山県昌景、天魔の子と戦う

 引くに引けないとはこの事か。


 この数日の晴天により涸れた天竜川はそれほど動きにくくないが、信玄の軍勢はまったく動けなかった。






 すでに内藤昌豊と馬場信房は失われ、山県勢の流れもあまりよろしくない。


「この兵の動き、まったく凡人のそれではない……」


 ある程度予想通りとは言え、信長本隊にぶつけた勝頼たちや徳川にぶつけた穴山隊はそれほど大きな戦果を上げられている訳ではない。


 優勢なのか互角なのか、少なくとも劣勢でない事は間違いないようだが、だとしても一挙に突っ切るようなことができる情勢ではない。


「山県を守れ!山県まで崩れたら我々は終わりだぞ!」

「いずれ内藤勢を突っ切った軍勢がこちらへ!」

「わかっておる、だが前を突っ切らねばならぬのだ!」



 あるいはここで退けば、まだ何とかなるかもしれない。


 昌景が助かるどうかはわからないが、自分の側に居る兵はまだ助かる。信房より昌豊よりもまだ若い四十路の昌景ならば、四名臣のもう一人である高坂昌信と共に武田を支えられるはずだ。



 しかしそれこそ、数年単位で進めて来た大遠征の大失敗を認める行為である。

 自分の寿命も先が見えている中、今更命を惜しむなどあまりにも往生際が悪くみっともない。ただでさえ自分のせいで大打撃を受けた武田家を建て直すだけの寿命が残っている訳もなく、結局自分の尻を拭けないまま勝頼に渡してしまう事には変わりはない。


 なればこそ、突っ込むしかない。最初からそのつもりだったのだ、別に何の問題があると言うのだろうか。



 山県を助け、相対している赤尾軍を砕く。それしかない。



 元より赤尾軍は馬場軍に突っ切られて態勢は整っておらず、比較的攻めやすいはずだ。



 武田菱の旗をなびかせながら、信玄は馬を進める。農兵などではない、親衛隊と言うべき兵士たちを先陣に立たせながら突き進む。


「朝倉が何だ朝倉が!横っ腹を突いた所ではいそうですかと切り離せる訳もない!」

 


 本陣の軍勢は西から東に、朝倉勢は北から南に、田中勢は東から西に。



 簡単に言うとそうなるが、こんなに方向の違う三軍が合流するのは難しいし、それ以上に向きを変えるのも難しい。少なくともそれまでの間は前面の赤尾軍と横から来る軍勢だけ相手していればよく、うまく行けば三軍が向きを整え直す前に行けるかもしれない。



 これより勝ち手はない、だからこそためらいなく実行するまで。


 静寂なる林も不動なる山も捨て、疾き風も半ばあきらめて、ただ侵略する事火の如しの一念で突き進む。


「昌景に伝えよ!赤尾など無視して本陣を突破せよと!側面からの攻撃などわしがすべて受け止めてやる!」


 だからこそ同士討ちだけは避けねばならない。何とかして残るすべての軍を潰した上で、一人でも武田の兵をこの陣の奥に持ち込む。その思いを込めて信玄は采配を振るい、自分が育て上げた最強の兵をぶつける。









 だがその目の前の存在に、また別の絶望がやって来る。


「山県軍が横から襲われています!」

「何だと!本陣を何だと思っているのだ!」


 自分を認識していないかような山県勢に向かっての横撃。


 あまりにも短慮ではないか。その上に無礼だ。


 確かに山県昌景の名は異国、浅井領まで伝わっていてもおかしくはない。

 とは言え、まだここに自分の軍勢がいると言うのに全く顧みることなく兵をぶつけようなどごう慢ではないか。


「その短慮、致命傷にしてやるわ!!」



 血が沸騰する。


 甲斐の虎と言われた自分を、隠しているとは言えまるでいなかったかのように扱うその振る舞いが武士として気に入らなかった。


 北から南に動いて山県勢を叩くと言うのならば、それに東から当たればそれこそ横撃ではないか。



(あの田中以上の小童だと言うのか!)



 赤尾軍の奥にいる田中吉政も許せなかったが、今それ以上に腹立たしかったのは藤堂とか言う男の事だ。単純に昌豊を殺したも同然と言うのも許せないが、それ以上に自分をなめきっているその態度も許せない。


(藤堂高虎め……!)


 昌豊討ち死にの時に高虎の顔を見てしまった信玄は、ほんの一瞬言葉を失った。


 確かにその顔に歴戦の勇士っぽい覚悟はあったが、まだ皮一枚のそれしか感じられない。まだ二十歳にもならないとか聞いていたが、それ以上に幼く見える。

 坊主たちを容赦なく斬ったのも、しょせんは忠義心の暴走かただの無知蒙昧かのどちらかだろう。こんな小僧に自分たちの軍勢が蹂躙され、昌豊が殺されたのかと思うと腹立ちが収まらなかった。ましてや自分を無視するなど、もう絶対に許せなかった。


「あの藤堂高虎を殺せ」


 音量を抑え怨念を込め、手勢に言い聞かせる。精鋭部隊に、山県勢を押そうとしていた藤堂勢を横撃させる。







 そのつもりだったのに、まるで目が横に付いているかのように藤堂勢は後退し始めた。一瞬何だと信玄が思うと同時に、すぐさま答えは判明した。



「朝倉軍だ!」


 朝倉景鏡が、赤尾軍も田中軍も追い越してまた出て来たと言うのか。


 確かに馬場軍はもう風前の灯火であり手空きなのはわかるが、だとしてもあまりにも便利すぎる。浅井軍の副将の一人であったはずの景鏡が、あまりにも高虎などに便利に使われ過ぎているのではないか。



(確かにこの男に男子ができれば朝倉家の有力な後継者となるが、だからと言ってこんな!)


 この時期に出兵する事を決めてから武田はこれまでより一段と遠江の地理や織田の内情を探っていたが、他の間者の大半は目下の敵である織田の本拠地である美濃で止まり、高虎について入った最大の情報は一刻前に入った「朝倉義景の娘を娶った」だった。

 本願寺顕如の長男の婚約相手を寝取ったとか言う事で戦意を煽るのに使えるのかと言う程度にしかならないと思っていた信玄は、その報を気にしていなかった。


 確かに朝倉家としては日の出の勢いである高虎の存在は大きいのはわかるが、だとしてもこれは盲信の類ではないか。




「誰だろうと構う事はあるまい!」


 だがだとしても、他に何の言いようもない。目の前に朝倉、その後ろに赤尾、田中、そして本陣。四枚もの壁を破るのは果てしなく困難である。それでも、進むしかないのだ。


 それでも山県勢を巻き込むのだけは嫌だと思っていると、朝倉と赤尾に挟まれた武田菱の旗が北へ伸びて行く。



 昌景は、あくまでも自分の突撃を補助するために浅井の盾になるつもりらしい。

 どこまでも健気だ。

 その健気な男に何も与えられそうにない自分をほんの少し恨みながら、信玄は軍配を振る。


 兵は前進し敵を飲み込もうとするが、敵はいくらでもやって来る。おまけに後退する素振りも見せない。景鏡に追従するかのように赤尾軍も迫り、数に任せてこちらを圧して来る。


 こちらが倒れても構わぬとばかりに仲間の死体を踏み越えて兵をぶつけると、向こうも同じように返してくる。これでは有利になるのは数の多い方ばかりだ。


 そして兵の疲労とかの前に、元より三方から攻撃を受けて打撃を受けていた山県勢は満身創痍であり、いつまで持つかわからない。


「兵力の逐次投入など愚の骨頂だぞ!」


 危機に陥る度に兵を後方からもぎ取って投げ付けるなど、無為無策の現れのはずだ。

 誰が言い出したのかは知らないがここまでの愚策を執って自分たちを打ち倒そうとした輩がどこまでも許せなかった。





 早く突っ切らなければならない。


 その間にも山県勢はいよいよ崩壊寸前になり、昌景も誰かとやり合っているような状態である。



「藤堂軍、真柄直基見参!」

「真柄直基だと!」


 越前朝倉家の家臣である真柄親子の武勇は信玄とて知っている。確かに父親の真柄直隆が討ち死にした所までは聞いていたが、直基がどうなったかは知らなかった。


「その風貌、紛れもなく山県昌景だな!」

「いかにも!」


 その直基と昌景が得物を打ち合う。火花が舞い、両軍の兵士たちも続けとばかりに相手を斬りまくる。だが倒されている数は武田の方が多い。

 何とか直基を討ち取って流れを変えてくれと祈っていると、また別の方向から昌景に太刀が振り下ろされた。



「直基、共に山県昌景を討とうぞ!」

「貴様が、藤堂高虎か!」



 藤堂高虎。おそらくはこれまでの全てを実質牛耳って来た存在。声からしても若僧だとわかる、「天魔の子」とか呼ばれている男。


「藤堂を討てばこの戦は勝ちも同然だ!」


 昌景の檄と共に兵士たちが高虎に襲い掛かるが、藤堂軍の兵に振り払われる。その間に高虎は、直基と共に昌景に斬りかかる。


(なるほど、武勇もまたしかりか……)


 高虎の太刀捌きは直基に負けず劣らずだった。二人の若き俊才を相手にして、昌景も防戦一方だった。武田の兵士たちは昌景を救う事も出来ないまま次々と戒名を必要とする身になってしまい、無事な兵も昌景から引き離されてしまっている。




 そして三十合ほど打ち合った所で、直基の太刀が昌景の胸を裂いた。


 その上で昌景のなぎなたも直基の左足から出血をさせる事に成功したが、昌景の方が重傷だったのは明白だった。

 そこに高虎が先ほど出血した胸部に太刀先を当て軽く押し込み、距離を開けて昌景の最後の一撃から離れると共に、なぎなたは昌景の魂を運ぶかのように宙へと舞った。




「ハッハッハッハ……」


 高虎の笑い声が響き渡る。まだ十八歳らしく甲高く、それ以上に恐ろしい。


 手塩に掛けて育て上げた宿老三人の血を吸った「天魔の子」が、成長して本物の天魔になってしまったとでも言うのか。


 ある意味三人の宿老の死や単純な敗北以上に恐れていた、浅井や織田の存在の肥大化と言う最悪の事態。討とうにも、余分な兵は一人も残っていない。




 武田信玄をして、もはやなすすべはなかった。

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