柴田勝家、藤堂高虎に喧嘩を売る

「すでに織田は一揆と幾度かやり合っている。彼らは逃げんのだ」




「逃げない……」

「そうだ。現世の利益を訴える者は良い、要求が満たされればそれで満足するのだからな。たとえ満たされなくともダメと分かれば身を引くだけの節度がある」

「ですが一向一揆は逃げないと聞きます」

「そう、彼らは死ぬために死ぬ」




 二十人で一人を押しつぶすような戦いを平気でやる。それが一向一揆だった。


 そしてただの農民一揆であれば、徳政令を出せだの代官の悪政を改めさせろだのの要求が満たされればおおむね解決する。

 あくまでも本人や家族、村々の生活ありきで動いているからだ。




 だが一向一揆の場合、目的は「御仏のために戦い極楽浄土へ行く」ことである。それには金銀財宝は無論、徳政すらも必要ない。

 清貧こそ絶対善のひとつであり、寡欲こそその条件のひとつだからである。



「武士に取って逃げるは恥ではない、のう猿」

「わしは武士ではございませんが、生きている限りいくらでもどうにかなると言う思いだけは変わりませぬ」

「だな。だから武士はほどほどの損害で見極めて逃げる事ができる。武士はその分やりやすいのよ」

「これまで倒して来たお方もですか」

「斎藤も六角も一揆と比べれば大したことはない、最近余はその事をつくづく思い知らされている。斎藤も六角もある程度まで攻めたら命を守るように本領から逃げ出し、大して損害を受けていない土地を残して行ってくれた。武士にとって土地は宝であり、その土地を汚せば自滅でしかないからな」


 確かに武士に取って土地は宝だが、しかしその土地を武士により良い土地にするのは民百姓であって、武士ではない。だからこそ百姓一揆が起きないように政治を行い、土地を荒らされたり奪われたりしないように守らねばならない。



「猿は余の下に仕えるまでいろいろな事をして来たし、他の主にも幾度となく仕えた」

「その通りでございます」

「しかし皆、使いこなせなかった。いざとなれば、いくらでも逃げ出せるのが俗人たちの支配だ」



 信長は自分を必死に求めている、おそらくこの秀吉も自分を求めている。


 ここで信長の言葉に応じて鞍替えするのは、長政の近習とか気取ってみても雑兵と大差ない身分からしてみればそんなに難しくない。それでも脱走兵から近習に引き上げてくれた長政の恩を踏みにじるとは何事だと後ろ指は指されるだろうが、しかしもし浅井が滅び織田が生き残ったとなれば好判断だと言われるのもまた確かだった。




「なるほど、意味はわかったつもりです」

「それでよい。備前守が待っているであろう」

「では」










「しばしお待ちを!」


 とりあえず言いたいことはわかった、その上で主君に忠義を尽くそうとようやく長政の所に帰れると思った所に、また別の人間の声が飛んで来た。


 茶筅髷に高虎とは比べ物にならないほどの量のひげを生やし槍を右手に握りしめた、戦はもう終わったはずなのに甲冑を着込んだ男。背こそ高虎より低いが、右頬の向こう傷だけで背の差など些事にすぎないと高虎に思わせるには十分だった。




「権六」

「この男、浅井の間者と言う事は考えられませぬか?」

「浅井の間者が織田に来て何を探る?」

「浅井下野守はこの戦を暴挙としか思っておらぬはず、いずれ備前守に反逆し内乱を起こす可能性があり申す。その時に織田を巻き込むつもりかと」

「備前守様、であろう?」

「拾え」




 信長に言葉遣いを注意されながらも戦場にいる時の様な気配を崩さない権六こと柴田勝家、その高虎も名前を知っている猛将がこの場にいきなり現れ、高虎の前に持っていた槍を投げ落とした。


 地面に穴が開くほどの重量を持った槍、高虎が一度も見た事のないほどの槍を拾うように勝家は促すが、高虎の手は動かない。




「どうした!織田に誠意を見せるのであればそれぐらいやってみせよ!」

「柴田殿、詰まる所ケンカしたいだけなんじゃろう?」

「黙れ猿!」

「間者だから武器を持てばすぐさま余を害する、それは此度においては屁理屈ぞ」

「お館様、早とちりなさいますな!業腹ではありますが、猿の吐き出した通りでございますとも!」




 どさくさ紛れ同然に織田陣に駆け込み必死になって浅井の身を守るように頼みこんだのはともかくとしても、木の芽城の主将を斬ったのは武勇ではなく小手先の為せる業に過ぎないのが今の高虎だった。


 それがどうなっているのかわからないがとんでもない猛将にケンカを売られる扱いをされている以上、自分の手で何とか目の前の相手に示さなければいけない。



「わかり申した、では」

「やめよ使者殿、これは」

「猿、柴田権六を侮るでない。ただ年甲斐もなく気が逸ってしまったのみだ。勝敗など元よりどうでもよいのであろう?」

「負けるつもりなどございませぬが、それでも気が逸ってしまった事は紛れもなき事実でございまする!」

「おい誰か、その辺りの棒切れでも権六に持たせてやれ」


 信長が勝家に持たせるための棒切れを探しに行かせている間に、高虎は地に埋まった槍を握り込んで持ち上げんとした。


 まるで何十本単位の打刀を持ち上げた時のような重みが両腕に伝わり、両腕の腱を強く沈めにかかる。それでも気合を入れてなんとか持ち上げる事は出来たものの、とても振り回せるような気がしない。




「本気でかかって来て構わぬぞ」

「で、では……」


 高虎が持ち上げてほどなくして槍とそれほど差のない長さの枝が勝家の手に渡され、高虎に突き付けられた。




「あっ待て逃げるのか」

「そうおっしゃられましても!」


 高虎は、すぐさま大きく後ずさりした。槍を抱え込んだまま勝家の棒の突き出しから逃げ回り、振り回す事さえしないでただただ走り回った。




(この重みに慣れるまではとても戦える訳がない)


 相手は普段より桁外れに軽い得物で戦っている。目にも止まらぬとはこの事かと言わんばかりの速度での攻撃からは逃げるだけで精一杯だと判断した高虎は、勝家と向き合う事以外の全てを放棄したように走り回る。



「おい、やる気があるのか!」



 信長と秀吉の眼前でみっともなく走り回り、勝家から逃げ回る。勝家がいくら怒鳴ろうがなんとか距離を開く事だけに腐心し、勝家もまた距離を詰めようと走り回る。



 一騎打ちなどではなく、もはやただの追いかけっこだった。



 しかも追いかける四十九の男の方が棒きれを持ち、逃げる二十歳にもならない男が重い槍を持っている物だから、悪童が家宝の槍を持ち出して追いかけられているようにしか見えない。


 だと言うのにふたりとも真剣であるのだから何とも奇妙であり、観客となった兵士たちも不思議な物を見るような顔をして眺めていた。



「速くその槍を振るえ!」

「こ、この重さに慣れるまでは、その……」

「ごちゃごちゃ抜かさず振れと言っている!」

「では一旦距離を、開けて下さい!」




 開き直りであるのは間違いない。


 だがどうしても勝てと言うのならばこれしかないともわかっている。何とかして得物の重さに慣れ、振り回せるようになれる感触ができるまではどう打ち合っても勝てそうにない。そう割り切ったからこそ高虎は逃げ回っている。


「わかったわ!ちょっと待っててやるから早く持て!」

「はい……」


 勝家が勝手にしろと言わんばかりに距離を置くと、ようやく高虎は後ろに倒れ込みそうになりながら槍を構えた。


 確かに重さには慣れていたがこれまでの逃走で疲れていたせいか自覚できるほど不細工な構えであり、また肩も激しく動いていた。



「さあ来い!」

「……」


 声を出す気にもなれないまま槍を高く持ち上げ叩き付けようとしたが、勝家はまったく動かない。

 大きすぎる構えの隙を付きに来た所をという期待を破られた事を悔しがりながら両腕を伸ばして槍を振り下ろすが、やはり勝家が大きく動く事はない。



「馬鹿め!」


 槍が地面に接地するのを見計らって勝家は飛び掛かり、振り上げられないと判断した高虎が槍を手から離して飛びのき距離を取れた時には、すっかり息が上がっていた。







「権六よ、満足か?」

「不満ですが、まあよしといたしましょう」

「あの、そろそろ、我が主備前守の元へ、おいとましたいのですが……」

「わかっておる。誰かこの男に水をやれ」


 水を口に流し込まれてようやく元気になったものの、はっきりと力の差を思い知らされた高虎の肩は大きく落ちていた。


「藤堂高虎……」

「はあ、まるでかないませんでした……さすがは、名高き柴田様……」

「そう、それでよい……それだからこそ、そなたは良い…………」







 ———―だからこそ、良い。




 何が良いと言うのか。


 信長は上機嫌そうだが、逃げ回った上にいざ立ち会うと一撃で負けた自分のことを他の兵士たちはさげすみを含めた目でにらんでいる。勝家もまた、ケンカを売っておいて締まらない結末になった事に不愉快な感情を抱いており、その目付きも打ち合っていた時とぜんぜん変わらない。




 自分としては最善手のつもりであったが、決して武士として褒められる態度ではない。どんなに言われても言い返せないし言い返す気もなかった。猿と呼ばれた男だけは信長に合わせるように笑顔を作っているが、どうにも浮いていた。



「備前守に書状を届けよ。紛れもなく金ヶ崎周辺の十万石は浅井家の物であるとな」

「はっ……」


 浅井の人間として戦場に出て、そして終わったと思ったら徳川に、再び織田。


 あちらこちらへ振り回された数日にようやく終わりが来ることに安堵しながらも、自分が途方もない事をして来た事に気づかされたせいか背中は軽くならなかった。







 朝倉景鏡の守備していた小丸城。今は浅井家の逗留地となっていた城。


 秀吉の家臣の蜂須賀小六に付き添われ、四日ぶりに浅井の旗の下に戻って来た。


「殿、ようやく、戻りました……」


 下馬すると同時に足がふらつき、かろうじて体勢を立て直して叩頭したものの頭が上がらない。先ほど重たい槍を持って逃げ回っていたせいか腕が重く、前のめりに潰れそうになってしまう。


「まったく、お前はいちいちわしを心配させる……」

「手放して大正解だったのか大失敗だったのか、まったく……」


 長政が自分を心配し、貞征が複雑な気持ちでいる事まではわかる。だがその事を顔を上げて確認する事はできないし、その気も起きなかった。


「とにかく、そなたの今回の戦における功績は大きい。しばらく体を休め、また此度と同じようにその身を振るってもらいたい」

「はい……」

「聞こえんぞ」

「はい……!」


 自分では叫んでいるつもりだったのに、まったくの小声でしかない。貞征にその事を指摘されもう一度目一杯叫んでみたが、音量は全然上がらない。


「誰か彼を担げ、ゆっくりと休ませろ」


 自分の肉体がゆっくりと持ち上がり、どこかに運ばれて行くのは分かった。


 だがそれを認識すると共に、自分の上まぶたもまた戦いに挑まされていた事もまた認識させられた。


 そして城内の小屋らしき所に叩き付けられると同時に、上まぶたは完全に敗北を認めた。

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