藤堂高虎、武田信虎と打ち合う

 藤堂高虎と言う人間には、浅井久政と言う枷はない。浅井家が事実上の大名となるきっかけともなった野良田の戦いの時、高虎はまだ五歳だった。




 それからもう、十三年も経っていたのだ。高虎や吉政のような若年層に取っては、浅井の統治者が長政と言うのはまったく常識になっていた。


「攻撃だ!」


 その言葉と共に、高虎を先鋒に据えた一万の浅井軍は動き出した。武田軍との死闘を制した上に飛騨越えを強いられたとは言え、その後の十日間でたっぷり食事を取って来た軍勢だ。もはや体力は十分に回復していた。




※※※※※※※※※




「奇妙様」

「わかっている、我々も続くのだ!」


 その高虎に続くかのように織田信忠も軍配を振った。さすがに一万の軍勢の先頭に立って自ら駆け出す事はしなかったものの、それでも馬上で指揮を執る姿は高虎にも見劣りせぬほどの偉丈夫ぶりであった。



(この若さ、輝きが敵にあるのか?奇妙様と言い藤堂殿と言い、実にまばゆい輝きを放っていらっしゃる。徳川のあの本多忠勝とか榊原康政とか言う若武者たちもみな輝いていた。武田だってそういう者はいた。じゃが越前で見た本願寺勢には……)



 久政軍の中には、若年の者はほとんどいない事を秀吉は知っていた。いるとすれば、本願寺からやって来た僧兵たちばかりである。そして彼らも、この戦況の中で希望がしぼみ活力をなくしていた。


 ただでさえ連戦連敗の上にしょせん生身の人間の集まりであり、いくら欲望から離れようとしていた僧侶だって食欲には敵わないしそもそも食べなければ生きていけない。いくら織田や浅井が仏敵であると教え込まれていた所で、信仰だけで力が出る訳でもないのだ。


 織田の兵もまた、この十日間余りで肥えている。浅井と違ってわざわざ飛騨を越える事もなかったから、あるいはそれ以上かもしれない。



「くれぐれもお命を大事になさいませ」

「わかっている。でも決して無理はしないさ。汚すべき所はきちんと汚す」



 こんな帰趨がもはや見えている戦が初陣で良いのかと言う別の意味での不安がない訳でもない秀吉だったが、それでも信忠の高虎にさせない部分は織田が引き受けるべきではないかと言う姿勢は評価できた。



(浅井殿、藤堂殿、織田の若武者も見事な物ですぞ)



 後方で露払いを務めるべくゆっくりと前進する秀吉の顔は、実に晴れやかだった。




※※※※※※※※※




「ひとりでもいい、仏敵の織田か、天魔の子の藤堂の兵を討て!」

「落ち着いて構えればいい!」


 気合の入った掛け声が飛んだ所で、反応する人間は多くない。


 言われるまでもないではなく、その元気がないだけなのだ。いっその事残っている食糧を全部食い尽くしての突撃とか言うならばまだともかく、久政がむやみやたらに籠城を決め込むせいでまだ中途半端な量が残っていた。あまりにも中途半端な籠城であり、あまりにも不幸な籠城軍だった。

 そんな不幸な境遇から脱出したいと考えるのはまったく不自然な話ではない。




 浅井・織田連合軍の誰もが思っていた通り、簡単に小谷城は開門した。まともに抵抗しているのは本願寺からやって来た一向宗だけで、「浅井久政軍」はほとんど抵抗もしないで投降投降と叫びながら走り回る。



「我々は民たちを守りながら食糧を与える!これもまた戦の一つだ!」


 それで景鏡は高虎に言われた通り、軍勢を指揮して炊き出しをさせている。一向宗に対する恐怖がない訳でもないが、それでもこうしてはっきりと民のために戦えていると思うと少しは気が楽になる。一定以上の年齢、元朝倉軍や久政の代の記憶を残した兵たちを民たちの食糧を与える役に回し、若年兵を敵への防衛や投降の受付に回す。

 ちなみに秀吉も弟の秀長と蜂須賀小六に同じ事をやらせていた事など、高虎も景鏡も知る由はない。



(考えてみれば浅井、いや藤堂のように出向く事もせず越前に引きこもって来たのが朝倉だったからな……あるいは本多弥八郎のような人間を手に入れられたかもしれぬのにな)


 東からまったく攻める事なく飛騨を通って越前に行き、越前に着いたと思いきや大食を与え、小谷城内部の人間を増やし続けさせるなど自分には思いも寄らなかった。自分なら長引けば長引くだけ政治的に不利になると感じ、それこそ頭を熱くして攻めていたかもしれない。



(ああ負けた。本当に負けた。これが朝倉家の当主の出来なのだからな。まったく途中で気付いてしかるべきだろうに、仮にも副官気取りの身ならな!)



 高虎は口では浅井と織田の威を姉小路に示すだの、激戦と飛騨越えの慰労だの言いふらしていた。敵を欺くにはまず味方からでもあるまいが、すっかりその悠長な言葉に従ってしまっている自分がいる事に此度景鏡は気づかされた。


「藤堂殿自ら戦いに向かっている!我々はその後ろを守るのだ!」


 その間にも、得物を棄てた「久政軍」の「兵士」たちが突っ込んで来る。みな食糧と身の安全を求め、藤堂高虎配下の軍勢を当てにしている。これが紛れもない事実だった。

 数少ないやる気のある兵たちが圧倒的に数の多い「裏切り者」を断罪しにかかるが、あっという間に壁にぶつかって消えて行く。あまりにもむなしく散って行く命を前にして、景鏡は炊き出しを続ける事しか出来なかった。




※※※※※※※※※




 後方でそのような事が起っているとは正確には把握しないまま、大将の高虎は自ら兵を率い小谷城へ突入して行く。


「天魔の子め!ここでっ!」

「下がれ!」


 言うまでもなく「久政軍」は高虎を見過ごし、降参の二文字を唱えながら走って行く。一向宗の中には高虎に斬りかかろうとする者もいたが、技量も数も違い過ぎた。高虎の存在を認めた所で得物を弾き飛ばされるか、斬り飛ばされるかするのが落ちだった。


「今だっ」

「おめえ藤堂様に何をする!」


 中には知恵が働いたか民の中に紛れる者もいたが、その民に妨害されて地に倒れ伏し、高虎に後続して駆け込んで行く人の足に踏まれ続けて命を散らした。




「落ち着いて進め。何せ一万八千の軍勢がいるのだからな」

「千八百の間違いではございませんか」


 かようにまったく一方的かつ順調な進軍であったが、それでも高虎は決して速度を上げようとしない。あくまでもゆっくりと、身の安全を確保してから進む。


「しかし一万八千と言う数がはったりでない保証はどこにもないからな」

「まあ確かにそうですね」

「まったく、下野守様に忠義を誓っている存在は本当にいない物だな」

「それがしたちが上総様に忠義を誓っているからでしょうね」


 高虎はずっと、久政と言う存在を顧みる事はなかった。もし高虎が、朝倉を叩き壊し事実上の家臣にしあげく義景の娘まで手に入れた高虎と言う男が、少しでも久政を顧みていたらどうなっただろうか。おそらくはより一層久政をかたくなにさせただけだっただろうが、それでももう少しはましだったかもしれない。




「にしても、これが小谷城ですか上総様」

「ああ、私だってよく知らないけどな」

「しかしなぜまた丸太やら石やらが転がっているのでしょうね?」

「さあな」


 高虎も長徳も、わざとらしく声を上げる。


 山城らしい石段に雑な石垣。そして丸太や岩が大地に転がっている。一見時代に取り残され荒れ果てていたようなこの現状がどういう物か、高虎はすぐにわかった。口ではとぼけて見たものの、内心ではほんの少し信虎に同情していた。


 城がその機能を失う時とはこんな物なのかと言わんばかりに転がった物体は、小谷城と言う場所の終焉を雄弁に物語っていた。


(気持ちは重々わかりましたが、しょせん戦をするのは兵ですぞ……)


 武田信虎は確かに、軍師らしく策を張っていた。いつ入ったのかわからないこの城の縄張りを把握し、それ相応の罠を仕掛けていた。だが肝心の兵たちが一刻も早く逃げようとしている人間の集まりでは、どうにもなる物ではない。それこそ兵たちが、まったく犠牲者を出さないために誰もいないのを確認して罠を発動させたのだろう。



「気を付けろ、ここはおそらく横から敵が」

「お願いします、お助けください!」



 伏兵が出そうな場所にたどり着くや、その「伏兵」が得物を投げ捨てて降伏を申し出て来る。織田に対する兵たちも似たような調子だった。たまに本願寺からやって来た一向宗徒とかち合った所で、圧倒的な数の差により飲まれて行く。










 とにかく兵たちがこの調子だから、情報はあっという間に高虎の耳に入る。




「下野守様は本丸に、武田信虎は京極丸にいるそうです」

「まずは、武田信虎だ。京極丸を目指すぞ」

「ですが愛王様の所在は未だ不明です」

「兵士たちから聞いたのか」

「しかし誰も存じ上げないとの事で」



 この戦における名目的な敵大将は朝倉景昭であり、実質的な敵将は浅井久政と武田信虎だが、この内信虎を討つことをとがめる人間はひとりもいない。


「何とかしたいですけれどな」

「下野守様にとっては、もう愛王だけが最後の頼りだからな」


 高虎は、義兄らしく愛王を呼び捨てにした。まったく面識のない存在だが、一応は身内である。それがもう救えないかもしれないとわかった時には、人並みに悲しみもした。そんな存在にすがりつく久政が哀れでもあり、憎々しくもあった。


「織田様はおそらく下野守様を」

「誠にお優しきお方だ。我々は我々の目的を果たさねばならん!全軍、京極丸を目指せ!」


 一応、美濃にいた時に自分たちが信虎を討ち織田が久政を討つ旨打ち合わせはしていた。


 とは言えこうなってしまうとそれこそ早い者勝ちの情勢である。自分たちがいかに慎重に振る舞おうとした所で、ある種の財宝と言うべき久政を狩りに行かない人間がいないとはどこにも限らない。高虎は浅井の大将として、兵たちの目的を信虎へと向かわせた。



 その藤堂軍が京極丸にたどり着くまで、たいした抵抗はなかった。一応そこまで残っていた人間は降伏などせず必死に抵抗してはいたが、それらが高虎たちにほんのわずかでも痛痒を感じさせるような事ができる訳でもなかった。


 長政の家臣となってからも本丸にさえ入った事もない十八歳の青年が、この戦が終わり次第万石取りになる事が決まっている身分になった。いや、かつて実権を失った守護大名の京極家の当主を押し込めていたことから生まれたこの京極丸にさえも、入った事はなかった。






「貴様だな!藤堂とか言う小僧は!」




 その京極丸の中央の部屋にたどり着いた高虎と長徳たちの目に、聞き覚えた声を響かせながら仁王立ちしている男。齢八十だとはとても思われないような声をしながら、右手で刀を構えている。


「武田信虎殿か」

「おう、貴様を倒せば晴信も少しは浮かばれよう!」


 信虎の周りには若く肌のつややかな僧兵たちが並び、そして信虎の左腕の中には無理矢理にまげを結われ袴を着せられた子どもがいた。




「まさか!」

「そう、朝倉義昭……ああ愛王と言った方が良いか!この童子が惜しくば動くでないわ!」

「動かないとしてどうする気だ!」

「無論、晴信の仇である貴様を討つまでよ!」




 信虎の目と抜かれた業物の刀は鋭く輝き、六十以上も年の違う高虎を貫禄だけで射すくめようとしていた。


「討ってやると言われて討たれるほど人好しではない!」

「ならば答えはひとつよ!」


 信虎の後ろにいたひとりの小男が景昭の後ろで短刀を構えている。それでもまるでひるむ事なく高虎は信虎をにらみ返す。長徳たちがひるむ中、高虎だけは信虎の視線と戦い続ける。

 その間にも小男の刃はゆっくりと景昭の背中に近付き、心の臓を刺そうとしていた。


「赤子を使って勝とうなど、それでも」

「うるさい!晴信の仇を討つためならば手段など選んではおれぬわ!!」

「それがあなたのやり方か!」

「ああそうだとも!武士とはこういう物よ!」


 信虎の声は、紛れもなく武士の声だった。それこそ武田家当主であった時から勇猛さと巧みな戦術で甲斐一国をまとめて来た英傑が、そこにいた。言いたければ言えばいい、だがそれでも目的を果たすためならば何も惜しまない。強き意志が、そこにはあった。


「わかった!これが答えだ!」

「そうか!」


 どんなに汚い手を使おうとも信虎から武士の魂が失われていない事を確信した高虎は、信虎と同時に走り出した。ふたりとともに残っていた兵たちも動き出し、京極丸の広間での刃傷沙汰が始まった。

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