浅井長政、二つの秘策を繰り出す

 霧雨の降る春の小谷城、小山の頂上にあるこの山城の天守閣で、浅井長政と遠藤直経がいつものように二人でつるんでいる。




 久政などと言う朝から飲んだくれている隠居人の事は目に入っていない。




「お館様、最近家臣団が陪臣たちを連れずに来ておりますが」

「わしは欲深なのだろうな、結局」


 昨年田中久兵衛を阿閉貞征から引き抜くに当たりまた阿閉家の領国を加増したが、領国さえ出せば人をいつでも持って行かれると言う事でもある事を感じたのか最近ではあまり気の利く人間を家臣たちが寄越して来なくなったのを長政、越前一国を手中に収めた事により守護大名のようにお館様と呼ばれるようになった長政は軽く反省していた。



「それで万福丸様たちは」

「ああ元気だ」

「それで個人的には、もう一人男児が生まれればなおよろしゅうございますが」

「万福丸も茶々や初とよく戯れておる。最近ではわしの真似事をして刀も振り始めたぞ」

「若殿様が刀剣を自らお振りになって戦場に突っ込むのは御免被りたいですがな」



 長政の父の久政が世の祖父と違い、孫の誕生する見込みを喜ぶような祖父でない事を二人はよく知っている。



 強引に隠居させられて十年以上経つが、久政からしてみれば自分はまだ大殿ではなく殿であり、長政はまだ若殿である。万福丸など若殿ですらなく、ましてや織田の子である時点で存在など認めていない。日夜そんな事ばかり狭い京極丸の中でわめいて暮らしているが、それに耳を傾ける人間は時が経つにつれ目減りしている。

 その度に不満ばかりが膨らみ、ともすれば爆発しそうな気配を漂わせている。



 東と南は織田領、西はずっと浅井領、北は浅井領になった越前、と言う小谷城に千の兵力を置きっぱなしにしているのはまったく久政を警戒したそれであり、この点東だけ見ていればいい徳川と比べても浅井は損をしていた。


 だいたい小谷城と言うのは交通の要所ではあるが作りは完璧な山城で、守りは堅いが利便性にはまるで欠く。最初は生まれ故郷の清州との違いを無邪気に楽しんでいたお市も、最近では利便性の低さを不愉快に感じていた。



「まあ出来得る事ならば手を汚すのはわしの代で終わりにしたいが」

「気持ちはわかりますが」

「少なくとも加賀を攻めるのにはな。仏罰とやらはわしらだけで十分だ。何も兄上の真似をするわけでもないがな」



 一年間の休息で力を取り戻した浅井家の次の目標は、言うまでもなく加賀だった。朝倉が越前を治めていた時からの因縁の相手であり、織田と同盟を組んでいる以上絶対に避けられない相手でもある。


 同じ穴のむじなと言うほど冷静になれるつもりもなかったが、比叡山延暦寺を信長が焼き討ちしたと聞いた時には驚くより先に自分も越前でもう似たような事をやっている手前と感心する方が先だった。


 比叡山にせよ加賀にせよ、自分たちで決着を付けたかった。これまでいくら本願寺に連なる人間を害して来たとは言え、やはり地獄へ落ちるのは怖いのは変わらない。自分たちは駄目だとしても子どもたちは救いたいと言うのはどの親も全く同じはずなのだ。




「それでだ、加賀を攻めるのにどれだけの兵が必要だと思う」

「三万もあれば楽勝だと思います」

 

 脇息にもたれかかりながら吐き出した長政に答えるかのように、直経もまた戯れそのものの調子で言葉を返す。


 浅井の兵力はほぼ全開で行ったとしても二万であり、せいぜいが一万五千である。越前の民はこの二年間の寛政でだいぶ潤ったとは言え、今度は武の方が弱くなっているため石高通りの兵は動員できない。


 三公七民と言う寛政もやはり諸刃の剣であり、結局は五公五民程度が一番なのだろう。浅井領は相変わらず五公五民であるが、それでも大した不満は起こっていないと言うのが全てだった。


「まあ、そうなるな。ただ加賀はあの敗戦でかなり乱れているらしい。一万五千でも十分いけるのではないか」

「守りは堅そうですが」



 長政が身を起こすと同時に、直経も姿勢を正した。


 わずか二年で二万石の加増と引き換えにまた家臣を引っこ抜いた阿閉貞征を通じ、長政は加賀の情報を集めていた。

 その上で長政は一乗谷の戦いで捕虜となった農兵たちに、加賀を落としたら初年度は四公六民にする旨言いふらしてから解放させている。


「敵の事実上の総司令官と言うべき下間頼照は本願寺から来た人間だ、二年前に討った七里頼周と同じく加賀で権勢を振るっていたらしい」

「らしい、ですか」

「ああ、国内はかなり疲弊している。頼照の言う事を聞かない百姓も増えているらしい」

「地獄へ落ちるのが怖くないのでしょうか」

「生きなければ功徳も積めないからな」

「愛王やその姫たちも救わねばなるまいし、やはり出兵は必要だろう」


 一乗谷の敗戦以降、頼照は寺だけでなく城砦の建築も進めさせていたが明らかに過剰な労働であり、一乗谷で死んだ農兵に匹敵する数の犠牲者が生まれていた。

 それでも逃げようとすれば即地獄へ落ちるの七文字で拘束され、死ぬまで全くその心得のない坊主たちによって城砦を作らせられる。まともな武士は残っていない中で素人がいかにやろうと無駄だと言うのに、頼照は平気でやらせている。


 そして、朝倉景紀である。加賀の一向宗に残されたおそらく最後の武将。

 二年前に一乗谷から愛王と姉妹たちを連れ出した、つまり加賀に義景の一族を連れ込んだ男。





「にしても、情報が筒抜けになるのは恐ろしい物です」


 それらの事実を、小谷城にいながらにしてまったく長政と直経は把握していた。加賀に潜り込ませていた間者や解放した農民たちからの情報を頼照は止める事ができなかったのだ。


 無論間者や内通者と露見するたびにその相手を斬って来たが、それがまた不安を煽り内通者を増やす。負の連鎖が巻き起こり、その風が追い風となって浅井に吹いているのだ。


「それで編成は」

「阿閉軍は必要不可欠だろう。その上で磯野勢を加え、やはり朝倉景鏡と藤堂与右衛門の力は必要だ。無論わし自ら総大将となる」


 これを逃すわけには行くまいと出兵を決意した長政と直経だったが、やはり、高虎の力は必要だった。

 天魔の子の名前はこの二年間でなおさら重くなり、加賀ではその名を聞くだけで震え上がるようになっていた。虚名であったとしても十分に威圧できる存在を使わない理由はどこにもない。



 さらに景紀の苛烈な特訓ぶりはすでに長政らの知る所となっており、戦となれば全てを捨てて自分たちを殺しに来るのは間違いない。彼を討ち取って朝倉の正統後継者たる愛王を懐に入れて、ようやく浅井の越前支配は完璧な物となる。そのためには朝倉の現当主景鏡の存在はどうしても欠かせない。

 その上で北越前に領国を持つ貞征と、もう一人重臣から員昌を出す。


「その上で事成った暁には赤尾家に今浜を与え、磯野家に加賀を任せる。そして……」


 そこまで言うと長政は右手を振って目を大きくした直経を引き寄せ、右耳に向けて何かを囁いた。直経の大きくなった目が一旦つり上がり、そしてゆっくりと下がって行くのを確認すると同時に、長政の口角が上がって行く。




 今浜は北近江の中でもっとも肥沃な土地であり、小谷城よりよほど中心地としては適している。元より北近江の騒乱は今浜の主が動き出した所から始まっており、小谷城が中心になった事自体巡り合わせの問題でしかない。


 その今浜を浅井家の中で序列上位の清綱に与え、此度の戦で大きな功績を立てる事になる員昌に加賀を任せる。そして浅井家そのものは……と言う長政の提案は実に巧みだった。


「兄上様の影響ですか」

「ただの模倣だ、小谷城が清州城ほどの土地だったら考えもしなかった」




 住み慣れた清州城、肥沃な地である場所から岐阜城と言う地に本拠地を移したと聞いた時は長政も驚いた。この足取りの軽さが織田の強みであり、使える所は何でも使わねばならないと言う理屈が長政をしてこの決断をさせたのである。




「ああその藤堂与右衛門ですが」

「どうした」

「虎高殿から、そろそろ嫁を貰えと」


 長政の思案にひとしきり感動した直経が反撃するかのように別の話に水を向けると、長政は不意を打たれたと言うように右膝を扇子で叩いた。


「本人の希望はあるのか」

「それがまるでないそうで、いっその事茶々様を」

「馬鹿を言え、まだ六つだぞ。せめてあと六年早く生まれておればともかく」




 高虎の嫁と言う事について、長政が何も考えていなかった訳でもない。浅井の親族や重臣、あるいは織田家の誰かと縁組を結ばせるなど、いろいろな案はある。


 だがどれを取っても、帯に短したすきに長しなのだ。


 浅井の親族などを宛がえば嫁ぎ先の権勢が膨らみ過ぎるし、磯野や赤尾のような重臣だってまたしかりだし、ましてや織田と言う他の大名と家臣と結びつけば今以上に高虎の言動に織田の色が付きまとう。かと言ってまったく力のない存在を選べば、高虎を貶めることにもなりかねない。


 現在五百石取りの高虎ではあるが、この戦が終わり次第また加増する事になるのは目に見えている。それにふさわしい家格を持ち、かつ実家の権勢が膨らみ過ぎない人間を選ばなくてはならない。




「それでだが」

「それでと申されますと」


 長政は扇子でしばらく軽く頭を叩くと前に向けて扇ぎ、再び右手を振って直経の耳に向けて何かをささやき、直経も釣られるように再び目を丸くした。


「なるほどそれは、しかし」

「何、あいつの望む条件にも合っているだろ?」

「いやはや、どこでそのような奇想を」

「思い付きだ。だが展開としては面白かろう?」


 思い付き。確かにその通りではある。だがそれならば全ての懸案を片付けられる。


「だがあくまでも事成れりのお話だ。まずは加賀出兵について話を伝えねばならない」


 それでもなお自分の提案に酔うかのように顔を赤くした長政が笑う中、直経は改めてこの主人とそれに力を与えた信長と高虎の存在の重さを感じた。







 翌日加賀攻撃へ向けての軍議が催され、長政の提案に対してほぼ異論の出る事のないまま終わり、五日後越前で合流する事になる阿閉勢二千を除いた一万三千の兵が、小谷城から北上を開始した。




 磯野も阿閉も、元々はただの国人であり浅井とそれほど差のない家だったはずだ。それが今や、浅井から禄高をもらい浅井の命令で動いている。もはや完全な主従関係である。

 そしてそれは、今の浅井と朝倉の関係でもあった。今や朝倉家は浅井の一部として、わずか数千石の領国をもらって生き延びているだけの存在なのだ。










 それを認めないのは朝倉景紀と、浅井久政のみだった。

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