第一章 風追いの国〜アルカーン編〜

第一話 逃避行の少年


 かつて、大陸の果てに口を開く奈落の大穴「嘆き落とし」の底より這い出た闇が空を覆い隠した、遠い昔のこと。


 「星明かりの神」が生まれたばかりの一人の赤子に光の祝福を授けた。溢れんばかりの栄光と誉れの中で生まれたその赤子は、大陸中の期待を背負って育ち、やがていつしか「勇者」と呼ばれるようになった。


 気高い志と、揺るぎない慈愛とを兼ね備え、神の祝福によって光の力を授かった勇者。十五の歳の誕生日に、与えられた使命を胸に、永らく天に被さる闇を払わんと最果ての山脈を目指して一人、旅立った。


 過酷な旅路の途中で、時に傷つき、そして時にはかけがえのない仲間と出会い、その旅はおよそ二年続いた。想像を絶するほどの苦難な悲しみもあったが、しかしどんな悲劇も難局も、勇者を挫けさせることはなかった。


 長い旅の果て、途方もないほどの道のりを乗り越え、彼らはついに闇の渦の中心へとたどり着いたのだ。やがて潰えし大陸の勇者伝説の軌跡が、必ずやこの世界の闇を晴らし、平和をもたらすことを信じて……。


 -大陸に僅かに遺る勇者の叙事詩『アルゴ英雄記』より-


 ♦︎



「はあっ、はあっ……くっそ!」


 夜の街。寂れた石レンガの街道。街灯の灯りもつかず、こんな暗い時間に出歩くような人間もいないであろう通りを、一人のまだ若い少年が何かに追い立てられているかのように息を荒らげて走っていた。


 少年は度々後ろを振り向きながら、その都度網の目のような路地を右に左に曲がって、迫る追っ手を振りまくように走り続けた。


 歳は二十に満たないだろう。身なりは、粗末な黄色い布の半袖シャツの上にボロボロになった上着を羽織っている。下に履いているズボンや皮のブーツも擦り切れていて、どうもあまり立派な身分の人間ではないらしい。


 髪色は濃い栗色で長くはなく、目の色も黒に近い茶色と貴族の血筋を感じさせない。顔つきはいわゆる「誰もが振り返る男前」という様な像ではなかったが、成り立ちはなかなかに整っていて端正である。一見すると中性的な少女にも見えるような美少年だった。そして、その瞳にはどこか勝気で不遜そうな光を宿していた。


 少年は更にいくばくも走ると、連日の空腹と疲労から普段よりかなり弱っている自分の心臓の限界を感じ取り、ついに立ち止まって膝を折った。


「っ!」


 石床に付けた膝をかかえ、呼吸を落ちつけながら少年はなんとか立ち上がろうとする。


 が、走り通しの上にひどい空腹にまで晒されている彼の体は、今は随分余力が無く、立ち上がりながらもモタモタとよろついて、脇の壁に手をついた。普段ではこの程度のことで足踏みすることはないのだが。


「はあっ、はあっ」


 と、そこへ後ろから数十人近い足音がガチャガチャと騒がしく近づいてきて、少年の姿を確認すると立ち止まった。


 全員が縦に長い帽子を被り、十字架を象った紺色の兵士服を着て、刃のついていない槍のようなものを掲げている。この街に所属している警察組織、通称警兵と呼ばれる者達だ。


 それらが立ち止まると、その中心から一人の男が進み出た。彼だけが紺ではなく目立つ緑色の兵士服となっており、集団の中で特別な階級であることを思わせる。


 彼はもみ上げにまで繋がったあごひげを満足そうに摩りながらニヤリと笑う。持ち前の性格の悪さを表すかのように唇を歪ませながら、未だ息を整えている最中の少年に向かって言った。


「鬼ごっこはもうお終いか?」


 少年は男の嫌味な言葉を聞くと、手をついていた壁に寄りかかり、空を仰いだ。


「ほんと、最悪な日だな」


「フン」


 男は一つ、彼の悲嘆を鼻で笑ってから、


「何のことはない、すぐにもっと最悪な日が訪れるさ。おい!」


 そう言って、自分を取り囲む兵士の一人に顔を向けた。それから、顎でくいっと少年の方を指す。


 やれ、という合図らしく、それを受けて兵士が槍のような武器を構えながら前へと進み出た。


 少年は肩を落とし、荒れた息を静かに整えると、観念したように兵士に向き直り目を閉じた。


「俺は嫌なんだけどな……」


 そして心底参ったような表情でそう言った。


 それと同時に兵士が「ほざけ!」と吐き捨てながら槍を振るい、いきなり少年の即頭部めがけて払った。


 本来ならばその打撃は見事にこめかみから横一線の即頭を打ち砕き、物言わなくなった少年がその場に転げる所なのだろう。まだ年端も行かない少年に振るうにしては余りの凶行だった。とはいえ勿論、向こうもそう上手く行かないことを理解した上で本気で振るいきったのだ。


 しかし……。


「なにっ!」


 それを踏まえたとしてもその光景は予想外であったらしく、兵士の漏らしたその声には動揺が現れていた。


 向かって左側から薙がれたその槍を、少年は苦もなく左腕の前腕部分で受け止めたのだ。それから生意気に口をへの字に曲げる。


「……って、痛ってえなぁ」


 そう言って、彼はすぐに左腕を抑えた。ピリピリと痺れるような痛みを感じる。


 兵士はその様子を見て、驚いたように口を開けた。緑服の男も顎髭をさする手を止めて目を見張る。


「馬鹿な。象でも一瞬で気絶させる電流が流れるはずだぞ……」


 兵士は一瞬たじろぎながらも、簡単には怯まず更に槍を構えた。そして先程にも増して力強くそれを振るう。


「らあ!」


 が、相手の少年は、今度は受け止めることをせず、上半身を少しだけ後ろに倒してかわしながら舌打ちした。


「こんな危ない物をか弱い子供に向かって大仰に振り回すなよ!」


 かわされた槍の軌跡を追いながら驚愕の表情を浮かべる兵士はなおも、歯を食いしばって少年めがけて槍を突き、払い、振り下ろした。


 ところが、生意気なことにその少年は慌てたような様子もなくそれら全てを楽々と交わすと、最後にその槍を下からつま先で軽く蹴飛ばした。


 兵士が思わず力を抜いてしまっていたのか、少年が見た目以上に力を入れていたのか、それによって槍は兵士の手から空中へと投げ出さる。


 ゆうに数メートル上空に吹っ飛んでから少年の手元に、すとんと収まるように落ちてきた。


 一連のことに唖然とする兵士をよそに、彼は慣れた手つきでその槍をクルンクルンと弄ぶと、片腕で構えを取り顔をしかめる。


「槍術はあまり教わらなかったからなぁ。得意じゃないんだけ……っど!」


 言下に一歩踏み込むと、霞むような早さで槍を振るった。その穂先(と言っても、そこに刃はついていない)は兵士の鼻先すれすれを一瞬で横切ると、遅れて帽子からはみ出た彼の前髪がふわりと揺れた。同時に、その兵士が白目を向いて失神し、後ろに倒れた。


「……」


  それまでの一連のシーンがまるで、何かの射影機で映された映像の一部であったかのように、その様子を見張っていた緑服男はそこではじめて我に帰り、気絶して倒れている兵士の姿を眺める。


 何が起こったのかもほとんど分からなかったが、少年の体制からして、彼が槍を兵士から奪い、そして素早く振るったらしい。男は得意げにはにかむ少年の顔を見て忌々しそうに下唇を噛むと、


「やはりか……侮ったな」


 と呟き、残りの全員に向けて彼を指さした。


「やれ! かかれ!」


 それと同時に、固まっていた兵士たちが「わっ!」と一斉に少年に向かって向かっていった。


 少年はその群れを見て、眉を潜めて頭をかく。


「こういうの、リンチって言うんだよな。俺みたいなガキ一人相手に、情けなくないのかねぇ」


 そんな口調とは裏腹に、既に彼の視点は自分に群がろうとする警兵達に定まり、槍を構えていた。


 まず二人だった。


 真っ先に槍を振り上げて突っ込んできた二人の兵士に対して、少年は綺麗に身をさばきながら片方の懐に入り込むと、柄の部分で相手の鳩尾を軽くついた。そしてその兵士がおえっと唾を吐き、槍を手放して倒れようという頃には既にもう片方に向きなおって足払いをかける。そのままよろめいた所を、太刀打ち辺りで相手の腹を殴り飛ばしていた。


 更に今度は、ご丁寧に三人横一列に並んだ兵士達が打ち放ってきた槍を、身を低くして避けた。続けて、持っている槍の前段部分を相手の槍にすべらせて、持ち主の手元を打ち付ける。


 「ギャッ」とその一人がたまらず槍を落とした所を左手で胸ぐらを掴んで背負い投げ、同時に右手に持った槍の柄でもう一人の兵士の脛を砕く。最後に残った一人を振り返りざまに回し蹴りで、それを防ごうと構えた槍ごと吹っ飛ばした。


 その圧巻の様子に、後続の兵士達が思わず怯んだように足踏む。と、背後から緑服男の声が掛かった。


「こっちが多勢なんだ、真正面からかかるな! 相手を取り囲んで確実に仕留めるんだ!」


 男のその声に兵士たちはハッとして、改めて槍を構えると整えられた動きで散開、命じられた通りの陣形を組み始めた。


 取り囲まれた少年は槍を下ろすと、自身の周りを囲うの兵士たちを見回し、呻くように声を漏らした。


「そう言う事するかなぁ。あ、そうだ!」


 そして名案が閃いたとばかりに指を立て、辺りに向かって提案する。


「あんた達、俺を見逃してくれないか? 酒くらい奢るぜ!! ……っても、生憎と今は持ち合わせがないけどさ、なはは。あ、てか金貸してもらえない?」


 ふざけたようなセリフを飄々と、しかし恐らくは本気で言っているらしい少年。彼の言葉は、取り囲んでいるという優勢も手伝ってか、兵士たちをカチンと来させるのに充分な出来だった。


「ふざけるなっ!」


 一人の兵士がそういきり立つと、他の全員もグッと槍を持つ手に力を込めた。そのまま四方から閉じ込めるような形で、半ば苛立ちを込めたように少年に向かって一斉に槍を突いた。


 少年にとってはまさに逃げ場なく万事休す、という状況なはずであったが、それを受けて尚、彼は相変わらず涼しそうな姿勢を崩さない。


 そして、まさに四方からの槍が自分の体を打ちつけようというところで、僅かに膝を折ると、トンと地面を蹴って跳びあがった。大きく勢いをつけたわけでもないのにそのひと跳びは槍を持ったままの少年を優に数メートルも持ち上げ、華麗にその槍撃をかわすことを可能にする。


 時間が止まったかのように長い滞空時間の中で、少年は眼下の雑兵を見下ろすと呆れたようにため息をついた。かと思えば、自らの足で着地する代わりに長槍をカツンと地面に打ち付けると、それを軸にしてクルリと体を回転させ、三人ばかりの兵士の横っつらをまとめて蹴り飛ばす。


 更にその勢いのままでポンと飛び上がると、兵士たちの円陣から外れた場所へと着地。すぐに体制を立て直すと、彼の姿を追うだけで精一杯な兵士どもの後頭を適度な力加減で打ち付け、気絶させた。


 残った数人は、まるで狐につままれたような表情でしばらく少年の動きを眺めていたが、味方が情けなく気絶していく様を見てやっと我に返り、彼へと挑みかかった。


 しかし、多勢で仕掛ける槍の突きも払いも、相変わらず少年の動きに追いつくことが出来ず、全てが掠ることすらなく外れてしまう。そうしていつの間にか相手に懐までの接近を許すと、あるいは下顎を思いきりよく打ちのめされ、あるいはつま先を鳩尾に決められて泡を吹いて気絶してしまうのだった。


 あの優勢からは想像もつかないほど、あっという間に戦闘は終わった。理不尽とも思えるほどに呆気なく、お抱えの兵士たちが全員倒されてしまったことに気づいた緑服男は、たじろいだ様子で少年のことを見やった。


 相変わらず彼は腹立たしいほどに涼しそうな表情で槍をクルクルと回すと、緑服男に向かって言った。


「はあ、せっかく最近鳴りを潜められたと思ったのに、これでまた目をつけられんのかな。くそぅ、ついてねー……」


 警兵達からしてみれば、これほどの多勢に加えで自分たちが武器まで手にしているのにも関わらず、こんな年端もいかないような徒手の少年に全員が簡単にのされてしまったなどと、にわかには信じ難いだろう。


 少年は、そんな感情を体現するかのように呆然と立ち尽くす緑服男の様子などお構いなしと言った風に一人で呟く。それからビシッと手を構えると、


「じゃ、俺は逃げさせて貰うんでそこの所よろしく! ……っとその前に」


 言うが早いが、少年の姿が霞むようにぶれる。


 素早い動きでいつの間にか眼の前に現れていたため、実際の彼に重なるようにして流れる残像の鮮やかな動きを、緑服男は見ることが出来なかっただろう。少年は、表情を固まらせたまま何が起きたかも理解できない男の腹に、槍の穂先を擦るくらいの強さで優しく当てた。


「一応遠慮してたつもりだけど、こいつがどんだけ痛いものかあんたくらいは知っておけっての!」


 その言葉と共に意識を失った男がその場にくずおれた。少年はそれを眺めると、少し不愉快そうな顔をしたあとに長槍を両手でまっ二つに折って、放るようにその場に投げ捨てると、そそくさとまた夜の路地を駆け抜けて逃げていったのだった。

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