浅井久政、朝倉景昭にへつらう

 信虎がある種の心中覚悟で思い悩んでいるとは知らぬまま、久政は本丸で一人の幼児の前で叩頭していた。




「久政よ」

「おお景昭様、本日は誠にご立派でございました」

「あれが悪党の顔か?」

「ええそれは無論、父君を殺し姉上様を孕ませ僧たちをためらいもなく殺す大悪党でございます」

「そんな顔には見えなかったがな」



 朝倉家当主、朝倉景昭である。通字の景に将軍義昭の名を取って景昭と名付けられたその四歳の幼児には、久政が囲っていた女官たちが付いていた。



「我が愚息は佞臣に惑わされ、つくづく朝倉家を困らせてしまいました。この浅井久政が在る限り、決してあのような真似はさせませぬ」

「なればわしは厠へと行きたい」

「おおそうでございますか、ではこの私が付き従いましょう。おい何をしておる」



 女官たちは一瞬だけ立ち上がるのを躊躇したが、それでも久政に促されて景昭を厠へと連れて行く。

 久政はその間ずっとつきまとい、景昭の放尿の音まで聞こうとした。



「摂政様」

「いやいや、万一の事があってはいかんからな。景昭様、終わりましたか」

「久政、他にする事はないのか」

「今こうして参ったのはまったく景昭様のためにございます。どうか、この久政に全てお任せを」







 厠から出た景昭に対し、不浄から出て来て汚れているはずの手を久政は平然と握り込む。そして本丸まで連れ帰り、実に人のよさそうな顔をして再び叩頭する。


「次は何でございましょうか、何なりと」

「わしは少し眠い、はや日も落ちかかっておる頃じゃ」

「そうでございますか。では早めに食事を用意させましょう。召し上がり次第、ゆっくりとおやすみなさいませ」

「今日はもうそれでよい、後は自分のすべき事をせよ」



 自ら膳を運ぼうとする久政を押し留める姿は、久政の気分を良くした。


 長政は四歳だった時は、こんなにはっきりした子ではなかった。どうしてあんな事をしでかすようになってしまったのか、それが残念で仕方がなかった。



(このお方を立派に育て上げる事、それがわしの役目なのだな。だがまずは自分の子を何とかしなくては……)



 景昭の命令通り京極丸に戻った久政は、景昭と触れている時以上の笑顔で書をしたため始めた。




「新九郎よ。あの加賀一向一揆を抑え込むとはまったく見事な物だ。だがもうそなたは連戦に次ぐ連戦で疲れているのであろう。後はもう父親に任せ少し休むが良い。

 長い戦の果てには必ずやひずみや不始末も生まれる物、それは全て父親が請け負おう。後は加賀の地でゆっくりと、共に景昭様にかしずいて暮らすのがよかろう。織田も徳川も関係なく、自分たちでゆっくりとな。

 あと、我が元には今信玄公の父上がおられる。今は幕臣、そう征夷大将軍の直臣となっていらっしゃるお方だ。やはり父親として、どうしても愛する息子を討った人間の仇討ちをしたくてたまらぬらしい。もう八十を数える身であり、いつまでこの世の住民でいられるかわからぬ。どうかその願い、優しき心をもって聞き入れてやってくれ」




 加賀は確かに自力で取った地だから領有は認めてやってもいい。だが越前はまるっきり朝倉の物であるから朝倉景昭へと返還し、そして朝倉家を滅ぼした織田とは断交する。その上でこの事件の最大の責任者である藤堂高虎とか言う不埒極まる強姦犯の首を取れば信虎と久政の溜飲も下がる———―。




 久政にしてみれば、目一杯の愛情であり妥協だった。




 本当の事を言えば、長政も含め信長とやらに尻尾を振っている連中を全部ぶった切ってやりたかった。

 だがその連中の働きにより二十万石だった浅井は百万石を越え、それだけの領国が長政の手によりばら撒かれている。その撒き餌によって骨抜きにされた人間たちが、今更長政を殺すと言って首を縦に振るはずもない。

 だからこそ朝倉家の本領である越前は絶対に朝倉家の下に返還させてやるとしても長政、と言うか織田の犬に一時でも安逸と飽食の日々をくれてやるために加賀と言う地を使うしかないだけでも久政は腹立たしかった。




(それもこれも、あの女のせいだ!信長の妻、すなわちあの女の義姉は斎藤道三の娘だが、あやつの方がよっぽど体内に毒を宿し全てを朽ちさせる蝮ではないか!)




 久政がお市の事をそう言いくさし続けてもう十年目になる。次の浅井家の当主たる万福丸が生まれた時でさえ何もしないで無視を決め込み続ける事により、長政に少しでも自分の意志を伝えられると考えていた自分の甘さに久政は腹を立てていた。

 いや実際には長政に向けてあんな女捨ててしまえと幾度も書状を送っていたが、二通目からは長政に届く前に全て破棄されていた。その間にいざとなったら人質にでもしてやろうと思っていた連中は金ヶ崎へと行ってしまい、そして北近江の本拠地としての機能も今浜に持って行かれて小谷城その物の権威も削られた。


「織田はどこまでも道を踏み外す、まさに魔王の家よ。乱世とは言えして良い事と悪い事の区別もつかぬのか……」


 久政は景昭の笑顔を思いながら、その幼児から全てを奪った織田と藤堂の滅ぶ様を思い浮かべて楽しくなった。


 自分の目的の為に書状をしたためるその姿は、まるで初恋の相手に恋文を記す若い男でしかなかった。




※※※※※※※※※







 そしてそれから十日が経った小谷城では、相変わらずの押し問答が繰り広げられていた。




「ではなんですぐさま仕掛けんのだ!」

「考えて見ろ、東にも北にも浅井や藤堂の旗があったか?これは藤堂が内乱を起こしている証だ。今頃はこの世の住人ではないかもしれんな」

「だったらなおさらすぐさま動くべきだろうに!」

「うかつに動けばそれこそこちらが網にかかる。それにだ、不埒者がまた現れたそうではないか」



 信虎が出撃をせよと言う度に、久政は不埒者が現れたと言ってそれを押し留める。それがこの十日間の恒例行事になっていた。



 実際、今日もまたひとりの老人が倉庫に押し込まれた。

 わしはもともと浅井の家の人間であって大殿様の民ではない、備前守様の民だと言い出した結果打擲され、集まっていた他の人間たちと共に閉じ込められていた。



「いいか、親不孝者と簒奪者に味方すればこうなる!皆朝倉様のために心血を注いで戦うのだぞ!」



 三日前には久政軍の兵士が二名がかりで城を抜け出そうとしている所を捕まえられ、その上で久政と信虎を罵ったために斬首されている。その首級は未だに小谷城の広間で兵たちを無念そうに見つめ、小谷城を恐怖に包んでいる。





「このままでは味方は減るばかりだぞ!」

「敵もそれ以上に減っている、織田勢だけならばどうとでもなろう!」

「織田軍は本当に来るのだろうな」

「来ない訳があるか!ここで一人でも織田の兵を殺し、景昭様にお喜びいただくのだ」



 この十日間、久政はずっと東を見張らせていた。だが木瓜紋の旗は目に留まる事はなく、ただただ退屈な日々だけが流れていた。



「この距離でうかつに動けば待ち構えている織田勢に討たれる。あくまでも狙いは待ちだ。いずれ織田はやって来る。放置などは出来んからな」

「それはそうだが……」



 信虎とて、久政の理屈に反発しきれない。ただでさえ弱兵の集まりだと言うのに、それに真っ正面から戦って勝つにはどうすればいいのか。浅井ならともかく織田には、朝倉の威光など通じるはずがない。自分が指揮を執り何とか守りを固めたこの小谷城を盾に凌ぎ切り、まず一勝を得るしかない事もわかっていた。




「申し上げます!織田勢が迫って来ました!」

「やっと来たか!」


 だからこそ信虎にとっては織田勢襲来とは待ち人来たるであり、その体の動きを軽くするには十分だった。



「それで大将は誰だ?信長か?」

「奇妙……」

「奇妙とは何だ、人の名前か!」

「ええ、奇妙丸と呼ばれておりました」

「なめくさりおって!信長め、自分の息子をこんな戦に出して来たのか!」

「どうせ指揮を執るのは副将だろう、それは誰だ」

「えーと、羽柴秀吉とか……」

「ったく、どこまで人をなめれば気が済むのだ!」




 奇妙丸とは他ならぬ、信長の嫡男である。まだ十七歳と言う事はおそらく、これが初陣。まだ元服しているのかいないのかはわからないが、付き従っている兵は間違いなく年上ばかりであり、幼名とおぼしき奇妙丸と言う名で呼ぶのはまったく不思議でもない。


 だがそんな人間を将にする事自体、初陣だから簡単な相手でいいだなんて言う甘やかしめいた行為であり単純に気に入らないし、それ以上に自分たちがその程度の存在だと思われているのは不愉快である。


 その上に副将が羽柴秀吉と来ている。ついこの前上司である将二名から拝借した名字をもらっていい気になっている農民上がりの小男であり、自分たちなどそんな連中で十分だと言う扱いをされているのかとますます両名の顔を赤く染めた。


「フン、なれば織田の跡目の御首を取ってやれば織田はぐらつくぞ!この好機を逃す理由はあるまい!」

「なれば防備の準備を整えねばなるまい。今から攻撃してもどうせ奇襲にはならん」

「まったく、織田は足だけは速いからな。兵を整えて後方を突く暇もなかったのだ」

「それでだ、本当に織田軍だけか」


 三年前の自分の怠惰を臆面もなく話す久政の方を見ないようにして、信虎は報告に来た兵士へと迫った。兵士が首を縦に振ると、適当に労をねぎらう言葉だけ寄越して下がらせ再び座り込んだ。




「で、藤堂とやらは来ていないようだな」

「やっぱり臆病者は信長の後ろで震えているのが精一杯か。やれやれ、まぐれ当たりなどこんな物だな。将たる物、堂々とした貫禄と知恵を持って臨まねばならん。信玄公も、つくづく不運なお方よな」



 信虎はもう、怒るのも面倒くさくなっていた。

 久政はここ毎日高虎を言いくさすついでに、それに敗れた信玄をも言いくさしている。信玄と言う存在が未だに武田に強く根を張っている事は信虎も外から見てわかっていたし、そんな存在を貶めるような言葉を聞かされて親として気分が良くなる訳もない。

 事実上の副将であり軍師である人間の機嫌が悪くなれば、兵たちに簡単に伝染する。ただでさえ処刑人まで出て不安が立ち込めている城の中で、信虎の虫の居所も悪くなっていた。


「申し上げます!」

「何だ!」

「さらなる旗が見えました!風林火山です!」

「あやつら!人の息子の旗を!ったく晴信め!不甲斐ないぞ!」




 そんな状況で飛び込んで来たまた別の兵の報告は、信虎の機嫌をさらに悪くした。


 風林火山と言えば、武田信玄の旗である。その旗を堂々と掲げられるのは、それこそ武田信玄ただひとりのはずだった。



 兵士に付き従うように大股かつ速足で櫓へ向かった信虎が見たのは、穴が開き、ほつれ、色褪せた、風林火山の旗。


 まさに、武田信玄から奪い取った事がまるわかりのそれだった。




「やっぱり、あの武田信玄が負けたってのは本当だったんだ!」

「そんな奴に勝てるわけがない!」

「うるさい!旗の一本や二本見ておびえてどうする!だいたいなぜあの旗を織田軍が掲げている!?」

「要するにその、織田と藤堂は一体になって来てるって事でしょ!」

「だったらなおの事好都合だ!残虐な織田も暴虐な藤堂もまとめて叩き潰すのだ!」


 信虎が情けなさと悔しさで言葉をなくす中、久政はひたすらに吠えた。今日こそ、今度こそあの生意気な小僧と礼節知らずの織田に鉄槌を加えられるのかと思うと体中が火照った。


「おい、大将は織田の小せがれと農民上がりの小男だぞ!」

「その織田の小せがれ相手に死にに行くのもいいかもしれんがな」

「とりあえずまず勝ってからだ!」




「伝令!」




 その上で頭の冷えた信虎に高揚した久政がこれまでの十日間と同じように嚙み合わない意見をぶつけ合っていると、またもや甲高い伝令の声が鳴り響いた。


「今度は何だと言うのだ!」

「北からも軍勢が来ました!」

「で、旗は?」

「蔦です!」

「はぁ?」

「何がはぁだ!ったくどうしていないのだとは思っていたが、いつの間にか包囲網をくぐっていたとはな!くそっ、やられた!!」




 分断したと言っても、小谷城周辺のまったく小さな範囲である。越前と近江をつなぐ街道筋こそ抑えてはいるが越前と美濃の国境までは封鎖できず、その間から浅井軍が抜け出ることは十分に可能だった。


 そして蔦紋が誰の旗か久政は知らなかったが、信虎は知っていた。


 他ならぬ、藤堂高虎だった。


 信玄を討ち取った以上、自分の家紋の旗を掲げる事に文句を言われる筋合いはない。信虎がこうして浅井家の中に入るに辺り必死になって調べた家紋の中に、蔦紋の旗を掲げられる人間がいた。


 名主とは言え足軽にしかなれない程度に零落していた家の家紋とは言え、ここまで勢いが盛んになれば出て来てもおかしくはないはずだ。







「それで、その後ろにまた別の旗が見えます」

「三つ盛亀甲か左三つ巴か」

「剣菱です!」


 だがそこでそれを言えばなおさら混乱させるだけだと信虎は口をつぐんだが、その次の言葉を聞いて苦虫を嚙み潰したような顔から、その苦虫を飲み干したような顔色になってしまった。


 体中が真っ青になり、意識が遠くなるのを感じた。久政はそれでもなお何がどうしたのだと言わんばかりに首をひねり、ふらつく信虎を鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして信虎の肉体を支えた。




 三つ盛亀甲は浅井家であり、左三つ巴は田中家である。







 そして剣菱とは、飛騨の三木家の家紋であった。

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