武田信虎、最後の戦いへと決意を新たにする(9月9日微修正)

「調子に乗りおって!これで少しは気分も晴れたわ!」

「軍師様がまだ」

「お前も呑め!今日はこの上なく気分がいい!」



 久政は京極丸で、この上なく愉快な顔をして笑っていた。この爽快な気分を寄越してくれた二番目の功績者である信虎を迎えるべく用意されていた酒を、信虎が来ない前に口に流し込んでいた。



「おいおい浅井久政、たかが一戦取っただけだぞ」

「これはこれは武田殿、お見事!ささ、どうぞどうぞ!」



 信虎が入って来るなり久政はますます陽気な声を上げ、徳利を城中に響く音を立てて置いた。腰も曲げず杖も付かずまるで年を感じさせない調子で歩く信虎の姿は、久政のそれよりずっと大きい。






「まったく、あれがわしのせがれを殺したとか言う奴か?まったく聞いてあきれるわ」

「フン、少しばかり思い上がった小せがれに引き立てられたのぼせ男だ。今度の事ですぐさましぼむだろう」

「まあ一撃ぐらいでは無理だろう、もう一撃は加えなければあの鼻っ柱は折れはすまい」



 今さら、あの息子の事をうんぬん言う気もない。自身を放り出した上に初孫と言うべき義信まで殺したような人間の事など、信虎はそれほど悼んではいないつもりだった。


 だが今ああして高虎とか言う子殺しの下手人が逃げ帰るのを見ると、胸のつかえが取れるのもまた確かな話だった。



 とにかく自分の手により八百近い兵を死傷させると言う戦果を上げて意気揚々と帰って来た信虎の側で、久政も笑っていた。金ヶ崎などと言う場所に逃げ込んで、自分から目を背けていた長政の頭をぶん殴ってやれたことがうれしくて仕方がなかった。


 小谷城は決して街道筋の城ではないが、織田と浅井の領国を隔てる位置としては十分な重みを持つ。ここを塞げば、織田は南近江を一周するか琵琶湖を越えるかしない限り浅井の領国と連絡を取れなくなる。無論南近江の旧六角領は今やまったく織田領だが、信長は琵琶湖上の輸送についてはともかく軍備については重視していなかった。

 だがこれからうかつに琵琶湖を通過しようとすれば、自分たちの軍勢に阻まれる危険性が生まれるようになる。その点だけでも織田は面白くないし、単純に長政の信用も損なわれる。




「これでいい加減、あ奴も簒奪と忘恩の大罪を恥じるはずだ。その際には武田殿の無念も晴らされましょう」

「いささか甘い気もするがな」

「身内が許しても世間が許すまい、そして彼らがな」



 二人を取り囲むように立つのは、白装束をまとった上に甲冑となぎなたを持った僧兵だった。みな澄み切った目をして、じっとこの城に迫る敵を射すくめんとしている。


 言うまでもなく、石山本願寺から来た人間たちだ。


 武田へと信長や長政の目が向いていたのをいい事に、南近江からひそかに漁師に成りすましたり、ただの僧として歩く分にはさほど警戒の厳しくない浅井領を通過したりしながら、信虎は五千近い僧兵をこの小谷城へと入城させていた。



「小谷城の民に一向宗の教えを説いている者もいる。彼らもまた素晴らしい教えに共感し必ずや我らの味方になってくれよう」

「なるべく早くそうなればいいのだがな」

「何せ五千人だからな、この数は大きいぞ」


 信長や義景をして手を焼いていたのが本願寺率いる一向一揆であり、その上に立つ僧兵たちだった。

  この僧兵五千は成り上がりで膨れ上がった有象無象の塊である織田軍一万数千に匹敵する、そう久政は信じていた。今得物を手にしているのは半数程度で、残りは僧兵ではなく僧として小谷城に集められた民に向かって布教をしている真っ最中である。



「この城に入れた民が全て僧兵になればそれこそ二万を超える、織田も藤堂もひとひねりよ!」

「女子供老人まで入れるのか」

「そんな人間まで狩る様な外道でもあるまい、天魔の子でも坊主を斬るまで限界だろうからな」


 実は本願寺でさえも、二万と言う僧兵はいない。このままこの調子で膨らませ続ければ、それこそ浅井は本願寺の最大の支援勢力として大きくなれるのではないか。久政は長政や織田など関係なく、朝倉を仰ぎながらでも浅井は成長できるのだと得意満面だった。




「しかしそれにしても、あの信玄、いや信玄公の父君がなぜここに来られるのかが未だによくわからないのですが」

「少し上様の側近の真似事をしていただけだ」

「なればこそ上様のお力で」

「そんな簡単な話はないわ」




 義昭が増長する信長を食い止められると期待していたのが武田信玄だったのだが、結果があれではどうにもならない。

 朝廷は織田家から大量の寄進を受けてここ近年の窮乏からようやく脱出したような状態であり、征夷大将軍の権威を持っても動かすのは難しい。


 高虎でさえ千石の知行取りなのに、現在の朝廷における俗人の最高峰と言うべき権威の持ち主の近衛前久の実収入はそれ以下だと言うのが紛れもなき現実だった。もちろん主上以下も信長の所業は耳に入ってはいるが、それでも決して表立って相対する事ができないのもまた今の朝廷だった。


「今村とか申したな。お主は城内を見回り、親不孝者の罪を言いふらして来い」

「今日もですか」

「ああそうだ、よろしく頼むぞ。わしは本丸へ行く」




 今村掃部は久政の命を受け、重い腰を上げて京極丸から出た。それとともに久政も立ち上がり、本丸へと向かった。


「明日こそいよいよ総攻撃だな」

「信虎殿、焦るな。今あわてて攻めれば織田も藤堂もかえって団結する。もう少し数を減らしてからでも遅くはないではないか」

「どうやってだ」

「それこそ高虎とか言う不埒者の罪を広め、そして同時に我々に味方すれば正義と恩賞が与えられる旨言いふらせばにわか作りの軍勢など壊れる。この戦は待つ方が良いのだ」




 久政は当初からその予定だった。


 自分と景昭の存在を見せつける事により高虎の配下の兵、大半が元朝倉軍の兵たちの心をぐらつかせ、同士討ちによる自滅を誘う。その上で自分側に付いた兵を取り込み、まずは親不孝者を黙らせやがて織田を討つ。

 そのような展開を考えていた久政に取り、まだ足元が固まっていない状態で動こうとする信虎はただ拙速なだけに思えた。



「しかしそれにしても、一体どこであのお方を見つけたのか」

「朝倉家の忠義の臣ですよ、まったく景紀様も大したお方です。それにしても、あの男め!たかが足軽の分際で四葩様を孕ませるとは不届き至極!」

「だがその連れ出した男たちはもうここにはおらぬ……」

「本来ならこの地で一緒に指揮を取ってもらいたかったのだが……ああ、織田め!」


 あの一乗谷の大混乱の際に義景の妻子を連れ出し、加賀へと逃げ込もうとしたのが景紀だった。だが加賀から逃げ込むにあたり浅井と仇敵となっていた朝倉の家老である景紀は愛王だけを連れ出して加賀から丹後に入り、そして山城までやって来たのだ。

 だがその景紀は義昭の元からもすでに離れて再び所在不明となり、そして四葩は今では高虎の妻となり、既に高虎の子を孕んでいると言う話まで久政の耳に入っていた。ますます久政の怒りを煽り、いらだちとやるせなさをふくらませた。


「景昭様に、必ずや不届き者の御首を献上する旨約束せねばならんのでな!では失礼する!」


 久政は大股になりながら上機嫌そうに歩き、景昭が控える本丸へと向かった。




※※※※※※※※※




 そんな浮かれた中年男の背中を見る信虎の顔に、酒によってもたらされた赤みはない。


(まったく……こんなにすり減り切った看板にどれほどの価値があると言うのか……確かに今の今までむやみやたらに使わなかったのは良い。だが取っておき過ぎてもよくない物であることもわかるだろうに……)


 なぜ、すぐに朝倉の子と言う大義名分の材料として使われなかったのか。そしてこの時になって、なぜようやく捨て駒同然に信虎を通じ小谷城へと送り込まれたのか。


(本願寺はすでに腰が引けている。もはや織田と大々的に戦う気はないのだろう)




 信虎も甲斐を離れて三十年以上経つが、その間に本願寺を始めとする世間とも触れて来た。数年前には伊勢長島一揆の軍師を気取った事もあるし、ここに来る前には幕臣として重要な同盟相手である本願寺との交渉もした事もある。


 その人間の目から見て、ここ一、二年の本願寺は明らかに弱っていた。




「天罰が下るぞ」

「地獄へ落ちるぞ」




 その二言だけで、本願寺や坊主はある程度以上の支配力を確保できていた。だが今対峙しているのは、そういう言葉を全く恐れない織田軍と浅井軍である。それでも真に厚い信仰に根差した立派な坊主であればなんとかなったかもしれないが、長年支配階級にあり腐敗していた坊主たちにはとても耐えられる物ではなかった。


「教えを説く事を妨害するのであればいくらでも戦おう、だがもしその教えからはみ出す者がいればそれを処罰する事にもまた積極的にもなろう」


 顕如がそういう内容の書類を義昭に送ったのは半年前だった。寺の内ではもっと前からその方向に進んでおり、内部では幾たびか過激派の僧侶を追放し、綱紀粛正を図っていると言う話もあった。


 教えを説く事を妨害するのであればいくらでも戦おうと言う言葉は、教えを説く事さえ妨害されなければそんなに強く振る舞う気はないとも取れる。これまでのような強権的なそれではなく、どちらかと言うと融和的で穏健的だった。

 この変化は信長でさえいぶかしく思うほどに唐突であり、そして急だった。その分本願寺に依存していた勢力は縮小し、織田や浅井にすり寄るようになった。


 無論、その急転換に反発する勢力がない訳でもなかった。例えば顕如の長男の教如は突然の方針転換に反発して若い僧たちを集め決起しようとしたが、その直前に側近の僧が顕如に破門されて失敗していた。

 その際に教如は顕如に迫ったが顕如はあくまでも仏法を説くばかりで、教如のこのままでは織田に飲み込まれると言う訴えにまともに耳を貸そうとしなかったらしい。

 挙句の果てに義景が四葩と自分の婚約を結んでいた事を知らされ、その四葩を高虎に取られたのが悔しくて動いているかと言われてすっかりおとなしくなってしまったそうだ。実際僧とは言え十代であり、それ相応に血のたぎっていた人間にとっては自分の物のはずであった人間を奪われたこと自体悔しくて仕方がないのだろう。




「五千の僧兵とか言うが、どうせその五千の内使い物になる人間は数知れず。とっとと全軍出撃させてぶつけて壊してしまった方がよさそうに思えるのだがな……」


 長引けば長引くだけ、相手は準備を整える。越前でも加賀でも伊勢長島でも、坊主たちを斬りまくって来た高虎や織田にどうせ仏法など通じようがない。だからこそ少しでもやる気のある浅井兵と僧兵をかき集め、藤堂でも織田でも良いから突撃して死ぬ。もうそれしかできる事はないと思っていた。




 だからこそああして高虎軍の奇襲にぶつけたのだが、高虎を討つどころか千人も犠牲者を出せなかったのは正直予想外だった。


「晴信、お前は今のわしをどう思う?」


 信虎は槍の本数を数えながらこの前死んだ息子の事を思う。


 息子により当主の座を追われてから三十年余り、まったく関わる事もないと思っていたはずなのに、今こうしてその息子の仇討ちとか言う名目で動いている。


 今も小谷城の中では本願寺の僧兵たちが信仰心うんたらかんたらで女子供老人を強引に引っ張り込んでは改宗させ、僧兵に仕立て上げようとしている。

 暴君と思われたからこそ追放されたのであろう事はわかっているが、結局また暴君そのものの振る舞いをしている。


 今さら地獄に落ちようが否が知った事ではない。ただ最後に息子の仇である高虎を討つか、せめて織田勢に一撃加えて死にたい。その為に縁もゆかりもない小谷城と言う地の民を利用する。それがいかに残酷で、そして一方的であるかはわかっている。


 だが今の今まで生き長らえてしまったのだ、死にぞこない呼ばわりされても最後まであがいてやる。そう信虎は決心していた。

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