TH1112
柿尊慈
TH1112(起)
どれだけ都市の開発が進んだところで、古きよき不便さのようなものがまとわりつく、人に忘れられたような山村はいたるところにある。ここ、
聞いたこともない電車に乗って、聞いたこともないバス停で降りてから、少しだけ山道を歩くと、葉山原村に辿り着くことができる。遠慮がちに山道に整えられた階段は、踏みしめる石のかたさ故に、段などない方が負担なく歩けたのではないかと思え、畑や田んぼで農作業をしている高齢の方々がたくさん見られるようになる頃には、僕の両脚は不良品の大根のように凝り固まってしまっていた。
「あら、お客さんですか」
湿っぽい山道を汗だくになりながら登ってきた僕へ、おそらく住人のひとりであろう婦人の声が飛んでくる。できればもう少し、息が整ってから話しかけてほしいものだと思いつつも、僕は高齢の婦人――まさに、田舎のお母さんを体現したような婦人へ挨拶を返す。
「江藤さんのお屋敷に招かれました、
「ああ、江藤さんに!」
婦人は少し驚いた様子を見せてから、農具を畑に転がして僕に向き直る。
「江藤さんがパーティを開くと言っていましたが、まさか本当にいらっしゃるとは! わざわざこんな山奥までよくお越しくださいました」
「ええ、本当に大変でした。……江藤さんのお宅は、ここからどれくらいで?」
「あすこに、建物の屋根が見えますでしょう?」
婦人が指差した先は、霧のかかった山の頂上。たしかに、お金のかかっていそうな建物の、屋根らしい部分が見えた。
「まだまだ、距離がありますね」
「ええ、30分くらいはかかるかと」
もう30分も歩かなければいけないのか。
あからさまに僕が肩を落とすと、婦人が笑った。なんとなく申し訳なくなり頭を下げると、先ほど婦人が地面に置いた鎌が見える。
「それは、セラミック製の鎌ですか」
僕に指摘されると、婦人は鎌を取り、少しうっとりとした目でその刃の先を見つめた。
「そう、江藤さんがこの村にもたらしてくれたものです。この歳になると、若い頃は誤差でしかなかったような重さの違いでも、だいぶ腰や腕への負担が変わってくるんですよ」
都会からひどく離れた葉山原村から、さらに離れた場所にある館。持ち主本人は館なんて呼べるほど大層なものじゃないと否定しているが、どこからどう見ても、館だった。緑と茶色で生い茂る村の方とは正反対の、18世紀か19世紀のイギリスを舞台にした映画に出てくるような、大きな門と庭を備えた館。村の人々は、ほとんどの農作業を手でこなしているために時代遅れに見えたが、なるほど、こっちはこっちでもっと時代遅れになっているようだった。標高が高くなるにつれて時代が遡っているようだ。
とはいえ、館の方はむしろ新しいもののように感じられるから不思議だ。横浜などの一部に見られるレンガづくりの建物が新鮮に見えるように、こういった洋式の大きな建物というのも、ビルに見慣れた僕たちにとっては憧れの対象となりうる。
さて、館の持ち主である江藤氏が、果たしてどのようにこれだけの財を成したのか。実際のところは、不明である。江藤氏については、かつて何をしていたかの部分よりも、ここに来てから何をしたのかについてを評価するべきだ。彼はこの村で、セラミック製の農具を売り始めたのだった。
鍬のように、ある程度作業においてその重さが重要となるようなものであれば話は別だが、例えば先の婦人が使っていた鎌などは重さよりも切れ味の方がよほど重要で、逆を言えば「同じ切れ味なら軽い方がいい」ものである。おそらく江藤氏はセラミックなどの陶器産業で財を成した人物で、包丁等のキッチン用品だけでなく農具についてもその技術を駆使したのだろうということが想像できた。
とはいえ、江藤氏は村人から搾取するようなことはせず、やや利益度外視でセラミック農具の販売を行っているようで、それはおそらく、自身の会社の経営をほとんど息子か孫かに託したため、利益よりも社会への貢献を重視しても許される身分になったためだと考えられる。
もちろん、これは僕の推測でしかない。僕はセラミック産業に精通しているわけでもなく、山村の開発に携わったこともなかった。僕はただの大学生。何の考えもなしに見知らぬ土地の「地元掲示板」を眺めていたら、どこかの富豪が山奥でパーティを開催するという情報を見つけてコンタクトを取ったにすぎない。
再度汗だくになりながら山を登り、ようやく見えてきた館の門をくぐると、召使いらしい女性が開いたドアの前で待っていた。お辞儀をして中に入る。
「さて、これで全員揃ったことになりますかな。期待していたよりも遥かに人数が少なく、やや寂しい催し物になってしまいそうですが、遠くの地よりはるばるお越しくださった方もいらっしゃるので、まさか中止とするわけにもいきません」
どうやら僕が最後のひとりだったらしく、広間の中心に備えつけられた、カーペットの敷かれてある階段に、金とカロリーをもてあましているだろう健康的な太り方をした男性が立っていた。
「ご存知の方が大半でしょうが、私は江藤と申します。以前は会社を経営しておりましたが、弱肉強食の世界に疲れ果て、数年前にここ、葉山原村に移り住んだという次第でございます」
短く伸びたヒゲ。薄っすらとした髪の毛。比較的涼しい場所であるのにも関わらず、なぜか汗をかいている。そういった条件のために、一見すると江藤氏は不潔な印象を抱くべき人物のように見えるのだが、話しぶりや笑顔を見ると、不思議とそういった悪印象は消え失せ、むしろかわいらしく感じさえした。初対面の紳士に対する表現としては相応しくないが、キモカワとかブサカワとか、そういったフレーズがぴったりである。
「では、順当に自己紹介をしていただきましょうか。では、乾さんから」
江藤氏が首を捻った先は、ドアの近くに立ったまま挨拶を受けた僕の左側。そこに立っていたのは、黒く長い髪が印象的な、ピンクを帯びた顔色の女性だった。
「乾と申します。小さい頃はこの村で暮らしておりまして、母が病気になったのを機に、葉山原村に戻ってきました。看病に苦しむ私を見かねた江藤さんから招待を受けまして、こうしてお邪魔している形になります。江藤さんの使用人の方が、私の代わりに母を看てくださっています。少しの時間ですが、みなさんと一緒に楽しめればと思います。よろしくお願いします」
ぺこりと行儀よく礼をする彼女に、僕は小さくよろしくお願いしますと返す。すると階段の影に立っていた男性も、彼女に対して挨拶を返した。僕はそれまで、その男性のことを認識していなかったため、急に現れた声の主にビクリとする。それに気づいたのか、彼は僕を見るとクスリと笑った。
恥ずかしい気分になったが、江藤氏がこちらを見て手を差し出したので、自己紹介を始める。
「河童場です。河童の場所と書いて、カワラバと読むのです。ええと、江藤さんや葉山原村のことを知ったのは、ここの地元掲示板でして……。普段僕は街の方で学生をしているんですが、ネットの海でサーフィンをしていましたら、なぜかそこに行き着いたという形になります。全くここの土地についてはわからないのですが、その分様々なことに魅力を感じたいと思います。よろしくお願いします」
乾さんがにこやかに礼をした。あまり大学では女性と接点がなかった僕は、その
無垢に見える笑顔に見惚れてしまう。
屋敷の壁際に立っていた男性が、一歩前に進み出た。わくわくした表情を浮かべ、人のよさそうな印象。しかし、その背に隠れる細長い物体に僕は驚いた。猟銃、だろうか。穏やかな笑顔と、仰々しい武器は、いささか不釣合いであった。
「私は、坂崎です。普段は会社員をしていますが、ときおりこの葉山原村に猟をしに来ているのです。ここで獲れる猪はかなり美味でして――ああ、もちろん、山の大部分の持ち主である江藤さんや村の方々には了承を得ております。
交流を重ねるうちに、江藤さんに気に入っていただけたようでして、こうして招待を受けて参加している次第であります。妻も子どももいませんから、独身の私は狩りのために休暇を使うのです。今回も有給をいただいて、数日滞在するつもりです。間違ってもみなさんに向かって発砲することはありませんので、ご安心ください」
坂崎さんのやわらかな表情から、それがジョークであることは理解できるのだが、いかんせん背中の銃が立派過ぎて、つい笑顔が引きつってしまう。それに気づいたのか、坂崎さんは銃を手で隠してにこにこと頭を下げた。
「では、ボクの番かな」
急に、男性が階段の脇から歩み出てくる。そんなところに人がいるとは思わなかったので、僕はつい驚きの声を漏らしてしまった。
豪勢なシャンデリアの光を浴びる男は、僕とそう変わらない歳のように見える。だが、その目つきはやたらと屋敷の中を駆け巡っていて、それは落ち着きがないというよりも、何かを警戒するようなものであった。その鋭い眼差しは、僕のような世間知らずの若者のそれとは思えず、若く見えるが実際はもっと歳を取っているのではないかと思われる。
「
その言葉に、僕と乾さんは目を見開く。坂崎さんはきょとんとしていたが、驚きよりも好奇心が勝っているようだった。
私立探偵が、どうしてこんなところに? 休暇の一環だろうか。
「こちらの江藤さんが、脅迫を受けていると私に相談されまして、調査とバカンスを兼ねて参加させていただいているという次第になります」
「氷堂さん!」
氷堂さんの言葉を、青ざめた顔の江藤氏が遮る。氷堂さんは彼の方を不思議そうに見上げると、わざとらしく首をかしげた。
「失礼、隠しておくべきでしたかな?」
氷堂さんの冷ややかな笑みを一瞥してから、僕は江藤氏を見上げて質問する。
「脅迫というのは、いったいどういうことでしょうか?」
僕の言葉に、江藤氏は諦めたように息を吐いてから、しばらく考え込む様子を見せる。どういったものかと、悩んでいるようだった。
「乾さん、河童場さん、怖がらせるつもりはなかったのです。こうしてパーティのようなものを開こうと考えたのは、まさにその脅迫のためなのでありますが、みなさまには関係のないことでございます。もちろん、脅しを受けているのは私ですから、ここにいらっしゃるゲストの方々に危険が及ぶことはないでしょう。
……いえ、私に要求を飲ませるため、犯人がみなさまを人質に取るようなことが、滞在中に起こるかもしれませんが、私はみなさまのお命を最優先することを約束いたしましょう。私は十分生きました。細心の注意を払って会社の経営をしてきましたが、どこでどのような恨みを買っているかもわかりません。そのときが来たなら、私は自らの命を惜しむようなことはいたしません。みなさまの安全を確保した上で、この命を犯人に差し出そうと思います。
さて、みなさまに対する私の想いをお伝えしたところで、事情を少しお話させてくださいませ。私がここに住んでから、しばらく経った頃のことでございます。許さないとか、殺してやるとか、そういった文字の書きつけられた手紙が、門の外から投げこまれるようになったのです。はじめは単なるイタズラだと思っていたのですが、その文字の、鬼気迫る雰囲気といいましょうか。視覚ではなく怒りを頼りに書き殴ったようなその文字は、イタズラなんてかわいいもののようには見えなかったのです。
さて、それがしばらく続きながらも、私は実際に命を狙われるようなことはなく、当初の狙い通りに、穏やかな隠居生活を送っていたのでした。
しかし近頃になって、やや事情が変わってきたのです。屋敷の周りを、不審な人物がうろついているのに、うちの召使いが気づいたのでした。おそらく刀のようなものを持ってうろついているのです。既におわかりかもしれませんが、ここは標高のために霧が濃くかかることが多く、はっきりとその姿は見えません。ですが、脅迫の手紙を送り続けてきた誰かが、ついに行動に起こしたのだと私は考えまして、比較的近くに住んでいらっしゃる探偵を探し、調査の依頼を出したのです。それがこの、氷堂さんなのです。
屋敷の周辺をうろつく人影の話を聞いて、私は気が気でなくなってしまいました。先に申しましたように、私は十分生きたつもりではありますが、せめて最後には明るく楽しいことをしておきたい。そう考えたのです。それがこの、パーティというわけです。世間に飽き飽きして山奥に来たものの、一度ここに来てしまうと私は下りるのもままならない。ご覧の通り、歳でありますから。哀れ私は、交流を求めて下山する体力も気力もないのです。
みなさまも、ここに来るまでに見たことでしょう。あの愛すべき村の方々にも、私は招待状を出しました。ですが、これだけ山を登った場所にある館になど、農作業ですら一苦労の村人たちが来れるはずもありません。その結果、まだまだお若い乾さんに河童場さん、坂崎さんに氷堂さんの、4名のゲストのみとなってしまいました。
とはいえ、繰り返しになりますが、おもてなしを怠るようなことはいたしません。哀れな老人の最期の道楽だと思って、どうかみなさま、私と仲良くしていただければと思います。
ああ、一点だけ申し上げておきます。ここをつくる際、やや壁を厚くしすぎたのでしょう。電波がやや通りにくくなっておりまして、もしインターネットや電話をご利用の際は、一度館の外に出ていただく必要があるかと思われます。ご覧になったかはわかりませんが、屋敷のそばには崖があります。背の高い柵を設けてはおりますが、これだけの高さです。落ちたらひとたまりもありません。どうかお気をつけください。
それ以外のことに関しましては、不便を感じさせることはないと思われます。お困りの際は私か、使用人たちにお声かけくださいませ。特に
さて、その香我美さんという女性が現れて、僕たちを一人ひとり、自分の部屋へ案内してくれた。白いブラウスに細長いパンツという、一般に想起される女性の使用人、つまりメイドとはややかけ離れた服装だ。しかしその顔は幼く見え、僕よりも歳下だと思われた。高校生、あるいは卒業したばかりの年齢だろう。労働のためにやや肌はくすんでいたが、小ぎれいな女性だ。
案内された部屋に大人しく入ったものの、夕食の時間まではやや時間があるため、僕は一度屋敷の外に出ようと考えた。ここに来るまではただただ苦労をしたため、ここから見えるだろう壮大な景色を満喫できずにいたのだ。
「おや、あなたも外に?」
部屋を出て、江藤氏が盛大な挨拶をしていた階段を降りていくと、ドアの前に氷堂さんが立っていた。
「ボクもちょうど、タバコでも吸おうかと考えていたところなんですよ。よければ少し、あたりの様子でも見に行きませんか? 喫煙者の隣を歩くのが、嫌でなければですけれど」
丁寧な言葉遣いだが、そのために冷たさを感じる。あまりこの人のことは好きになれなそうだなと僕は感じたが、断るための言い訳が思いつかなかったので、僕たちはふたりで重いドアを押した。
ビクともしないので、しばらくふたりで唸っていたが、見かねた香我美さんが片手でやすやすとドアを開けてくれる。コツがあるのかと思い聞いてみたが、「鍛えておりますので」と言って微笑むだけだった。
戻ってくるときはベルを鳴らして、香我美さんを呼ぶことにしよう。少しの間だが重いドアを一緒に押したからか、僕と氷堂さんの間には奇妙な絆が生まれていた。絆というよりは、女性が片手で開けたドアをふたりがかりでも開けられなかったという不名誉を共有する結びつきであったが。
「いい眺めですね」
江藤氏が説明していた柵のあたりまで歩いてきて、僕は遠くの方を眺める。僕の言葉に同意した氷堂さんは、屈んだり背伸びしたりを繰り返して、何かを観察しているようだった。
「天候が悪くなれば、土砂崩れや落石の可能性もありえますね。とはいえ、このあたりは常に霧がかかっているので、毎日が悪天候みたいなものかもしれません。実際に、この柵も何度か立て直しているようですし」
おそらく僕に聞かせているのであろう氷堂さんの言葉に、僕は一応相槌を打つ。
「それはまた、どうしてわかったんですか?」
「柵の根元が抉れています。かつてそこにあったものが、強風で折れるか外れるかしたものでしょう。まさかそんな弱くなったところに再度杭を打つわけにもいきませんから、以前の場所からは少しずらして、柵を立て直しているという感じでしょうね」
「まるで探偵ですね」
「そのために来てますから」
僕たちは笑った。タバコの煙にむせそうになったが、どうにかして堪える。
「ここから見ると、山の下はやや平地が続いているようですね。通ってきた村も、山肌からはそこそこに距離があるようだ。これなら土砂が崩れたり岩が落ちたりしても、村まで届くことはあまりないかもしれません。そのへんのことも考慮して、あの村はつくられたのでしょう。
ですが江藤さんの言葉の通り、この柵を越して何かが落ちたのなら、それはもう取り返しがつかないでしょうね。間違っても、ここからスマートフォンなど落としちゃいけない」
僕は彼の観察結果を、さも興味ありげにふむふむと頷いて聞いていた。
しかしここで彼の首がこちらに向いて、じっと無言で見つめられる。何かを疑われているような気がして目を逸らすが、彼の口から出た言葉は、そう深刻なものではなかった。
「河童場さん、でしたね。滅多にない苗字だと思いますが、ニックネームはありますか?」
彼の意図するところがわからずに、僕はしばらくきょとんとしていたが、深い意味はないのかもしれないと思い直し、彼の問いに答える。
「そのまま、カワラバって呼ばれてますね。字のせいで、中学校の頃は一部の人からカッパと呼ばれていじめられていましたが」
彼はこのエピソードに、くくっと喉を鳴らす。
「カッパとサルは、仲がいいのでしょうかね?」
「はい?」
「ボクは
さあ、どうでしょうねぇ。声には出さない。彼の発言が笑わせようとしているものなのか、それとも何かを暗示したものなのか、読めずにいた。そのために僕は、あまりにも素っ頓狂な返答をしたのである。
「じゃあ、このへんに現れるらしい猪には、気をつけなきゃですね」
坂崎さんは、この山の猪を狩っていると話していた。万が一それに襲われたら、申年の氷堂さんはひとたまりもないだろう。
いや、僕だって危ないけどさ。
館に戻り、しばらくぼうっとしていたら、ノックの音がした。香我美さんの声がして、夕食の準備ができたという。
さて、それからの僕たちは、大変充実した時間を過ごした。5人という少人数であったため、わざわざ10人規模のダイニングルームは使わない。白いクロスのかかった丸いテーブルがふたつ広間にセッティングされ、ひとつには僕と乾さん、もうひとつには残りの3人が腰かける。
乾さんと僕は歳が近かったのもあり、話が大いに弾んだ。おそらく、招かれた側としてはあまりよくないのだろうけど、実質ふたつのテーブルは、別のグループのものであるように感じられた。若者のテーブルと、中高年のテーブルだ。もちろんふたつのテーブルを交えての会話もときおり発生したが、僕はとにかく、乾さんに夢中だった。
「インターネットが使いにくいってことも聞いてたので、ミステリー小説を何冊か持ってきたんです。枕が変わると眠りにくいので、睡眠導入剤としても利用するつもりです」
「いいですね、ミステリー小説。よければ僕にも、どれかお気に入りのものを貸していただけないでしょうか」
「もちろんです。もしかしたら河童場さんは、既にお読みになっているかもしれませんけど……」
などなど、まるで合コンかお見合いかのように、僕たちは楽しくお互いの趣味等を語り合ったのである。彼女も僕もあまり酒を好まなかったため、最初にいただいたワインも飲み切らないほどであったが、酒の力を借りずとも、十分にコミュニケーションが取れていた。さすがに、会って最初の日に、彼女の母親の病気のことまでは踏み込まなかったが。
「香我美、ケーキを出してくれ!」
食事がほとんど終わると、江藤さんがキッチンにいるらしい香我美さんを呼びつけた。ウェディングケーキのようなものを乗せた台車を、からころと運んでくる。白いクリームをふんだんに塗りたくったスポンジが3段に重なっており、円周こそ小さいが、その高さからかなりのボリュームであることが窺えた。各段のクリームの上部は、おそらくはホワイトチョコレートと思われるものでコーティングされている。香我美さんと、姿の見えない何人かの使用人のみなさんが、丁寧に作り上げたものらしい。
「いやまた、随分なおもてなしで」
氷堂さんが手を叩く。
「これくらい、当然ですとも。さあ、香我美。切り分けてくれたまえよ」
香我美さんがケーキと一緒に乗せてあった、宝飾の施されたナイフを掲げると、刃の先がきらりと光を反射させる。あれはいい得物になるぞと、坂崎さんが妙なコメントを叫ぶと、香我美さんはそれをケーキのてっぺんに差し込んだ。
コーティングのために、やや苦戦しながら香我美さんがそれを切り分けると、ケーキのついて刃の部分を、持っていたハンカチで拭い取る。
「見栄えのいいだけのナイフでは、切れ味は保障できないということだな」
その様子を見ていた江藤氏が、そんなことをぽそりと呟いたので、僕は特に考えもせずに問いかけた。
「あれは例のセラミック製品ではないのですか?」
誰もひとりごとを拾ってくれないだろうと思っていたのか、僕の質問に江藤氏は恥ずかしそうに答える。
「こうしたパーティでは、やはり演出が大切だと思いましてね。私のところではあんなに細々と宝飾を施したナイフはつくれませんから、よそから取り寄せたのですよ。ですが、あまり切れ味はよくなかったようですね。スポンジとクリームだけのケーキを切るのが限界だったのでしょう。やや断面の見てくれが悪くなっておりますが、味は保障します」
多少断面が見劣りすることなど、誰も気にしていなかった。特に乾さんは、その分けられたケーキをひとくち含み、しゃっくりのような声を出して驚くと、香我美さんの腕前を褒めたほどだ。スポンジはかために焼かれており、ショートケーキのような見た目に反して、実際はホワイトチョコレートでつくったザッハトルテのような食感だった。
「大変おいしいのですが、さすがにそれほどの量を食べ切るのは難しいかと」
そう指摘する坂崎さんの背中に猟銃はない。さすがに部屋に置いたのだろうと思われる。
「いくらもてなしたいとはいえ、みなさまの腹が裂けるところは見たくありませんからな。これから帰る使用人たちにも、いくらか持たせるつもりですよ。帰るときに農村を通りますから、働き者の彼らにも、少し分けようかと」
嬉しそうに語る江藤氏に、目を光らせた氷堂さんが問いかける。
「はて、使用人のみなさまは帰られるのですか?」
江藤氏は頷く。
「みなさまの滞在中は、休暇を与えようかと。今日のうちに、明日以降の食事等の準備は済ませてもらいましたからね。できればみなさま一人ひとりに、私自らおもてなしをしたいのです。使いの者が多ければ、それだけ機会が減ってしまいますから。こんな老いぼれに、何ができようかとお思いでしょうが、ご安心ください。香我美だけはここがいます。彼女はここが家みたいなものですから。私にはこなせないことは、彼女が引き受けてくれますよ」
その言葉を受けて、香我美さんはお辞儀をしてから台車をキッチンへ返しにいった。その背中はやや不服な様子で、切れ味の悪いナイフを見下ろしている。
乾さんから借りたミステリー小説は、嵐の孤島で起きた殺人事件を題材にしたもので、読んでいる途中、屋敷の外が雨音でうるさくなったので、まるで映画館のシアターで凝った演出を受けたような気分になった。風は強く、打ちつける雨はひどく窓を叩いたが、建物自体は頑丈なためか、揺れはほとんどない。キリのいいところまで読むと、僕は借りた本を枕元において、明日はどんな話を乾さんとしようかと考えながら眠りについた。
翌朝、館の周囲は霧に包まれていながらも、特に雨が降っている様子はなく、昨晩の悪天候はまるで夢だったのではないかと錯覚した。
部屋を出ると、例の広間のテーブルで数人が食事をしているのが見える。夕食とは違って、朝食は客人一人ひとりの起床のタイミングに合わせて提供された。これは長旅で疲れているだろう客人を無理に起こさないという気配りから生じたものである。おかげさまでぐっすり眠れたが、乾さんと同じタイミングでテーブルにつけなかったのはやや残念だった。
彼女は坂崎さんと同じテーブルについていて、江藤氏は香我美さんと一緒にコーヒーを飲んでいる。どれほどの使用人歴かはわからないが、江藤氏と香我美さんは、遠くから見ると孫とおじいちゃんの関係に見えた。
さて、この段階で氷堂さんがいないことには気づいていたが、人の起きる時間など干渉するものではないだろう。特に気にも留めず、僕は乾さんたちのテーブルに混ざって食事をとった。
しかし――事件は既に起きていたのだ。
昼の12時を回り、それでも起きてくる気配がないので、様子を見て来ると香我美さんが氷堂さんの部屋に向かう。そのとき僕と乾さんは同じテーブルで、特に話をするでもなく小説を読んでいたのだが、突然の叫び声に読書を中断せざるをえなくなった。
「氷堂様が! 氷堂様が!」
ただならぬ様子の香我美さんが上の階に見えたので、ちょうど狩りの下見から帰ってきたばかりの坂崎さんも合わせた3人で階段を駆け上がる。叫び声とほぼ同時に自室から出てきていた江藤氏も、重たそうな体を必死に動かしていた。
なんとまあ、シンプルな現場だったろうか。
仰向けに倒れている氷堂さんの目は天井を見つめていたが、まばたきのために動くことはなかった。あばらのあたりに刺されたと思われる傷ができており、その周囲に赤黒い血が固まっていた。血はもちろん、綺麗に掃除された絨毯や床にも流れ出していたが、どう考えても新鮮なものではなく、死後数時間が経過しているものだと素人目にも想像できる。
室内に荒らされた形跡はない。しかし、そこにあるはずのないものが転がっている。ナイフだ。昨日の夜、ケーキを切り分けるのに使われていた、宝飾の施された、切れ味がよくないはずのナイフ。刃にはべっとりと血がついており、無造作に転がっていた。持ち去られたのではなく、犯行現場に残されていたのだ。
そしてよく見ると、彼の右手のあたりには、明らかに流れ出たのではない血の塊――おそらくは、ダイイングメッセージが残されているのに僕は気づいた。僕を除いた4人がドアの近くで立ちすくんでいるのを尻目に、僕は彼の手元へ駆け寄る。何だ。何を残した。彼はいったい、何を書き残してくれたのか。
TH1112。
それだけが書いてあった。
(承に続く)
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