藤堂高虎、総大将に任命される
ここで時は少しさかのぼる。
久政と信虎が吉政と高虎たちがわざわざ飛騨から大回りをして越前へと帰って来た事に気付く二日前、金ヶ崎城に戻って来た四人を長政は温かく出迎えた。
「武田信玄を討ち取っただけでなく、さらにその上にこの様な成果を上げるとは」
「どこまでももったいない言葉でございます。あくまでも織田様の命を果たしただけでございますゆえ」
「此度の武田との戦いで我々は武田に相当な打撃を与えました。もはや武田の様子をうかがう必要もないと思われたのでしょう」
「敗戦ってのはそういう事なんだろうな」
長政は東の方を向きながらため息を吐いた。
浅井も織田も飛騨と言う地に関心がなかったわけではない。だが実りが少なく攻めにくい国であり、ましてや下手に取れば武田信玄と接敵する危険性があった場所に割く力はなかった。
そして飛騨の北の神保はともかく西の浅井及び南の織田、そして東の武田は強大勢力である。守るならともかく攻めて食い破るのは非常に難しく、それこそ八方美人を気取るしか生きる望みはなかった。そんな中平衡が崩れたとあらば重くなった方に乗っかろうとするのはまったく自然であり、素早く手を伸ばした信長の手腕も見事だしそれに乗っかった自綱もまた機敏だった。
飛騨には自綱に反発する国人もいたが、浅井軍一万三千と言う数の前にはまったく手も足も出せないまま通過を見送るしかなく、さらに織田の手により現在進行形で自綱による飛騨統一の手助けが行われている。
浅井も織田も基本的にただの大名のはずだが、この時期にもなると両者ともその強大さから自ら擦り寄りに来る勢力を生み出していた。ここに来たのは旗一本と兵百名ほどだったが、いずれにせよほどなくして飛騨が織田浅井の第二の通り道になるのは間違いない。
「しかし、まさか大殿様が」
「わしも正直言葉がない。あそこまで凝り固まっておったとは……」
「ぶしつけながら、なぜお気づきにならなかったのでございますか」
「あの武田信虎だ。いつの間にか小谷城に入り込み、情報を封鎖してひそかに挙兵の準備と整えていたらしい」
「それで数は」
「一万八千と号している」
「あなおいたわしや、愛王様……」
長政はひざまずく高虎と同じ高さまで目線を落としながら頭を抱えた。小谷城と言う本拠地であった地にわざわざ間者を送る事はあるまいとその手の人間を能登や越中、あるいは遠江にまで振り分けていた結果、その日になるまで長政以下誰も気付けなかった。
それで一万八千も兵力を秘匿していたなどと言うのは無理があったはずだが、少なくとも本人たちとしてはまったく真剣なのだろう。政澄は何も言いたくなさそうにそっぽを向き、景鏡は愛王を哀れんでいた。
「その上で何らかの対応をなさったのですか」
「無論既に清綱に南から織田殿と共に兵を付けて向かわせている。その上で北から貞征を送っている」
「お館様は土田御前様のお話をお聞きになった事はございますか」
「ああ、義兄上の母君様の」
「最近は奇妙丸様を初めとした織田様のご子女とも時に戯れておられるそうですよ」
「もしこの戦いで敗れれば万福丸様たちとも戯れてくれるかもしれませんが」
「もし市がどこの馬の骨とも知れぬ身ならな」
土田御前が信長を嫌い、次男の信勝を立てていた事をお市を通じて浅井家の皆は知っている。その上でお市が嫁ぐ前に生まれていた、奇妙丸以下信長の子どもとは最近になってようやくではあるが平気で接していた。
面の皮がうんぬんと言うべきかもしれないが、だとしてもやはり孫であることには変わりはない。やはり孫とはそれ相応に可愛い物であり、その分だけ怒りや悲しみも解けたのかもしれない。
その上での吉政の言葉に、高虎も長政も、作り笑顔で冗談めいた言葉をもらした。
久政にとって最大の敵は織田であり、その織田に携わる者は全部悪であると言うのが絶対真理だった。その織田の血が混じっている万福丸や茶々など、ただの織田の眷属でしかないのだろう。
「それで何か下野守様は要求を」
「市と離縁し、越前を自分が保護した景昭様に明け渡せ。そして高虎の首を寄越せと」
「非常に分かりやすい事ですね」
そしてその高虎の想像を肯定するかのような久政の要求に、吉政は首をわずかに縦に振る事しか出来なかった。
詰まる所、自分が好き放題できていた時代に戻せと言う事に過ぎない。その上に好き放題栄耀栄華を楽しみたいではなく、織田や徳川とのまったく勝ち目のない戦いを行い、みじんも持ち上げられる気のなさそうな四歳児にかしずき続ける事が望みだと言う訳なのだ。
「ふざけるなの一言に尽きますね!」
「高虎!」
「そうなれば北近江は戦場になります!仮にそれがしが死んだとしてもお館様を慕う者はとても多く、浅井家は父子で真っ二つに割れてしまいます!その時一番痛い思いをするのは庶民です!」
その意味を理解した上での高虎の吠える言葉が、久政の耳に入る事はない。入ったとしても、ただの命を惜しむ負け犬の遠吠えとしてしか聞こえないだろう。久政は生まれた時には既に北近江の大名の息子であり、父親が亡くなるや一旦は南近江の六角に従い、その間狡猾に立ち回り北近江の支配者の地位を確立したのは間違いなかった。
だが織田という存在が現れてから、久政はおかしくなって行った。まるで織田に反発するかのように朝倉に寄りかかり、織田に携わる物を嫌うようになった。
例えば今小谷城には、ほとんど鉄砲はない。紀州の雑賀衆や伊勢長島の一揆勢が好んで用いている兵器を、信長が用いていると言う理由で久政は拒んでいた。それでも信虎はひそかに持ち出していたが、それでも二十丁にも満たない数しかなかった。
「武士が武士でいられるのは付いて来る民のおかげであり、将が将でいられるのもまたしかりでございましょう。久政様は、この事をお忘れになってしまったのでしょうか!」
久政様———―それが高虎の感情の全てだった。一応様付けこそしているが、久政という名前での呼び方をする事自体、上から目線のそれでしかない。
向こうから名指しされたとは言え、主君の父親に対してはっきりと喧嘩を売ったも同然の言葉を吐き出しながら胸を反らした高虎に、吉政さえも思わずひるみそうになった。
「高虎。此度の戦、そなたに任せる」
「ええっ!」
「この戦、おぬししかこなせぬ。四葩殿やその妹御たちのためにも、どうか頼むぞ」
そうやって主君の前で胸を反らしていた高虎をひっくり返すかのように、長政は総大将の役目を投げ与えた。
確かに天竜川の戦いでは一万三千の援軍を率いて遠江まで行ったものの、それはあくまでも浅井政澄と明智光秀にくっついて行っただけであり、副将らしきことは何もしていない。雑務は景鏡らに丸投げに近く、作戦だって信長のそれに追従したに過ぎない。
「いつまでも雑兵の真似事をしていては困るからな。その点うまくやってくれると信じている、だから頼む。ああそれから吉政には済まぬが、後方に控えてもらいたい」
「しかし急な事で兵たちの宿舎や恩賞などがありまして」
「その点ならばすでに解決しているぞ」
吉政が長政の右手人差し指の方向に首をひねると、三列後ろに背の低い男がいた。本多正信である。
三河で出会った時のように猫背で自己主張する気がないのが見え見えだったが、それでもその存在は勝手に大きくなっていた。
「本多正信とか言ったな、まったく見事な働きだ」
「どうしても初手柄が欲しかったゆえつい出しゃばってしまいまして、飛騨越えの道中で暇ができるたびにそうしておりました」
久政の謀叛に「朝倉景昭」の出現、さらに武田信虎の登場とあまりにも急な展開での飛騨への進軍の中で、天竜川の戦いの恩賞などまとめる暇などなかったはずだった。
「うむ、実に見事な働きだ。高虎、しっかりと加増してやれよ」
「はっ。では正信殿、後方はお頼み申しますぞ」
「なあ藤堂殿、その正信殿と言うお方を」
「お館様に差し上げよと言うのか?」
「いやその、できれば、その……」
「落ち着け吉政、あくまでも本多正信は高虎の家臣なのだからな。それで高虎、改めて頼むぞ」
「ははっ」
高虎でさえ、いつどのようにして正信が一万三千もの将兵の功績を処理したのかわからなかった。本人の言うような功名心だけとはとても思えず、それこそ天性の才能の為せる業かもしれない。
(石高が増えた暁には、正信殿にもかなり加増せねばなるまい。お館様にも、そうやすやすと渡すわけには参らぬだろう……)
いくら長政の事を慕っていたとしても、あくまでも正信は自分で見つけた人間なのだ。それをもし長政に渡すと言うのならば、それ相応に納得した上で渡したい。
雑兵からいきなり隊長になり、そして将になったような人間である自分には、正信のような人間が必要になる。そのつもりで引き入れた訳ではなかったのだが、いざこうして手柄を立てられてみるとその事を実感するより他なくなってしまった。
とにかく連絡役その他の役目として正信を後方に置き残し、高虎は長政と合流した翌朝天竜川の戦いから生還した兵の内、自分の配下千五百と景鏡の配下二千五百にそれ以外の兵二千の合わせて六千と、越前加賀から集めた四千の計一万の兵をもって小谷城へと向かう事となった。
「こういう訳で、此度それがしは総大将を請け負う事になった。まったく至らぬ身ではあるが、どうかこの戦いに付き合ってもらいたい」
一万の兵の中に、自分より年少のそれが何人いるかわからない。一応後ろには副将として景鏡が控えてはいるが、それが助けになる訳でもない。
「さて、今回の戦いは浅井下野守と武田信虎を討つことが目的である。
二人こそ、小谷城の民を己が欲望のために飢えさせる悪党である。その上に、未だ年端も行かぬ幼児を勝手に大将に仕立て上げ、矢玉に向かわせようとしている!」
「おお……」
そんな年長者たちの集まりに向かって、いきなり高虎は吠えた。信虎だけでなく、主君の長政の父親まで下野守と言う他人行儀な呼び方をして見せた。
とうとう様すら付けなくなった高虎に対し、突っ込みめいた反応する者はほとんどいなかった。そして畳みかけるようにその罪を述べる高虎に釣られるかのように、兵たちはようやく声を上げた。
「下野守の望みはそれがしの命、いやお館様の奥方様とその子女の命である!もしここで下野守が勝てば、それは浅井の次代が失われる事と同義である!浅井の次代を守るために、どうか頼む!」
「そうだ、下野守なんて呼ぶ必要もない!久政で十分だ!」
「やっちまえ、あんな奴!」
そして高虎の側仕えのような立場になっていた山崎長徳の声と共に、兵たちが一斉に歓声を上げる。主の父親を堂々と呼び捨てにしてはばからない一万の軍勢が、ここにあまりにも簡単に完成した。歓声が響き渡り、それ以上何も言っていないのに兵たちが聞き手を高々と上げる姿は、まったく精鋭のそれだった。
「我ながらずいぶんとうまく行き過ぎではないでしょうか」
「甲斐の虎を狩った様を目の前で見ておきながら見下せるのは相当な強者かうぬぼれ屋だけです。ましてや加賀や越前の兵はお館様にはともかく下野守様にはなついておりません」
「命を張った甲斐はあったと言う事ですか」
「四葩様もずいぶんとお張り切りのようで、私に朝倉遺臣を取り込むように仰せでした。あるいは四葩様が当主であれば、朝倉はまだ生き残っていたかもしれませぬ」
天竜川の戦いで信玄他の武田勢と戦った人間たちは、高虎をそれこそ英雄のように思っていた。そして加賀から来た新兵たちは本願寺の支配から解き放ってくれた浅井に忠実になっていたし、越前の新兵たちも景鏡と四葩を通じて高虎と浅井になついていた。
一方で久政は加賀の人間にとってはただ単に遠いだけの存在であり、越前の人間にとってはあの時長政の後方を突こうともしないほどには不誠実な人間としてしか映っていなかった。
もちろん、義景のただひとりの男児である愛王を勝手に元服させ勝手に自分たちの敵に仕立て上げた事についても気に入らなかった。
(本来ならば浅井を憎んでも一向におかしくない人間を敵にしてしまう。これが今の本願寺の有様か……)
四葩もまた、同じような感情を抱いていた。三年前に一乗谷から逃げ出してからというものの、二年以上加賀で亡命者と言う名の軟禁状態にあった。
その生活と来たら労役に駆り出される民を横目に無為徒食を強いられる上に、事あるごとに坊主たちは義景や宗滴の罪を責めたり一向宗の素晴らしさを語りに来た。もちろん、高虎や長政の事も悪し様に言われ続けた。
四葩の父や自家の誇りである猛将を悪し様に言うような真似をしておいて本気でなつくと思っていたのが七里頼周であり、下間頼照であった。
そしてその両名の所属する本願寺の僧兵が小谷城に入っている事を知った四葩は、心底本願寺に対し怒りを抱いた。この四葩の気分が旧朝倉軍に伝染し、士気を上げたことは間違いなかった。
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