天魔の子、虎狩りを成し遂げる

 口から勝手に笑い声が漏れる。




 内藤昌豊を討ち、馬場信房も亡く、そして山県昌景をも討ち取った。




 まったく数の力でしかない。それこそ明智軍を除くすべての兵を自分の都合でちぎっては投げちぎっては投げを繰り返し、無理矢理消耗戦に持ち込ませて押し潰した。


「この先に待つのは信玄だ!信玄を討てばこの戦の勲功第一は浅井の物となるぞ!」



 投げ付けに投げ付け続けた兵士たちの残りを率いて、大将の軍勢に横撃をかける。



 既に半刻(一時間)近く戦っていたにもかかわらず、兵たちは戦勝の勢いを糧に突撃の手を緩めない。目の前の山県軍の残党を蹴散らしながら、最後の敵を倒しに向かう。


「さすがに敵も本気だが、だがあと一歩だ!もはや残党兵もこれ以上戦う事は出来まい!そうなれば味方はどんどん突っ込んでくれるぞ!」


 三将の配下たちは未だに戦っていたが、それでも数に押され疲労が重なり次々と地に伏して行く。


 最初に倒れたのはこの戦の目的に合わせて先陣を切っていた古参の熟練兵であり、その次に倒れたのが小部隊の指揮官だった。この小部隊の強さこそ武田にあって織田にも浅井にもなかった物だったが、それが崩れるといよいよ危ない。


 結局のところ、最下層の足軽の実力などどこの家もそんなに変わらない。その最下層の足軽がむき出しにされた時勝敗を決するのは装備であり、体制であり、数であり、勢いだ。


 装備に差がなく、正面衝突のこの状況では数にも勢いにも大差があった浅井軍の方が圧倒的に有利である。大将の仇討ちだの、信玄を逃げさせねばならないだのと言う高尚な兵は、すでに天竜川ではなく三途の川の付近にいた。




「考えてみろ、藤堂様だってつい三年前までただの足軽だったんだぞ!ここで戦果を上げればいずれはどうなるかわかるはずだ!」


 山崎長徳の叫びだけで山県だの内藤だのの名将の配下であった兵は逃げまどい、信玄直属軍に突っ込んでその軍勢をかき乱す。

 言うまでもなく浅井軍本隊はその混乱の渦中に突っ込み、敵将をも狙わんとする。


 疲労は少ないが精神が限界に近い武田軍と、疲労しているが高揚しきっている藤堂軍の激突。これだけならほぼ互角だが兵の量に差があり、さらに相手が疲弊しているからと言って長引かせる事が武田軍にとって有利になるとは限らないと来ている。




 この時には既に残った浅井軍の兵が将を失った武田軍を圧倒して迫っており、さらに内藤昌豊と馬場信房の死を聞いて浅井の優勢を悟った織田・徳川軍が動揺した武田軍に対し一挙に反転攻勢に出ており、両家に対峙していた武田軍も崩れ出していた。


 勝頼だって南方軍の大将である穴山信君だって、信玄を救いに出すための兵はもう一兵も残していなかった。







「武田軍が下がって行きます!」

「逃がすな!」


 敗北を悟った信玄がついに逃げ出そうとすると、高虎は信玄軍と並走した。


 いつでも横っ腹を突いてやる。もし妨害されてもその連中だけでも叩きのめしてやる。

 追跡戦としてはまったく正しいはずの行動だったのに、それだけで武田軍はより一層怯えた。


「間違いございません!ここにいるのが武田信玄です!」



 その上に馬場軍配下の足軽と、山県軍の部将からの叫びと言う二重の証拠をくぐり抜けた確報が出て来たのだから高虎軍は元気になる一方である。

 信玄を討てるかもしれないとなって疲れのなくなった藤堂軍は東へ東へと、信玄軍に覆いかぶさるように突き進む。


 その信玄軍の真後ろからは赤尾軍より先に朝倉景鏡軍が突っ込んで来る。


 元より高虎に向かって朝倉の正当後継者候補としてへりくだるような人間だった景鏡は高虎の今回の戦果にすっかり当てられてしまい、いい年して自分が高虎にでもなったように得物を振り回しまくる。

 その分だけ武田軍も倒れているからいいような物だが、朝倉軍の兵士たちは内心で苦笑いしていた。


 無論それは余裕があるからできる行いであり、武田軍にはそんな暇はない。高虎軍で高虎に次ぐ猛将であり昌景に実質とどめを刺した直基は負傷して後方に下がっていたが、長徳と言う昌豊を討ち取った存在はまだ無傷である。




「さあ行け!」


 そしてついに、頭を押さえられるだけの時間を取れると判断した高虎は信玄の軍勢を包みにかかった。


 頭を押さえられた信玄勢もようやくやる気を出して藤堂軍に襲い掛かるが、それでも勢いの差はどうにもならない。


「南を押さえろ、南を押さえろ!」

「何が何でもお館様を逃がすのだ、まだ南だけは空いている!」


 信玄軍を包囲すべく南に軍を回そうとする高虎と、なんとか南から信玄を逃がそうとする武田軍の戦い。悲愴感に包まれた武田軍の一撃一撃を、藤堂軍は踏みにじる。長徳もここぞとばかりに暴れ回り、戦いに酔う。


 高虎もまた同じように死を覚悟した兵たちを亡骸に変え続け、ついに武田信玄の顔を拝むに至った。


「武田信玄!ついに見つけたぞ!」

「お館様お下がりくだされ!こやつは藤堂」

「いかにも!私が藤堂高虎だ!」


 信玄の小姓の振るうなぎなたを叩き落とし返す刀で斬り上げると、真っ二つになって倒れかかった遺体がほんの一瞬まっすぐになり、そして倒れ込んだ。







「藤堂!貴様ぁぁ!!」


 小姓の脇差を抜き取った信玄が、一瞬の隙を付くかのように高虎に斬り込んだ。全く重みの違う二本の刃が交錯し、細い刃が太い血まみれの刃を押す。



 信玄が、ついに他者に刃を向けたのだ。十三年前に剃髪して晴信から信玄となって以来、絶対に抜かぬと決めた刀。上杉謙信の単騎突撃を受けた時でさえ軍配で受け止めた人間が、小姓から受け取った脇差を振りかざしているのだ。


「貴様が昌豊たちを……!」

「鋭い!」

「貴様さえ討てれば武田はまだ戦える!貴様こそ浅井、いやこの戦で最も危険な存在!昌豊と昌景の血を吸って大きくなりおって、これ以上は、これ以上は!」



 十三年間戦いから離れていたとは思えない力で脇差を振り、高虎の太刀を弾き返し続ける信玄。三人の重臣の無念と、このままどんどん大きくなる存在を放置していてはいけないと言う戦前に抱いていた危惧を武器と力に代え、せめてその内の一人だけでも仕留めようと得物を振るう。


 信玄は昌豊や昌景に負けず劣らずの立ち回りを脇差で演じ火花を散らし、そして高虎の目にもその火花を叩き込む。勝利目前であった高虎に、改めて戦場の恐ろしさを教えようと言う偉大なる先達からの刃。その戦いぶりはまったく歴戦の強者のそれであり、藤堂軍の手を止めさせ酔いから醒まさせるには十分だった。




「誰か、武田信玄の御首を取れ!私は他の兵を片付ける!」




 そして同じように酔いから醒めた高虎は、膂力で勝っているのをいい事に信玄の脇差を押して一気に距離を置いた。



「貴様、ここまで来て逃げるのか!」

「武田の将を斬れたのだ!もう深追いは要らぬ!」



 深追いしないと言いながらはぐれた取り巻きの兵を斬り、抵抗力を奪っていく。


 文字通りの残党狩り、数稼ぎに徹し、負傷していようがあきらかに非戦闘員だろうと、武田軍であると言うだけで容赦なく斬り捨てる。


 この時五千から千数百までに減っていた武田軍北方軍は瞬く間に数百になっており、高虎たちにより百数十名にまで減って行く。逃げようとした者は主君を見捨てた罰のように後ろから斬られ、無残な断末魔を上げながらこの世を去る。




 そしてついに、一人の兵士の刃が信玄の肉体を捉えた。




「貴様などに構っておれん!」

「お館様を逃がすのだ!」

「何が何でも守るのだ!」


 残った兵たちは信玄を守ろうとするが、それも前から来る人波に呑まれて消えて行く。



 百数十名はわずか数十名になり、信玄は左足から血を吹き出しながら馬を走らせる。



 東でも北でもなく、藤堂高虎の元へと。







「たぁかぁとぉらぁーーーーーー!!」







 信玄が戦場全てに聞かせるような声を張り上げて高虎を追うが、高虎は立ち会おうとしないで逃げ回る。兵たちも付き従って追いかけ回すが、一向に追い付かない。


「貴様を殺さねばわしは、わしは!」

「今日の戦はもう終わりでしょう!」



 これが、藤堂高虎だった。


 先ほどまであれほど血に酔っておきながら、醒めるとまったく臆病者になる。高虎はこの肝心要な時に際して、またその癖が出たのだ。



 信玄は逃げる事を忘れて残りわずかな兵と寿命を高虎にぶつけようとするが、その間に欲望に満ち満ちた兵士たちが次々と信玄に襲い掛かる。なんとか四人まで斬れたものの、もはや明らかな満身創痍だった。

 元々労咳(肺結核)を患い療養に時間を費やした上で出て来た信玄の呼吸はあまりにも荒く、完全に死にかけの人間のそれだった。



「してやられたわ……最後の最後まで油断などせずに……どこまでも憎たらしい!よかろう、この首を備前守に見せよ!」

「お断りいたします、必ずや武田軍が全力で奪いに来ますので。ですがお命だけは」

「藤堂高虎、どこまでも恐ろしき男よ……!さあ、来、い……」


 内側から真っ赤に染まった甲冑を身に纏いながら、最後の力でその名を叫んだ信玄に向かって高虎は突っ込み、これまでの戦いで内藤昌豊と山県昌景の血を吸った太刀を信玄の胸に差し込み、名乗りも挙げぬままそのまま大きく離れた。




「藤堂上総介様が武田信玄を討ち取ったぞ!」




 高虎ではなく長徳により、信玄の死が戦場に布告される。これならば文句あるまいとばかりに上総介などと言う信長から投げ付けられた通称を長徳は喧伝し、その度に歓声と悲嘆が響き渡る。


 あまりにもはっきりとした声で当主の死を聞かされた武田軍は一挙に潰走し、同時に勝利を悟った事で気力が尽きた浅井軍は力尽きたかのように戦場に膝を付き、織田・徳川軍も同じく疲弊して追い切れないまま、さほど深く攻め込んでいなかった一部の将を逃がす事となってしまった。

 余力が残っていた織田勢はかろうじて追撃できていたが、それでも武田勢に与えた損害は微細だった。







 だがとにかくこの戦にて二万を擁した武田軍は当主の信玄以下馬場信房、山県昌景、内藤昌豊、他に真田信綱・昌輝兄弟と言った名将たちが失われ、死者負傷者合わせて一万、つまり二万の中の半数の軍勢の戦闘力が失われるほどの損害が出た。

 馬場、山県、内藤はそれこそ武田四名臣とも言われるほどの実力者であり、その配下も精鋭である。それを取り戻すには、それこそ莫大な時間と費用がかかるのだ。一応後継者の勝頼や穴山信君、一条信竜などの一門集は残っているが、それらは二線級のそれに過ぎない。



 勝った三者連合軍も死者千五百名、負傷者三千五百名を産み出したが、もちろん勝ち戦だから負傷者が死者になる事はなく、全体から考えれば一割程度の損害に過ぎない。


 そして織田も徳川も、もちろん浅井軍も名のある武将を失わずに済んだ。
















「まさに空前絶後の大勝利よ」

「どう感謝しても感謝しきれませぬ」


 浅井の大将である政澄が所在なげに虚空を向く中、信長と家康は深々と頭を下げていた。その対象は言うまでもなく、政澄ではなく高虎だった。


 高虎もまた政澄に追従するかのようにきまり悪そうに頭を下げ、その上で大将を連れて陣を去る。


「浅井様……」

「そなたが動かなければ何も言えなかったからな、だがな、どうかその……」

「誠に申し訳ございません」

「いいんだ、別に。だがな、もう二度とあんな敵と戦うのはごめんだ。お館様がそなたを、寵愛している訳がよくわかったわ……間に合ったからよかったが、少し遅かったかもしれんな……」


 息も絶え絶えな政澄を抱きかかえながら、高虎はゆっくりと大地を踏みしめる。その姿は実に初々しく、どこか微笑ましかった。








 とにかく浅井本陣に戻った政澄は浅井の総大将として論功行賞を行い、高虎を当然一番手柄に据えた上で実際に馬場信房を討った田中吉政を二番手柄とした。


「しかし明智殿には相当なご迷惑をおかけした物で」

「よく言うな」

「明智様には御礼を」

「要らぬとの事だ。まったく、武田とは本当に恐ろしい物だったな」

「自分でもなんで生きられているのかわかりません」




 舟を漕ぎながらも自分の所業を思い返し、その上で素直に反省してみせる。



 その程度には、高虎は真面目な好青年だった。

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