第二章 風追いの国〜クロコール編〜

第八話 奇跡の滴-1

 かつて、大陸の一大教派として名を馳せた「救星教」が、歴史の表舞台から姿を消したのはおよそ六百年以上も昔の話である。


 「星明かりの神」の導きにより「勇者の祝福」という偉業を成し遂げた「救星教」であったが、勇者の持つ強大すぎる力を危惧し、それを我がものにせんとした大陸の国々による血みどろの戦争、「聖戦」において、彼らは世界からの弾劾を免れなかったのだ。


 後ろ盾を無くして脆弱となった「救星教」は、神の掲示さえ失い、やがてその在り方、指針を巡って必然の内部分裂を起こした。


 激しい派閥抗争の末、一度は「大陸の星標ほししるべ」とさえ言われ、時代を築き上げた大宗教は自滅の道を辿り、呆気なく崩壊してしまう。


 散り散りとなって僅かに残った分派の一部が、その後は細々と信仰を集めていたが、それもおよそ百年前、現在の最大派閥である「星導教会」の台頭と共に完全に息の根を止められることとなった。


 過去の栄光も、祝福も、今ではただ虚しく、過ぎ去りし時代を謳う吟遊詩人の叙事詩を彩るだけだ。


 人も、世界も、神でさえも、彼らのことを忘れ去ってしまったようであった。


 -大陸歴史学者サルコフの著書『宗教から見る大陸文化の変遷』より-



 ♦︎



 リアス達一行は「商業と出会いの街」アルカーンを出発すると、大陸の北側に位置する超大国メルキセドを目指すため、デルクラシアを北に抜けるルートを進んだ。順調に真っ直ぐ進むならば、進行上は七つの国の無数の都市を通ることになる。


 まずはデルクラシアの北端に位置する「花の街」パルナピア、そしてその街にある「赤土の国」ソールウェルドとの国境の関所を目指していた。


 北を目指す四人と一匹は、豊かな草木の絶えない緑色に燃える大地を、舗装の荒い公道に沿って道なりに歩く。季節風に乗って時折、鳥達の軽快な鳴き声や草木が揺れる音が響いて一行をはやし立て、二股の分かれ道に突き当たった時には、伏し目がちなおじぎ草の垂れた頭の方に従って進んだ。


 空にはポツリポツリと、毛具合のいい迷子の羊が何匹か浮かび、太陽の光は燦然と地上の草木達に照りつけていた。


 険しい道ではなかったが、大国も北の外れに差し掛かり、都市圏を大分離れてしまったため次の宿までには少しかかる。一行は特段焦ることもなく歩き続けた。


「しかし、景色が変わらないな」


 道沿いの風景に目を向けながら、レミルがなにとはなしに言う。と、馬上のリアスがその言葉に答えた。


「そうだね。ここいらは際立って奇抜な地形はないし、一年を通して気候も比較的安定している。土地も肥沃だから、しばらくはずっとこんな様子だろうね」


「でも綺麗ですね。久しぶりに見たような気がします」


 感心するように、ティシアが辺りを見て感想を漏らす。


「久しぶりに?」


 レミルが聞くと、ティシアは頷いた。


「タナメアと一緒に旅をしていた時も、美しい景色をたくさん見たような気がするんです。そもそも、こうして外の景色を眺めること自体、なんだか新鮮で」


「君の生きていた世界が本当に七百年前なのならば、その感覚は無理もないと言えるね」


 リアスがそう言って苦笑すると、アリアもそれにうんうんと頷く。


「七百年ですからねぇ……、それだけ時間が経てば変わってる所も沢山あるでしょうし、もっと色んな所を見て回れるといいですね」


「はい、楽しみにしています!」


 ティシアも満面の笑みで答えた。レミルはその歳月の表す途方もない時間に思いを馳せながら、空を見上げて一人、ぼんやりと考える。


 ――俺は七百年前の空とか、絶対見たことないよなぁ。



 一行がそんな風に呑気に道を進んでいる時だった。


「ん?」


 ふと、レミルは地平線まで繋がる道の向こうから何者かがこちらへやってきているのに気がついた。目を凝らして見ると、それはどうやら人間の、それも歳若い少女のようで、息を切らしながら必死に走っている。その様子はまるで何者かに追い立てられているかのようで、見ていると彼女の後ろから大きな影が迫ってきていた。


 どうやらその影の何かから女の子は逃れようとしているらしい。相当慌てているらしく、彼女はまだこちらに気づいている様子はなかった。


 不意の出来事に、レミルは遠くを凝視したまま。


「あれは……」


「魔獣だ」


 リアスも気がついたのか、同じくその方向を見つめながら顔をしかめる。それを聞いて、アリアとティシアが不思議そうに二人のことを見た。


「誰か追われているね」


 リアスがそう続けると、意味を解したアリアがリアスの視線を追い、そして「あっ!」と声をあげた。一方、ティシアだけは未だに何のことを言われているのか分からず、辺りを見回しながら頭にハテナマークを浮かべる。


「とにかく助けよう」


 リアスがそう言う前に、既にレミルは駆け出していた。


 迷っている暇はない。女の子までの距離は少しあるが、何とか彼女が追いつかれる前に助けに入れそうだ。


 レミルはぐっと足に力を込めて思い切り加速する。


 が、しかし。


 何かの不幸か、それとも最早限界だったのか、その時、少女は足をつまずかせてその場に転んでしまった。道の中途に倒れ込み、膝を抱えてうずくまってしまう。その間にも、追いかける魔獣はみるみる彼女との距離を詰めた。このままではおそらく、助けには間に合わないだろう。


 レミルは舌打ちをして更に駆け足を速めようとするが、既に恐ろしい魔獣は彼女に飛びかかろうとしている。紫色の毛並みをした獰猛な熊の魔獣ベアロードの鋭い爪が、うずくまる少女を襲った。


 レミルは目を瞑り、心の中で強く念じた。


 ――間に合え!


 その時だった。


 まるで、レミルの意思が通じたかのように、彼の足が信じられないような力で大地を蹴った。辺りの石床がひび割れるほどの勢いで踏み込んだレミルは、そのまま目にも止まらぬ迅雷の如きスピードで、少女とベアロードとの間にまで数秒もかからずに駆け抜けると、その勢いのまま古傷のあるベアロードの顔面を蹴りあげる。


 さながら重機のような一撃は、最早何が起こったのかも理解させぬままベアロードの頭蓋を砕いて脳天を貫き、そして魔獣は、レミルの余りある脚力によっとはるか遠くまで蹴り飛ばされて、潰れるようにどこかの地面へと落ちた。


「大丈夫か!」


 その放物線を見送ることもなく、レミルは少女に向かって振り向き、切迫した様子で安否を確認した。


 床に打ち付けた膝を抑えていた少女は、突然のことに驚いた表情で顔を上げ、レミルを見つめる。


 衣服は粗末な革のドレス一枚、肩まで伸ばした赤毛の髪にくりくりとした灰色の瞳。笑えば愛想の良さそうな顔が、今はただただ恐怖に怯え、血色が悪かった。表情はまだ相応のあどけなさを残していて、おそらくはレミルよりは歳下だろう。


 少女は突如として、熊の魔獣に代わり目の前に現れたレミルの姿を見て、思わず声を震わせた。信じられないという様子だった。


「た、助けてくださったんですか?」


 今にも泣き出してしまいそうなのを堪えるかのようなその声音で、彼女はそう聞いてくる。レミルは頭をかいて、いや~間一髪だったな、などと考えながら少し笑った。


「あー、まあそうなる……けど、ていうか大丈夫? 怪我とかは?」


 レミルは立ち上がろうとしながらも、未だ恐怖に膝を震わせている女の子に手を差しのべた。女の子は小さく会釈をしてその手を取ると、まだおぼつかない足取りで立ち上がる。それからレミルに向かって改めて深々と頭を下げた。


「あ、ありがとうございます! 命を助けていただいて、何とお礼を言ったらいいのか……」


 見たところ、つまずいて打った所以外に目立った怪我はないようで、ひとまずは大丈夫そうだった。それにしても何故、この少女はこんな所で魔獣に追われていたのだろうか。


「とりあえず大した怪我がなさそうでよかった」


「いえそんな! 本当にありがとうございます! あの、何も差し上げられる物なんてありませんけど、何かお礼でも……」


「え? いやいや、別にそんな……」


 身を乗り出して言ってくる女の子に、レミルは首を振る。


 そこへ、幾ばくか遅れてリアス達が追いついてきた。


 まずは二人の姿を見て、アリアがホッと胸をなで下ろした。


「間に合ったんですね、良かった~」


「やあお嬢さん、無事でしたか」


 ミリスに跨って近づいてきたリアスが、馬上から少女ににこりと微笑んだ。少女は、慌ててリアス達の方にもペコリと頭を下げて、お礼を言う。


「どうもありがとうございます。あの、出来れば何かお礼でも。いえ、差し上げられる物なんてないですけど……」


 残念そうに言う少女に、リアスはいやいやと首を振った。


「私たちは何もしていませんから。それよりも、魔獣に襲われていたようだけど、何故こんなところで? この辺りには魔獣はほとんど生息していないはずでは?」


 リアスが聞くと、少女は少し顔をしかめた。どうやら何か事情があるということらしい。


 それからしばらく躊躇するように目線を忙しなく動かしていたが、やがて決心したように両手を握ると、リアスに向かって振り絞るように言った。


「あの、もしかして有名な冒険者の方達ですか?」


「有名……かどうかは分からないけど、冒険者には違いないね」


 リアスが苦笑いする。


「あの、お願いがあるんです。私たちの村に来ていただけませんか?」


 唐突な申し出に、リアスは思わず首をかしげた。


「君の村に、かい?」


「はい、私たちの村を助けて欲しいんです!」


「た、助ける?」


 本当に突拍子もない言葉に今度こそリアス、そしてレミルまでもが少女の言葉を繰り返して聞き返した。少女はそれに一つ頷き、深刻そうに告白する。


「そうです。私、パンネッタって言います。この先にある北の外れのクロコール村に住んでるんです。それで、その村が今、とにかく大変で……」


 そこまで言ってからレミルの方を向きやり、その手をガシッと掴んだ。


「さっきの目にも止まらないような動き、きっとお強い戦士様ですよね? お願いします、私の村まで来ていただけませんか」


 そう言って来るパンネッタは縋るような瞳でレミルの事を見上げ、身を乗り出した。


 レミルは思わずたじろぎ、言葉を失ってしまう。目線を横に逸らしながら、ぎこちなく返事をした。


「あー、そ、それは全然いいんだけどさ……」


「チョロっ」


 その様子に、脇のアリアが思わずボソリと言った。


 レミルは無意識にティシアの方に目をやる。少なくとも自分の記憶にはないのだが、彼女がタナメアと呼ぶ人間はあれだけティシアに慕われていたのだ。いや、ないとは思うけれど、もし過去に二人の間にそういう間違いとか間違いじゃないこととかあったりとかしてしまったら、こういう事態には不愉快な感情を抱いてしまうかもしれない。


 ――いや、ないとは思うけれど。


 しかし、ティシアは不思議そうな顔をしてレミルを見つめ、首をかしげるだけだった。心の中で安心しつつ、自分の手を握るパンネッタの手に、更にもう片方の手を重ねて諭すように言った。


「まあとにかくさ、どういう事なのか教えてよ」


「うぅ……は、はい。でもまずは村まで来てくれませんか。私からはどう言っていいのか分からないのと、その……い、急がないと!」


 パンネッタが、どこかただごとではない切迫した様子で顔を俯けて言うと、レミルはリアスの方に視線をやる。リアスはそれに応えるように仕方なし、と頷いた。それを見てから、レミルもパンネッタに頷く。


「分かった、じゃあ案内してもらえるか?」

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