本多正信、徳川の籍を離れる

 家康が援軍歓迎の手紙を返送してから十日後、一万三千の浅井軍は明智光秀の先導により尾張清州城までやって来た。


 家康も浜松城を信康と大久保忠佐と三千の兵に任せ、宿老たちと共に清州城まで来ていた。





「しかし改めてものすごい軍勢ですな」

「わしもあれほどの軍勢を率いて戦ってみたい物よ」



 浅井軍一万三千に、自軍七千。そして織田軍三万。

 合わせて五万の兵が、清州城周囲に集った。

 今川軍の配下として四万五千の兵を見た事はあった忠次はまだ冷静だったが、若い忠勝は家康と同じく興奮してあっちこっちを見まわしていた。



「徳川殿ですか」

「これは明智殿、お久しぶりで」

「徳川殿こそご壮健で何よりです。では私はお館様に報告を済ませねばならぬのでこれでおいとまさせていただきます」


 光秀は笑顔を作る事もなく、家康に向けて丁重に頭を下げる。いつ見ても同じ愛想のない堅苦しい顔をして、お役目を果たしましたからと言わんばかりに信長の元へ向かう。


 田中や藤堂のような若造と言うべき存在が事実上の大将になっている浅井軍の道案内と言う役目は、確かに現在の光秀の地位からすると割に合わない。


「これからが本番だと言う事なのでしょう」

「確かにな、織田殿の軍勢はまさに総動員だ。よほど此度の討伐に真剣なのだろう。誠にありがたい事だ」



 織田勢の総大将は無論信長であり、配下が柴田勝家を筆頭に丹羽長秀、前田利家、佐々成政、滝川一益、河尻秀隆、羽柴秀吉、そして明智光秀である。

 京や南近江を守る池田恒興や蒲生氏郷、堀秀政のような若手以外のほとんどと言うべき軍勢であり、まさに織田の最強布陣である。


「十兵衛、よくやってくれた」

「はっ、お館様」


 信長からの言葉を受けてようやく光秀は渋面を崩し、三軍の将に向けて笑顔を作った。秀吉のような自然なそれではないのがやや惜しいものの、戦の前にするそれとしては十分に合格点のそれを振り巻いた光秀に信長も満足気な顔をしていた。


「そして三河殿、我々と共に甲斐の坊主の御首を眺めようぞ」

「なんともお力強きお言葉!」

「それから、備前守の遣わした援軍にも深く礼を述べよ。あと、上総介の願いを聞いてやれよ」

「上総介とは」

「まあ今度の戦の結果次第だがな、備前守に命じて藤堂に上総介の名をくれてやっても良いと思っている」




 上総介と言えば、信長が以前使って来た名乗りである。




 浅井にそのような官位を名乗る者などいなかったはずだ、それを誰かにくれてやるとすればそれ相応の立場の人間しかおるまいとか言う家康と忠世の浅薄な予想を笑うかのように、信長は高虎の名前を吐き出した。


「何、備前守もあまりの功績の大きさにずいぶんと戸惑っているようだからな……義兄として領国だけでなく箔をつけてやる事も重要だと教えねばと思ったのみよ。ああ三河殿も既に余の義兄弟だからな、何なりと申すがよい」

「なればその、主君を飛び越して肩書きを与えるのはいかがなものかと思うのですが」

「余が勝手に呼ぶだけだ。備前守殿がどうしようが関係はあるまい。無論功績を立てねばこの話は反故にするまでよ」

「ですが……」

「酒井殿、なぜそなたが三河殿を飛び越して喋る?そなたこそ越権行為をなしているのではないか?」

「単純な話です、藤堂殿に肩書きを与えるとか言うのならば、田中殿にも与えるべきではないかと言っているだけです!」




 口は笑っているが目は笑っていないとかよく言うが、今の信長は逆だった。


 一見自分に喰ってかかっている忠次を冷静に威圧しているかに見えるが、その目は忠次をもてあそんでいる人間のそれだと言う事が家康にはすぐ分かった。



「忠次!」

「ですが殿、例えば私が織田様から勝手に官職を授けられると言われたら殿は黙ってそのお話をお飲みになるとおっしゃるのですか」

「ただ単に得物を振るい、敵を斬っただけだと言うのにな。酒井殿、何ゆえ藤堂と言う男にこだわる?」

「本多正信はあくまでも徳川の家臣です!それをあの藤堂は勝手に!」

「徳川の宿老はずいぶんと可愛らしい男よな」

「な、な、ななな……」

「三河殿も浅井殿にあいさつに向かってはどうだ?友軍同士の連携が取れねば戦に勝つことなどできんぞ」



 また年下の大名から可愛らしいと言われた四十七歳の男が不意打ちを喰らった顔になるのを確認するや信長は口も笑い出し、家康と数正は愛想笑いを浮かべ、忠勝はただただ仁王立ちし、忠世は先ほどの明智光秀のように憮然としていた。










「まったくいい年をして」

「いやその、ですが言うべきことは言うべきだと」

「織田様には織田様の考えがある。我々にしてみればそれが徳川の利益になるように持って行くまでだ」


 忠次には一応背筋を伸ばしてみたものの、家康からしても信長の高虎に対する入れ込みようは異常だった。


 とにかくその藤堂の顔をもう一度見に行くまでとばかりに浅井陣へと赴くと、気の弱そうな男が陣前に立っていた。甲冑からして雑兵のそれではなく大将格のはずだったが、だとしてもどうにも威厳が感じられなかった。

 その隣に立つ男もまた無理矢理大将ぶっている感が否めず、年をあまりいい形で食っている感じがしなかった。


「これは徳川様、どうもどうも」


 口の方も見た目通りであったはずなのに、なぜか勝手に顔が引き締まる。


 家康たちの目線は二人のうらぶれた中年男性の後方に立つ顔見知りの田中吉政と、もう一人の男に向いていた。


 吉政はかつて遠江までやって来た時と同じ、頼もしそうな顔をして控えていた。若々しさと同時に闘気を込め、得物も持たないのに浅井政澄と朝倉景鏡とおぼしき二人を圧倒していた。




(これが藤堂高虎か……以前はまだ可愛げもあったが今はとんでもない存在になっているな)




 だがその吉政をして猛将におとしめてしまう存在感を放っていたのが、景鏡らしき男の側に立つ巨漢だった。







 あの足羽山から三年弱、桃尻男はすっかり別人になっていた。


 意志の強さだけは変わらないが、それ以外の全てが肥大化している。主君のことを少しでも蔑めば、素手でも構わず戦いを挑んでくるかもしれない。その上で決して自分や長政が敵と認めない者には吠える事もせず、座れと言えば命令があるまでずっと座り込む。

 その理屈で越前や加賀で数多の坊主を極楽浄土へ送る導師となり、今こうして武田信玄と言う坊主をまたあの世へと送ろうとしているのだろうか。

 一向宗とはあまり親しくない家康だったが坊主そのものは太原雪斎と言う恩師の存在もあり嫌いではなかっただけに、第六天魔王や天魔の子と呼ばれて平気な感性は正直理解できなかった。




 だがこうして再会してみると、まさしく「天魔の子」でしかない。地位は人を作ると言わんばかりに、口もまともに開けないのに全てを食い尽くしそうになっていた。




「浅井殿、この徳川家康深く感謝申し上げます。ほれ忠次は副将殿、それから忠世は田中殿の手を取れ」

「ありがたきお言葉」


 とりあえず自分は浅井軍の名目的大将と言うべき政澄の手を取り、酒井忠次には朝倉景鏡、大久保忠世には田中吉政の手を取らせる。




「それにしてもお初にお目にかかりますが藤堂与右衛門と言う若武者、実に壮健ですな」

「…………」


 徳川で一番背が高いのは本多忠勝だったが、高虎もそれに負けていない。

 二十六歳と十八歳の二人の若武者が、陽光に照らされてなおさら大きくなっていた。忠勝さえも圧倒され、数正と高虎の合わさった手ばかり見ていた。




「とにかく約定通り、本多正信が妻子きちんとお引き渡しいたしましょう。今後ともどうかよしなにお付き合いを」

「それはそれはありがたきご処置で、はい……」

「その前に本多正信の顔をご覧にならなくてよろしいのですか。我々が本当に本多正信を連れて来ているのか、それを確認せずに話を進めるのは」

「藤堂殿、それは」

「今直基に命じて連れてまいりますのでしばしお待ちください」


 それでも本多正信についてだけでも上から目線を貫き通そうとしたのに、高虎はさらにその上から叩いて来る。



 そう言えばここまで五人の内誰も正信の姿を見ていないという正論の上、豪傑として三河にすらその名を知られる真柄親子の息子の直基こと真柄直基を呼び捨てにし、かつ副将であるはずの景鏡に藤堂殿と言わしめている。


 景鏡がそう言ったのは故意ではないのだろうが、だとするとなおさら普段からの力関係が見えてしまう。義景が死に、丹羽長秀に下っていた残党たちが一揆衆の餌食になった結果朝倉家はほとんど四散していたはずだ。

 当主となっていた景鏡もすでに力はなく、ほぼ浅井に頼りきりの状態となっていた。高虎が義景の娘を娶ったとか言うのは聞いていたが、だとしてもあの景鏡の声色はとても一朝一夕で身に付いたそれではない。


「そう言えばそうでしたな、それで正信はどのような」

「一応人質と言うのも何なので米粒を数えさせております」

「勝手な事を」

「無為徒食などさせていては浅井の沽券にかかわります故」


 忠次がまた突っかかる中高虎は政澄も景鏡も吉政も飛び越して話を進め、整然と話をまとめにかかる。

 それについてなおも忠次が何か言おうとした所に、一人の猫背の男が直基に手を引かれて歩いて来た。


 相変わらず頼りなげな正信の姿であったが同時に惜しさもあり、今更何を未練がましい事を考えているのだと自分に腹を立てながら浅井の将たちを眺めた。




「紛れもなく、本多正信だ」

「ご確認いただき、ありがとうございました」

「藤堂殿、どうか藤堂殿のお手により食い扶持を弥八郎にお与えくださいませ」

「ありがたきお言葉、寛大なる徳川様の慈悲に感謝いたします」

「弥八郎、藤堂殿に礼を申すのだぞ」

「この本多弥八郎をどうかお役立てくださいませ。忠世、丁重に連れて参れ」


 それほど思い出のある訳でもないとは言え家臣であった存在のことを思いながら、家康はもう一度四人の浅井の将を比較するような目で見た。





(やはり、藤堂高虎か……)



 浅井政澄は総大将として仁王立ちしていたがどこか足が重く、朝倉景鏡は立場上高虎の後方で腕組みをしていたがやはり身長以上に小さく見える。

 一方で田中吉政は二年前より目付きが鋭くなり、わずかに髭も生え出し貫禄が付き始めた。そして藤堂高虎はこの中で一番年下と言う事と本多正信の身元引受人と言う事でか、首を深く下げて髷を突き出していた。



 四者四様と言うべき空間で、家康の眼はどうしても高虎ばかりに向いてしまう。背は正確に曲がり、それでいて媚びる所がない。あくまでも誠意を尽くせぬ事を恐れるかのように、じっと姿勢を保っている。


「本多正信、これでおぬしは徳川を離れる事となる。この戦が共に歩む最後かもしれぬぞ」

「これよりは藤堂様のために身を尽くします、それが徳川殿のためでもございますゆえ」

「吹っ切れたようだな……本願寺の内情をのぞいたゆえに失望したおぬしの存在は、信玄坊主、いやこれよりの本願寺たちとの戦いにも大きな糧となる……藤堂高虎、せいぜいこの男を飼い殺しにせぬようにな」

「わかり申した」


 高虎は首を上げ、主人である自分がやると言わんばかりに正信の妻子を浅井の紋が描かれた天幕の中へと連れ込んだ。正信も付き従い、家康に背を向けて去って行く。


 徳川と正信の仲は、ここに完全に切れたのだ。




















「しかしぶしつけながら、お見事ですな」

「何がだ」

「あの藤堂と言う男、おそらく素直に握って離さないでしょう。たとえ備前守様に迫られようとも殿との約束があるからと」

「そういう事だ」


 本陣に戻った家康は、忠世と忠次と笑顔で語らっていた。




「備前守殿に申し上げます。本多正信は一向一揆の中心人物であり、本願寺は未だに彼を使う事を諦めておりませぬ。それゆえ藤堂殿にその身を預け、家禄も藤堂殿より出すのがよろしいと愚考いたします」




 藤堂高虎に仕えろ、そう書状ではっきり明言してやった。


 本多正信が現在一向宗に絶望していようがかつて一向宗の一員であった事は紛れもない事実であり、本願寺がその存在を利用しないと言う確信はどこにも存在しない。


 表向きにはだからこそ本願寺に取って不倶戴天の敵である「天魔の子」こと高虎とくっつけろと言う話であるが、同時に高虎の家臣ならば長政にとっては陪臣であると言うのもまた事実である。


 いくら高虎が日の出の勢いを持った長政の寵臣だとしても、それのそのまた家臣が浅井家にどれほどの影響力を与えられると言うのだろうか。また高虎は成り上がりの十八歳の若造であり、たとえ出世したとしても赤尾や磯野などの譜代の重臣の中にはよく思わない者も多いはずだ。

 現にこの援軍の名目的大将浅井政澄は、元から久政寄りだった事もあり長政とはあまりしっくり行っていない感じだ。その長政の寵臣と言うべき高虎にこの戦の実権を握られる事になる訳だから、それこそ今後は高虎とは徹底的に対立する事になるだろう。


 この戦で高虎が莫大な戦果を上げればなおさらだ。



(この場で大きな戦果を挙げねば、いや挙げてもこの先は大変な事になるぞ。藤堂殿、せいぜい浅井殿を嘆かせぬようにな)



 浅井の家中に作ったくさびをもって、此度の大きな借りをいつか返してもらう。その算段の出来上がった家康の頭の中のそろばんは、見事なほどの速さで動いていた。

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