浅井久政、使者を百叩きの刑にする
長政の下に走れば、目一杯食べられる。
加賀の一揆の民は、逆らえば地獄に落ちると言われて来た。
高虎は朝倉左衛門督の娘婿であり、景鏡以下多くの旧朝倉軍も今や彼の下についている。
武田信玄を討ち取った男が率いる軍勢を相手にする事なかれ。
かような噂が、小谷城の中に蔓延していた。
実際、高虎の部下はこの十日間それこそ太るほどに食べている。
また加賀の民に限らず、一向宗の坊主が庶民を脅す時はいつもその手だった。その事を長政に言い付けられているのが小谷城の民であり、その上に朝倉を立てると言う大義名分も四葩と景鏡の存在がある以上怪しい。
ましてや、武田信玄を討った軍勢と言う肩書きが単純に恐ろしい。
これらが根も葉もない噂ならそれでいいが、全て根も葉もある。真実が靴を履く間に嘘は世界を回るとか言うが、事実より流布しやすい物は世の中にはない。
どんなに耳を塞いでも、いくらでもなだれ込んでくるのだから。
「どうなっておるのだ、信虎殿!」
「どうなっているも何も、本城同然の場所に入ってくる事などあまりにもたやすい話だろうに!間者が入り込んで噂をまいておるのだ!まったく、浅井長政と言う男は目端の利く人間を召し抱えた物よな!」
「一向宗に帰依すればとか言っていた坊主たちはどうしたのだ!」
「どうもせんわ!」
信虎は開き直ったように叫びながらそっぽを向いた。間者を殺すとか言う対処療法をいくらやった所でもはや意味はない。なんらかの根本的な対応策を打たねばならないのだが、だとしてももはや手がない。
「だいたいだ、そなたがわしの言う事に耳を貸さなかったのがいかんのだ」
「何だと!」
「何が長引けばあの親不孝者の士気は萎えるだ!あそこまで嫌味たらしく炊煙を見せつけるような軍勢に士気がない訳があるか!」
「それはあの小童の取り巻きばかりで」
「浅井軍二万五千が全て浅井備前守の取り巻きか、ああそういう事だな!しかも東には織田が待ち受けているのだぞ!はっきり言って浅井よりも強い織田がな!」
信虎が甲斐を放り出されたのがこの久政と同じ四十八の時である。あの時は晴信を引きずり降ろして弟の信繫を立ててやろうと思うほどには、強引で活発だったはずだった。
だが今信虎の目の前にいる四十八の男は、ひたすらに親と言う権威にだけしがみついている。
信忠にとっては叔母であるお市の義父だから義理の大叔父ではあるが、織田が久政を討った所で政治的打撃はほとんどない。それこそ単に同盟を勝手に破棄した不埒者を討っただけだ。
と言うかだいたいの問題として、当主でもない人間が当主の許可なく勝手に兵を動かすなどそれこそ命令違反以外の何でもない。
「あやつに良心など期待したのが間違いだったのだ!」
「ではなんで期待したのだ!お前の息子も晴信よりはましだと思ったがそれ以下だな!
しかしそなたもそなただ!一向宗の坊主を進んで殺すような藤堂とか言う小僧さえいなくなれば貴様のせがれも目を覚ますだろうとか言うのならば、なぜまずその藤堂を殺そうとしなかった!?」
「そなたの兵の指揮が甘いからよ!それこそあの織田の小僧諸共打ち砕くべく全軍を出せば良かったのではないか!」
「止めたのは自分の癖によく言うわ!」
「あやつらいつのまにか姉小路まで勝手に味方に付けおって……!どこまで親に逆らおうとするのか、まったく呆れ果てるわ!」
久政にしてみれば、親不孝者に味方など付くはずがないと思っていた。
親不孝者の長政、仏敵の織田、その両者と同盟関係の徳川。その三者以外の全ての大名が敵となり、敵の敵として自分たちを支えてくれると信じていた。だが実際に味方になったのは、本願寺から送り込まれて来たわずか数千の兵ばかりだった。
若狭の武田は既に織田方に付いているし、丹後や丹波の国衆はまるで動かず、伊勢から足を引っ張りに来たとしても、東側の織田信忠軍を崩すのがせいぜいで北側の藤堂の軍勢のそれを止めるのはとても無理である。そしてほとんどが素人の小谷城の兵は、藤堂高虎率いる一万の軍勢にとても勝てる状態ではない。
そして言うまでもなく織田領となっていた南近江を通過しなければならなかったため、肝心要の兵糧を運び込む事ができなかった。これでは口減らしどころか口増やしであり、負担をますます重くしただけである。ましてや今は時期の問題もあり、百姓に余計な米を出すゆとりなどない。あったとしても、長政ならともかく久政に出す民はほとんどいなかった。戦前に無理矢理奪い取った金穀を蓄えて振り分けていたが、その結果当然の如く農民たちは越前や美濃へ逃げ出してしまい、そうでない者は人狩り同然に小谷城に押し込まれ「反長政・反高虎・反織田の尖兵」にされていた。
「どやつもこやつもそんなにあの親不孝者が好きか!」
「好き嫌いの問題かではないわ!要するに浅井長政と織田が勝つと思っているだけだ!」
「もはや援軍は望めないとでも言うのか!」
「だったらなおさら開門するしかなかろう!」
「開門してどうしろと言うのだ!」
「織田でも浅井でもいい、どちらかと共に死にに行くのだ!」
「籠城しておれば手が出せぬわ!」
「あと何日こんな事を続けられると思っている!いいかげん命を惜しむのをやめろ!」
いくらわめいても米が出て来たり、兵士の練度が急に上がったりする訳でもないのに二人とも罵倒合戦をやめようとしない。長政がどんなに活躍していても久政に付いた人間たちすら、腰を浮かしかけていた。
「おやめください、腹が減りますぞ」
「腹を減らして何が悪い!飯はあとどれだけあるのだ!」
「このままですとその、もって十日……」
高虎が小谷城から逃げ出し、その後飛騨を回り越前に到着し敦賀にたどり着くまで十日かかっている。さらにその上に十日以上対陣しているのだから、都合それだけの間無理矢理に増やした兵の胃袋を満たさねばならなかった。
本願寺の僧兵に強行的な取り締まりをかけさせたものの、その僧兵とて胃袋で動いている。一日一食の生活が、もう何日も続いていた。信虎や久政さえ二食であり、栄養不足で顔色が黄ばみ始めていた。
「申し上げます」
「聞こえんぞ!」
「申し上げます、藤堂が使者を寄越してまいりました」
それは伝令兵もまたしかりであり、満足に声を上げる事も出来ないし走る事も出来ない。空きっ腹を抱えて声を上げ、まともに飯も食わないのに肥え太った二人の男を正門の前まで、腹の空かない速度で連れて行く。
「なぜ追い返さなかったのです」
「向こうが仏敵で悪逆非道の織田だからな、わしらは慈悲を見せねばならん」
「ですが使者は」
「織田も藤堂も同じだろ。おい、しゃんとせんか!」
城主と副将同然の人間が言いたい事を言いながら門へ向かって歩く中、多くの兵士たちは二人に向けて無気力な目線を投げ付ける。
その姿は、まさしく今の小谷城にとって平均的な兵の姿だった。久政がどんなに吠えた所で、ほんの一瞬背筋を伸ばすのが精一杯だった。
「誠にありがたき事にございます」
門の前に立っていた浅井の使者を名乗る坊主らしき男は久政の姿を見るや、叩頭しながら懐から書状を取り出した。その書状をふらつく足取りで近寄り力なくつかみ取った兵士は久政に書状を渡すと、ぐったりと倒れ込んだ。
それでその兵士よりはましな顔色をした久政が書状を開くと、それと同時に顔に満足に流れてないはずの血の色をたぎらせた。
「何だこれは」
「ご覧の通りでございます」
「謹んで申し上げます。もし下野守様が愛王殿を引き渡した上で投降するのであれば、この藤堂与右衛門の名を賭けて天寿を全うさせる事をお約束いたします。また武田信虎公並びに一向宗についても同様に、故地に戻れば一切追う気はございません。
どうか、近江の民のためにご英断なされよ」
高虎の字で書かれたこの書状を、久政は丸めて使者に投げ付けた。
「ななな何を」
「くだらん棒読みはよせ!何がおとなしくすれば命までは取らんだ!」
「そのような!」
「嘘吐け、最初から想像していたのだろう!」
「そ、そのような事があろうはずがございません!」
「だったら何だこの書状は!」
「ですから大名に限らず武士とはあくまでも民の支持あってこその存在で」
軽輩の分際で何が命を守るだ。どうせ他のさかしらぶった連中の言葉で簡単にひっくり返されるに決まっている口約束に何の意味があると言うのだ。その上にあれほど散々殺した一向宗や武田の者の命まで救おうとするなど、欺瞞に満ちた独善ではないか。
仮に全てその通りになったとしても、おそらく自分は髪を切られ小寺に押し込まれる。その上で長政と高虎の暴挙を止める事も出来ない。景昭はおそらく殺されるか良くて小坊主。「朝倉家」は信長によりかつがれた景鏡と、四葩を犯した高虎に持って行かれる。
久政の頭はすぐさま死んだほうがましだと言う結論にたどり着いた。
「貴様などの説教を聞く覚えはない!こやつに百打の刑を加えてやれ!」
「ちょっと!」
「……」
「誰もやらんのならわしがやる!棒を貸せ!」
久政は木の棒を兵士からひったくると、適当に数をわめきながら坊主を殴った。まるで目の前の人間を殴ればすべてが解決するかのように、時に笑いながら殴った。
信虎も当然だと言わんばかりの顔をして坊主を見下ろし、本気で唾を吐いた。
そして八十六まで行った所でわしは慈悲深いからこれで許してやるとか吠え、棒を投げ捨てた。
「あの若造に言って来い、貴様と織田の小僧の首を差し出せばそうしてやるとな」
久政はまともに顔も知らない高虎への恨みを募らせながら、傷だらけの坊主を放り出して城門を閉じさせた。
※※※※※※※※※
「すぐさま手当てをしろ!」
まったくひどい結果になって帰って来た坊主の手当を兵士にさせながら、高虎は天を仰いだ。
(あな嘆かわしや下野守様!)
他に何も、言いようがなかった。ここまでやっておいて、まだ意地を張る理由がいったいどこにあると言うのか。高虎はつくづく気分が悪くなった。
信虎についてはまだわかる、だがその信虎にさほど引っ張られている様子のない久政がなにゆえここまで意固地になるのか。
本願寺だって、自分の信仰のために戦っていると考えれば理解もできた。だが久政が戦う目的が何なのか、高虎にはてんでわからない。
兵士に取っては働き相応の賞をくれる人間が良い主人であり、民に取っては良い政治を行ってくれる人間が良い領主なのだ。今の久政は、あまりにもその点不適当だった。
越前と加賀を加え百万石の主となった長政は、もちろん多くの家臣たちにその領国を分け与えている。その分だけ家臣たちは富み、その結果忠誠心も高まっている。彼らが今さら久政になびくはずもない。ましてや朝倉景昭とか言う幼児を看板として引きずり出そうとした所でひざまずく人間などひとりもいない。
高虎はため息を吐きながらも、自分の幸運に感謝した。
(そしてこれで完全に下野守は退路を失ったか……本多よ、まったく恐ろしい男だ)
最後の救いの手を自ら薙ぎ払うような人間だとなれば、いくら世間の目も甘くなる。その時こそ、いよいよ本格的に久政を討つ理由もできると言う事である。その事を飛騨越えの最中に知らされた時には、感心すると同時に恐ろしくもなった。
ましてやわざわざ飛騨を通り、武田信玄を討った一万の軍勢と言う圧倒的な力をもって飛騨の姉小路を三国同盟に取り込んでしまうなど思いも寄らなかった。この結果越前はもはや四方とも浅井の勢力圏であり、それこそ文字通りの本拠地となる。そしてそれは相対的に、小谷城と言う場所の地位を落とす事にもつながる。
「もはやこれまでとはこの事でしょうな……」
「朝倉殿。愛王殿は何を望まれる?」
「母のぬくもりと、やすらぎの時を」
「その通りでしょうな。確かにそれがしは愛王殿、いや義弟から多くの物を奪った、もうこれ以上何を奪えと言うのか。あるいは身柄を奪った者もこうなるはずではなかったと言う思いもあったのかもしれないですが、いずれにせよもうこの辺で終わりにすべきでしょう」
越前で生まれてすぐ父と家を奪われ、加賀に連れ去られて権力闘争にも巻き込まれそうになった所で、またもや連れ去られて姉たちとも引き裂かれた。そしてこれである。まだ数えで四つだと言うのに、どれだけの因果があったらこんな人生を歩まねばならないのだろうか。
「戦後は義兄であるそれがしが引き取り、ひたすら安らかに過ごさせます。その際には無論朝倉殿にも」
「わかっております。朝倉家はもはや、浅井家の、いや藤堂家の付属物です」
景鏡のその言葉を久政が聞けば、それこそ全身から血を吹き出して倒れたかもしれない。
しかし間違いなく、事実だった。自分の力では城一つ守れない朝倉にはもう、戦国大名の価値などはない。その事を景鏡自身が身に染みてわかっていた。
何より高虎が四葩を庇護してからと言う物の、一旦四散しかけていた朝倉の旧臣たちが一挙に集まって来た。そしてその後の婚姻でいよいよ完璧に固まり、ついであの武田との戦いで本当に一体になった。
「もはや猶予は要りますまい」
「それがしは、備前守様しか知らない男ですから。その人間の手によってこそ、次代は切り開かれましょう。全軍、翌朝攻撃!」
高虎はついに、総攻撃の命を下した。
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