藤堂高虎、飯を喰う

 そんなこんなで士気の高い一万の軍勢の真ん中を、高虎は景鏡と共に進んだ。この三年間で乗り慣れた馬の上で、黄色くなりつつある木々の中を通るその姿は、間違いなく大将のそれだった。




「景鏡殿、ずいぶんと嬉しそうですが」

「それは無論、愛王様が生きておられるとは」

「間違いないのですか」

「おそらくはとしか言えぬが、とりあえず朝倉愛王を名乗る人間がいた事はありがたい。

 だがあのような事を言わされる姿は、まことに痛々しい」




 景鏡の言う通り、まだあのような四歳児がわざわざ戦に巻き込まれて命を落とす必要はどこにもない。とても自分の意志があるとは思えないその言葉を聞いて、もし高虎がひるんだり城内の者の士気が上がったりすると考えるのならば、それこそ相当に無礼ではないか。



「もはやそれがしは愛王の義兄です、義兄として弟をなんとか救出せねばなりません」

「そうですな、あるいはだからこそ朝倉家を盛り立てるには邪魔な存在なのかもしれませんけれどな」



 朝倉義景の娘と言う身分からしてみれば高虎は親の仇同然の身であり、大名の娘であった身分として見れば高虎はほんの少し前まで足軽だった軽輩である。

 一応この戦で万石取り近い身分にはなる事が保証されているとは言え、六十万石の大名の姫君であった身と比べればまったく零落しているとしか言いようがない。だと言うのに四葩は、妹たちの面倒をよく見ながら動き回っていた。


 満足にやった事のないはずの飯炊きや洗濯だって、それこそ白魚のようだった手を巌のようにするまで必死になっているらしい。まったく身分の違う舅と姑との付き合いも大変であり、それこそ婚姻を結ぶなり遠江まで遠征させられて自分の事をほったらかしにしていると言うのにだ。今は子を孕んでいるからさすがに控えているだろうが、それこそこの戦が終わり次第、改めて父母と共にしばらくゆるりと過ごさねばならないだろうと高虎は実感していた。



「一応それがしを含め朝倉の旧臣の子女が藤堂殿の屋敷に入り手伝いをしているようですが、それでも四葩様は気丈にいろいろなさっておいでのようです」

「そうか、ある意味悪夢かもしれませんがね」

「裏の裏は表と言いますぞ」



 今の久政にとっては、それこそ朝倉を盛り立てる事がすべてだった。

 その朝倉の正統なる血族が嬉々として高虎などと言う輩の下で動いていること自体何かの間違いでしかないはずだ。だが今の四葩は高虎が死ねば誇り高く死にそうであり、それこそ久政にとっては正真正銘の悪夢でしかないだろう。



 高虎軍の中には浅井と藤堂の旗、姉小路の旗だけではなく朝倉の旗も混じっていた。小谷城にも浅井と朝倉の旗が混じっており、どちらが正統なるそれか決めようと言う戦にも思わされる。




「一万八千って向こうは言いふらしておりますが」

「その一万八千の内何人が女性でしょうか」

「わかりかねますな」


 一万八千と言えば、だいたい七十五万石の大名の兵力である。もちろん強引に動員をかければ六十万石ぐらいでも何とかなりそうだが、いずれにせよ北近江と越前全ての合計並の石高がなければ出せる兵数ではない。

 本願寺が援護しているとしてもせいぜい四、五千人だろうし、久政が自由にできる領土などそれこそ一万石はおろか百石もない。一万八千と言う数は、それこそ女子供老人全部かき集めた数と言っても差し支えないはずだった。


 浅井はまだ織田のように、はっきりと兵農分離ができている訳ではない。高虎軍一万のうち芯からの武士は景鏡などの将の譜代の千名程度であり、あとは農家の次男三男が口減らしのために出されているか職にあぶれて志願したかのどちらかである。それでも一応訓練は積んでいたし、旧朝倉軍に至っては武田勢との戦いをくぐり抜けた面子である。


「まあいずれにせよ、とても強いとは言えないと言う事ですね」

「まあ、そうです」


 この素人が大半を占める軍勢の中で、こんな会話を高虎と景鏡は何度も繰り返した。時には長徳も加わって同じ事を言い、ゆっくりとした速度で進んだ。







 普段ならば三日で行ける小谷城へと五日間かけてたどり着いた高虎たちは、阿閉貞征と交代で陣に入った。


「阿閉様」

「阿閉殿で良い、まったくとんでもない奇功を挙げた物よ。わしもついカッとなって馬鹿な事を……ああ繰り言はいかんな。ではどうか頼むぞ。こういう仕事はお館様しか知らぬ人間に限る……」



 少し老けた貞征が高虎に頭を挙げさせながら入れ替わるように去って行くと、高虎はすぐさま馬上の人となった。



「もう少し陣を進めて下さい」

「よろしいのですか」

「構わないです、五千の兵で陣を張り残る五千で小谷城を見張っていてください」



 型通りの質問をした景鏡に対し、高虎は首を大きく縦に振った。ゆるやかな行軍で疲れの取れていた兵士たちは景鏡の指揮の下ですぐさま陣を組み始め、高虎は長徳と共に小谷城の方に視線を送った。




「山城らしく、攻めにくそうな城だな」

「上総介様はいかほど登城なさった事が」

「二、三度しかないな。それこそほぼずっとはるか高みと思うような身分であり、そうでなくなった所で金ヶ崎に住むようになったからな」


 小谷城周辺は確かに交通の拠点でもあるが、同時に古めかしい山城でもあった。攻めにくく守りやすいは城の基本だと言わんばかりに、幾十年前の常識をなぞったような城。今改修工事が最終段階に入っている金ヶ崎城、広大な敷地を持った平城とは大違いである。


「磯野様によれば織田軍も同じ一万か、それに赤尾様の五千が共にいる」

「大将は確か」

「奇妙丸殿だ。ああそれから副将は羽柴殿らしい」

「いずれにせよ、兵力は五分五分ですか」


 自分とひとつしか年の違わない男が織田軍の総大将である、つまり北からも東からも十代の男が万を超える数の兵を率いて迫って来るのだ。


 歴戦の雄を気取る久政と信虎にとってはまったく面白くない話のはずだったが、二人とも決して頭に血を登らせる事もなくじっと門を閉じて構えている。



 その二人が言いふらしている一万八千と言う数を真に受け、かつ赤尾勢の五千を数に入れにくいとすれば、数的にはほぼ互角である。


 同数の相手に城攻めをかけるのは面白くない。それにこの数の大半は浅井家の者であり、それ以上に庶民である。下手すると、ここにいる兵たちの家族が混じっているかもしれない。


「織田様の軍勢は未だに攻撃をかけていないようです」

「下野守なら織田の御曹司様を殺しに来るかと思ったのだが、それもせずに一体何をやっているのやら」

「その代わり紙ならばいくらでも撒いておりますがな」



 長徳はうんざりしたような顔をしながら、高虎に一枚の書状を渡した。




「朝倉宗滴は浅井家を大名にするべく粉骨砕身して下さったお方であり、今日の浅井家があるのは全く宗滴様のおかげである。ゆえに、その朝倉を踏みにじる様な忘恩の徒たる藤堂高虎とか言う輩はまったく浅井の逆臣であり、人の皮を被った天魔である。

 本願寺もかの物を天魔の子と呼び、討ち取った者には万金を与えると称している。現世利益を求めるのであれば、かの物を討て」




 家族たちの事すら書いていない。ただただ、高虎の悪を並べ立てているばかりである。

 その上で、者ではなく物と書く事がほぼ全てなのだろう。


 脅迫めいた何かがある事は覚悟していたが、これがもし最大限の脅迫であり人心を揺るがせるのだと信じているとしたら哀れにすら思えて来る。



「信虎は何か」

「親が子の仇討ちに走るは自然な事。織田とて武田から見れば十分に仇、そんな人間に向かって何かを言った所でああそうでしかない」

「下野守の書状を信虎が代筆する事は考えられませぬか」

「信虎はここで死ぬつもりだが、下野守は違う」


 信虎は年齢からしてもこれがおそらく最後の舞台であり、高虎なりに信忠なりに一撃加えて倒れるつもりでいるが、久政は朝倉の遺児である景昭を盛り立てるためにもまだまだ生きていたい。

 そんな両者の方針が、ただ高虎憎しだけで嚙み合うはずもない。



「それでどうなさいますか」

「食事を取らせろ」

「えっそんなまさか!」




 その気になれば半刻で突っ込める場所に陣を張り、その上にその中で食事をさせる。

 あまりにも大胆と言う他ない。長徳は当然ながら反発したが、すぐさま後ろから美味そうな香りが漂って来た。


「いったん陣作りは休憩だ、その前に食事を取れ!まずは二千五百人だ」


 景鏡の指揮の下、まず二千五百の兵が手を止めて椀と箸を持つ。残る二千五百が給仕となり、食事を盛り始めた。


「お前たちはその後だ。食事が終わったら陣作りしてもらうからな、よろしく頼むぞ、ああすまない、私とて腹は減るのだ」


 高虎が横を向いて小谷城を見張る兵にもう少しの辛抱である旨を告げると同時に、腹の虫が不平を訴えた。

 それと共に兵士たちの顔も緩み、やがて来るその時まで耐えればよいのだとばかりに唇を噛みしめて小谷城をにらんだ。


「やっぱり上総介様も十八の男ですな」

「ここにはそんな人間山といるからな、ああうまい!」




 そして四半刻後ようやく景鏡との交代で食事にありついた高虎の顔は信玄を斬った時のそれはみじんもなく、ただの好青年になっていた。


「いいか、しばらくこの調子で陣を張り続けろ。我々は織田様の軍勢が動くまで決して動く必要はない。そのつもりで飯を食え」


 やがて椀の中身を空にした高虎は口を拭いながら兵士たちに向かって呼びかけ、再び馬上の人として景鏡と交代するかのように陣作りを見回る役目に回った。







 その日からずっと、藤堂軍は毎日三食豊富に与えられるようになった。もちろん一万人全員がずっとと言う訳には行かないが、それでも五千ずつ交代で警備に回り朝昼晩問わず米飯を遠慮なく与えていた。




「順番守れよ!」

「今日もこんなに食っていいのかよ」

「まあな、あの武田と戦って生きて帰った褒美だと思えよ」

「で、喰い終わったら訓練でしょ交代で」

「警備だよ、警備!しっかり南の方を見ようぜ!」

「寝るんじゃねえぞ、夜ならともかく昼間っから」




 兵士たちは丁重に列に並びながら、食事を受け取っている。そして食事が終わるとすぐさま警備に向かい、ただ南を眺めながら過ごす。

 ちょうど収穫間際の過ごしやすい時期であり、そのため非常によく眠れた。藤堂軍の兵士たちは敵の眼前だと言うのに非常によく眠り、そして気持ち良く目覚めた。寝ずの番も千数百ほどいたが、それとて数日に一度の役目であり大した苦労でもなかった。


「本当にいいんですか」

「構わぬ、陣をしっかり守ればいい。何せ連戦続きだったからな、ゆっくり休んでくれ。私だって休みたいんだから。

 ああそれから、抜け駆けだけは絶対に禁止だからな!」


 高虎は兵たちに向かって手を振り、ゆっくりと陣を見回った。その声は年の差を考慮して遠慮している事を差し置いてもずいぶんと小さく、そして穏やかだった。それでいて、重要だと判断した所は声高に叫ぶ。実に高虎らしく、そして別に複雑なことをしているわけではないが、こんな風に懇切丁寧にしてくれる人間の言う事だからと言う思いが兵たちに伝わって行く。


「食事を取り、体を休める事も戦いの一つだ。いざと言う時に腹が減っていては力は出せない。炊煙をいくらでも上げよ、どうせわかりきってるんだからな」


 天竜川で見せた振る舞いと同じかそれ以上に大胆な言葉だった。もちろん高虎とて織田が動くのであれば自分たちも動かねばならないのはわかっているが、それでもそれまではゆっくりとしているつもりだった。










 そんなこんなで高虎が浅井方の総大将に任命されてから三日で陣は出来上がり、さらにそれから七日間が経った浅井陣は、ずいぶんとのんびりした空気が流れていた。


「織田様の軍勢は動かねえのかなあ」

「片方だけ攻撃してもしゃあねえだろ、両方から攻めてこそうまく行くんだよ」

「じゃあ織田様の軍勢が動いたら俺らもっつー事か」

「まあ、そうなるな」

「ったくよう、藤堂様もすげえよな。ついこないだまで雑兵だったのが今じゃ一万の軍の大将かよ」

「じゃあお前に武田信玄が殺せるのかよ」

「だよなあ!」


 夜、盛んにたいまつが焚かれる中で雑談を交わす兵たちには笑顔があふれている。

 武田との戦い、それから飛騨越えの上に次は主君の父親との戦いと言う状況だと言うのに兵士たちの口は軽い。こうして敦賀に生還した時点で相当な恩賞は約束されているし、その上今度の敵は単純な強さで言えばかなり弱い事を知っている。


 油断をしてはならないが、逆に油断さえしなければ間違いなく勝てる。それが、この戦に携わる兵士たちの共通認識になっていた。


(藤堂軍になってしまったな……)


 高虎が苦笑いを浮かべる中、兵たちは美食を楽しみその時を待っていた。







 そしてこの時、織田勢もほとんど同じ事をしていた。羽柴秀吉の指揮の元兵たちは陣を作り、食事を取り、そして西を見張っていた。信忠もまたこの秀吉の方針をすんなりと聞き入れ、その上でまた別の一手を打つ事もまた了解していた。

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