武田信虎、浅井久政、小谷城に散る
京極丸の広間に刀剣の音が鳴り響き、その度に大きすぎる袴を着せられた景昭の身体がすくむ。
本来ならばそれこそでんでん太鼓でも聞かされているべき年齢の童子が、武家の子とは言えそのような音を聞かされて過ごす事がどれほどまでに過酷かは言うに及ばずである。
いくら人数の違いもあって刀剣の戦いはすぐ終わったとは言え、あまりにも過酷な時間であった事に変わりはない。その上に床は血で赤く染まり、人間であった物が転がっている。短刀で景昭を刺そうとした男もまた、長徳により死体になっていた。
「残るはもうあなただけだ。もういいかげん子供を離していただきたい」
「貴様が目の前で腹を切れば離してやる!」
片腕で景昭を抱え込みながら刀を振り、その上でなおまだ信虎が生き延びたのは景昭を盾にしたからだけでない事は明白だった。
業物であったはずの刀は少し刃こぼれしており、まぎれもなくこのわずかな間に何人かと斬り合ったのだ。
「しかし今さら景昭と言う人間に存在価値がどれほどあるのか、もはや朝倉の看板などすり減り切って価値があるのかないのかわからぬと言うのに」
「貴様はこの景昭の義兄なのだぞ!」
「あに……?」
もちろん、景昭と高虎にはあの時以外何の面識もない。急に義兄とか言われた所で、景昭にしてみれば何の言いようもない。
久政により相当悪い事を吹き込まれていてもおかしくないはずの存在は、やけに神妙な顔をして高虎を眺めていた。
「最後におうかがいしたい。なぜにあなたは武田晴信の仇討ちなど」
「わしが親だからよ、貴様も親になれば気持ちが分かろう!せめて最期は親らしく死にたいのよ!」
信虎は見栄も外聞も顧みる事なく、左手で景昭の羽織の首根っこを掴みながら高虎へ向けて突進した。
「危ない!」
その長徳の声と共に信虎は景昭を長徳の方へと差し向けた。長徳をひるませ、高虎へ突撃する間を作ろうと言う作戦だ。
だが、その信虎の右手に、急に大きな負荷がかかった。
「しまった!」
長徳が声を出して注意を引き付けた隙に、高虎が斬りかかったのだ。
いくら信虎が歴戦の武士と言えど、年の分だけ体の動きも遅くなっていたし力も弱っていた。それで体勢を崩し、左手の力をなくしてしまった。
信虎が勝つための盾として来た景昭は信虎の手から滑り落ち、したたかに尻を打った。床に落とされた景昭は泣きわめき、青年と老人の間に壁を作った。その床には血や涙とは違う液体が流れ出し、床を濡らしていた。
高虎は義弟を守るように刀を振りかざして信虎を下がらせ、その間に長徳にひと月前のそれと同じ袴を濡らした四歳児を救出させた。血生臭い戦場に四歳児の泣き声が響き渡り、本人の袴と同じように城内の人間の温度を低めた。
「これ以上子どもを苦しめる必要もありますまい!」
「なればわし自らの手で!!」
それでもなお熱量を落とすことなく顔を赤くしていた信虎は、最後の一撃だと言わんばかりに刀を突き出した。
「ぐっ……!」
――確かに、その技には衰えはなかった。これまで景昭を抱えながら高虎と戦えていた人間が、その枷を失ったのだ。
だがいかんせん、力が足りなかった。
重なり合った二本の刃の内信虎の刀だけが折れて、先ほどまで景昭がいたなごりを残していた湿った床へと突き刺さった。
「三十年前ならば、相討ちぐらいはできたかもな」
「もはやここまででしょう」
「せめて、せめて……」
「わかり申した。これも責任と言う物でしょう」
信虎は急にとろけた顔になって折れた刀を投げ捨て、高虎が兵を制している間に上座の畳敷きの上にあぐらをかいた。
「それで辞世の句があれば」
「そんな物はないわ。親不孝者が道に迷っているといかんからな。早くせい」
後方に回った高虎が太刀を振るうと共に、かつての甲斐の守護大名・武田信虎の命は消えた。
実に武家の当主らしい場所で、武家の当主らしく死んだのである。
(まったく、満足そうに死んだものだ。これはこれで幸せなのかもな)
舞い上がった首は、きれいに着地して介錯人である高虎の方へと向いた。
年相応に皺は増え毛も白くなっていたが不思議なほどに無念さのない死に顔は、ある種の美しさを醸し出していた。
「誰か御首を備前守様へ届けておくれ」
「いずれは武田家にですか」
「それはわからん。それで、下野守様は本丸か」
「後はもう、織田様に任せましょう」
高虎自身には、久政に対する思い入れは何もない。だが長徳の言う通り、浅井の人間として生きて来た高虎が斬ればその名に傷は付く。
「わかった。武田信虎の死と愛王殿の保護に成功した旨だけは伝えておいてくれ」
高虎の命と共に、長徳は我先にと京極丸を飛び出した。高虎は改めて老将の肢体に向けて手を合わせ、ゆっくりと京極丸を後にした。
※※※※※※※※※
武田信虎が散った頃、織田信忠は本丸へと攻め込んでいた。久政の浅井家の中のごくわずかな味方と一向宗徒が揃い、最後の抵抗を試みていた。
「奇妙様、藤堂殿は武田信虎を討ち愛王を奪還したようです」
「そうか、次は我々の出番だな」
質も量も大差があった事もあり、数人対一人と言う構図で次々と久政軍は命を散らして行く。信忠自身も既に何人か人を斬り、そして大将たる人間の下へと歩み寄って行く。その傍らにはすでに城を抑え込んだ秀吉が立ち、織田の兵たちが脇を固めていた。
そしてほどなくして、この謀叛の元締めとも言うべき久政の下へとたどり着いた。
「貴様は!」
「織田信長が長子です」
「ふん、わしが浅井下野守よ!」
信忠が見た浅井久政と言う人間は、あまりにも小さかった。自分が織田の後継者であると知ってもまったく顔を赤くする事もなく、一見極めて冷静に立ち上がろうとしているように見えた。だがその足は震え、鎧もぎこちなかった。
「それで貴様、朝倉様はどうした!」
「ああ、藤堂殿が既に保護いたしました」
久政は三十も下の信忠に対し、まったく腰が引けた様子で刀を向けていた。信忠配下の雑兵たちの方がまだ引き締まった体躯であり、どうにも威圧感がなかった。
「貴様らのは拉致と言うのだ!朝倉様を返せ!」
「あんな赤子に何をさせる気ですか、六条帝でもあるまいし」
「無論、貴様らのような不埒なる徒を成敗するためだ!これは正義なのだ!」
「まともな命が下せる人間を当主にして下さい」
何が何だかわからないまま一乗谷から連れ出され、そしていつの間にか勝手に庇護されて、家臣であったはずの家の前当主に息子にあらがうための道具に仕立て挙げられるなど災難以外の何でもない。それこそ、平家が自らの権力を誇示するために生後半年で擁立し三歳で引きずり降ろされた六条天皇みたいな物である。そんな人間をかつぎ出して一体何をする気なのかと信忠が冷めきった顔をして言葉をひり出す中、久政はやたら床を踏み鳴らしていた。
「わしは朝倉家の摂政だぞ!」
「朝倉の当主……ああもしかして藤堂殿ですか」
「世迷言も大概にしろ!」
「いいえ、義景の息女の四葩を娶っているのですから十分資格はございます」
「ふん、まったく織田の者は本当に腐り切っておる!口の利き方もわかっとらん!」
藤堂殿に義景、四葩――――。
久政にしてみればこれほどまでに不愉快な言葉遣いもなかった。朝倉家の人物を呼び捨てにし、それに遠く及ばないはずの小僧を殿付けで呼ぶなど何様のつもりだと言うのか。それだけでも久政の自尊心は傷付けられる。
「腹をお召しください。今ならまだ信虎のせいにできます」
「あんな老いぼれがいなくともわしはこうして動いとったわ、正義のためにな!」
信忠は、まったく二の句が継げなかった。
その正義は、一体誰のための正義なのか。仮に朝倉のためだとして、もし久政が浅井に朝倉に屈従する事を要求しているのであれば、それこそ久政以下浅井家全員が高虎に屈従すると言う事になりかねない。浅井が大事なのか朝倉が大事なのか、本末転倒以外の何だと言うのか。
「武田殿は武士らしく死んだとの事です。あなたもそうして下さい」
「武士らしい死とは何だこの魔王の若造!」
「もう悪あがきはやめよと言う事です」
高虎は、信虎が景昭を盾に使ったことは伝えていない。ただ最後の最後まで武家の当主らしく、息子の仇である自分に一太刀加えようとしたとだけ伝えている。その上で最後には敗北を認め、高虎に介錯されたと言う事になっていた。なんだかんだ言って、武士らしいし親らしい最期ではあった。信忠からしてみれば、一応親族である久政にも武家の棟梁であった人間としてそれぐらいの事はして欲しかったのだ。
「まだだ、ここで貴様らを討ち朝倉様を」
「ひとりで何ができると言うのですか!」
「世迷言を抜かすな!」
「それはこちらの科白です!民百姓を軽んじて何が当主ですか!」
「藤堂だ、藤堂とか言う小童があの時織田などに尻尾を振りおったのが全ての間違いの始まりなのだ!」
信虎にとって近江は他国であり、その民を息子の仇討ちに利用する事に対する良心の呵責がないのは仕方がない。
だが久政にとっては、近江の民こそ自分を支える存在ではないのか。その民を自分が長政や高虎に対する八つ当たりの道具に使うなど、信忠にはまったく問題外の行いだった。
「まさかとは思いますが、すべてそれだけのためにとはおっしゃいませんでしょうな」
「まったく、わかっているならば早く藤堂の所へ行って首を寄越せと伝えて来い、ほれ」
人間と言うのはここまで醜く笑えるのかと思うほど、久政の笑顔は不気味だった。
たった一人への憎しみを晴らすが為だけにここまで犠牲にできるのか。しかもその上に一体何が残ると言うのか。
「それで藤堂殿の首級を手に入れてどうするのです」
「決まっておる。景昭様を取り戻しあの親不孝者の性根を叩き直すまでだ」
「もうあなたに味方する兵などおりませんぞ」
「黙れ!」
久政は刀を抜き、まったく届かない距離にいた信忠へと突き付けた。
信忠以下誰もひるむ事はない。あまりにも細く、頼りない腕。とても武家の長とは思えないほどの武芸の拙さに、威厳ではなく悲哀ばかりがかもし出されていた。
「まさかと思いますが、景昭殿の姉である四葩をいきなり後家にするおつもりですか」
「朝倉は景昭様がいればいい、織田ごときに這いつくばるような」
「最後にうかがいます。四葩が子を産めばそれは朝倉の子ですが」
「知った事か!」
延々問答を続けても何も変わらぬ久政へと太刀を振り下ろした信忠に対し、久政は震える手で刀を振り上げた。
だが速度も、膂力も、そして刀そのものの質も違い過ぎた。久政が構えた鉄の棒は信忠の太刀によって簡単に叩き折られ、赤い染みの上に落ちた。
「まだ四十八なのでしょう、八十歳の信虎殿の方がまだ迫力がございましたぞ」
「魔王のこせがれめが、織田の犬の藤堂めが……新九郎め、親として情けないぞ!」
得物を失ってなお、まったく敵意は消えていない。だがもともと何の威厳もなかった存在が吠えた所で、何が変わる訳でもない。せいぜい、もともと少ない名声をより一層薄く削るだけだった。
「介錯ならいたしますが」
「どこまでも、どこまでも親不孝者よ、新九郎め……」
「辞世の句でもあればうかがいますが」
「フン……せいぜい聞いておけ」
普段和歌などまったく関心を持った風を見せなかったはずの久政の口から、短歌が飛び出し始めた。
おだにから 立ち木を見ずに 深々と 暗き沼へと 落つる夜かな
「人の将に死なんとするその言や善しと言いますが、まさにその通りですな」
「分かったら早く切れ、ほれこの逆賊め」
「誰か刀を」
辞世の句を聞いた信忠が投げやりに右手を投げ出すと、側にいた雑兵が脇差を抜いて手のひらに乗せた。その脇差を抜いて、信忠は久政の首に当てた。
「もう少しましな」
そしてその脇差が振られた事により、浅井久政の四十八年の生涯は終わった。首級は飛ぶ事なく転がり、そしてその顔は信虎のそれよりずっと苦痛に醜く歪んでいた。
(まったく、何と言う情けないお人だ……あそこまでの恨みをぶつけられるならばもう少し他に使い道もあっただろうに…………)
「おだに」とは小谷城と「織田に」の掛詞であり、「立ち木を見ずに」とは「親」と言う字の分解であり長政が親を裏切ったと言う意味である。
そして「深々」と深いと言う字を繰り返しているのは、「浅」井と「「あさ」くら」の逆つまり両家を裏切ったのだと言う意味であり、「夜」は言うまでもなく「朝」倉の逆で「深々」と同じ意味だろう。そして、「沼へ落つる」と来ている。
どこまでもどこまでも、長政と高虎への呪詛に満ちた歌だった。
本来ならば震え上がって欲しかったのかもしれないが、信忠以下織田の将兵の内この歌で打撃を受けた物はひとりもいなかった。仮に高虎に聞かせたとしても、せいぜいが情けなさからくるため息を吐かせるのが精一杯だっただろう。
恨みつらみと言うより妬みひがみであり、ただただ自分の言う事を聞かなかった事への憎しみだけで全てが出来上がっていた。
「まったく、嫌な相手だったな……」
「いつも敵が武田信玄のような相手とは限りませぬ」
「藤堂殿に取り次いでくれ。浅井下野守を討ったと」
「はっ……」
「ああ誰か、後で藤堂殿に渡しておいてくれ」
信忠は久政の遺体におざなりに手を合わせて頭を下げると、すぐさま尻を向けた。首級については適当に部下に命じさせ、一刻も早くこの場を去る事だけを考えるように足早に歩いた。
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