TH1112(結)

 自室に戻り、ベッドに腰かける。破られた箇所の隣のページに、例の暗号、TH1112を書いてみた。何秒もにらんでみる。しかし、その謎は解ける気配がしなかった。枕の方へ手帳を投げる。

 僕はここで、先の使用人――転落死した、乾さんの母親の世話をしていた女性が、氷堂さんを刺したのではないかという可能性について考えてみることにした。

 彼女は、乾さんの母親が脅迫状を書いていたことを隠そうとしており、それを氷堂さんの探偵スキルによって引き出されてしまったのだ。絶対にバレてはならぬと考えていたのは、それが乾さんの母親に対する悪評につながるからである。彼女は一時的な主人のために、秘密を知ってしまった氷堂さんを口封じに殺した。メモを破っておくことで、秘密が拡散することも防げたのである。

 一見すると、ありえなくもない。しかし、殺人を決意させるほどの忠誠心であったかどうかは怪しいし、どうやってあのドアをすり抜けたのかが問題だった。さらに、そうなればメッセージは彼女のことを差しているということになるのだが、僕は彼女の名前を知らないのだ。そもそもメッセージの読み方がわかっていないわけだが、仮に解読しても、それが彼女の名前だと言い切ることができない。本人に聞いては、嘘をつかれる可能性がある。江藤氏か香我美さんから聞いた方がいいかもしれない。

 だがしかし、僕は彼女だとは思えないでいた。色々と、無理があるような気がしているのである。

 それに、僕はダイイングメッセージそのものの意義が、わからないでいた。例えば僕に殺された氷堂さんが、カワラバなんてメッセージを残したのなら、僕は迷いなくそれを消しただろう。しかしそれは、僕がまだ現場に残っていたらの話だ。僕が去った後にカワラバと書くのなら、さほど問題はない。しかし、犯人が去ってしまったのなら、わざわざ暗号で遠回しに告発する必要もないだろう。

 もし暗号として残すのだとすれば、それは犯人がまだ近くにいるからだ。いつどこで見られるかわからないから、本人の名前だけは回避しなければならない。

 これは氷堂さん――つまり、被害者目線で考えたときのことだ。もしかすると僕は、加害者の側からメッセージのことを考えないといけないのかもしれない。

 僕が、氷堂さんを殺したとしたら。まず、カワラバというメッセージを残した場合、確実にそれは消すだろう。謎の暗号だったら、どうだろうか。これも、消すんじゃないかな。疑われる可能性は、きちんと潰したいだろうし……。

 しばらく頭を抱えるが、僕はさらに、発想の転換をする。どういう場合ならメッセージをあえて残すだろうか、と。これは単純だ。僕じゃない人の名前なら、間違いなく残すだろう。もし氷堂さん自身の名前が書いてあれば、自殺だと思わせることができる。

 そうか。むしろ犯人は、不可解な暗号を残したのだ。そもそもそれは、直接名指しをしていないので、もし誰かが僕のことだと読み取っても、デマカセじゃないかと反論できる。そして、もし別の解釈ができるのだとすれば――誰かに罪をなすりつけることができるのだとすれば、犯人にとってこんなに都合のいいことはない。

 つまり犯人は、TH1112という暗号が、自分ではない誰かを差しているものだと解き明かされるのを期待していたのだ。どんな証拠よりも、被害者の言葉ほど信頼できるものはないと、僕たちは考える。逆を言えば、被害者の言葉を歪曲できれば自分への疑いはほぼ間違いなく晴れるのだ。

 ということは、メッセージは確実に読まなければならないということになる。別の人物を名指ししてしまえば――例えば、これを「カワラバ」と読んだなら、僕は無実の罪で拘束され、犯人は胸をなでおろすことになってしまう。

 枕の近くに転がる手帳に目を移す。適当に投げたために、ここから見えるメッセージは、向きが変わっていた。これでは、まともに解読できないだろう。しかしまあ、見方を変えればもしかしたらということも――。

 僕は前のめりになる。そうか、これはそう読むこともできるのか!

 しばらく、最後の文字まで解読できないものかと睨みつける。僕は様々なことを思い出し、それらの手助けを得ながら、あるひとりの人物の名前をそこに見た。

 動けなくなる。

 いや、そんなはずはない。

 これで読み間違いなら、犯人の思うツボだ。だがしかし……。もし、それを裏付けるように、何かしらの証拠を掴むことができたとしたら? 解釈と証拠が重なれば、ほとんど確実に犯人が確定することになるだろう。

 まさか、あれは……。

 僕はスマートフォンを取り出す。しばらく操作して、僕の考えは違ったのだと安堵した。しかし、妙に疑り深くなっているために、僕はもう少し、調べることにしてしまったのだ。そして、確定した。

 ああ、やはり。あの人が氷堂さんを……。

 僕は部屋の外に出たくなかった。このまま、眠ってしまいたい。だが、取り調べのために警察がいるうちに、真実を明らかにした方がいいだろう。そしてきっと、犯人もそれを望んでいるから。


 24時間前は氷堂さんが座っていた位置に、例の警官が座っていた。彼のテーブルには、江藤氏と坂崎さんも座っている。年齢的には、警官さんも氷堂さんもおそらくそう変わらないであろうから、一見するとテーブルの雰囲気は昨日と似たようなものだ。

 しかし、昨日とは空気が違う。人が死んでいるのだ。山頂の館と山の下で、ひとりずつ。 乾さんの母親が亡くなったことは、警官さんが江藤氏と坂崎さんに伝えてくれた。江藤氏の落ち込みようはひどく、母子を引き離したことを後悔している様子だ。念のため、彼女が脅迫状を持っていたことは伏せてもらっている。

 僕は手帳をテーブルに置いてひとりで座り、香我美さんが乾さんを連れてくるのを待っていた。全員が揃ってから、全てを明かす必要がある。知らないところで犯人が捕まっているのでは、巻き込まれたみなさんも気分が悪いだろう。

 少し居心地悪そうにしている警官さんに、僕はひとつ質問をぶつける。

「例のナイフからは、指紋は検出されましたか?」

 警官は首を振った。

「何も、見つかっていません。おそらくは、手袋か何かをつけた状態でナイフを扱ったのでしょう。こうも堂々と凶器が残っていて――それも、指紋がつかないように計算されていると、全く手の打ちどころがありませんね」

 転落死に続いて殺人事件まで扱わされた、ひどく疲れ切った様子の警官さんは、参ったというように手をひらひらさせる。

「しかし、それもおかしな話じゃないですか?」

 坂崎さんがつっこむ。

「ドアノブからはたくさんの指紋が検出されているようですが、ナイフであれば、少なくとも使用人である香我美さんの指紋が出てきてもおかしくないじゃないですか」

「香我美を疑っているのですか!?」

 今にも殴りかからんとする江藤氏を警官が鎮めると、坂崎さんは自分の言葉を侘びるように首を振った。

「いえ、私は何も、彼女が刺したと思っているわけではないのです。ですが、なんというのでしょうか、順序を考えるとといいますか、一応彼女は、使い物にならなかったナイフを、研磨していたわけですし……」

 たしかに、それはそうだ。おかげで、チョコレートすらうまく切れなかったナイフが、氷堂さんの脇腹を見事に貫いてしまったのである。

「それは私が、作業中ゴム手袋を着用しているからです」

 言いながら、香我美さんが上の階から下りてきた。後ろにいる乾さんは、ひどく落ち込んでいる様子で、その体は初めて会ったときよりも小さく見える。何が、彼女をここまで変えてしまったのか。そんなことは、わかりきってはいるけれども、

 香我美さんは江藤氏の傍に立ち、乾さんは僕のテーブルについた。食事の置かれていないテーブルは、ただ真実を知るためだけのもので、シャンデリアの照明を浴びていても冷たく感じられる。

「犯人がわかったんですか、河童場さん……?」

 乾さんは僕に体を向けて座り、膝の上で手を震わせた。僕はその手に自身の手を重ねて、彼女を安心させるように語りかける。ときおり視線を交わして、やさしく目を瞑って。まるで、愛の告白をするかのように。

「ええ、そうなんです。たくさん、怖い思いをさせてしまいましたね。氷堂さんに続いて、お母様まで亡くなられて……」

 僕の言葉に、こくりこくりと乾さんが頷いた。一見すると、ふたりの男女が初めて出会った翌日に恋人になっているような構図であり、温かな目を向けている坂崎さんはともかく、江藤氏はやや不思議そうな顔をしている。もはやボランティアのように残ってもらっている警官さんは、僕たち5人の間柄などほとんど把握できていないため、特に気にしていない様子だった。そして香我美さんは、これから僕の口から吐き出される真実に脅えている。岩を軽々背負うほど鍛えてはいても、その神経は一般的な女性とそう変わらないのだ。

「ですから、乾さん」

 僕は言葉を続けた。乾さんと目が合う。彼女は少し、微笑んでいるようにさえ見えた。このような状況で、彼女は笑っていたのである。それは喜びではなく、ある種の安心感、解放感から来るものだったのだろう。

「もう、いいんです。僕にはわかりました。あなたは少し、肩の荷を下ろすべきなのです。もちろん、人を殺めたことに対する罪の意識は、一生付き纏うかもしれません。ですが僕は、そんなあなたの罪の意識を少しでも理解してあげたいのです」

 坂崎さんが驚きの声を小さく漏らしたが、それには触れず、僕は乾さんが期待しているだろう言葉を続けた。

「氷堂さんを殺したのは――あなたですね、乾さん?」


 プロポーズを了承するように乾さんが頷くと、僕の背後でガタリと音がする。振り返ると、警官さんが信じられないものを見るような目で――同時に、悪を許さんとする鋭い眼差しで僕たちの方を見つめていた。僕は彼をじっと見つめ手で制すると、納得できないような顔をしつつも、彼はゆっくりと椅子に座り直す。

 江藤氏は、目を見開いたまま固まっていた。開いた口も、塞がっていない。香我美さんは立ち眩んだように、テーブルに手を置いてしゃがみこんでいる。

 坂崎さんは、驚いてはいたが、僕を信用しているというような視線を真っ直ぐに向けて、僕に尋ねた。

「どうして彼女が犯人だと考えたんだい? まさか、あの暗号を解読したとか?」

 僕は頷く。乾さんの手を強く握る。握り返してくれた。もはや僕は、彼女の代弁者のような気にもなっている。

「ええ、そうです。僕は氷堂さんの残したメッセージを読み解いたのです。正確には、色々と背景がわかりまして、そのために乾さんを疑えた、というのが本当のところなのですが」

 僕はちらりと香我美さんを見た。立つことはできなそうだったが、彼女の眼差しは強く、どんな真実も受け止めようという意志が感じられる。

 僕は氷堂さんの手帳を開き、書き写した暗号のページをみんなに見せた。もちろん、乾さんも見えるように。


「氷堂さんの残したメッセージは、TH1112でした。このように読むと、全くもって意味不明なのですが、僕はこれを、少し違った角度から眺めてみたのです。

 つまりは、こういうことです。Tが一番下になるように90度回転させますと、元々横書きで書かれたものですから、さらに不可解な暗号に見えます。しかしそれは、数字の部分についてです。THについては、このように回転させますと、カタカナで『エト』と書いてあるように見えるのです。Hがエ、Tがトに見えるわけですね。

 つまりこれは、『エト1112』と読むことができるのです。アルファベットと数字は、それぞれ読む向きが違っていた、というわけです。さて、問題は1112の部分でして、ゴロ合わせにしては同じ数字が並びすぎているので、非常に悩みました。

 僕と乾さんは何時間か前に――ちょうど、警官さんが葉山原村に来る直前くらいですが、ふたりで氷堂さんのダイイングメッセージを読み解こうとしたのです。そのときに、4ケタの数字は暗号としてどのように読まれることが多いのか、乾さんに尋ねてみました。彼女はミステリ好きなので、そういったことへの読解力があると考えたからです。彼女が提案したものは、ケータイの文字盤をその番号の通りに押してみる、ということでした。

 今でこそスマートフォンが主流ですが、おそらくみなさんであれば、ボタンを押してメールを打っていた時代が思い出せるのではないでしょうか。1を3回押してみますと、『う』の文字が入力できるはずです。そして2を一度押せば、『か』の文字になります。1112は、『うか』と読めるのです。

 しかし、これと先の『エト』を合わせますと、『エトウカ』……つまり、『江藤か』と読むことができるのでした。しかし、この解釈には謎が残ります。仮に氷堂さんが江藤さんを名指しするのであれば、最後の『か』が不要なのです。TH111だけで、エトウと読ませることができるのですから。

 そこで僕は、THと1112が連続していない可能性について考えたのです。アルファベット、あるいは数字の並びが、もう一方の暗号を読み解くヒントになっているのだと。つまり、THと1112は続けて読まないが、関連していると考えたのです。

 僕は、氷堂さんと交わした会話のことを思い出しました。彼は自身が申年であることをネタに、カッパとサルは仲良くできるのかというジョークを言ったのです。ええと、この場合のカッパは僕で、サルは氷堂さんですね。僕がカッパなのは、僕の河童場という苗字から来ているのですが……。

 さて、氷堂さんは自身の干支について述べたのでした。そう、干支です。THは、回転させるとエトになる。なるほど、THはカタカナの『エト』として読むのでは不十分で、動物の『干支』として読む必要があるのでした。

 僕は数字の部分――1112を、4ケタの数字として捉えていました。1112年だとか、ケータイでそのまま打つとか、電話番号の下4ケタが1112であるとか、そういう見方ばかりしていたのです。しかし、仮に干支の方向性で数字を見ていきますと、1112番目の干支などありえないので、僕はまた見方を変える必要がありました。つまり、これは4ケタの連続した数字なのではなく、それぞれの数字が干支のことを示していると考えてみたのです。1番目は――ネズミのことです。2番目はウシ。短絡的な僕は最初、1112を『子・子・子・丑』と読んでみたのでした。しかし、これはこれでひどいもので、指しているものが何であるのかわからない。

 1ケタで考えるのは、無理があると考えたのです。干支は12ですから、『ネズミ2回』と『イヌ1回』が同じ記号になってしまうからです。ネズミは1番目、イヌは11番目だからです。そうなれば区別のために、ネズミは『01』と表記していく必要があるでしょう。もちろん氷堂さんは0という数字を書き残していなかったので、あまりこれについて考える必要はないのですが……。

 つまり、干支を数字で表すには、ひとつの動物につき2ケタ必要だということに気づいたのです。逆をいえば、暗号の数字の部分は、2ケタごとに区切る必要がある、と。そうしますと、1112という数は11と12に分けて読むべきで、それが干支の順番を示しているのですから……。ネ、ウシ、トラ、ウ、タツ、ミ、ウマ、ヒツジ、サル、トリ――イヌ、イ。氷堂さんのメッセージは『イヌイ』さんのことを示しているのではないかと、僕は考えついたわけです」

 僕が息を整えると、坂崎さんが異議を申し立てた。

「しかし、イヌイというだけでは、母親と娘のパターンが考えられると思うんだけど。いや、私たちは先ほど、彼女の母親が亡くなったことを聞いたけれど、氷堂さんを刺した後に、逃げる途中で落ちたとか……」

「時間の辻褄が、合わないのです」

 僕は強めに言う。

「乾さんの母親が家を飛び出したのは、雨が降りしきる深夜でした。おそらく、そのために足元が悪く、転落してしまったのでしょう。彼女が発見されたのは数時間前ですが、実際には朝を迎えるより先に死を迎えたと考えられます。

 しかし氷堂さんはというと、朝の6時頃には聞き込みから戻っていましたので、殺されたのは早くともその時間以降になるはずなのです。しかし乾さんの母親が朝までに亡くなっているとすれば、殺人者が犯行よりも先に死んでいることになってしまいます。

 それに……氷堂さんはおそらく、乾さんの母親の死体を、聞き込みの段階で発見していたのではないかと考えています。彼が村に着いたのは4時頃ですから、そのときには既に死体となっていてもおかしくはありません。彼は色々なものを観察していましたから、ちょっと歩いただけでは見つからなかった彼女の亡骸に、きっと行き着いていたのでしょう。どうしてその段階で通報しなかったのかは、わかりませんが……。

 ともかく、彼にとって乾さんの母親は、はじめから犯人とはなりえないのです。犯人はわからずとも、死亡時刻は調べればある程度推測がつくはずです。死亡時刻の違いから、母親の方では彼を殺すことができないと、僕たちが気づくことを氷堂さんは期待していたのでしょう。イヌイとは、娘の方でしかありえないと。

 しかし、僕はそれに気づいただけで、彼女が犯人であるということの確信が持てないでいました。先ほど警官の方が仰ったように、ナイフには指紋がつかないよう何かしらの対策が施されていましたし、そもそもここにいるみなさんの誰ひとりとして、疑いたくなかったのです。

 では、認めたくないのにもかかわらず、彼女がそうであると判断せざるを得なくなったのは、疑わしき点が、僕のスマートフォンに残されていたからです。みなさんには、氷堂さんの遺体を発見したときのことを、思い出して欲しいのです。乾さんは、僕のスマートフォンを借りて、一度あの部屋で警察に電話しようと試みました。しかしご存知の通りこの屋敷は電波が通りにくく、電話やインターネットはわざわざ外に出なければ使えないというような状況です。そのために、乾さんが最初に電話をかけたときにはどこにもつながらず、彼女は改めて、建物の外で電話をかけたのです。2回分の発信履歴が、僕のスマートフォンには残されています。

 ですがつい先ほど、その2件の発信の詳細を見てみますと、僕はついに乾さんが犯人であると思わざるを得なくなったのです。正確には、乾さんが警察への連絡を恐れていたのではないかと疑ってしまうような証拠が残っていたのでした。というのも、1件目の発信は繋がらずに諦めたものですから、発信時間が20秒ほどだったのに対して、2回目の発信は、たったの4秒でした。

 1回目については、わかります。20秒かけて、繋がらなかったのだと。しかし2回目の電話で、警察に氷堂さんの死を伝えたのであれば、発信時間がたったの4秒というのはおかしな話なのです。4秒間で、いったいどれだけのことを伝えられるでしょうか。つまりこの発信は、乾さんが警察に連絡したのだと思い込ませるためのカモフラージュだったのです。その証拠に、これはそちらの警官さんが教えてくれたことですが、氷堂さんの遺体を発見した12時過ぎに、館で男性が死んでいるというような通報はなされていなかったのだそうです。つまり、乾さんは電話をしていなかったことが明らかになります。何故か。彼女が犯行に関与しているからでしょう。

 そして彼女は、先ほど僕の言葉に頷きました。僕は氷堂さんのメッセージを読み解いただけで、彼女の疑わしい点はひとつしか見つけられなかったのですが、彼女は否定することなく、自らの関与を認めました。僕は彼が殺される瞬間に立ち会ったわけではありません。ですがきっと、彼女は最初から彼を殺そうと考えていたわけではないのだろうと考えています。なのでこのあとは、彼女から事件の詳細を語ってもらおうと考えていますが……」


 長い推理を終えて、僕は乾さんに促す。僕たち6人は、全員黙り込んでいた。しばらくその沈黙が続き、ようやく乾さんが口を開く。

「河童場さんの言い当てた通りで、私は氷堂さんを刺しました。ですが、それについて弁明するつもりはありません。私にどんな事情があろうとも、罪は罪ですから。警官の方もいらっしゃいます。すぐにでも、逮捕していただいて構いません」

 そんなことを、彼女は言った。

 しかし、名指しされた警官さんは、その鋭い観察眼で、乾さんがまだ何か言いたそうにしているのを見抜いたのか、彼女を取り押さえるようなことはせず、座ったまま彼女の反応を待つ。

 それを受けて、乾さんは悲しそうに笑った。

「いいえ――河童場さん。あなただけには、私のことを知ってほしいのです。他のみなさまには、私のことなど極悪人だと思っていただきたいのです。けれど、私は……あなたにだけは、極悪人としてではなく、哀れな女だと思ってもらいたいのです。どうか屋敷の外で、ふたりきりでお話を聞いてくれませんか?」

 僕はしばらく考え込む。ふと、香我美さんの方を見た。彼女は首を振った。危険ではないかと、その目線は訴えかけている。

 しかし……。

「ええ、構いません。香我美さん、ドアを開けてください」

 僕がそう言うと、香我美さんはよろめきながら前に一歩出た。

「しかし、それはあまりにも!」

 彼女の言葉を遮るように、僕は手を突き出す。

「館の裏の、柵のあたり。そこで話を聞いています。30分経っても戻らなかったら、警官の方と一緒に来てください。お願いします」

 僕はそういって、警官を見る。彼は頷いた。今度は彼が香我美さんを見ると、香我美さんはしばらくためらって、悔しそうに息を漏らす。

「わかりました。30分後に、迎えに行きますから。絶対に、生きててください」

 ほんの少し前にも、似たような言葉を彼女に言われたな。僕はつい口元が緩んでしまった。


 夜、崖、霧、柵、僕、乾さん。

 ふたりで遠くの方を見てみるが、霧のために何も見ることができなかった。彼女の母親の死体は、どうなったのだろう。未だに霧と木々に紛れて、横たわっているのだろうか。

「私の母は、香我美さんの金物屋さんで働いていました。ご主人を除けば、唯一の従業員だったと思います。ふたりとも片親でした。仲もかなりよかったようでしたし、ふたりが再婚するのは時間の問題だと思われました。というのも、実際きちんと顔を見たのは昨日が初めてだったのですが、私よりも年下の女の子がいるのだと聞いていたからです。もちろんこれは、香我美さん――私たちのよく知る、力持ちで可憐な、あの香我美さんです。自立していない娘が近くにいては、新しい人生はスタートしにくいだろうと、私も母も考えておりました。それが、数年前のことです。

 しかし、状況が変わりました。江藤さんがこの街にやって来たのです。彼はたくさんのセラミック製品をもたらし、村人の負担はかなり減りました。それと同時に、香我美さんの金物屋さんの収益も激減したのです。給与も出せなくなってきた。それゆえに、香我美さんは母を解雇したのです。自分では、彼女を幸せにすることができないと考えたのでしょう。

 しかし母は、金などなくていいから、貧乏でもいいから、あなたと一緒にいたいという想いだったのです。ふたりは、愛し合っていたのだと思います。ですがそれゆえに、すれ違ってしまった。ふたりの愛の形とその向きは、肝心なところで交わらなかったのでした。

 江藤さんが、自分のせいで破滅した金物屋とその娘を館で働かせると決めたとき、香我美さんは母に何も知らせませんでした。働き口がなければ、村に住む高齢の方々のように、自給自足の生活をするほかない。私の母は既にこの村を去っただろうと、香我美さんは考えたのだと思います。いないはずの人間に、どうして連絡が取れようか、と。

 ですが母は、彼を待ち続けていたのです。そんな母からすれば、香我美さんが娘を連れて山頂の館に住み込んだことは、自分を棄てたも同然だったのです。母は徐々に、弱っていきました。既に村の外で暮らしていた私は、母から事情を聞いて、数年前に一度帰ってきていましたが、そのときはまだ、母はそこまで狂っていませんでした。

 けれどしばらくしてから、母がまた連絡してきたのです。この頃自分が制御できず、暴れたり叫んだりしてしまうのだと。これはまずいと思い、私はすぐに帰ってきました。なるほどたしかに、母の変貌はすさまじいものでした。本人に自覚がある分、自己嫌悪も強く、見る見るうちに母は弱り、狂っていきました。

 そしてついに、母が誰かに向けての脅迫状を書き、山を上っていくのに気づいたのです。そうなってしまってからの母は力も強く、死にもの狂いに走るので、私は彼女を捕まえることができませんでした。家を出る前に押さえつけようとしても振り払われ、どうしようもありません。

 そんな生活がしばらく続いて、私は江藤さんに招かれたのです。私は最初、母は江藤さんに向けて脅迫状を書いているのだと思っていました。彼が来なければ、香我美さんと母は、引き離されることはなかったのだと。けれどだんだんと、母の怒りや悲しみの矛先は、香我美さんに向けられているのではないかと思いました。母の頭の中には、会わなくなってからもずっと彼が住んでいて、自分の一部になっているのです。そしてその一部分が、ときおり発狂する形で顔を出すのはないかと、私は考えるようになりました。

 ええ、これはあえて黙っていたことですが、私はあの脅迫状が、館で働いているだろう香我美さん――金物屋の元・主人の方に宛てられたものだと考えているのです。実際は昨日のお話にあったように、彼は娘からの愛情のために、休暇を得ていたわけですけども。そんなことは知らないまま、母は屋敷に手紙を置き続けたのでした。危険な山道を、狂ったように走りながら。

 そしてこれは……あなたに嫌われてしまうから、言いたくなかったことなのですが、実は私は、パーティに乗じて金物屋の主人を殺してしまおうと考えていたのです。そうすれば母は解放されるのではないかと、短絡的に考えていたのでした。そして私は、彼を殺したのが私だとバレないよう、準備をしておく必要があったのです。有名な推理小説家たちがいくつかの物語で記したように、心理学的な知見を利用した調査や聞き込みへの対策を訓練していたのです。それが、私の持ってきていたミステリー小説なのです。あれは私にとって、教科書でした。空想上ではありますが、尋問をくぐり抜ける犯罪者たちを、参考にしてみたのです。

 しかし、いざ招待されてみると、私はショックを受けたのでした。もうおわかりでしょうが、母を狂わせている原因――父親の方の香我美さんは、休暇のため屋敷にいなかったのです。私は母を預けてまで、いったい何のためにこんな山の上まで来たのだろうと。そして困ったことに、自分が脅迫されていると思い込んでいる江藤さんが、探偵を呼んだというではありませんか。私は彼が――氷堂さんが、私の母のことに気づかないことを祈り続けていました。

 そして何より――こんなことを言っても、信用してもらえないと思いますが、私は河童場さんとの交流を、心地よく感じ始めていたのです。訓練のために持ち込んだ小説も、あなたとの会話のタネになりました。ええ、これは本当のことなのですが、私は復讐のことなど、忘れてしまっていたのでした。

 ですが、彼がそうさせてくれなかった。氷堂さんはどういうわけか、私の母の秘密に気づいていたのでした。もちろん手紙の宛て先が、江藤さんではなくその召使いの男性であることにも。たしか、今日の朝7時頃です。彼は私の部屋に来て、すべてを知っていると告げたのです。これは、脅しでした。

 氷堂さんは、探偵です。よくある小説の探偵のように、事件そのものが報酬だ、なんてことは考えず、自分の推理や洞察力が、彼の人生を支えるだけの報酬になることを望んでいました。そしてその額は、大きければ大きい方がいいのです。

 そうなってくると、依頼者と犯人との間に裁判を起こさせ、高額な慰謝料の一部を見返りとして受け取ることが、彼の一番の狙いなのでした。逆を言うと、彼が避けるべきは、脅迫状に関するゴタゴタが穏便に解決してしまうことだったのです。既にお話していますが、これは私の母と、金物屋のご主人とのすれ違いを発端としています。脅されているのはあなたではなかったようです、というようなことを江藤さんに報告しても、氷堂さんの得る報酬は大したことないのです。より多くの報酬を得るためには、真実を明らかにするのではなく、江藤さんを脅迫状の被害者のままにして、私の母から江藤さんにたくさんのお金が渡るように事を運ぶ必要がありました。裁判で得た金銭の何割かは、自分にも功があるではないか、と。

 しかし既にお話していますように、母には職も収入もなく、慰謝料など払うことができないのは明らかでした。ですから氷堂さんは、次のようなことを提案したのです。私の母と脅迫状の関係性について、江藤さんに何も言わない代わりに、本来であれば発生したであろう氷堂さんへの莫大な報酬を、私が肩代わりするのはどうか。そして金を渡したらすぐ村から去るように、とも。母の罪を認めて慰謝料を発生させるか、私自身で金を払って解決させるか。すぐに決心しなければ、昼までに真実を江藤さんに報告する。決断できたら部屋に来いと、彼は言い残して私の部屋を去ったのでした。

 母の名誉のためには、私が氷堂さんに口止め料を払った方がいいのですが、私の貯蓄で母は生活していますから、どっちを選んでも私たちは破滅するほかなかったのです。私は覚悟を決めました。香我美さんのお父さんを殺すつもりでここに来たが、私は母を守るために、あの探偵を殺さなければならない、と。

 凶器だけは、ここで調達しようと考えていました。持ち込んだ場合よりも、被疑者の範囲が広まるからです。指紋を残さないように手袋をつけて、私は厨房に忍び込んだのです。ちょうど、例のナイフが昨晩よりも刀身が薄くなっている――つまり、何かしらの事情によって研磨されたことに気づきましたので、それを持ち出し、背中に隠して、氷堂さんの部屋に入るとすぐ、彼の脇腹めがけてナイフを刺したのです。ひどく、あっけないものでした。鋭い洞察眼を持った探偵も、刃物に刺されては瞳を開けてはいられなかったのです。

 しかし彼が、叫ぶことはできずとも、何かメッセージを残そうとしていることに気づきました。私は阻止しようと考えましたが、踏み止まりました。残されたメッセージを誤読すれば、罪を誰かに擦りつけられるのではないかと考えたのです。彼が文字を残し息絶えると、私はすぐにメッセージの解読にかかりました。私はあれを、河童場さんが読み解いたようには――私のことを指しているようには読めなかったのです。ですがかろうじて、『エトウカ』と読めないこともないと気づくと、ナイフをそのまま部屋に残し、そっと部屋を出ました。タイミングよく、誰の姿もありませんでした。

 部屋に戻り手袋を外しますと、これは何かしらのタイミングで破棄しなければと考えました。私はそれを下着の中にしまいこんで、機会を待ちました。建物の中で電話が通じないことを聞いていたので、誰かが氷堂さんの死に気づいた際に連絡係を名乗り出て、一度館の外に出ようと閃いたのです。電話をするフリをして、手袋を山の下に投げ捨てよう、と。そして安全に、誰にも見られることなく、手袋を外に捨てることができたのです。もしかしたら村の方で見つかっているかもしれませんが、誰もそれが、山頂での殺人に用いられたものだとは思わないでしょう。

 次に私は、誰かにメッセージを誤読してもらう必要がありました。あまりにもすらすらと、私が『エトウカ』だと推理するのは問題でしょう。できるだけ、ふたりで苦心して解読しようと思ったのです。まさか犯人が、ダイイングメッセージの解読を試みようとは、誰も考えないでしょうから。解読への意識と、誤った読み取りによって、私は犯人候補から外れようと思ったのです。

 しかし河童場さんは、私の『ウカ』の気づきを耳にしつつも、THを『エト』と読むことまでは辿り着きませんでした。一度に読み解く必要はないと思い、私は解読するフリを中断しました。けれど心のどこかでは、私はあなたが、正しい読み方に行き着いてくれることを望んでいたのだと思います。見知らぬ警官に名指しされるよりも、あなたになら、罪を告白してもいい。そう考えるようになっていたのです。罪の意識がそうさせたのか、河童場さんへの想いがそうさせたのかは、わかりません。

 そして私はそのあと、母が死んだことを知りました。そして何となく、氷堂さんは彼女の死を知った上で、私を騙そうとしていたのだと気づいたのです。死人である母を告発することはできない。彼がより多くの報酬を得るためには、私が母の死を知らないうちに、口止め料を払わせるほかなかったのです。そして私は、絶望しました。母が死んでしまったことはもちろんですが、私は氷堂さんを殺す必要なんてなかったのではないかと。罪悪感に震えました。

 けれどついに、あなたは私を解放してくれました。話を聞いてくれました。母ももういません。あとは裁きを待つばかりです。あなたを突き落として逃げることもできるでしょうが、私はそれをしたくないのです。私のことを、ひどい女としてではなく、かわいそうな女として知ってくれたあなたにだけは、生きていて欲しいのですから。

 でも……。もし、もうひとつだけ私の願いを聞いてくださるのなら、どうか香我美さんたちが来るまで、私を抱きしめ、慰め、励ましてくれないでしょうか」


 彼女はそう言ったが、僕は彼女に殺されてもいいと思っていた。それで彼女が裁きから逃れられるのであれば、喜んでこの身を捧げようと。

 何の疑いもなく、彼女を抱きとめる。隠し持っていたナイフでブスリ、ということはない。呼吸で上下する肩と、鼓動で前後する胸。その温もりを、服越しに確かめ合っていた。言葉は何もない。ただしばらくの間、霧の国にふたりしか住んでいないかのように、彼女のことを考えていた。

 この事件において、一番の悪は誰だったのだろうか。悲劇はどこから始まったと考えるべきなのだろう。

 氷堂さんを刺した乾さん。自身の報酬のため、真実を隠して乾さんを脅した氷堂さん。自分の父のせいで病気になった女性の娘に同情し、館に招くきっかけをつくった香我美さん。脅迫状を送った乾さんの母親。彼女の脱走と死を食い止められなかった使用人の女性。すれ違いとはいえ、ひとりの女性を狂気に陥れた香我美さんの父親。償いのために人を雇ったことで、ある男女を引き裂いた江藤さんか。

 銃なんて物騒なものを持っている坂崎さんだけが、この悲劇とは無縁であるように思える。

 そして今回のことは、単純な殺意や、突発的な狂気による犯行ではない。少しずつ歯車が軋み出して――まるで爆弾ゲームのように、乾母子のところで悲劇が起きたのだ。いったいどうして、乾さんだけが完全な悪だと言えるだろうか。むしろそこにあるのは、愛情や思いやりの連鎖であり、かえって被害者である氷堂さんの方が、悪意の塊のように思えてしまうのである。もちろん、だからといって殺人が正当化されるわけではないけれども。

 心優しきシングルマザーとシングルファザーは、雇用関係を越えた愛情で結びついてはいたけれど、結ばれることなく、離れ離れになってしまった。女の方は、相手への想いの表裏をなす憎しみを手紙に書きつけ、ついにその途上で命を落とす。そして男の方は、娘に愛された故に今はこの村におらず、愛した女性が死んでしまったことなど、知りもしないので休暇を満喫しているのだ。

 そして乾さんは――もし檻の中で、自身の罪に対する責務を十分に果たしたとしても、誰も迎えてくれる人はいない。母を守ろうとひとりで悩み、ひとりの探偵を殺した女性は、ひとりきりの母を失って、本当に、ひとりで生きていかなければならないのだ。

 いや、ひとりじゃない。僕がいる。僕だけは、彼女を愛してしまっていた。出会ってからほんの2日しか経っていないが、気まぐれで訪れた館で、これだけの大きな感情を抱いたのだとすれば、それはかなり特別で、まさに運命的というべきものであろう。彼女の方が、どう考えているかはわからないけれど。

 罪を償った彼女を、迎えに行こう。それがいつになるかは、わからなくとも。

 霧の向こうに、人影がふたつ見えた。30分は、ひどく短い。僕は霧の奥のふたりから目を背け、乾さんの綺麗な髪をいとおしく見下ろす。

 必ず会いに行くとは、恥ずかしくて言えない。だけどそれが伝わるように――償いの先に、誰かが待っていることを期待させるために、僕は彼女の髪を撫でた。

 霧のために、髪は濡れている。




(おわり)























 さて、実はひとつだけ、明らかにしていないことがある。屋敷の周りを、刀を持ってうろついている人物がいるということだった。順当に考えれば、これは脅迫状を書いていた乾さんの母親なのだが、彼女の遺体の周囲にはそんなものは見当たらず、家の方にも最初から刀はない。では、人影の正体は何だったのか。

 氷堂さんが死に、乾さんが連行され、僕の滞在、3日目の早朝。僕は銃を持った坂崎さんを連れて、屋敷の外に出てみた。ドアを開けてくれた香我美さんにも、そのまま外であるものを回収しに行ってもらう。

「どうしたんだい、河童場くん?」

 坂崎さんは銃を大事そうに抱えて、僕に尋ねた。

「このあたりで、大きな猪のような影を見たというお話を聞かせてくれましたね。僕も見たんです。たぶん、坂崎さんが見たものと同じじゃないかな、と」

 彼は目を見開いて、きょろきょろとあたりを見回す。激しく動くため、銃身が僕の体に当たりそうになる。さりげなくそれをかわすと、僕は坂崎さんに念を押した。

「そのうち、それが見えると思います。ですが決して、見つけたとしても銃を向けないでください。あれは、撃ってはならないものです」

 彼は僕の言葉にしばらく驚いてからこくりと頷く。しばらく、沈黙が続いた。霧はひどく濃い。

 そして坂崎さんが驚きの声を小さく漏らすと、僕は彼の視線の先に顔を向けた。足が生えている、何かの塊。影の大きさはなかなか変わらない。移動速度が、それだけ遅いのだ。

「あれは、私たちに危害を加えることはないのかい?」

「ええ、間違いありません」

 少しずつ、影の輪郭がハッキリしてくる。足の生えた塊というよりは、足の生えた何かが塊を背負っているように見えた。影はやや上下する。重い塊と体の、バランスを取るように。

 ついに霧のもやから、それが現れた。

「さて、どうですか坂崎さん。猪だと思っていた生き物の正体を知って」

「猪とは、心外ですね」

 岩を背負った香我美さん。鍛錬として、自らに課している日課だ。

「これは、驚いたな……」

 驚くのは、まだ早い。

「香我美さんには、霧の中の坂崎さんが、どのように見えましたか?」

 坂崎さんは、自分の名前が出てくるとは思っていなかったように僕たちを見比べた。

「ええ、河童場様の仰った通りでした。まるで、刀か何かを、振り回しているようで……」

 物騒な言葉に、坂崎さんは反論する。

「刀だなんて、そんなまさか! これはただの猟銃ですよ!」

 ただの猟銃も、相当おっかないような気がしないでもないけれど。

「この霧の中では、銃を持ってきょろきょろしている坂崎さんは、長い何かを持っているというように見えてしまうのです。大きな猪だと思ったら、岩を背負った女性だったのと同じように。

 さて、江藤さんのところに脅迫状が届き、香我美さんは鍛錬をはじめました。何かあったとき、彼を守れるだけの力をつけておく必要があったからです。そして彼女は、霧の中では何かの獣のように見える。

 どこかでこの村の話を聞いていた坂崎さんは、趣味の猟のために葉山原村を訪れるようになりました。一般的なサイズの猪を撃つなどして、満喫していたわけです。しかしある日、あなたは恐ろしいサイズの獣を霧の中で見るようになりました。あなたはそれを撃つことができないとわかっていながら、その不思議な魅力に取りつかれ、山の中銃を持ってひどくきょろきょろするのです。

 さあ、脅迫状を受け取り続け、自身の死の恐怖に脅えている江藤さんが、霧の向こうに坂崎さんの姿を見たら、いったいどう思うでしょうか。ああ、ついに自分を殺しに来たのだと、考えるようになるでしょう。何か細長いものを持っている。刀かもしれない、ああ、恐ろしい、と。坂崎さんが猟のために訪れているのは知っているはずなのに、彼はそれを坂崎さんの好奇心とは結びつけず、何者かによる殺意だと読み取ってしまったわけです」

 そして江藤さんは、解決のために探偵を呼んだ。そしてその探偵は、干支を示すダイイングメッセージを残して、殺された。

 坂崎さんは、どんな顔をしたらいいのかわからない様子である。香我美さんも、複雑そうな顔をしていた。

 もちろん、すべての元凶として坂崎さんを責めることなどできるはずもない。彼が担ったのは、悲劇につながる偶然の、ほんのひとつなのである。彼を責めるよりは、氷堂さんを責めた方が理に適っているはずだ。

 しかしまあ。

 今回の事件で、本当に何も関係していないのは、僕だけなのだなと安心する。いうなれば、無垢な存在だ。いや、僕は自身を無垢だなんて感じたことはないので、あくまでも例えではあるのだけれど。

 僕だけが、真っ白だ。だから彼女が、どれだけ黒く染まって帰ってきても、どれだけ世間から真っ黒だと指差されても、僕は彼女を再び、抱きしめることができるだろう。そのときにはいくらか、歳を取ってしまっているに違いないけれど。



(愛する人が罪を償い、この腕に戻ってくるまで、僕の孤独な人生は続く)

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TH1112 柿尊慈 @kaki_sonji

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