、途中で村道が途切れていて、その先は広場からも目に付いた小高い丘となっていた。丘の中腹まで登りきると、そこから辺りを一望できる景観が広がる。あまりにもお誂え向きなスポットなので、普段は子供たちの定番の遊び場にでもなっているのかもしれない。
円心状に並ぶ村の家々を眼下において、アリアは「ふう」と柔らかい草むらに腰を下ろす。それを見てレミルは、しばし彼女のことを見つめて佇んでいた。だが、彼のその様子に気づいたアリアが首を傾げて、
「座らないんですか?」
と声をかけてきたことで、ようやっと彼女の隣に収まった。
涼しい夜風がレミルの前髪を揺らし、鼻先をくすぐると、どこからか夜の匂いを運んできた。辺りは驚く程に静まりかえっていて、耳をすませば、揺らめく草葉の奏でるさざめきだけが、まるで二人を包み込むように響いている。
「綺麗ですね」
やにわにそんな事を言われて、レミルは思わず「へ?」と声を漏らした。その余りに間の抜けた声音に、アリアは呆れてしまったようだ。横目で隣のあんぽんたんを見やると、わざとらしく嘆息してみせる。
「景色ですよ」
「は、ははぁ」
なんと答えたものか分からず、レミルは曖昧に返事だけを返して、忠実に目の前の光景へと意識を向けた。それと同時に、アリアが杖の灯りを消したことで、辺りに再び暗闇が舞い戻る。
視界に広がったのは、わずか月と星の光、それに村の家屋の灯火だけに照らされた夜景であり、ここからでは随分と小さく見える村の端からは、地平線を追うように遠くまで平原が広がっていた。更にその向こう遠方には、デルクラシア領を分かつ遥か南の山脈が連なっている。山々を越えた先からやってくる夜風に撫でられて平原の草木がなびくと、それらはまるで波打つかのように連なって流れていた。
そして、そんな地平を覆うかの如く、頭上には夜空のカーテンが広がる。宝石のように散りばめられた星々が輝き、世界の静寂を体現した黒一色の空を彩っていた。この空の下で、レミルはただ静かな葉擦れの音と、夜風の匂いに包まれていた。その風韻ながらもどこか哀愁を漂わせる景観に、まるで自分が世界から隔絶されたかのようにさえ感じられ、思わず隣に座るアリアの存在を確認したほどだ。
「レミルさんには、夢とかありますか?」
「……夢?」
暗闇の中で、確かにそこにいたアリアが、不意にそんなことを問いかけてくる。レミルははて、と顎に手を当ててしばし考えた。
「夢……か」
「ないんですか?」
「ううーん」
正直に言ってしまえば、レミルには夢、と呼べるほど大それたものはなかった。自分の記憶の始まりの時点から、国に追われ、世界に追われて生きてきた。それ以前の自分が何者だったのか、それこそ、どんな夢を抱えていたのか、何故、自分は追われるのか、そんなことも分からないまま、ただ必死にその一時を生き続けてきたのだ。
今では慣れてしまっているとはいえ、「夢」などというものについて考えるような時間はレミルにはなかった。彼にとってそれは、余力を持って生きている贅沢な人間たちが抱える、「人生の余分な栄養素」である。そんなものがなくても人は生きていける……いや、生きてさえいれば、それで充分ではないか、と、そんな風に感じてしまう所もあった。
「記憶を失う前の俺がどうだったのかは分かんねえけど……今の俺にはまだ、ないな」
夜空を見上げながら、レミルは言う。
「そうなんですか。……でもそれって、少し寂しくないですか?」
「寂しい?」
「ただ宛もなく、生きる目的もなく、この広い世界を流れ巡るだけなんて空虚です」
「そうかな。人それぞれだと思うけど」
夢、とはそんな大層なものなのか。寂れた人間が、空虚な人間が、満ちるほどに、潤うほどに。だとしたら自分は今頃、干物のようにカラカラだな、とレミルは自嘲する。
「生きる、ただそれだけのこと以外を願う生き物なんて、人間くらいだぜ? そいつはちょっと贅沢な気がするな」
「……だからこそですよ」
「てーと?」
隣に座ったアリアの気配が動いた。見ればこちらに身を乗り出しているようだ。
「人間に生まれたからこそ、です。きっとそこには意味があるんです」
「人間様が特別だってこと?」
「そうです。……というより、誰もが特別なんです。きっとそれが、どんな生き物でも」
「お前って哲学者だったっけ?」
「お前じゃなくて、アリアです」
「はあ」
恒例になりつつあるやり取りに、レミルはいつもの如くやれやれ、と従う。
その時、どこか遠くから、夜行性の野鳥の鳴き声が聞こえてきた。一瞬、二人ともがその声に耳を済まし、会話が途切れる。そして、改めて調子が狂った様子でアリアが続けた。
「とにかくですね、こうして特別な存在に生まれた以上は夢を……つまり生きる目的を見つけなければいけない、と私は思うんです」
「そういうもんかな」
「人間にしかない悩みや苦しみもあります、人間だからこそ辛いことも。それは人間の特別な部分です。それなら、人間にしかない夢も、生きる喜びもあるべきです」
「……言われてみれば、たしかにな」
何となく、レミルには以前から不思議だった。人間は何故、悩み、苦しみ、夢を持つのか。誰かが、何者かがそうあるように創ったのか。ヒューマンも、エルフも、ドワーフも、人間は皆、そうやって特別な感情を、贅沢な感情を持って生きているのだろうか。
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