朝倉景恒、憎悪をむき出しにする

 朝倉景恒が単身で加賀を脱出し、その上で飛騨を通り抜けて信濃までたどり着いたのは景紀が足利幕府の使者と出会った五日後の事である。その容貌はもはや落ち武者以外の何でもなく、朝倉の旗すら泥に塗れ切っていた。




「磨けば光るとはこの事か、朝倉の将よ」

「ありがたきお言葉にございます!」


 信玄の五男の仁科盛信により介抱され、人心地ついた景恒はようやく年相応の顔になっていた。晩夏の信州の日は暑く、その上景恒は悪路を通って来た事もありたくましくなっていた。


「それで、なぜまたここへ」

「越前も加賀も浅井の手に落ちました。このままではいずれ浅井は」

「なぜ浅井が信濃を狙う?」

「いえその、浅井が勢力を拡大して後顧の憂いがなくなった織田が徳川と共に武田様の領国に兵を向けるのではないかと」

「無論その事はわかっている、釈迦に説法と言う物だ」


 武田にしてみれば、朝倉は全く遠い存在だった。織田と対立していると言うのが唯一の共通点のような家であり、まともに友好関係を結ぶことはなかった。越前も一応隣国の隣国ではあるが飛騨は攻めにくく得る物の少ない国で、信長の干渉を受ける可能性もあって手を出す事はなかった。


「言っておくが武田に朝倉の希望を叶える義理はない。一応、浅井に付いては父上がかなり鋭く敵視しているようではあるが」

「それならば、何としても浅井との戦いの際には!」

「できぬ。今のそなたは浅井の旗を見るや前後を顧みることなく突撃する、そんな調子で一体どうやって戦に勝つ気だ」

「ですから私はただ一兵卒として戦い、武田と朝倉のために死のうと」

「武田を過大評価するな。しょせん、今の武田もまた弱者なのだからな」

「ええっ」


 風林火山だの、武田騎馬隊だの気取った所で、武田は強者ではない事を信玄も息子の盛信もよく理解していた。


 悲しき事に、武田家の領国は甲斐・信濃・駿河の三ヵ国に上野の一部を加えたとしても百万石に届くか否かぎりぎりであり、浅井家と大差ない。兵の質をうんぬんかんぬん申し述べた所で、量に差があると言う事実は覆しようがない。

 それが全部とは言わないまでも半分でも援軍にやってくれば、徳川と合わせるだけで武田軍の数を越えられそうである。


 そして織田は、必ず徳川と浅井の軍を合わせた以上の数でやって来る。


(その上に下手に風林火山の名を示したせいで油断もしてくれない……この戦は武田にとって相当な難戦となる)


 精巧に精巧を重ね、一分の隙もあってはならない。その際にこんな猪武者を抱えていては負けてしまう。弱者が強者に勝つには、少しの不安があってもいけないのだ。


「そなたはしばらく食客扱いにするようお館様にお頼みいたす。その前に諏訪へと行き、兄上の元でじっと禅を組むが良い。そして自分が何ができるか、ゆっくり考えよ」

「ええ……」


 青菜に塩と言わんばかりにぐったりした青年を十六歳の男は見下ろしながら、厄介払いするかのように手を振る。徳川や織田と戦うのはわかり切っている、今更北条はともかく他の家にうんぬん言われても面倒くさいだけだと言うのに。

 この血の気の塊になった男ができればどこかで死んでくれればいいのにとか情のかけらもない事を思いながら、盛信は父親へと書状を送った。







※※※※※※※※※







 信玄の側仕えである武藤喜兵衛もまた、盛信と同じ事を考えていた。


(諏訪に行くように命じられて何事かと思えば……)


 浅井に因縁を付けられてもどうということもないが、だとしてもこんな男を抱え込む事で一体何の得をするのかまるでわからない。堂の中だと言うのにやけに殺気立った顔をして味方のはずの人間を睨む男。自分がもし第一発見者だったら、問答無用で斬り捨てていたかもしれない。



「少しは落ち着かれましたか」

「お陰様で、武田様のご配慮にはまったく頭が上がりませぬ」

「では、為されるべきことはお分かりいただけますな」

「ええ、心を落ち着けいずれ来る戦いに備える事です」



 武士が戦いに身を焦がすのはまったく間違っていない。

 だが今や晩夏から初秋に移り、まったく武田領となっている信濃の木々は実に青々と輝いている。敵などいない中でそれを見て何かを感じるぐらいの余裕があっても良いはずではないのか。


「とりあえず、歌でも一首おしたためいただければ幸いでございます。朝倉と言えば京の天子様ともお近き家柄。その道もお学びなのでしょう」

「さほど詳しくはございませぬが」

「この田舎侍にどうか手ほどきをと」

「では……」



 喜兵衛は短冊と筆を渡しながら深々と頭を下げ、外の景色に目をやった。蝉は鳴き、鳥は空を舞う。いったいどこから来てどこへ行くのか、無論それを利用する事も大事ではあるが、今はあくまでも戦のない平和な時であり、そんな事にうつつを抜かしていても別に罰は当たらないはずだ。


「でき申した」

「それでは……」


 ずいぶんと速い完成にいぶかしく思いながら短冊を受け取った喜兵衛の目が丸くなり、そしてすぐさま細くなった。




 空駆ける 駿馬に風が 吹きすさび 木々萌え立ちて 紫陽花重なる




 ———―紛れもなく達筆だった。達筆だったのだが、その歌を目で追うたびに、昌幸の顔が渋くなって行った。


 

 空を駆けるほどの素晴らしい馬に強い風が吹いているが、それでも下の木々は葉を元気に茂らせている。そしてまた別の場所では紫陽花の花が重なる程度には、この世の中はそれほど変わる事なく平穏である。



 一見そんな忙中閑ありを思わせるような歌だったが、喜兵衛はそんな表面的な歌意など真に受けることはできなかった。




 空は天、駿馬とは馬の事であり、合わせれば「天馬」である。

 天馬と言えば美しく神秘的に聞こえるが、詰まる所「天魔」の子との語呂合わせに過ぎない。


 そして吹きすさぶ風は空を飛ぶ存在からしてみれば強烈な逆風か、後押しであるのと同時に速度超過を招く危険な存在でしかない。

 しかも「風」だけでなく「木々」「萌え」「重なる」と来ている。「木々」は「林」、「萌え」は「燃え」のもじりでつまり「火」、そして「重なる」のは「山」である。


「風林火山」、つまり武田家が天魔の子とやらを吹き飛ばしてくれる事を最大限に期待しておりますよと言うよいしょであると同時に、自分の思いを素直に込めさせていただきましたけど何かと言うものすごく意地の悪い歌であり、すぐさまその意味を解した喜兵衛は改めて景恒という男がどの程度の物かわかった気分になった。



「わかり申した。この歌、お館様に丁重にお送りさせていただきます。しばらくはごゆっくりと。ああ精神を落ち着けられるようにお人払いをさせておきますので」

「それはありがたきお言葉……ああ父上ならばもっと良い歌をお読みになるであろうに……」

「お父君はどちらに」

「今は加賀を抜け出して丹後に着いているはずです。そこから朝倉再興のためにまた動くおつもりなのでしょう」

「人のなき事は辛い物です。人は城、人は石垣、人は堀。これもお館様の残したお言葉です」

「素晴らしいお言葉ですね、幸甚でございます」


 馬の耳に念仏、兎に祭文。


 味方など誰もいないお前なんか力はねえんだよ吠えるんじゃねえと言ってみたつもりだったのに、まったく気付かないで能天気に笑っている。思い切って直に言ってやろうとでも思ったが、そうした所でますます勘違いして図に乗るだけだろう。







「実に仲の良い親子のようでしたな」

「やはりそうか。喜兵衛がそういうのであれば間違いなかろう」

「捨て扶持を与えるのも惜しく感じますが」

「一兵卒ぐらいなら使える。と言うか命令さえいう事を聞けばああ言うのはああ言うのでなんとでもなれるわ」


 確かにおとなしく自分たちの言う事を聞いてくれているのならばあれはとんでもない武勇を発揮するかもしれない。


 躑躅ヶ崎館に戻るなり景恒を処分した方が良いのではとか言う事を言い出そうとした喜兵衛をたしなめるかのように信玄は手を振り、言うべきことを言い終わるや湯を一杯すすった。




「ですが此度の遠征には正直……」

「何、景恒とやらには悪いが連れて行くつもりはない。浅井の本拠地が見えるまではな」

「それは……なるほど……しかし小谷城となるとこれは相当な後の話ですぞ」

「知らんのか。どうやら浅井は小谷城を捨てるらしいぞ」

「今浜に移ったと言うのですか」

「いや、金ヶ崎だ」







 浅井長政自身、居城を金ヶ崎へと移す旨隠すことなく言いふらしている事もあり、五日前に始まった遷都作業はすぐさま信玄の耳に入っていた。

 信長も家康も清洲や岡崎から岐阜や浜松に居城を変えているが、だとしても生まれてからずっと躑躅ヶ崎館を本拠として来た身としてはやはり理解の外である。


「しかし金ヶ崎とは、結局美濃を手に入れれば案外すぐと言う事は同じですな」

「美濃より尾張の方が簡単だ。信濃から美濃を臨む事二十幾年だぞ、そんな場所の警戒を怠る奴はどこにもいない。美濃に行くにしても遠江、駿河、尾張を通ってからだ。その後伊勢から伊賀、そして大和を通って上洛しないとは一言も言っていないがな」


 もっとも信玄にしてみれば本拠がどこであろうとも、目の前の敵を砕くだけである。

 実際には美濃まで来たところで浅井の領国はまともに減らないしそれでも妨害はされるだろうが、いずれにせよ景恒などの世迷言をまともに聞く気がない事を分かっただけでも喜兵衛は安心だった。


「やれやれ、疲れる客を拾ったものだな。わしは少し休む。お主も休め」

「ではお言葉に甘えまして」




 信玄が景恒などの相手したくないと言わんばかりに寝転がると、喜兵衛もゆっくりと信玄の元からゆっくりと去る事にした。


(お館様……あなたはあと何年生きられますか?)


 今年になってから、信玄は一日も戦いに出ていない。勝頼にいずれ家督を譲るとか言って、今日のように政務もそこそこに寝てばかりいる日が増えている。


 怠惰なのではなく、健康第一に振る舞っているだけだった。


 今度の戦いは、駿河や遠江を得るだけでは終わらないし終われない。勝頼に安心して徳川家を任せられるようになるまで、領土を増やさねばならない。


 だからこそこの一年を捨てて健康な体を作り、翌年に全てを吐き出すつもりなのだろう。




(にしても……)


 その信玄の元におよそ半年ほど前に届いた、一体誰が書いたのかわからない謎の書状。




「織田も徳川も浅井も、公儀の伝統を踏みにじっております。絶つべき物を絶つ事は是なれど、絶たずとも良い事をむやみやたらに絶つは非と言う物。それを正当なる源氏の後継者として三家にお伝えいただき、この国に正しき道をお示しくださいませ」




 加賀の何とかと言う寺の僧の名前が書かれているが、おそらくは偽の署名だろう。だが偽書だとして、一体何の意味があるのかわからない。武田を戦場におびき出すにも何も、最初からこちらは行く気まんまんだったのだ。それをわざわざ伝えに来るのは、律義を通り越して薄気味悪い。


 まさか景恒と言う猪武者や同類項とおぼしきその父親とは思えない。三家に対し心底からの心配を抱きながらも、灸を据えてもらいたがっているように感じられる。


 この書の真の記し手はおそらく、よほど強い意志を持っている人間だ。その何者かの思いに乗っかる事が正しいのか否か、喜兵衛も信玄もわからない。信玄は一瞥してそれっきりだったが、喜兵衛は気にならずにいられなかった。躑躅ヶ崎館に入り書庫を整理するたびに、どうしても見てしまう。



 十五代将軍様か。それともその傍にいる者か。



 謎の書状の送り手を考えながら、喜兵衛は西側の壁に向けて一にらみした。

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