徳川家康、本多正信の処遇に悩む
「一万三千だと」
一万三千と言えば、自分の全力にほぼ近い数である。その数を平然と出せる長政の気前の良さもさる事ながら、なぜにそこまでするのかと言うある種の恐怖心も家康には芽生えた。
「本当なのですか」
酒井忠次と石川数正も目を疑った。
確かに今春の武田信玄の出兵はほぼ確実だったし、既に織田家からは自分たちの倍以上の兵力を寄越す旨約束を交わしている。
しかしそれでも、織田に比べれば浅井は遠い。家康の嫡子信康はすでに信長の娘と婚姻しており、家康の本拠地の三河は尾張の隣国である。浅井の本領はさらにその奥であり、今徳川がつぶれてもそれほどすぐ問題になる訳でもない。
「嘘を書いてよこすような家だと思うか?」
「ごちゃごちゃ考える事もあるまい、武田を倒すにはひとりでも味方は多いに越したことはないのだからな」
「しかし浅井は越前と加賀への遠征続き。決して家内が富んでいるとは思えませぬ。そのよう中で一万三千などどうやって」
「だから嘘を吐く家ではないと言っているであろうに」
「あっ殿、ご覧ください、最後の方を!やはり気前が良すぎると思ったのです!何が此度の貴家の危機は浅井の危機でもある故だ、明らかな越権行為ではないか!このような勝手な書状を送るなどやはり浅井は軽薄な家です!」
「どうしたのだ!」
一万三千の数字に囚われていた家康と数正を置き去りにし、あまりにも調子のよすぎる文面をなめつくして穴を探してやろうと意気込んで読んでいた忠次は、最後の文章を見るや一挙に吠え出した。家康が体を震えさせながら背筋を伸ばすや、齢四十七の男にふさわしい眼光で最後の二行を指差した。
「またこの戦に当たり、加賀にその身を置いていた本多正信殿を同行させるつもりである。此度の戦いにより十二分な戦果を得られたと徳川殿に認められた暁には、どうか本多正信の妻子を浅井家へと送り、浅井家への仕官を認めていただく旨どうかお願いいたす」
「いつの間に浅井は弥八郎の存在を関知したのだ」
「関知などと言う生ぬるい物ではございませぬ!おそらくは殿の命を無視して既に抱き込んでいると考えるべきです!これこそとんだ思い上がりです!あくまでも本多正信と言う男の所属は徳川であり、生殺与奪はこの徳川に帰せられるべきそれです!
おい石川殿、何がおかしい!」
ようやくその文に気付いた家康が顔を全く動かす事なく言葉を吐き出すと、忠次はまたもや口角泡を飛ばして家康に迫った。迫りすぎて忠次の右頬が家康の左頬に当たり弾んだのに数正が思わず吹き出したが、その唾液が忠次の頭を冷やす事はなかったし、家康の頭はすでに冷えようがないほど冷えていた。
(本多正信と言う存在が何をしたか、それこそ朝倉や織田から一向宗との戦いを受け継いだ備前守殿が把握していないはずはない。だがその上で正信の、今はほぼ牢人と変わらぬ存在であるはずの正信をなぜわざわざこうして書き述べたのか……)
本多正信が加賀にいたのはともかく、いつの間にか浅井と関与しているのは家康にとってあまり面白い話でもない。
桶狭間の戦いのどさくさ紛れに独立し三河統一に苦心していた段階の家康に取って一向一揆は今川や武田以上の大敵だった。それで本多正信はそれこそ首謀者であり、自分たちを苦しめた最高責任者である。
「それでだ、援軍は誰が来るのかわかっておるのか」
「浅井政澄と、赤尾殿、それから朝倉景鏡ですよ!ったく、総大将自ら来ずに一体どれほどの上から目線で」
「忠世と忠勝を呼べ」
「はっ?」
「この一件は徳川の全てに知らせねばならない。おぬしら二人では足らぬ。今ならばまだ武田も動くまい、早くするのだ。数正頼むぞ」
「はい……」
だが仮にここで浅井の要求を断った所で、援軍を出すのをやめましたとなるとは思えない。だがその場合、徳川に対してどういう評判が立つか家康にはすぐわかる。
むやみやたらに意地を張ってどうする気なのか。
本多正信と言う半ば追放された人間一人の身寄りで一万三千の兵をかつぎ出せるならば安いはずだ。
過去の因縁に執着する姿はとても武士らしくない、そこまで噂が立ってしまえば消し止めるのにどれほどの時間がかかるかわかりはしない。
そして単純に誠意がないと思われる事自体、家康に取っては恐怖だった。長政と信長の不歓心を買えば、今後今回のように援軍を出してくれないかもしれない。
最悪の場合、織田が徳川を捨てて武田や北条と結んで両側から領国を食い荒らす可能性すらもあり得る。
「忠次、お前は正信が可愛いか」
「何をおっしゃっているのです」
「文字通りの意味だ」
「それは、その……」
「いったん休め。あとは忠世たちと共に話そう」
「いいえ筆頭家老としてお側に居続けます、それが自分の責任ですから」
先ほどのお返しのように思わぬ言葉をぶつけられた忠次の顔が平常時のそれに戻るや、家康も同じ顔になった。その上でなおこれだけはゆずれないとばかりに家康の側に居座り続ける忠次もまた、家康には可愛らしくて仕方がなかった。
やがて大久保忠世と本多忠勝が、数正に続いて浜松城の広間にやって来た。忠次は家康に促されて右側の上座に座り、左側の上座には数正、右側の下座には忠世、左側の下座には忠勝が座った。
「さて、浅井より書状が参った。一万三千の兵を武田戦に援軍としてよこしてくれる事になったらしい」
「素晴らしい話ですが、何か問題でも」
「功績を立てた暁には本多正信を浅井に欲しいと言っておるのだ」
本多正信と言う名前を聞いた途端、忠世の耳が動いた。正信の妻子を保護、と言うか軟禁しているのは忠世であり、正信を徳川に縛り付けているのは忠世なのである。
「その正信を浅井は抱え込んでいる!いくら徳川と浅井が同盟に近い関係とは言え勝手過ぎはしないだろうか!忠世、今すぐ徳川に戻って来ぬのであれば」
「落ち着け。あくまでも書状ではその身を置いているとしかない、何なら罪人として扱われていてもおかしくはない」
「それは屁理屈です!そんな存在を自らの家に仕官させようとするなど我が徳川への当てつけに決まっております」
「仕官と言ってもどの程度なのか、それがわからぬ以上何とも言えないと思うが」
「雑兵であればそれでいいみたいな言い方をするな数正!」
「一万三千と言えば我が徳川の全力に近い数字です。ここまでの援軍をくれるのは織田家を除けばどこにもございませぬ」
「平八郎、お前はそれでも武士か!織田殿が兵を寄越してくれれば我が徳川と合わせて倍になるぞ!その上にまだ浅井が必要なのか!」
忠世が何か言う前に忠次は再び吠え、家康にも数正にも忠勝にも噛み付いた。ほとんど忠次の独演会の会場と化した浜松城の大広間は、忠次が叫べば叫ぶだけその場にいる人数相応の大きさに縮まって行く。
そしてその唾液は忠世たちの頭に降りかかり、家康と同じように他の三人の頭も冷やす。
「では聞くが忠次、浅井軍一万三千なしで武田に勝てるか」
「平八郎に向かって言った通り、織田様がいらっしゃれば大丈夫です!当主も出ずに引っ込んでいるような援軍など必要ございませぬ!」
「しばし待たれよ、浅井は一体誰を総大将に」
「重臣の浅井政澄であり、副将が重臣の赤尾殿と朝倉家当主の景鏡だ」
政澄は浅井と付くだけに一応一族ではあるのだが、清綱や磯野員昌と違ってあまり前に出て来ない、おそらくは浅井家内でも軽んじられている存在。それで景鏡はほとんど名ばかりの朝倉家当主であり、今では一万石の石高もない没落将軍である。確かに二人とも年かさではあったがただそれだけ感の強い人選とも言えた。
普通ならば大将は長政、副将は清綱となるはずだと言うのになぜなのか。
だからこそ忠次は軽んじられていると考えたし数正も首をひねっていたが、一方で忠世は震えていた。
「まさか浅井軍にはあの男が」
「そう、藤堂高虎だ」
藤堂高虎———―その名を家康が出した途端に四人が固まった。
「朝倉家はもはや浅井の一部、いやあるいは藤堂の一部かもしれない。前当主である朝倉義景の姫が藤堂に嫁いだ以上、藤堂高虎には朝倉家当主を名乗る資格すらある」
「副将」の景鏡は一応朝倉家の一族だが、それでも高虎の「前当主の娘婿」という肩書きから比べれば正統とは言いがたい。その時点で高虎は景鏡を凌駕している。
「そして本願寺の僧は彼を天魔の子と呼び、藤堂殿本人もそれを比較的好んでいると言う話もございます。武勇についてもそういう程度の存在であると考えるべきでしょう」
「天魔の子とは第六天魔王の二番煎じではないか」
「言い出したのは本願寺の僧だがな」
天魔の子とか言う二つ名はさておき、信長が高虎を気に入っている事は周知の事実である。もしこの要求が長政ではなく高虎が出した物だとすれば、これを突っぱねればそれこそ信長の機嫌を損ねるかもしれない。
「あの男は苦手です」
「大久保殿」
「あれは無謀な男です。自分のみならず他人にまで無謀な賭けを強いさせ、そしてその元金を一人占めする男です」
「あくまでもその男の籍は浅井であって徳川ではない、問題は一万三千の兵なしで徳川が持つかどうかだ。個人的な意見を言えば持たないと思うぞ」
「そんな悲観的な事でどうする!」
越前の一件以来、忠世は高虎を嫌っていた。勇猛果敢と言うより猪突猛進、全くその気もないのに勝手に他人を引きずり回し、そして多くの犠牲を生み出す。今の所結果としてうまく行っているからいいが、いずれ破綻するのではないか。
これまで同じように自分の力を過大視して戦場で散った多くの兵たちと同じ末路をたどる気がしてならず、そんな存在に徳川を巻き込ませたくなかった。
「遠江を手に入れたのは織田様と田中久兵衛と言う浅井軍の将ありきだ。武田相手に単独で戦える力は今の徳川にはない」
「それで大久保殿にうかがいますが、本多正信の妻子を差し出し浅井に仕官させたとして徳川の不具合とは何でしょうか」
「徳川の内情が露見するわ!」
「それで忠次、此度の要求については」
「お話になりませぬと言っているではありませぬか!」
「数正は浅井軍をとにかく呼び込めと、それで忠勝もそうか」
「それがしも今回は石川殿に賛同いたします」
「おいそんな弱腰でどうする!」
一方で数正は高虎とか以前にまず浅井家の完全な協力を取り付けねばならないと言う方向に頭が行っており、忠勝は高虎の願いを聞いた時の損得を論じた上で高虎の願いを聞くべきだと言っている。
四人の重臣の意見が二対二に割れたのを確信した家康は、右手に握り込んでいた扇子を畳に叩き付けた。その音と共に四人の言葉が消え、家康の次の言葉を待つ体制へと移った。
「すべては決まった。わしはこの要求を呑む」
半ば自分の中で決まっていたとは言え、それでも家臣たちの言葉を聞き尽くした上で決定したと言う感触はあったし、自分なりに改めて納得もできた。
「そのような!」
「ところで忠世、十年近く徳川から離れていた人間にどの程度内情がわかる?」
「それはその、どのような行政の仕組みになっているかとかどの辺りが強くなっているとか、ああそれからどこの城が強くどこの地形を抑えられると弱いとか……」
「おい忠世、だからそれは十年近く前の話だろう。松平元康だった時の話を今更持ち出してどうなる、と言うかお前は浅井が徳川と戦をするとでも思っているのか」
「……」
「此度の戦、少しでも味方は多い方が良い。大敵を目の前にして争っているほど徳川は強大でもないのだからな。本多正信の妻子を浅井家に引き渡し徳川を離れる事を認めさせ、その上で援軍を受け入れる。これはわしの決定だ」
それでも喰ってかかる忠世を説き伏せた家康は、改めて浅井の援軍の申し出を受ける旨宣言した。
「ですがその、本当によろしいのですか正信の事は」
「もう過ぎた事だ。では下がって良い」
最後まで食い下がった忠世を含む四人の背中を見ながら、家康はため息を吐いた。
自分で追放したくせに、いざとなるとなぜか惜しい。未練がましく男らしくないなと思ってみたものの、それこそ今さら自分が正信に与えられる物がどれだけあるのか考える気にもなれなかったのもまた確かだった。
(どうせならば高く売る。これもまた人の使い方だろう)
これが最後なら最後で、うまく使い切ってやる。正信の最後の使い道を、家康は急に大きくなった浜松城の大広間でひとり考えていた。
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