第五章 過去からの逆襲

藤堂高虎、謀叛に遭う

 天竜川の戦いの二日後、高虎は田中吉政と共に清州城に入り信長と家康とも茶席を囲んだ。




 勝利の祝いかのように茶が振る舞われ、高虎も吉政も家康に追従するかのように茶碗を口に運んだ。


「見事な作法よ」

「それがしは茶席などに参加する事など」

「落ち着け、だからこそ良いのだ。この上に茶の作法まで知っていては備前守が吝嗇家になってしまうぞ」




 信長が言いたい事を言いながら二杯目の茶を立てようとした時、高虎は茶と似たような顔色で、信玄を刺した時と同じ目鼻立ちをして信長を見ていた。

 高虎の視線に気づいた信長はぬるくて薄い茶を高虎に差し出し、吉政と家康には熱くて濃い茶を出した。


「…………」

「誰とて過ちはある。それがたった今だったと言うだけの事よ」

「ああ、不味うございますな」


 自分の往生際の悪さをつい反省したくなる。浅井長政という男のためならば平気で自分にも挑みかかりそうなこの男を惜しがる気持ちが未だに途絶えていない事を思い知らされた信長は、自分の分の茶を出来得る限り渋くした。



「にしてもだ。まったく、あっぱれと言う他あるまい。藤堂上総介こそ、万夫不当の猛将よ」

「そのような。本来ならば首級を」

「どうでも良い、死んだ事は間違いないのだからな。とりあえず、今回の戦で武田は立ち直れぬほどの打撃を受けた、少なくとも十年は脅威になるまい。徳川殿、武田領は切り取り次第と言う事でよろしく頼む」

「まったく、織田殿と藤堂殿、そして浅井殿には感謝の言葉もございませぬな」


 戦疲れでもあるまいが、渋いはずの茶がやけに甘い。勝利の味とはこんな物かと思いながら、ついこの前まで雑兵だった人間と共に茶を喉の奥に流し込む。



(甲斐信濃駿河とか言わぬ、関東一円までくれてやっても良い……三河守はおそらく鎌倉幕府とやらが好きだろう。だが余の趣味ではないからな)


 武田に上杉、北条。いずれも東国の強大勢力であるが、信長はその領国に魅力を感じていない。武田の甲斐信濃は金の産地だが、近年は質が落ちている。上杉の越後は港こそあるが基本的に豪雪地帯で、北条の関東など都から遠い完全な田舎である。

 平氏の末裔だからと言う訳でもないが、源頼朝が起こした鎌倉幕府とやらにも全く興味はなかった。一方で新田源氏の末裔を名乗る家康に取って頼朝は憧れの人物であり、その気になればどこまでも行くかもしれない。


 ちなみに浅井家は、物部氏の末裔であるとされている。










 清州城で家康と別れ、そして岐阜城で高虎たちを見送った信長は、ようやくひと息吐けたと言う顔をして横になり扇子を扇いでいた。

 天下布武の中核の城とは思えぬほどの穏やかな空気が流れ、近習たちもみな安堵に満ちた表情をしていた。


「あなた、ずいぶんとお疲れの様ですね」

「奥方様!」


 そんな空気を叩き割ったのは濃姫だった。事前の通告もないままいきなり信長の下に入り込み、あっという間に体温が感じられそうな距離にまで迫った。


「あら、妻が夫に会いに来て何が悪いの?」

「別に何も悪しき事はない……しかし何の用件だ」

「義弟もまったく大した男ですね」

「濃よ、お前も唐突よな」


 思えば婚姻から九年間も経つと言うのに、義姉である濃姫と長政は一度も対面していない。濃姫にとって義弟の印象は、あくまでもお市の書状や高虎ら浅井家臣によってのみのそれだけから判断するしかなかった。


 それで実際、この九年の間織田家に届いたお市の文は夫婦仲がとても良好である旨ばかりが書かれていた。その上で久政の冷たさも書かれてはいたが、濃姫はその度に夫を大事にせよと返事を出していた。自分だって、斎藤家からやって来ていろいろと大変な思いもした。その度に信じてくれる夫を信じ、頼って生きて来た。



 そして、藤堂高虎である。かつては信長の陣に駆け込んでいきなり許しを乞い、信長がそうしたように坊主たちを容赦なく斬り、先の戦では武田陣に突っ込んで信玄を討ち取った男。

 聞けば聞くほど、信長と同じようにそれを家臣にしている長政がうらやましく思えた。無論田中吉政など他の浅井家臣も皆勇猛で、かつ主家に忠実である。無論織田家とてそれは変わらないはずだが、それでもそういう人間は多いに越したことはないのも事実なのだ。


「お前も相当気に入ったようだな」

「無論。今度義弟は彼を万石取りにするのでしょう?」

「その旨を記した書状をしたためてやった」

「もし許されるならば木瓜紋の下に立たせたいのでしょう?」

「許される訳もないがな。さて、少し控えておれ」


 こうして政務に関わる事など普通妻などに話しはしないのだが、信長は平気でする。その薫陶を受けた訳でもないが、羽柴秀吉の妻のおねや前田利家の妻のまつなど、信長の家臣の妻たちも家内の動向に積極的に口を挟んでいる。




 信長は小姓たちを扇いで追いやり二人きりになると、その扇子を畳んで濃姫に差し向けた。


「それでだ、お濃」

「はいあなた」

「徳川は弱っている武田領を食い荒らして行くだろう。その隙に我が織田も」

「なるほど、ですが信濃は厳しいと思いますが」

「わかっておるのであろう?美濃生まれ美濃育ちだからこそ」

「いかにも」


 道三は、美濃一国を飲み込んだ後は南ばかり見ていた。信長だって、基本的に西ばかり見ていた。そして今、信長たちは東の武田信玄を倒したのである。


 信長の目は、既にその先を見据えていた。




※※※※※※※※※




 吉政と高虎率いる浅井軍は岐阜城から西へと向かい、美濃近江の国境まで到達していた。

 いや、あくまでも大将は最後方に控える浅井政澄であり副将は朝倉景鏡だったが、先鋒である高虎の周りの方がずっと賑やかだった。




「ずいぶんと元気だな、あの死闘から数日しか経っていないのに」

「上総介様のおかげでございましょう」


 山崎長徳のまったく陽気な声に、兵士たちも同調する。


 朝倉景鏡が中間で二人それぞれの部隊の間を仕切り、真柄隆基が負傷して後方をゆっくりと進んでいる事もあり、長徳は高虎の側近のような顔をしてへばりついていた。




「田舎者の拙者とて、武田信玄の名は存じ上げておりました。それを討ち取れるなど、未だに信じられないのです」

「運と数だけだ」


 既に喜び終わったのか、それとも単なる本音なのかはともかくこうして自分の功績をまったく自慢する節のない高虎の姿は、長徳以下兵士たちにはなおさら輝いて見えた。


「この戦で多くの兵士を傷病兵にしてしまった。一将功なりて万骨枯るとか言うが、此度の戦果は彼らを文字通りむしり取っては投げ付けを繰り返し続け、その上に自分の命まで賭けて得た戦果だ。それこそそなたらには頭が上がらないな」

「本当に素晴らしいお言葉です」

「あと現実的な事を言えば彼らの戦果をどう計るか、戦死した兵たちの家族の手当てその他の問題もかなりあるのだが」


 長徳は無邪気に笑った。ある意味実に大将らしい事を言う高虎の姿は実に可愛らしく、そしてその視野の広さにも感心できた。かつての上官である義景や魚住景固に関してうんぬん言うつもりはもうないが、自分だったらこの大勝に浮かれて酔いしれてしまうだろう。あの戦いからもう一週間は経っているのに、未だに兵たちはその気分に浸れていた。









 そんな浮かれ気分の軍勢の行軍が、近江に入って今浜城にて清綱と別れて北進し、日が中天に差し掛かるころ急に止まってしまった。


「おい、何事だ」

「どうも小谷城の様子が変です」

「何が変なのだ」

「門が開いておりません」


 当然の高虎の指示に、小谷城の城門が閉まっていると言う報告が飛んで来た。

 別に小谷城は金ヶ崎城への中継点ではないが、それでも北近江は浅井の本国であり、美濃は同盟相手の織田の領国であり、越前は浅井の領土である。そんな状態で門を閉める理由などどこにもない。


「先に行って来てくれないか」

「わかりました」


 長徳は、相変わらずの低姿勢を続ける高虎の命を受け朝倉時代からの数名の同僚と共に小谷城へと向かった。勝手を知らぬ小谷城ではあったが、それでも自分の所属する大名の本城と言う事もあり特に警戒する事もなく、行軍の延長のような気持ちでゆっくりと馬を動かしていた。




「おい、浅井様の軍勢だ。門を開けよ」

「…………」

「聞こえているのか!」

「…………」

「我々は見事武田信玄を討ちこれより金ヶ崎城へと戻るのだ、門を開けよ!開けぬのならば押し通るぞ!」


 だが下馬した上で二度呼びかけるが梨の礫である。


 そのことに怒り門を蹴飛ばそうとした途端、いきなり首根っこを掴まれた。


 そして何をすると言う暇もなく、長徳は目を剥いた。今の今まで自分が立っていた場所に、いきなり岩が落ちて来たのだ。







「おい!どういうつもりだ!これは謀叛だぞ!」

「謀叛人は貴様らだ!」


 明らかに自分たちを害しようとした行為に対し当然のように長徳が怒ると、今度は矢が一本飛んで来た。誰に当たる事もなかったものの、謀叛人と言う言葉をぶつけた兵士の目はとても味方に向けるそれではなかった。


「拙者は浅井軍の山崎庄兵衛だぞ!」

「山崎、そうか山崎か!」

「山崎ならば何だと言うのだ!」

「山崎庄兵衛、今すぐ謀叛人の藤堂高虎を討て!」

「主将を討つ奴がどこにあるか!」

「この旗を見ろ!」


 しわがれた声が晩夏の北近江に響く。その声で長徳たちの耳目を集める事に成功した物見やぐらの上に立つ一人の男は、杖を刀のように振り上げて後ろへと向けた。




「あれは!?」

「朝倉の者よ!今すぐこの旗の下に集い、左衛門督を殺めた織田とその眷属を討て!」


 紛れもない、朝倉家の旗だった。




 雑兵とは言え朝倉家の人間だった長徳は本来ならばこの旗の下に立っていた人間だった、だから今こそこの旗の下に集えと言う事なのか。


 その意味を長徳が理解するまでの間に、小谷城から大半が旧朝倉軍である軍勢に向かって目を覚ませと言わんばかりに織田を討てと言う言葉が飛んでくる。時折野太いしわがれ声が鳴り響き、他の有象無象の声の力をさらに高める。




「ああ上総介様!」

「山崎、一体何事だ」

「小谷城が朝倉を名乗る者に占拠されております」




 もちろん、この騒ぎを前に動かない訳には行かないとばかりに高虎もやって来た。その高虎の存在を認めるや小谷城から上がっていた織田を討てと言う声はやみ、老人が上半身を前へと乗り出した。


「貴様が不埒者の藤堂高虎か!」

「貴殿の名をおうかがいしたい!」

「貴様に名乗る名はない、と言いたいが特別に教えてやろう!」



 老人は高虎に向かって軽く舌打ちしながら大きく手を振って若衆を呼び付け、一本の旗を反対側の物見やぐらから掲げさせた。







「武田菱!?」


 黒い地の色に、四つのひし形。まさに、つい数日前まで戦っていた武田菱のそれだった。高虎の方に風を届け浅井の兵を吹き飛ばさんとするかのようにはためき、兵たちを見下ろしていた。


「まさか、武田信虎!?」

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