浅井久政、切り札を手にする

「武田菱!?」







 黒い地の色に、四つのひし形。まさに、つい数日前まで戦っていた武田菱のそれだった。高虎の方に風を届け浅井の兵を吹き飛ばさんとするかのようにはためき、兵たちを見下ろしていた。




「まさか、武田信虎!?」

「いかにもよ!藤堂とか言う輩を討てば晴信も少しは浮かばれよう!」



 武田信虎と名乗る老人、杖こそ付いているものの既に八十とは思えないほどにかくしゃくとした足腰をしてこちらを見下ろすその男は、間違いなく武田信玄の父親だった。

 坊主であった信玄より髪の毛が多い事はあるいは笑いの種だったかもしれないが、今の長徳たちにそんな物を感じる余裕はなかった。



「わしを放逐した馬鹿息子とは言え、それでも武田家にもたらした功績はあまりにも大きい。信濃も駿河も手に入れ、いよいよ天下を狙うほどになるとはな!だが貴様はその息子の全てをぶち壊した!親が子の仇を取るのは当たり前であろう!」

「だとしてもなぜそこに」

「わしとて甲斐を追われてもう三十年になる!まだ二十年も生きていない貴様には考えられんほどあちこちを巡り、そしていろいろな物を見届けて来た!こんな所に来られるほどの伝手を得る事などいとやすき事よ!」




 武田信虎が信玄により甲斐を追われた事は高虎も長徳も知っていたが、その後何をしていたのかは知らなかった。



 少なくともこれまでまったく関わって来なかったはずの人間がこんな城に入り込み、自分たちと対峙していると言う事自体あまりにも不可解であり、藤堂軍の兵士たちの耳目を一点に集め口をだらしなく開けさせるには十分だった。




「上総介様、まさかこんな事になるとは……」

「上総介?まったく、信長めにずいぶんと可愛がられているな天魔の子め」

「まったく、まだ生きておられたか。本当に見事なお方だ」

「ずいぶんと口の上手い男だ。その口だけで成り上がった訳でない事が全く憎たらしい」

「貴殿も当主であれば口の一つや二つ回して見せたのではございませんか」

「ただの浅井の小僧の近習にそんな物が必要か?」

「近習とていろいろな争いはある、それこそ誰が誰の寵愛を受けるか」

「小僧と言う所は認めるのじゃな」

「貴殿から見れば皆小僧でしょう、でも小僧だからと画一的にするのはいかがな物かと思いますが」




 そんな状況だと言うのに、高虎は冷静に信虎と言葉をぶつけあっている。

 信虎が声の大きさと歴戦の貫禄で高虎を押しつぶしに来たのに対し、堂々と理屈を持って戦っていた。


 年齢をそのまま重ねた顔をしている信虎と、まだ十代の高虎が互角に渡り合っている。長徳たちは元気付けられ、信虎に負けるなと言わんばかりに歓声を上げた。




「まったく、とんでもない男だ!信長め、雑兵であった時から鼻薬をかがせておいたのであろう、ったくどこまでも用意周到な男よ」

「どうしてそんな事ができると思われますか!」

「農民だろうが何だろうが才能さえあれば抱え込むような男だ!義弟であることを盾に浅井の中の人間を誘う事など訳もなかろう!」

「野良田の戦いの話を聞いた時、私は心底から打ち震えた。そしてそれが織田様の桶狭間の模倣だと知らされた時は素直に驚いた。もし鼻薬をかがされたと言うのならば、それはもう十三年前の事だ」

「そうだそうだ!鼻薬をかがせて何が悪い!」



 もし野良田の戦いが長政による桶狭間の戦いの模倣であると高虎が知らなければ、高虎が陣を飛び出す事はなかった。浅井家は今頃、朝倉と心中同然の形で滅んでいたかもしれない。そう考えると、こうして両者とも生き残っていると言う現実の何が悪いと言うのか。


 長徳が高虎の前に立って吠えると、また歓声が上がった。自然発生した歓声は小谷城を包み、その分だけ信虎の顔の皺も増えたように見えた。



「山﨑庄兵衛とか言ったな、貴様は本当に朝倉の者か!」

「ああ、雑兵だったけどな!」

「雑兵だろうが何だろうが、お前に初めて食をくれたのは一体誰だ!?朝倉の当主ではないのか!?」

「そんな存在の事は知らん、俺に取って最初に職をくれたのは父母であり、今でもそのおかげで生きている!」

「そんな男に仕えておれば地獄へ落ちるぞ!」

「朝倉に仕えてようが一向一揆と戦ってたから同じだよ!天魔の子の戦いぶりを知らずによくそんな事が言えるなこの爺!」


 高虎と信虎との舌戦に割り込んだ長徳の舌は、高虎以上によく回っていた。ただでさえ戦勝の直後で気分が盛り上がっていた所にすぐさま次なる敵が現れたのだから、腹は立っていたが気分は悪くなかった。







「つくづく察しの悪い男よな……よかろう、これを見ろ!」







 そんな悦楽の中にいた長徳らに向かって杖を突き付けると共に、二人の男が小谷城の本丸に現れた。







 片や、明らかに大きすぎる羽織袴をまとった幼児。







 そしてその傍に控える中年男性は、隣の部下に浅井家の旗を掲げさせていた。







「大殿様!?」

「なぜです、なぜに武田信玄の父親を!」




 中年男性の姿を見止めた浅井の古参兵が声を上げ、そして高虎も長徳も口を大きく開けた。




 紛れもなく、浅井久政だった。

 長政の父親である浅井久政が、信玄の父親を連れ込んだとでも言うのか。




「黙れい!」


 その敵対関係であったはずの人間を引き込むのはなぜかと問おうとした高虎に向かって、まったくこの場にそぐわない嚙み合わない甲高い声が飛んで来た。




「藤堂高虎!貴様はわが父朝倉左衛門督様を殺め、その上に姉上を孕ませた!まったく不埒極まる男である!」




 朝倉景昭と言う名の朝倉義景の遺児らしき幼児による糾弾と共に、また数本の矢が放たれる。まったく届かない距離であったとは言え、はっきりと敵対する意思を示された事には変わりなかった。




「皆の者、この男は朝倉家正当後継者、朝倉景昭様の言う通りの輩だ!もはやこやつは武士などではない!仁義のかけらもない野蛮なる暴徒である!さあ、今こそ大義のため、この簒奪者を討つのだ!」

「……」

「景昭様、どうかご命令を!」

「…………」

「景昭様が武者震いしておられる!これぞ戦を始めるべしと言う合図であろう!」

「馬鹿かよあんたは!」




 それが単に厠へと行く直前に呼び付けられた結果の失禁である事に気付かない久政が興奮する中、長徳は景昭が出していた液体と違うそれを久政の頭に向かって投げかけた。




「浅井家の当主は備前守様だろうが!お前のような隠居爺に誰が従うか!」

「貴様は朝倉の者だろうが!」

「ああそうだ、朝倉の人間だった!だが今でも朝倉はあるじゃないか、ほらここに!」

「どこに目を付けている!」

「上総介様は四葩様の夫だ、朝倉の血筋としては十分だろ?どうしてもやだって言うんなら上総介様の副官の朝倉様もいるし」

「黙れ雑兵如きが!」

「自分が大将と話せるとでも思ってるのかよ」




 長徳は信虎にしたのと同じように、高虎や景鏡など出るまでもないと言わんばかりに久政に向かって吠え続けた。その間ずっと旧朝倉軍は長徳の言う通りだと言う声を上げ、中には拍手する者までいた。


「あくまでも謀叛人に味方するか!貴様らのような忘恩の徒は地獄へ落ちよ!」

「とりあえずだ、そんな子供をこんな所に連れ込んで何をしたいんだ!?」

「お前ら、ここで同士討ちとなればこの子は悲しむぞ!」

「子どもに袴濡らさせるのが戦かよ!」

「ああ、そうだとも!」



 長徳と久政の口論に割り込んだ信虎が杖を投げ落とすと、藤堂軍の左右から大声が起り出した。


「さあ今こそ藤堂を討て!」

「今ならまだ景昭様はお許し下さる!」

「簒奪者を討て!」


 それを合図として左右から来た伏兵は高虎を討てと言いながら、薙刀を振るい出した。

 伏兵だと叫んだ兵士は既に赤く染まり、さらにその隣の兵も傷を負っていた。







「いったん今浜まで戻れ!そうすれば織田様は守ってくださる!」

「逃がすか!簒奪者の藤堂高虎を討て!」


 高虎の叫び声と共に、久政の存在を目の当たりにした兵士たちはいっせいに踵を返した。長徳もためらうことなく小谷城に尻を向け、全力で逃走した。


「上総介様!」

「こうなれば一刻も早く逃げるのだ!」


 まったくわき目もふらず逃走を図る高虎に続くかのように、長徳たちも馬や己の足を飛ばした。


 だが本隊に戻って来た時にはすでに、藤堂軍は左右からの攻撃で混乱状態に陥っていた。




「どうしましょう!」

「どうもこうもない、一気に突き崩すのだ!右側だ、右側を狙え!」


 伸び切った軍勢を、敵軍は左右から挟み撃ちにしていた。長く広い範囲での攻撃となり、どこが焦点だかまったくつかめない。それでもためらわず右側に突っ込んだ高虎に追従するかのように、自分たちを含め久政の姿を見た数百の先手で一斉に伏兵へと突撃した。


「横っ腹を付いて来たぞ!」

「ここで高虎を討てば全てが終わる!」


 伏兵の先頭も向きを変えて得物を出して来る。長徳はここぞとばかりに先鋒に立ち、太刀を振るって敵伏兵の刃を薙いだ。


「朝倉だと言うのに景昭様に逆らうのか!」

「貴様に武田信玄が討てるのかよ!」

「簒奪者は死ね!」

「死なねえよ!俺らにはあの武田信玄を討った上総介様が付いているのだからな!」


 その上で自分たちを口舌によって揺るがそうとする伏兵たちを同じように口舌で食い止め、突き進む。敵が何者なのか、そんな事を考える余裕はなかった。とにかく目の前の、横を向いている敵を振り払わなければそれで死んでしまう。



「武田信玄をなめるんじゃねえ!」



「信玄でも勝てなかったのが上総介様なのだぞ!」



「信虎はなあ、信玄じゃねえんだよ!」




 信玄、信玄、信玄。

 

 長徳は信玄の名前をひたすらに叫んだ。甲斐の虎と呼ばれたあの風林火山軍団。戦国最強と謳われた軍勢を倒した男。その名前を叫び続け、虎狩りを成し遂げた男である主に勝てるのかと思わせるのが長徳なりの策だった。


 死せる孔明生ける仲達を走らすと言う訳でもないが、とにかく武田信玄の名前を振りかざして相手を怯ませるぐらいしか今の長徳には思い付かなかった。




「この伏兵はどこまで続くんだ!斬っても斬っても途切れやしない!ったく、逃げれば追わねえよ!信玄を討った軍勢だってのに!」

「そうか、お前らが天台座主様を!」

「天台座主?そうか、本願寺か!」


 それでも戦意の減退も伏兵の途絶も感じられない現実にいら立ち始めた長徳だったが、たくさん斬り進んでようやく伏兵の正体が本願寺であると言う事を掴む事ができた。


 天台座主とは比叡山焼き討ちの際に武田信玄が出した抗議文の肩書きであり、それに対し第六天魔王と書いて返したのが信長である。


「本願寺の僧兵!?」

「なんだ、大したことはないぞ!あの上総介様が大将なのだからな!」

「かかって来い、この売僧ども!」



 本願寺と聞いた兵士たちは、気合を入れて僧兵たちに得物を振るい出した。

 高虎と長徳らが右側を削りまくっているため左側の攻撃のみに集中できるようになったのもあったが、それ以上に個人個人が元気になっていた。


「本願寺に逆らえば地獄へ落ちるぞ!」

「黙れ、こちらには上総介様が付いているのだ!」

「浅井に天罰を!」

「何が天罰だよ!」

「落ち着けよ、今は下がる事が最優先だ!」



 正体を知られないように景昭様だの簒奪者だの言い続け、朝倉や浅井の旗を背負っていた伏兵が開き直ったように地獄だの天罰だの言い出すが全く迫力がない。今までの経験でその言葉で全く動揺しない事が分かっているから、自然その言葉も軽くなる。



 僧兵たちが決して弱いわけではない。だが藤堂・田中軍の半数近くが元朝倉軍、すなわち元から戦の経験を積んでいた人間であり、ここにいた僧兵たちはいくら訓練を積んでいてもただの新兵だった。しかも長徳がわめきまくっていたように武田信玄と戦って生き残った兵たちであり、その自信が彼らを大きくしていた。




 高虎と景鏡は味方をかき分け、奇襲兵を討つ。挟撃している軍勢の右側のみを削り取って行くべく、まるで山県昌景や内藤昌豊に当たった時のように激しく得物を振るう。


「天魔の子だ!天魔の子を討て!」

「どうやってだ!」

「どうやっても何も、得物をこうして突き出せば!」


 奇襲のはずだったのに戦果が上がらない上、奇襲をかけているはずの自分たちが真横から攻撃されている。

 その間にどんどん高虎は後退し、後方に控えている田中軍へと飛び込もうとしていた。



「ああ隊長が!」


「小谷城に近付いている連中だけでも殺さねばならない!」

「そうだ、一人でも天魔の子のしもべを討つのだ!」

「ちょっと待ておい!」


 そして右側の奇襲軍隊長の僧兵が高虎の手にかかって彼岸へと旅立つと、僧兵たちは自分の命を守らんともっともらしい理屈を並べて小谷城の方へ逃げ込んでしまった。

 当然ながら左側の奇襲軍は話が違うとばかりに叫ぶが、それで藤堂軍の退却を止める事ができる訳でもない。


 元々なるべく小谷城に近付けて、その上逃がさないような距離を計算した上で兵が並べられていた事もあり、伏兵の厚みはかなり薄くなっていた。そのため右側の脅威がなくなった部分によっては、藤堂軍に逆に押し返されているような構図まで生まれ出していた。


「今日の勝ちはこれで十分だ!」


 やむを得ず左側の伏兵も後退し、すれ違う藤堂軍に向かって行き掛けの駄賃狙いで得物を突き出すが戦果は上がらないまま、この戦は終わった。












※※※※※※※※※







「見たか!これが正義の軍団の力なのだ!簒奪者は今後いくら挑みかかろうとああなるまでだ!さあ笑え、悪しき輩を笑ってやれ!」


 久政と信虎は、勝利を強調するかのように笑った。費用対効果とか言う話はともかく、意気揚々と凱旋すると言う愚かな絵図面をぶち壊した事だけは紛れもない事実であり、それだけでも戦果としては十二分だった。


 その嘲笑を背中に受ける藤堂軍の背中は天竜川で敗れた武田軍とまったく同じであり、顔色はそれ以上に暗く重たく、逃げ切りと言う名の勝利を得たと言う感触は誰の手の中にもなかった。


 高虎の判断の速さとその勇猛さにより死者は百名に足りなかったものの負傷者は数百に及び、合わせて千名近くが当分の戦闘力を失った。







 ここに凱旋兵たちは、敗残兵へと転落したのである。

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