TH1112(承)

 探偵が潰された。そう考えるべきかもしれない。

 館の主、江藤氏に送りつけられた脅迫状。そして、この頃屋敷の周囲に現れるようになった怪しい人影。調査のために呼ばれた探偵が、死体となって転がっている。証拠などなくとも、容易に推測できた。自身の正体が暴かれるのを恐れた犯人が、時刻は不明だがこの部屋に侵入し彼を刺し殺す。その凶器を、堂々と部屋に残して……。

「ひとまず、警察を呼びましょう。これだけの山奥ですし、パトカーも通れない道ですから、いったいいつになるかはわからない。でも、彼はもう死んでしまっている。脈もないんだ。助けることはできない、僕らにできるのは、調べてもらうことだけです」

「そ、そうですね」

 僕の言葉に我に返ったらしい乾さんはそう言うと、自身の着ているワンピースのあらゆる箇所を手で叩いた。

「ス、スマホが部屋です。取って来ま――」

 彼女が言い切るより先に、僕は自分の尻のポケットから取り出したスマホのロックを解除してから差し出す。乾さんがそれを受け取り、しばらく指で画面をタップしてから耳にスマホを当てた。

「だ、だめです。つながりません」

 つながらない?

「そうだった。ここの建物は電波を遮ってる可能性があるんでしたね。乾さん、申し訳ないですが、外に出て警察に連絡を!」

 ここでハッとして、香我美さんは乾さんより先に、階下へ向かった。

「ドアを開けます!」

 ぱたぱたと、足音が去って行く。ドアの枠に手を置いて、江藤氏が崩れ落ちた。

「まさか、氷堂さんが……。ああ、私が彼に依頼などしなければ!」

 掴める物など何もないのに、江藤氏は床についた手を悔しそうに動かす。犯人への怒りか、自分への怒りか、彼は拳を床に叩きつけようとする。その手は、坂崎さんに止められた。坂崎さんが首を振る。しばらく目を合わせて、江藤氏は力なくその腕を下ろした。

 八つ当たりしても、仕方がない。何も生み出さない。今はとにかく、落ち着くしかないのだ。既に氷堂さんは、死んでしまったのだから。


「天気も悪くなりそうだけど、できるだけ早く駆けつける、とのことです」

 スマートフォンを握り締めた乾さんが、視線を落としながら入ってきた。その後ろで香我美さんが、重たいドアを片手で支えながら閉じる。ぎしりと、軋む音。

 僕たちは、テーブルについていた。昼飯時だが、何かを食べようという気分にはなれない。待っていた男性陣3人の重苦しい表情は彼女たちにも伝わり、どんよりとした空気が広間を漂っている。

 乾さんが僕の隣に座って、スマホを返してくれた。彼女の背中はひどく小さくなっており、僕はそこへ手を伸ばそうとするも、思い切れずに腕を引っ込める。その様子を坂崎さんに見られ、彼はにこりと微笑んだ。しかしその微笑みは、昨日見せてくれたものよりも遥かに弱々しく、死という悲劇が、どれだけ人の心に闇を落とすのか僕は思い知った。

「香我美さん、ひとつよろしいですか?」

 誰も口を開かない沈黙が数分続き、疑心暗鬼になりつつあった僕はその静寂を破ることにする。思ったよりも、低い声が出てしまう。香我美さんはびくりとすると、僕たちのテーブルに1歩近づいた。

「もしかしたら、厨房というのは召使いの方々にとっての聖域で、僕たちゲストの立ち入ってはならない空間であるのかもしれません。もしそうならば、申し訳ありません。それを知らずに、そして聞くこともせずに、僕はあなたたちの仕事場に入ってしまいました。気になることが、あったものですから」

 僕は女性陣が屋外に出ている間に回収して、テーブルクロスの下に隠しておいたあるものを取り出す。それを置いた瞬間、江藤氏の表情が強張ったのに気づいた。

「これはおそらく、砥石といしです。キッチン台に、無造作に置いてありました。これについて、見覚えはありますか?」

 香我美さんはしばらく唇をかたく結んでいたが、やがてこくりと頷いた。

 僕は推理を続ける。

「氷堂さんの死因は、おそらく失血死かショック死でしょう。ともかく、ナイフの傷が彼を死に追いやったのは事実です。あとで警察の方が調べたときに指紋があると僕が疑われますので、まさか触るわけにもいきませんでしたが、見たところ傷のサイズとナイフの幅は同じでした。

 そうなると、少し疑問が残るわけです。昨晩僕たちはケーキを振る舞っていただきましたが、そのときに江藤さんが、宝飾用のナイフの切れ味の悪さを嘆いていました。チョコレートのコーティングにてこずるようなナイフが、いったいどうして、あんなにすんなりと氷堂さんの脇腹を――そう、あばら骨の隙間にちょうど入り込むように貫くことができるだろうか、と。

 もし昨晩のナイフがそのまま犯行に使われたのなら、おそらく簡単に刺すことができなかったと思うのです。少々痛々しい話になりますが、尖った先はすんなり侵攻すれども、そこから先は肉を裂くことができない。そうなるとナイフは、ぎこぎこと左右に動かしながら――まるでノコギリのように彼の内臓へと進んでいく必要があるのです。そうなれば当然、無理矢理ねじ込んだために、傷口はナイフの本来の幅よりも大きくなるに違いありません。

 ですが、氷堂さんの胴体には、ナイフの幅とほぼ同じ幅の傷がついているわけです。ひと突きに、仕留めることができたのでしょう。もし先のようにぎこぎこと動かしたなら、きっと氷堂さんは叫び声をあげて、私たちのうち誰かが目を覚ましたり異変に気づくはずなのです。

 では、ケーキカットのときに切れ味の悪くなったナイフが、どうして人の肉の壁を容易に抉ることができたのか。僕はそれを、昨晩のケーキカットのあとに、切れ味が増したからだと考えました。試しにキッチンを覗いたら、ちょうど砥石があるじゃないですか。

 もちろん、あなた以外の誰かが、これを使ってナイフをいだという可能性はあります。犯人の正体を眩ませるべく、あえてあなたが疑われるキッチンで研いだ、ということですね。ですが――ともかく一番に疑うべきは、キッチンに一番縁のある香我美さんということになるのです。理由はさておき、氷堂さんを殺すためにナイフを研いでいたのだと――」

「もういいじゃないですか!」

 テーブルを叩く音と、叫び声。僕は驚いて声の方へ首を動かす。そこにいたのは、汗をかきながらテーブルにもたれる江藤氏だった。

「香我美は、人を殺すような娘ではありません! きっと彼女は、私に恨みを抱いているでしょう……。ですがそれでも、彼女のやさしさは本物です! 私ならまだしも、罪のない人を刺すなどということは、絶対にありえないのです!」

「江藤様、私はあなたに恨みなど――」

「黙っておれ!」

 あまりにもの剣幕に、僕はつい仰け反って、背もたれを軋ませる。

「私から説明しましょう。彼女にナイフを研ぐよう命じたのは、この私なのです」


「昨晩――河童場さんや乾さんがお部屋に戻ってからも、私と坂崎さん、そして氷堂さんはここで話をしておりました。明日は――つまり、これは今日のことですが。明日はどんなことをしようかなどと、酒を交えながら提案し合っていたのです。

 すると氷堂さんが、猪鍋でもつくってみるのはどうだろうと仰いました。坂崎さんは銃を持っていますし、もし猪を獲ることができれば、もてないしとしては上等の食事が用意できるだろうと。坂崎さんのそれに同意して、やる気に満ち溢れていた次第でありまして、私もケーキカットならぬ猪カットを演出しようと張り切っていたのでした。

 ですが氷堂さんは、もし同じナイフを使ってしまえば、チョコレートのコーティングを破れなかったのだから猪の強固な皮膚など貫けやしないだろうと口にしたのです。私たちはたしかにそうだと唸り、考え込んでしまいました。しかし氷堂さんは涼しい顔で、香我美にナイフを持ってこさせ、それを観察しておりました。すぐに氷堂さんは、こんなことに気づいたのです。このナイフは、本来はある程度の切れ味を備えていたが、儀式で用いることを目的としているため、事故が起きないように少し刃を潰してあるのだと。その証拠に、たしかに刃先がやや平になっておりました。

 私は香我美に、猪を調理できるほどに刃を鋭く研ぐように命じました。これがことの顛末です。彼女は、猪を裂くためにナイフを研いだのです。まさかそれが、提案者の氷堂さんを貫くことになるとは……」

 必死の弁明――孫を守るような、江藤氏の堂々たる発言に、僕は息を飲んだ。香我美さんは小さく震えており、おそらくは涙を堪えたものだと思われる。乾さんと坂崎さんは、神妙な顔をしてテーブルクロスに視線を落としていた。江藤氏は、僕を睨みつけている。これ以上香我美さんを疑おうものなら、容赦はしないと言わんばかりに……。

「わかりました。ありがとうございます。疑ってしまい、申し訳ありません」

「こちらこそ、あなたを責めるような発言をしてしまい……」

 江藤氏はへろへろとイスに座りこみ、長いため息を吐いた。

「ですが江藤さん。疑いついでに、もうひとつお聞きしたいのです。あなたはさっき、香我美さんがあなたを恨むことはあっても、やさしい彼女が氷堂さんに矛先が向けることはないと仰いました。あなたが、香我美さんに恨まれても仕方ないと考えているのは、いったいどういった理由からでしょうか? 先ほど香我美さんはそれを否定しましたし、僕としてもおふたりは――孫とおじいちゃんの関係にしか見えないので、違和を感じているのです。それについて、よろしければ」

 江藤氏はまだ息を落ち着かせるのに精一杯で、それに気づいた香我美さんが口を開いた。次第に落ち着きを見せた江藤氏が、彼女の補足をしたりされたり……。

 ともかく、ふたりが語ったことは、だいたい以下のような内容である。


 江藤氏がセラミック製品をもたらすより前の葉山原村では、香我美さんの父親が金物屋を経営していた。日々使われる農具や台所用品といった、主に鉄製の道具の製造販売、および修理等を行っていたのである。

 そこに、セラミック製品販売会社の最高責任者としての地位から解放された江藤氏が、余生を謳歌するべく移り住んできた。彼は人目を避けるように、村の人々から距離を取って館をどっしりと構えたが、熱心に働く穏やかな住人たちに愛情を抱くようになる。

 高齢である彼らには、重たい鉄製道具はいささか毒のようではないかと、江藤氏は考えた。そこで彼は、セラミック製の農具の開発を山奥から命じ、それをほとんど無償に近い形で、村人たちに分け与えたのである。彼にとってこれは商売ではなく、社会貢献だった。

 さて、そうなると失業同然になるのが、香我美さんの実家である。見返りを求めない行為が、図らずもひとつの家庭の生計を潰すことになった。それを聞いた江藤氏は香我美父子を館に招き、家の世話をしてくれたなら、一生食べるに困らないだけの給与を渡そうと提案する。香我美さんのところは父子家庭であった。中年の召使いと、若いメイドが住み込みで働くことになったのだ。

 しかし、香我美さんはしばらく働いた後、自分に給与は必要ないから、その分父にお金を渡して、しばらくの休暇を与えてくれないかと江藤氏に言い出した。男手ひとつで、ここまで育ててくれた父親に、恩返しがしたいというのである。娘のことなどしばし忘れて、村の外で観光でもしてほしい、と。この話にひどく感動した江藤氏は、とり一層香我美さんへの愛情を強め、娘の想いを汲み取った香我美さんの父親は、数ヶ月前から旅行をしているそうだ。ときおり、旅先から手紙が来るらしい。

 そしてあるときから、その手紙に紛れて脅迫状が送られるようになった……。


 時刻は、15時になろうとしている。

 氷堂さんの死体が発見されてから、およそ3時間が経過した。ほぼ同じ時刻に、警察への通報が乾さんによってなされたが、まだ警察は屋敷を訪れていない。僕が村の人々と言葉を交わしてから屋敷に着くまで、およそ30分。バス停から村までは、どれくらいだったろうか。そもそも、近くの交番やら警察署やらがどこにあるのかわからない。これだけ人里離れていれば、それくらいの時間が経過していても不思議じゃないだろう。

 さて、警察が取り調べをはじめる前に、もう少し調べておきたいことがある。江藤氏と香我美さんの関係性についての壮大な告白があり、誰もが彼らの愛を疑わなくなった。香我美さんからすれば、江藤氏は父の仕事を奪ったも同然だが、それは不当に利益を得るためのものではなかったし、香我美父子へ手を差し伸べた江藤氏のやさしさに、香我美さんは憎しみなど抱いてないだろう。および、その魂の清らなることを目の当たりにし、氷堂さんを刺したのが香我美さんではないことがわかると、各人は安心して自室へ戻っていった。まだ、犯人がどこの誰かもわかってはいないけれど。

 僕たちが聞いたのは、どちらかといえば、江藤氏に寄り添ったエピソードだ。もう少し、彼女の方から見た今の状況についての手がかりが欲しい。僕は数時間前に物色した厨房に向かって呼びかける。呼びかけに応じて、香我美さんがぱたぱたと駆け寄ってきた。僕は人差し指を自分の唇にピタリと当てると、香我美さんは事情を察して歩みを止め、どうぞと手を差し出してくれる。礼をして、神聖なる厨房へ足を踏み入れた。

「香我美さんに、いくつかお聞きしたいことがありまして」

 彼女は静かに、こくりと頷く。僕は声をひそめる。

「この屋敷のドアは、ひどく重たいのです。僕と氷堂さんがふたりがかりで押しても、びくともしない。だからもし、屋敷の外から誰かがやってきても――そう、手紙の送り主がやってきても、侵入するのには相当骨が折れるはずなんです。少なくとも、あなたほどの力持ちでなければならない。

 さて、そうなると、誰かが屋敷の内外を出入りするためには、あなたの手助けが必要だということになります。昨晩、僕と乾さんが自室に戻ってから、外に出た人は誰かいますか? もし誰かが出入りしたのだとすれば、そのとき別の誰かが――つまり招かれざる客が入ってこれるのも、そのときだと考えられるのです」

 僕の言葉を理解するのにやや時間がかかったようだが、彼女ははっきりと、しかし小さく低い声で答えてくれた。

「氷堂様が、朝の3時頃に出ていきました」

「朝の3時? どうして、そんな早くから……」

「どうやら、村の方々に聞き込みをしようとしたらしいのです。彼らはひどく早起きで、4時頃から活動をしていますから、それに合わせて氷堂様も山を下りたのでしょう」

「帰ってきたのは、何時頃?」

「6時だったと思います。ちょうど私が鍛錬に行こうと思っていたところでして」

 鍛錬って何だよ、とは今はつっこまない。

「氷堂さんは、何か手に持っていましたか?」

「赤い手帳を持っていました。メモ代わりにしていたのでしょう」

 すると、それが鍵を握っている可能性がある。そしてそれを知られてはまずい犯人が、どうにかして屋敷に忍び込んで彼を刺したのだ。

「ありがとうございます。では、もうひとつ。香我美さんのお父さんのところで、あなたは働いていたのでしたね?」

「いいえ。私はまだ、父から何の仕事も教わっていませんでした」

「なるほど。では、お父様はおひとりで、金物屋を切り盛りしていたと?」

 彼女は少し迷ってから、首を振る。

「ひとり、お手伝いの女性が」

「名前は何と?」

「そこまでは、わかりません」

「お父様との関係は?」

「いたって良好です。私は、ふたりが結婚するのだと思っていました。母が亡くなったのは、私が生まれてからすぐのことですし、十分に時間が経ったかと」

「その女性は今、どこで何を?」

「ここで暮らし始めてからは、何も聞いていません。父なら何か知っているかもしれませんが……」

「いいえ、ありがとうございました。十分です。それと、今ここで私たちが話をしたことは他言無用でお願いします。次に狙われるのは、僕かもしれないので」

 一瞬怯んでから、彼女は強く頷いた。それを確認して、僕はそろりとキッチンを出る。


 部屋の前に戻ると、意外な人物が立っていた。

「どうしましたか、乾さん」

 彼女は僕を振り返ると、少し顔を明るくしてから駆けてくる。抱きついてくることはなかったが、すぐ近くまで寄ってくれたので、ある程度信頼されているのだろうと思い込むことにした。薄いピンクのワンピースが、ひらり。

「氷堂さんが、メッセージを残してくれたでしょう? それを一緒に、解いてほしいんです」

 突然の提案に、僕は驚きを隠せなかった。

「また、あの部屋に行くことになりますが……?」

「その……。死体は、極力見ないようにします」

「それがいいでしょう。あれから誰もあの部屋に入ってはいないはずです。これでもし荒らされていたら、誰かがまた侵入して来たことになる」

 無神経な発言に、彼女はびくりと体を強張らせる。僕は急いで訂正した。

「もちろん、可能性の話です。僕が乾さんを守りますから」

 我ながら、恥ずかしいセリフを言ったものだ。

 しかし彼女は、その言葉に深い意味は感じなかったようで、安心した様子を見せてくれた。僕は彼女のことを気にかけながら、廊下の向こう側にある氷堂さんの部屋に向かって歩いて行く。

「ドアはもう、たしかめるときに香我美さんが開けてしまいました。だからこれ以上、余計な指紋が増えたところでどうにもならないでしょう。ですが部屋の中のものについては、極力触れないようにしましょう。貴重な指紋が、残っているかもしれません」

 彼女が頷くのを確認してから、氷堂さんの部屋を開ける。死体もメッセージも、そのままだ。

「ドアは、カギがかけられるようになっています。つまり氷堂さんは刺されたときカギをかけていなかったか、犯人を自ら部屋に招いた可能性があります。もしそうでなければ、窓から侵入したことになりますが……」

 部屋についた大きめの窓はピタリと閉まっており、カギも下りたままだった。

 僕はふと、彼が眠っていたであろうベッドに視線を送る。指紋を残さぬよう、シャツの袖で指を覆いながら、かけ布団をめくった。赤い手帳だ。彼が屋敷を出て、村で調査をする際に持っていったという、手帳。

 さすがにこれは、触らずにはいられない。袖を外して、僕は慎重にページをめくる。不自然な箇所。破られた形跡。

 やはり、彼は何かの情報を得たのだ。そして刺された。

「河童場さん、あの、メッセージは……?」

 僕はハッとして、彼女を振り返る。不安げな表情。できるだけ自然な笑顔をつくって、彼女の近くに歩み寄った。

「TH1112、ですね。アルファベットと、数字が混ざっています。数字の方が、解きやすいかもしれませんね。もちろん、ふたつが関連していたら元も子もないんですが……。さて、乾さん。推理小説だと、数字の暗号はどんな風に読むことが多いですか?」

 僕が尋ねると、彼女は目線を上にあげて、思い出すような動きをする。

「多いかはわからないけど、携帯電話のキーと対応させるやつかしら?」

「それだと、どうなる?」

 彼女はその小さな指で、空中を何度か叩く。

「111が、『う』になって、2が『か』を意味するわ。1がア行、2がカ行、0がワ行になって、そのキーを指定の数だけ押すことになるから」

「うか、ですか……」

 それなら、後ろの2文字が「うか」ということになる。河童場、江藤、乾、坂崎、香我美……。一応自分も入れてみたが、「うか」で終わる人物はいない。氷堂さんのことも考えてみるが、これも「うか」ではない。犯人を直接名指したものではないのかもしれないな。もちろん、「うか」という解読が間違っていることもありうるが……。

「4ケタの数字として、他に考えられるのは?」

「ケータイ番号の下4ケタとか、どう?」

 自分の番号を思い出す。下4ケタは、1112ではない。もちろん、僕が殺してないことは、自分で一番わかっているが。番号については、他の人のものも調べる必要がありそうだ。嘘をついていないことを確認するために、実際にその番号に目の前でかけてみるなどの工夫をして……。

 あとありうるのは、誕生日か。生まれた年もありえるが、1112年生まれはありえないだろう。そんな人がいたならば、それは妖怪だ。妖怪が犯人だと言われれば、それまでであるけれど。

「だめだ、わからない。ごめん、乾さん……」

 僕が謝ると、彼女は何度も首を振ってくれた。

「ううん、私も何の力になれてないし……。ごめんね、わざわざ」

 しゃがんでメッセージを見ていた僕が立ち上がると、乾さんはドアを開けてくれる。氷堂さんの部屋を出て、彼女を部屋に送ろうと歩き出す。

 氷堂さんは、朝の3時頃に館を出て、調査を終えて6時に帰ってきた。そして、死体の発見が12時頃。空白の時間は6時間。そこで刺されたに違いない。外で刺されて、帰ってきてから事切れたということもありえるが、そうであるならドアを開けた香我美さんが、彼の異変に気づくはずだ。それに、凶器のナイフは館にあったのだから、やはり犯行は建物の中で行われたと考えるべきだろう。

 僕は振り向いて、乾さんに忠告する。

「一応、何が起こるからわからないから、眠るときは窓もドアもカギを必ずかけてね。少しの余地も、残しちゃいけない」

 彼女は頷いて、僕のシャツの裾を小さく摘みながら後ろをついてきた。守ってあげたい。彼女には、指一本触れさせるもんか。


 乾さんの部屋の前に来る。彼女が無事に部屋を入るのを見届けようとすると、突然大きな打撃音が聞こえた。ノックの音。チャイムの音もする。誰かが、この屋敷を訪ねてきたのだ。誰だ、犯人だろうか? それとも、待ちわびている警察?

 どのみち、僕たちではドアを開けることができない。何かあるといけないので、僕は乾さんを連れて、キッチンにいるだろう香我美さんを呼ぶ。

「誰か来たようです。犯人かもしれませんので、用心してください。……すみません、僕の力では開けられないばかりに……」

 頭を掻きながら、愛想笑いをつくる。少し前にふたりきりで会話をしたことは、誰にも悟られぬように。僕と香我美さん以外でここにいるのは乾さんだけだが、どこで誰に聞かれているかわからない。安心はできなかった。

「脅迫状を受けてから、用心のためにドアを重く改造したんです。ですがそのせいで、持ち主本人が開けられなくなってしまいましたが……」

 それをやすやすと開けるのだ。いったいこの小さな体に、どれだけのパワーが秘められているのやら。馬か牛と並ぶほどの怪力なのではなかろうか。そういえば鍛錬と言っていたが、何をしたらこれが開くようになるのだろう。

 用心深く、香我美さんがドアの隙間から外を窺う。すると、彼女は安心したように、人が通れるくらいにドアを開いた。外から、小さな女性が入ってくる。歳は50前後だろうか。彼女は乾さんを見ると、手をバタバタと動かしながら、落ち着きなく話し始めた。

「大変です、お母様が……!」

 その言葉を聞いて、乾さんは目を見開く。僕の背中で、ガタガタと震える。かろうじて発せられた声も、ひどく震えていた。

「どうしたんですか? まさか、母の容態が!?」

 ここで僕は、彼女の母親が病気であることと、江藤氏の使用人のひとりが乾さんの代わりに看病していることを思い出す。するとこの女性は、例の使用人なのだろう。

 乾さんの母親を看病しているはずの女性は、本人がその言葉にひっくり返りそうなほどにうろたえながら、次のような――ひどくショッキングな内容を報告したのである。


「お母様が、お亡くなりになりました!」


(転に続く)

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