朝倉景紀、丹後に行く

「なんと、本当なのですか……」

「間違いございません」




 藤堂高虎と言う男に主君の娘が傷物にされようとしている中、景紀は丹後で呆然とした表情を浮かべていた。


 あくまでも自分が愛王を連れ出したのは加賀がもう駄目だからと思ったに過ぎないし、加賀の民の柔弱さ、惰弱さがどうにも気に食わなかったからでもある。


 浅井などと言う簒奪者であり背教者である存在に平然と与するような人間に、景紀は未来を感じなかった。だからこそ平然と坊主が貯め込んだ財宝を盗み取り、愛王共々船を手配して脱出できたのである。


 それでも、敵の敵は味方だと言わんばかりに自分に親身であった頼照が、七里頼周共々破門されている――そう細川藤孝を名乗る男から聞かされた時は何かの間違いかと二度聞き返した。




「石山本願寺は幕府のお味方なのでしょう」

「それなのですが、最近どうも動きが鈍く……攻められなければ動く気がないような状態なのです。そのせいか伊勢の一向一揆もほとんど潰れかけの状態で、志摩の豪族が織田方に付いた事もあり紀州へと逃亡を図る者もいる始末のようで」



 加賀と伊勢長島の一揆が潰れ、伊賀も滅亡。


 南近江の六角氏はほぼ滅亡状態であり、大和はあの大仏殿を焼いた松永久秀の領国となっており、それもまた織田寄りである。

 三好衆はすっかり落ち込んでおり、丹波は内部分裂状態に近く、丹後は小国で隣国の若狭武田が織田寄りのため数に入れにくい。紀伊の雑賀衆も、本願寺が動かない状態ではあまり動けない。


 要するに、畿内に織田を止められる勢力はほとんどないのである。北と東を浅井と徳川が守っているために織田は悠々と西側に兵を向けられる状態の中こんな有様なのだ。


「さらに西は駄目なのですか」

「但馬の山名は残念ですが兵の数が知れており、備前の宇喜多直家と言う男は聞いた所に因れば信ずるほうが馬鹿と言う恐ろしい手合い。中国の毛利は本願寺ともそれなりに懇意ですが、陸路が辿れないとなるとどうなるか……また尼子の残党が織田に接触しているという話もありそれにも手間取っているようで……」



 その上に毛利家は当主の元就が二年前に逝去、嫡子の隆元は夭逝し嫡孫の輝元はまだ二十二で指導力的には心もとない。吉川元春と小早川隆景と言う優秀な叔父二人がいるとは言え、漏れ聞こえる所に因れば元就は中央に出るなと遺言しているらしい。

 つまるところ、本願寺と同じように守りには力を入れてくれるとしても攻めるのに役に立つかはわからないという訳だ。


「ご存知の通り幕府にはもう大した力はござらん。ほぼ織田家によってかろうじて生かされているだけの存在である。明智殿がかろうじて幕府の側に立ち支えているような状態で、この前も木下いや羽柴殿と上様や伊勢殿がもめた際に幕府側の主張を認めて下さったからこそと言う状態で」

「羽柴?」

「織田殿が重用している元農民の家臣です。京で指導的な立場についていますが、古来からの政には全く知識がなく、まあ元よりその通りならば私などこんなに重用されてはおりませんが」

「詰まる所その農民上がりの男が何を?」

「これまでの室町幕府の政や、そのやり方に従う者に対しての厚遇をするなとうるさくて、それに対し明智殿が必死に言いくるめて何とか幕府の意を通しているような状態です」

「明智殿と言えば一時朝倉におりましたが、それが今や織田に」

「ええ、織田に仕え京の理に明るい事で出世しております」


 光秀を囲い切れなかったことをうんぬん言うつもりはないが、光秀と言う織田方に付いた人間の力によってかろうじて幕府が生きている。

 と言うか、織田が幕府の政ややり方にさほど不満を持っていないゆえに生かされているような状態だろう。


「その明智殿と面会は」

「無茶な事をおっしゃらないで下さい、明智殿は織田様の重臣、織田家にとって朝倉の当主は景鏡殿ただ一人。愛王殿はともかくあなたの命はありませんぞ」

「ですがこのまま放置していては」

「浅井がもし北が手空きになろうものならば次は若狭、この丹後、さらに西の但馬や丹波へと……。その場合、幕府にできるのはせいぜい和議を促す事が精一杯。石高からすれば浅井備前守には従三位ぐらいの役職を与えても過大とは思えませぬ」

「そのような!」

「仮に幕府から織田浅井討伐令を出したとしてだ、徳川は織田浅井に背くのか非常に疑わしい。上杉とか武田とか北条とかが京まで来るのにどれだけかかると思われます」




 景紀の頭の中に、深い絶望が巣食って行く。自分の手によりかろうじて愛王だけは救い出せたが、四葩たちは既に浅井の手に落ちている。


(だいたいの問題としてだ、なぜあの時姫様たちは逃げようとしなかった!朝倉の誇りを捨て去られてしまったと言うのか!)


 あの日、景紀は自分にくっついて加賀から逃げ出すように四葩に申し含めていた。だがいくら経っても四葩は現れず、深夜の内に半ば誘拐同然に愛王を連れ出させるのが精一杯だった。


 どうせなら下の姫でももう一人か二人連れ込んで来るべきだったと言う後悔が頭にこびりつき、その上で手勢の少なさを思ってまた絶望した。




 息子の景恒を含む数百の手勢たちと共に一乗谷を脱出したはずなのに、加賀に入った時点で百名前後まで減っており、それから一年以上の加賀暮らしの間に目減りを繰り返し、その時はもう景恒を除くと四名しかいなかった。闇討ちならともかく五人の人間を誘拐させるなど、そんな人数で出来るはずもない。


 その上加賀の民はまったく景紀親子になつかず、せっかく鍛え上げてやったのにも関わらずその腕を、主であり景紀には仲間である坊主たちを害するのに使ったと言うから、船酔いもしないのにめまいに見舞われた。



「細川殿!このままでは、四葩様が傷物にされます!」

「もう諦められよ。あとぶしつけながら貴殿は、恋情に身を焦がした事がないのですか」

「意味が分かりませぬ!」

「だいたい細川細川とか言っても、それがしは支流の支流。たまたま幕府に見初められてこうして前に立てておりますが、しょせんは貧乏貴族崩れ。これだとばかりに家族から誰かを押し付けられる事もなく、庶民同然の身として市井の娘に恋情を抱く事もありました。まあ叶ったか否かについては別問題ですが」


 まじめに物を言えと言い返す気にもなれない。丹後の山深い地での小屋、夏と言えどさわやかな風が吹き、愛王すらも幸せそうに眠る中、景紀はこのまったく悠長な話題を持ち出した中年男の頭をぶん殴りたくなった。


「すると何ですか、四葩様は好いている男子がいると言うのですか、それも浅井に!」

「おそらくはそうでしょう。よって四葩殿以外をこの場に連れ出したとしても四葩殿はなおさらその男子に肩入れしたと考えるべきでしょう」

「どこの誰だと言うのですか!」

「まあ、それは貴殿の方が詳しいと思いますが」


 やけくそのように吠えてみるが、藤孝の返事はあきれるほど能天気だった。


 しょせん幕府が一番大事なのはわかるが、その幕府のために全力を尽くさんとしている家の人間がこんなに必死になって救いを求めているのに、あまりにも悠長すぎるのではないか。


「では愛王様は!」

「いずれ、その出番が来ましょう。それまではどうか、普通の子らしくしておいて下され」

「尼子とやらが西では奮闘しているのでしょう、朝倉がそうなれない道理がどこにあると」

「尼子の跡目とやらはそれなりの年齢らしいですぞ。それとも自分自身の跡目ともはぐれた貴殿が朝倉の後継者となったとして、それで人が集まるのですか?

 熊千代(忠興)も愛王殿には実に良き兄っぷりで、頓五郎(興元)も羨ましがっておられる。武家らしいと言えば体はいいが本当に荒けない子でな、なかなか御せる自信がないのですよ、親だと言うのに」


 早く帰れとしか聞こえない自分にも多分に問題があるのはわかっているが、だとしても自分がいくら求めても得られない愛王のやすらかな寝顔を熊千代とか言う十歳の子どもがやすやすと勝ち取っているのを見ると、自分の無力さを思い知らされる気分になる。




「上様はいずれその爆弾で織田や浅井を吹き飛ばすつもりでおります。むろん一撃で倒れる相手ではございませぬが」

「愛王様を爆弾とは!」

「失礼、とは言えもたついていると越前の民が浅井になつく可能性が高まりますから早めに動きたいと言うのが上様のお思いの様です」

「いつです!」

「上様は武田殿を当てにしておいでですが、困った事に武田の主力たる農兵たちが動けるのは田植えが終わった後か収穫の後のどちらかしかございません。この時期に動けないとなると後は冬しかありません、ですが信州や甲斐だって雪国ですからな」

「来年の春となると、それこそ一年後と言う事ですか!」

「ええ、そうなります」


 足利義昭は必死に上杉と武田の和睦を促し、自分の敵である織田や徳川を討たせようとしている。だが武田の動きは鈍く、上杉は相変わらず関東の国人を守る方にばかり頭が向いている。最近では北条が武田に接近していると言う話も藤孝の耳に入っているが、それとて上杉との仲を良くする訳ではない。

 そして武田の本領たる甲斐も信濃も雪国で冬にどの程度の出兵ができるかわからないし、懐におさめて間もない駿河の民はどれほど武田になじんでいるかわからない。両国以上の雪国である越後は冬になればまったく往来できなくなるが、信玄だって全力を出せる見込みの薄い冬にはあまり出兵したくないはずだ。戦場が雪の少ない駿河や遠江だとしても、どうにかなる物ではあるまい。


「その間に浅井めが四葩様を孕ませ、男児を産んだらどうなります!」

「機を得ねば全てを失います。今の力では武田や上杉の力なくしては我々に打つ手はない、伊勢(貞興)殿もそう上様を制止しております」

「そうですか……」


 朝倉も加賀一向一揆も、領国だけで言えば四十~五十万石は下らなかった。現在の幕府は四十万石はおろか十万石の領国もないような状態であり、それが百二十万石の浅井やそれ以上の織田に勝つにはよほどの存在と手を組むしかない。


 その事をようやく理解した景紀が力なげに腰を下ろすと、藤孝は懐から粉薬を取り出して寝室へと向かい、ちょうど目を覚ました愛王に飲ませた。




「この前も処方した、夜尿に聞くと言われる薬でございます。それから、ほんの一粒ほど、子種に恵まれると言われる薬も……欲しいのでしょう?」

「ああ、ああそうですな……」


 この薬のおかげでもあるまいが、最近愛王は日夜問わず失禁する事がなくなった。それでも起きている時の目付きは力弱く、やたら東の方ばかりを向きたがる。引きはがされてなお故郷を望んでいるのだと思うと実に痛々しく、そして可愛らしかった。


「顕如殿はなぜまた頼照殿や頼周殿を……このような幼気な子を守るために事を為したと分かればあのような処分を下す事はなかったでしょうに」

「ああ個人的に本願寺が最近少しおとなしい事について考えてみましたが、どうやら機をうかがっているようでございます」

「機をうかがう?」

「今のままでは各個撃破されるのが落ち、よって体勢を崩した所を狙うよりなしと」


「だったらなおさら武田が動くのはまずいではありませんか」

「武田……そう、武田なのですよ。上様が利用したいのは…………」




 急に舌が止まり首を落とした藤孝に景紀が顔を寄せると、藤孝は景紀の袖を引っ張った。

「武田を捨て駒にする気であると」

 そう問うた景紀を隅の方まで連れ出した藤孝は、二人っきりになったのを確認するや景紀に耳打ちを始めた。



「実は……」

「そのようなお方が」

「ええ、そしておそらくは、いやこれは上様のお考えを勝手に勘繰るような真似ゆえ」

「では愛王様を上様の元へと」

「それでもいいのであれば……」

「上様が付いておいでなのです、問題はありますまい。では早速」

「わかり申した、三日の内には了解も取れましょう」


 藤孝の口からその人物の名を聞かされた景紀はまず驚き、そしてすぐに藤孝の言葉を理解した。



 それから二日後、景紀は愛王と共に丹後を離れ、幕府の所在地である山城へと向かった。熊千代と楽しそうに戯れる愛王にほんの少しだけ安堵しつつ、その安堵を奪い取った浅井に対する敵愾心をますます増幅させながら。


 藤孝がどれほどまで厄介払いに成功して安堵しているかを知る事もなければ、本願寺を押し留めた存在が誰かも知る事もなくである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る