TH1112(転)

 乾さんの母親なら、さぞ美人であったことだろう。過去形であるのは、その亡骸の表情が僕たちを困惑させるほど、ひどく憎悪の色に染まっていたからだ。

 山を下りて、愛すべき住人たちの住む村に差しかかったところ。そこからしばらく、山のふもとを回るように辿ると、そこにはうつ伏せになって横たわる死体。一目見て、それが自分の母であったことを悟ったのか、乾さんはうろたえること暇もなく崩れ落ちた。僕の脚に、彼女の手がすがりつく。僕は彼女に寄り添うようにしゃがみこむと、どうすればいいのかと迷ったが、乾さんの方から僕の腕にしがみついて、右腕に顔をうずめて嗚咽を漏らす。

「登る途中か下りる途中かはわかりませんが、転落したのだと思われます」

 背の高い好青年――とはいっても、警官なのだが――が、そのようなことをぼそりと口にした。その表情は、死体を見るのがつらいといった様子で、彼のやや後ろに立つ、世話を引き受けていた使用人の女性は、その何倍も苦しんでいるのが見て取れる。自分が目を離さなければ、こうならなかったはずだ。自分のせいじゃないかと、自らへの怒りを閉じ込めるように、かたく目をつむって震えている。

 乾さんの母親は、山の斜面に沿うような形で倒れており、顔は横を向いていたため、その顔に驚きと憎しみ、そして怒りが交ざっていることが明らかだった。

 そして何より――僕の関心は、彼女の手元に向いている。薄紫の着物は乱れ、袖もめくれ上がっていたが、そこから覗く、白というよりは灰色の、不健康な細い腕の先には、紙のようなものが握り締められていた。

「あの紙を、確認させていただいても?」

 しゃがんだまま警官に話しかけると、彼は頷いてから部下を呼び寄せる。その部下はビニール製の手袋の箱を持ってくると、僕の方へ差し出す。

「一応、指紋に配慮していただければ」

 最初の警官の言葉に、僕は頷く。僕はそこから2枚を取って自分の手にはめると、使用人さんを見つめた。彼女と目が合ってから、隣でうずくまる乾さんに一度視線をずらす。僕の意図するところを察した使用人さんは、僕の代わりに乾さんを支えた。入れ替わるように立ち上がった僕は、母親の死体の手元から紙を引き出してから、内容を確認するべく広げる。

 殴り書きの文字。許さないだとか、殺してやるだとか、そういったもの。文字は縦か横に真っ直ぐ続けて書くのだという基本的原則から大きく外れた、無秩序な恨み言の配置。

 これは、江藤氏の元に送りつけられたという、脅迫状じゃないのか?

 そして、その脅迫状らしき紙には奇妙な点がひとつあったのだが、僕はそれについての推理を後回しにして、警官を見上げて質問した。

「僕たちは、山頂近くの江藤さんの館に滞在している者です。12時を少し過ぎた頃、僕たちは警察の方々に電話をしたんですが、あなた方はその道中で、この案件に出くわしたのですか?」

 警官はきょとんとして、悪気なさそうに答える。

「12時頃、ですか。いえ、私たちはこちらの女性からの連絡を受けて、駆けつけた次第です。連絡を受けたのは、およそ30分前。16時頃じゃないでしょうか」

「……僕たちの、通報については?」

 苛立ちながら、僕はさらに尋ねた。

「いえ、特に何も聞いていませんが……」

「何も聞いていない!? 人が死んでるんですよ!?」

 僕はつい、声を荒げる。警官と使用人の女性がびくりとした。乾さんは、まだ悲しみの淵から這い出てきていないようである。

 気まずさから僕が黙り込むと、ただごとではないことを悟った警官は、神妙な面持ちで言った。

「館で、何が起きたのかを教えていただけますか?」

 推理の一つひとつは省略して、僕は経緯を説明する。使用人の女性は、自分が勤めている館の方でも死者が出たことに、ひどくうろたえていた。事情を知った警官は、考え込むように顎に手を当てる。

「何かの手違いで、山のさらに上の館に行くことはできなかったようですね。申し訳ありません。さぞ不安でしょうが、応援の者がこちらに着いたら、私たちもその江藤さんの館へ参りますので、少々お待ちください」

「はい、ありがとうございます」

 通報を受けても来なかったという対応にやや納得はいかなかったが、僕は渋々返事をする。急いだところで氷堂さんが生き返るわけじゃない。真面目そうな男性だし、真摯に対応してくれることだろう。

 だが、乾さんを連れて戻る前に、ひとつ確認しておきたいことがある。僕は深刻そうな顔をしている警官に、もうひとつ質問をぶつけた。

「近くに、棒状の凶器のようなものが転がっていませんでしたか? そうですね、亡くなられた女性の指紋などが検出されれば、なおのこといいのですが……」

 警官は首を振る。そういったものは、見つかっていないらしい。

 闇を晴らすつもりが、謎がひとつ増えてしまった。


 チャイムを鳴らす。しばらくしてから、香我美さんがドアを開けてくれた。彼女は僕の腕にもたれる乾さんを見て、彼女の苦しみの何割かを引き受けたような苦い顔をする。イスに座って猟銃のメンテナンスをしていた坂崎さんも同様であった。

「少し、休ませた方がよさそうです。場合によっては、夕食も取れないかもしれません」

 僕はそう言うと、香我美さんはこくりと頷いて、彼女を部屋まで運ぶ役を引き継いでくれる。こんな状況とはいえ、さすがに女性を部屋で寝かせる役は、僕に適していない。

 僕は香我美さんに用があったので、彼女を待つ間、坂崎さんの向かいに座って、彼にも少し質問しようとした。

 僕が座るのとほぼ同時に、彼がぽそりと呟く。

「この屋敷の周りで、何度かえらい大きな獲物を見かけたことがあるんだ」

 突然の言葉に、僕はしばらく返答に悩む。

「猪、でしょうか?」

「たぶん、ね。霧の中の影でしか見たことがないんだ。仕留めたくてうずうずしていたんだけど、これがもし絶滅危惧種か何かだったら、僕は社会的にひどいバッシングを受けるだろうからね。銃を向けることはなかったよ。人が通れないような傾斜に吸い込まれていくのを何度も見ているから、下手に追いかければ僕は崖から落ちて、彼らのエサになってしまうだろうし」

 彼は言葉を止め、目を瞑り眉をひそめる。

「そこまでの獲物でなくとも、ごちそうを5人で――いや、香我美さんも交えた6人で、食べたかったんだけどね。ひとり減ってしまった。彼はとても、いい人だったんだが……」

 誰のことを言っているのかは、明らかだった。

 いい人であったのは間違いないが、やや疑り深く鋭い性格のために誤解されたであろう氷堂さん。少し言葉を交わしただけでは、決して「いい人」という評価はできないであろう彼に対して、肯定的に捉えている坂崎さん。懐の大きさ、性格の良さが窺える。その穏やかさに似つかない物騒な猟銃に向けられた、我が子をめでるような視線が、いささか不思議ではあるが。

「何か――印象的だった氷堂さんとの会話とかありますか?」

 坂崎さんが、不思議そうな目で僕を見た。

「たとえば僕の場合、ニックネームを聞いてきたり、河童と猿は仲良くできるのかなんて話をしたりしたんですけど……」

「サル?」

「氷堂さんが、申年だったそうで。亥年の人と相性が良くないから、このあたりに出るという猪にも注意しないととか、何とか」

 僕がそういうと、坂崎さんはハッとして前のめりになる。

「そういえば私も、名前のことを聞かれたよ。あとは、銃のことも聞かれたね。いや、いかんせん彼は探偵だったろう? 質問されると、何だか悪いことをやってしまったのではないかという気分になってね」

「ええ、わかります。彼としては、世間話以外の意図はなかったんでしょうけれども……」

 ふたりでふふっと笑うと、しばらく言葉に悩んで黙り込んでしまう。まだ、香我美さんは下りてこなかった。

「いや、もしかすると……」

 坂崎さんの言葉に、僕は気まずさから伏せていた顔を上げる。

「彼のあの質問は、何か意図があったのかもしれないよ」

「はい?」

 坂崎さんはしばらく、いい例えがないものかと悩む様子を見せた。

「もしここで私が、上半身裸で毛むくじゃらの大男……。そうだね、インパクトのために、女性用のスカートを履かせようか。まあ、そんな変質者に突然ナイフで刺されて、今にも死にそうだという状況になったとする」

 あまり、考えたくない状況だな。

「で、そうなると私は、犯人の手がかりをダイイングメッセージで残したいと思うんだけど、私はその男の名前も職業も知らない。だから血文字も、上半身裸で毛むくじゃらのスカートを履いた男、としか書けないんだ。さて、河童場くん。はたして僕はそれだけの文字を、残された時間と、限られた血で書き切ることができるだろうか?」

 僕は首を振る。もし「上半身」まで書けたとしても、「裸」の画数の多さに怒り狂いながら事切れるだろう。

「でも、これがもし知っている相手だったならば、特徴そのままを記すのではない形で、最期に残すことが可能になるかもしれない。暗号とか、イラストとか、そういうのでさ」

「もし僕が坂崎さんに刺されたら、銃の絵を描くかもしれませんね」

 坂崎さんは頷いた。

「彼は探偵で、脅迫状の送られている館に来たんだ。おそらく、自分の命が安全でないことにも気づいていただろう。だから彼なりに、もしあの人に殺されたら、こういう記号を残しておこう、なんてことを考えていたのかもしれない」

「それはつまり、逆を言えば……」

 僕が理解を示したことに、坂崎さんは少し嬉しそうな表情を浮かべ、しかし真面目な声で、次のようなことを続けた。

「私には読めないけど、あの残されたメッセージが、誰かのことを差していることは確かなんだ。つまり、それが私たちの知っている人かはさておき、少なくとも彼だけは、犯人と面識があったんだと思う。そうでなければ、死の淵に立たされている状況で、あんな暗号は残せない。私は死にかけたことはないけれど、刺されて致命傷を受けている状況で、複雑な記号なんか思いつかないんじゃないかな。彼はあらかじめ決めておいた暗号を、最後の力を振り絞って書いたということになる。つまり犯人は、彼の知り合いだということだ」

 それは私かもしれないし、河童場くんかもしれないけどね。坂崎さんはそうつけ加えて、悲しそうに笑った。


 これから必要になるだろうものを回収してから、僕は周囲に人がいないことを確認して、キッチンに入った香我美さんに声をかける。

「もうすぐ、警察の方が来ると思います。もしそのときは、氷堂さんの部屋を調べてもらってください。僕たちじゃ考えつかないような可能性を、提示してくれるかもしれない」

 こくりと頷いた香我美さんは、僕が脇に抱えているものに気づいて目を見開く。

「河童場様、それは――」

「これは、氷堂さんの手帳だ」

 説明を求めるように、香我美さんは視線を送る。僕はそれに答えた。

「この手帳からは、おそらくは氷堂さんが調査で得たことについてメモされていたであろうページが、乱暴に剥がされているんです。もちろん、それは犯人によるものでしょう。何かに気づいた氷堂さんはナイフで刺され、都合の悪いページは回収された。つまり僕は、氷堂さんは口封じのような目的で、殺されてしまったんだと考えています。恨みから来るものでは、なかったんじゃないでしょうか。彼が葉山原村を訪れたのが初めてだとすれば、誰かに殺人を計画させるほどの憎しみを、この短期間で形成すること可能性は低いでしょう」

 まだ彼女は、納得していないようだ。

「なぜ、わざわざそれを?」

 僕は目を瞑る。

「該当のページを破いたとしても、きっと犯人にとってこの手帳は厄介なものだと思われます。たしかに氷堂は死んだはずだが、あの男はその手帖を持っている。氷堂から何かを託されたのかもしれない、とも考えるでしょう。実際、彼はいまだ解読できないメッセージ以外、何も残していないのですが……。つまり犯人が僕を見れば、消しくることはほぼ間違いありません。僕は自らを囮として、犯人を暴いてやろうと考えているのですよ」

 香我美さんは一瞬何かを叫びそうになったが、かろうじてそれを飲み込んでくれた。苦虫を噛み潰したような顔をしばらく続けてから、小さな声で、ひとりごとのように呟く。

「危険すぎます」

 そりゃそうだ。意気込んではいるものの、死角から襲撃を受ければ、僕は相手の正体を見抜くことなく死んでしまう。犬死もいいところだ。

「だけど、これ以上みなさんを危険に晒すわけにはいきませんから」

 みなさん、という言葉を使ったが、僕の脳裏に浮かんでいるのは、母親の死のショックで寝込んでいるであろう乾さんの姿だった。

「氷堂さんは村で聞き込みをして殺された。何か重要なことを知っている誰かが、あの村にいるということです。僕はこれから、彼と同じように山を少し下りて村に向かいます。香我美さん、ドアを開けてください」

 香我美さんはしばらく目を瞑ったままでいたが、僕の覚悟を汲み取ってくれたのか、重たい足取りでキッチンを出る。僕はそれについていく。

 不思議そうにしている坂崎さんを尻目に、僕は香我美さんの開けてくれたドアから屋敷の外に出る。彼女も、外に出た。

「どれくらいで、お戻りになられますか?」

「おそらくは、1時間ほどで」

 外はもう暗くなっている。18時を少し回ったくらいだろうか。村にはほとんど人がいないだろう。家の一つひとつを、訪問する必要があるかもしれない。

「私は、このあたりで鍛錬をしています。いつ河童場様が戻ってきても、わかるように。必ず、生きて帰ってきてください」

 僕は強く頷く。香我美さんは泣きそうな表情を浮かべて、それを隠すように霧の向こうへ消えていった。

 生きて帰ってこいだなんて、まさか人生で言われることになろうとは。僕は氷堂さんがどこかで見守ってくれていることを信じて、周囲に気を配りながら山を下りて行く。


 氷堂さんが誰に聞き込みをしたのかはわからないが、それとは別に、僕にはひとり、話を聞いてみたい人物がいた。

 山を下りて、村が見えてくる。誰もいない。少しあたりを周ってみると、まだ乾さんの母親の遺体が転がっていた。その周囲には、警官が何人かいる。僕はそこに近づいていく。おそらくは入れ違いになったのだろう。先ほど言葉を交わした男性はそこにはおらず、代わりに別の男性が立っていた。

「すみません。第一発見者の女性は、今どちらに?」

 男性はしばらく僕を舐めまわすように観察してから、問題なさそうだと判断したように息を吐いて、点在している建物のひとつを差す。

「ありがとうございます」

 僕は警官にお辞儀をしてから、示された建物に近づいていった。わらぶき屋根の、いかにも田舎の家屋。さて、どこからコンタクトを取ったものかと周囲をうろついていると、中にいた使用人さんとたまたま目が合って、彼女はこそこそと歩きながら外に出てくれる。

「……どうかしましたか?」

「少し、お話を聞きたくて。乾さんの――ええと、母親の方です。彼女について、いくつか」

 使用人さんは、僕を家に入れてくれた。とはいっても、ここは乾さんの実家であるため、彼女の家ではないのだが。

 玄関でも十分だろうと思い、僕は立ったまま話を聞こうとする。こんな形で、気になる女性の実家に上がりこみたくはなかった。

「何から、お話したら――」

 使用人さんは言いかけて、僕の持っている手帳に目を向ける。僕はそれを逃さない。

「これに、見覚えでも?」

「え、ええ。今朝、それと同じものを持った男性が、同じように私を尋ねてきましたので……」

 屋敷の方で殺されたのは、彼なんですよ。なんてことは言わない。混乱させるだけだ。

 しかし、一石二鳥となりうるかもしれない。僕は単純に、乾さんの母親の情報が知りたかったのだが、もしかすると、ここで氷堂さんが知った何かに、僕も行きつくことができるのだから。

「では、彼に話をしてくれたことをそのままと、乾さんの遺体を発見する少し前のこととを、順にお話してくれれば」

 使用人さんは頷いて、少し肩を震わせながら話し始めた。


「まず、私が彼女のお世話をする経緯から……。これについては、江藤様から既に聞いているかもしれませんが。

 娘さんは数年前に一度帰ってきていたようですが、ここで暮らすようになったのはつい最近のことです。というのも、その少し前から、乾様は――母親の方ですが、乾様はときおり気が狂ったように叫び出したり、近辺を徘徊したりするようになったようです。

 とはいっても、常にそういう状態だというわけではなくて、まるで二重人格のように豹変するのでした。普段は、以前の評判通りの、薄幸美人といったフレーズの似合う素敵な女性なのです。何かの心労のためか、美しかった黒髪は真っ白になってしまいましたけれども、それはそれでまた、何か艶かしく妖艶な――魔女のような印象を抱かせるのでありました。

 本人もその豹変を自覚していて、おそらくは落ち着いている時間に、娘さんと連絡を取ったのだろうと思います。娘さんが数年ぶりに帰ってみれば、いつもと変わらぬ母親と、ケモノのように怒り狂う母親、まるでそのふたりとの3人暮らしをしているような気分になったのでしょう。村の人たちは本来の乾様の美しさや優しさを知っていますから、乾様をそう悪くは思えず、同時に娘さんのことを大変気にかけていたといいます。

 さて、私のようなものでさえも、この村と館を行き来するのは相当骨が折れる次第でして、それは江藤様にとっても、このあたりに住んでいるみなさまにとっても同様です。そんな中で、いったいどうして江藤様が、かわいそうな母子のことを知ったのかといいますと、既に奉仕をさせているでしょうが、若く健康的な香我美が、一役買ったのでした。

 館と村、そして村の外とを自由に行き来できるのは、香我美ただひとりといっていい状況です。私を含めた江藤様の召使いはみな、住み込みで働いておりますので、館から出ることはほとんどありません。買い出しなどで外とやりとりするのは、香我美の仕事なのです。そして、江藤様が村の様子を知れるのも、村の住人から話を聞いた香我美が、江藤様に知らせるからなのでした。

 そういうわけで、香我美が村の人から聞いた話を、そのまま江藤様に伝えると、人を広く愛することのできる江藤様は、私を村に送ることにしたのです。それが決まったのが、数週間前でしょうか。江藤様が寂しさを紛らし、疲れ切った娘さんが少しでも安らげるよう、パーティが開かれることになりまして、その間は使いの者も全員休暇をいただくことになりました。私には、ここで乾様のお世話をするという任務が与えられていましたから、他のものよりも先に、同じだけの休暇をいただいていたのです。

 他の召使いと入れ替わるように、私はこの葉山原村に戻ってきまして、ここで乾様と共に生活するようになりました。話に聞いていた以上に、荒れているときの彼女はひどく凶暴で、私は自分の命の危機を感じることも多々ありました。ですが、本来の彼女とやりとりをしていると職務を放棄するような気になれず、どうにかして彼女が癒されるようにと、むしろ奉仕のモチベーションが向上したほどです。

 ですが私は、ある日彼女の秘密を知ってしまったのでした。彼女が荒れているとき――その中でも、特にひどいときは、むしろ周囲のものや人に当たるようなことはせず、ぶつぶつと何かを呟きながら、手紙を記しているのでした。これは、彼女の寝室の隣の部屋で眠っている私が、声を耳にして隣を覗いたときに見えたものなのです。一見すると落ち着いて見えるのですが、そのときの目の血走りなどを考えると、これはやはり狂気の延長なのだということがわかるのです。そして、彼女がそういった状態になるのは真夜中であることが多く、その手紙を持って、どこかに出かけてしまうのです。用が済めば帰ってきて、死んだように眠るのです。そして目が覚めると、手紙を書いていたことは覚えていないのでした。彼女は自身の発狂の記憶を持っていて、それゆえに自己嫌悪なさることが多かったのですが、手紙を書かせるまでに怒り狂ってしまうと、記憶の欠如が見られるのです。

 そして私はまた別の日に、同じような状況に出くわしまして、今度はもう少し集中して壁に耳を押し当てると、その言葉の一つひとつに、デジャヴのようなものを感じるのでした。もちろん、彼女のそれを聞いたのは2度目でしたが、それよりも前に、そういった言葉を目にしていた気がするのです。ここで耳にしたというのではなく、目にしていたといったのは、言葉を使い間違えたのではなく、まさに見ていたからなのでした。おそらく、江藤様からもお話があったでしょう。屋敷に投函されている脅迫状。あれの正体は、乾様が書いたものだったのです」


 やはり、あの手紙は脅迫状だったのだ。

「それでは、今日のこと――彼女が、山から落ちるまでの部分についても」

 僕は使用人さんに促す。

「昨晩も、乾様は手紙を書いて、館の方へ向かったのでしょう。私は、次に気づいたときには、命にかえても彼女を止めようと思っていました。ですが昨晩、私はそのことに気づけなかったのです。というのも、昨晩はひどい雨風でしたから、ここも例外なくガタガタと震えていました。普段であれば呪いの言葉に目を覚ますところ、私はその音のために、彼女の変貌に気づくことができず、深夜の外出を許してしまったのです。

 ドアを叩く音に目を覚ますと、私はついハッとしました。彼女が、雨に紛れて出てしまったのではないかと。その証拠に、隣の部屋はもぬけの殻でした。焦って玄関に出ますと、その赤い手帳を持ったひとりの男性が立っていたのです。ええ、氷堂様でした。江藤様のゲストのおひとりです。私は彼の顔は知りませんでしたが、名前だけは江藤様より聞いていたので、どうしてこんなところへと、ひどく困惑したのです。

 さて、私は乾様が脅迫状を書いていたにもかかわらず、それをすぐに江藤様へお伝えしなかったのは、ゲストの母親に脅されているということを知った江藤様の心境を考えたからというよりも、乾様のためなのでした。私は彼女を、嫌うことはできませんでした。お助けしようとさえ、思っていたのです。だから誰に何を聞かれても、彼女の奇行については何も答えまいと、心に決めていました。

 ですが情けないことに、氷堂様から様々な質問を受けているうちに、私は隠そうと思っていたことを、つい白状してしまったのです。ええ、彼は本当に探偵なのだと、そのときに感心したほどです。どれだけ意地を張っていても、彼のペースに飲まれたら最後、本当のことを話さざるをえなくなるのでした。彼は私の話をメモしますと、礼を言って出て行き、私は急いで、家の周りを探しました。

 周囲には見当たらないのがわかると、住人の方々にも聞いてみましたが、誰も彼女の消息を知らないのです。それもそのはず、彼女が飛び出していったのは豪雨の中で、その時間には狂人を除けば、誰も外に出ようなどとは思わないからです。

 もちろん、私は乾様が手紙を書いているのを見たわけでもなく、外に出る瞬間を見たわけでもないのですが、畳に筆が転がっていたことから、ああ、彼女は間違いなく脅迫状を書いて、館の方へ向かったのだと確信したのです。私は館に向かいましたが、道中で乾様に出くわすことはありませんでした。一度山を下りて家に帰ってみましたけれども、やはりいない。おかしいなと思い、館に続く山の周囲を歩いてみますと、ああ、なんてことでしょう。脅迫状を握ったまま、乾様は倒れていたのです!」

 そういって使用人さんは、乾さんの母親へ侘びるかのように、頭を床につけて泣きはじめた。僕はその小さく丸まった背中を見下ろして、いたたまれない気持ちになる。

「あと、ふたつほど。彼女は出かけるとき、刀を持っていましたか? そして、氷堂さんがここに来たとき、雨は降っていましたか?」


 山道を上りながら、僕は頭の中を整理しようと試みた。非常に、厄介な状況だ。

 単純に考えたならば、脅迫していたのは乾さんの母親で、氷堂さんを刺したのも彼だろう。これまでの考えでは、氷堂さんは探偵で、脅迫犯を突き止めるためにと呼ばれたのだから、口封じのため脅迫犯に刺された、という道筋だった。つまり、「脅迫犯=殺人犯」という推測がなされていて、先ほど「脅迫犯=乾さんの母親」という事実が明らかになったため、それらが三段論法的に、イコールになるはずだという考えである。

 さて、遺体の手に握られていた手紙は、なるほどたしかに、大雨に打たれたようなシワやシミができていて、昨晩の大雨の中、彼女が脅迫状を手にして山を上っていたことがわかる。そして、詳しい時刻はわからないが、山から転落して命を落とした。そして、乾さんの母親が氷堂さんを殺したと仮定すれば、彼女が落ちたのは6時以降でなければならない。

 しかし、乾さんの母親は江藤氏に対して殺意を向けていたはずなので、氷堂さんだけを刺し殺すというのは、奇妙な話である。江藤氏が殺害され、それを目撃した氷堂さんも巻き添えを喰ったのであれば話は別だが、江藤氏は生きていた。まさか、このふたりを間違えたということはないだろう。あまりにもシルエットが違い過ぎる。

 それに、手紙を持っていたのも謎だった。普段より脅迫状を投函していた乾さんの母親が、どういうわけか館に侵入することができたとしても、どうしてわざわざ手紙それ自体を持ったまま帰るのだろうか。人を殺すにしても、そんなものを持ったままではやりづらいだろう。それに、人が死んでいる以上、そんなものを持っているのは首を絞めるばかりだ。私が脅迫犯です、殺人犯です、といっているようなものである。

 そして、僕が警官から聞いて首を傾げたことだが、死体の周囲には細長い凶器はなかったのだ。江藤氏の話では、館の周りで刀のようなものを持った人影が目撃されていたということで、順当に考えればそれも乾さんの母親である。だが、転げ落ちた彼女の周囲には、そんなものはなかったという。なぜ、今日に限ってその凶器を持っていなかったのか。もちろん、刀だけは転がらずに、山道の途中に落ちているという可能性もある。

 しかし、そもそも刀を持っていたという仮説が、怪しくなってきたのだ。使用人さんに尋ねたところ、乾さんの母親は刀を持って行かなかった。そもそも、彼女の家に刀などないという。道中に隠していて、それを回収していたのだろうか。

 それでも、辻褄が合わない。犯行時に使われたのは装飾されたケーキナイフだ。わざわざ仰々しい装備をしておきながら、そんなもので刺そうとするだろうか。どう考えても、自前のものでやった方が確実である。

 ここらで、乾さんの母親が氷堂さんを殺したという仮定に基づいて、脳内補完をしながら事件の全貌を探ってみよう。

 まず、雨が降る。乾さんの母親は脅迫状を書いて、館に向かう。道中で凶器を回収するが、都合よく朝まで迷子になる。手紙が濡れる。

 氷堂さんが早起きして、村で聞き取り調査をする。使用人から情報を得る。館に戻ったのは6時頃。

 乾さんの母親がどうにか館へ忍び込む。なぜか、氷堂さんを刀で刺す。その血を拭き取り、キッチンからケーキナイフを持ち出して、同じところを刺す。そしてナイフは転がしておき、血のついてない刀は現場から持ち去る。なぜか、脅迫状は持ったまま。帰り道、昨晩の雨の影響か足を滑らせて転落する。刀は下まで落ちない。

 無理があるだろう、これでは。

 氷堂さんが帰ってきたのが6時なら、刺されたのもそれ以降だ。しかし、雨に濡れた状態で、朝の6時まで外にいられるだろうか。ありえないが、氷堂さんと入れ替わりで乾さんの母親が家を出た可能性が考えられる。しかし、そのときは雨が降っていなかったらしいので、手紙が濡れていることと辻褄が合わない。

 脅迫犯。刀を持ってフラつく人物。氷堂さんを刺した誰か。これらすべてが、同一人物であるとは思えないのだ。むしろ、すべてがバラバラなように思える。確かにいえるのは、脅迫犯の正体だけ。これは乾さんの母親で間違いないだろう。じゃあ、他のふたつは?

 考えていたら、館の前に辿り着いていた。答えが出ないまま、帰ってきてしまったのだ。何のための調査だったのだろう。余計にわからなくなったじゃないか。

「おかえりなさいませ」

 情けなさを感じながらぼうっと立ち尽くしていたら、急に話しかけられて驚いた。そこにいたのは、香我美さん。しかし、奇妙な格好をしている。

「その、背中の岩は何ですか?」

 白いブラウスに細身のパンツという普段通りの格好には似つかない、巨大な岩が背負われていたのだ。

 岩を背中に抱えながらも、涼しい顔で彼女は答える。

「これが、鍛錬です。ちょうど私が持てる限界くらいの大きさと重さでして、江藤様をお守りするためにはこれくらいできねばと、最近始めたのです」

 どう考えても、人間の限界を超えるサイズだと思うのだけれど。僕の身長と同じくらいの岩だ。そこまで鍛える必要はなかったんじゃないかとも思ったが、彼女の顔を見て、あることを思い出す。

「警察は?」

「今、調べてくれています」

 僕は頷くと、中に入りたい旨を伝える。彼女は岩を戻してくると言い残して、再び霧の向こうへ消えていった。

 乾さんが招かれたのは、香我美さんがきっかけなのだ。やさしい香我美さんは乾さんの状況を見かねて、自分の主に報告した。そしてその主は、図らずも彼が仕事を奪う形になった父子の面倒を、この大きな館で見ていたのである。やさしさの、連鎖ではないか。何もこんなところで、殺人事件なんか起きる必要もなかっただろうに……。

 ここで、僕は違和を感じた。さきほどは、江藤氏も香我美さんもやさしいと評したが、江藤氏のそれは、加害者意識から来る償いだ。

 では、香我美さんの乾さんに対する気持ちも、償いだとしたら? 乾さんの母親は、いったいどうして、そこまで心が壊れてしまったのか。使用人さんの話によれば、周辺の住人ですらその理由はわからないらしい。もし、その原因となる人物がいたなら、その惨状を見て、償いたいと……。

 ちょうど、香我美さんが帰ってくる。神妙な顔をしていたであろう僕を心配して、今まさに声をかけようとしていたところだ。似合わない岩はもうなくなっていた。

「香我美さん。どうしてあなたは、乾さんを屋敷に呼ぼうと思ったんですか?」

 僕の言葉に、彼女の肩がビクリとする。

 これは、当たりかもしれない。

「きっと、言いたくないことなんだろう。だけど、僕は絶対にあなたを責めたりしない。僕は探偵じゃないんだ。ただ僕は、今生きている全員が、無事でいられることを祈っているだけ。さあ、香我美さん。僕に隠していることがあると思うんだ。そう、亡くなった女性――乾さんの母親について」

 沈黙が、続いた。

 僕はもう、答えがわかっているようなものだ。だけど、確実じゃない。だから、たしかめたかった。香我美さんの口から、そうなのだと、答え合わせをしてほしい。だから僕は、待ち続けた。夜が明けたって、待ち続けるつもりだ。

 実際には、おそらく数分の静寂。もやもやとした霧が、彼女の迷いを表しているようだ。

 そして、ついに。

 香我美さんが苦しそうに、次のことを告白した。


「乾様のお母様は、かつて父の金物屋で働いていた女性です」


(結に続く)

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