朝倉義景、自決する

「藤堂とか言う男、まったく大した奴よ」

「ええっ」

「備前守の懸案を余さず述べるとはな、実によくできた忠義の武者よ」



 半ば告げ口か八つ当たりのつもりで高虎の名を出した忠世が目を白黒させるのも構う事なく、信長は大声で笑った。


「大久保殿もよく覚えてもらいたい、藤堂のような武者が多い家は強い。上意下達がしっかりしており、その上に主君のために命を惜しまぬ。徳川殿の配下の三河武士もその類の人物が多いらしいからな、頼りにしておるぞ」

「ああ、はい……」

「安心せよ、徳川殿には後方からゆるりと来てもらうまで。大久保殿も早く戻り徳川殿を安心させよ。それが一番だからな」

「はっ……」



 忠世がやり込められたような顔になって去って行くと、信長はまた笑った。


(なるほど、目端の利く男よ。だがとりあえずはこれ以上備前守にも徳川殿にも面倒をかける理由はない。後はもうこの織田だけでどうにでもなろう)


 浅井家の人間は一乗谷城の位置をだいたい把握している。それこそ盆暮れのたびに貢物を持って行くような間柄であったから、それこそ一乗谷の内部はともかく各城の配置ぐらいならばほとんど覚えている。


 一乗谷城は越前の中心よりやや西ぐらいの位置にある。その気になれば、まだ北へと逃げ込むだけの場所は残っていた。加賀の一向一揆が味方するとは思えないが、次は自分たちだとか弱り切った朝倉を取り込もうとか言う理由で朝倉に味方しない保証はどこにもない。もちろん越前の南東は美濃でありそちらから攻撃できるとは言え、北から兵を送り込む事は出来ない。



 戦後、約定により金ヶ崎周辺の十万石を浅井家の物とすると言う事になっている。すなわち残りは織田の物であり、だからこそ丁重にしておかねばならない。


「今さら兵を動かす必要もないがな……」








 信長がそうつぶやいた頃には、一乗谷は大混乱に陥っていた。


※※※※※※※※※




「小丸城が落ちたと申すのか!」

「元より我々の増援を当てにしていたようで、その見込みがないと知るや……」

「馬鹿者!もう少しましな時期になってから言え!とっとと出て行け!」


 命からがら一乗谷に帰り着いた義景を一番に待っていたのは、景鏡が織田に投降したと言う最悪の報告だった。

 まったく間違った時期にそんな情報を持って来た部下を義景は怒鳴りつけて追い払ったが、それでどうにかなる物でもない。




 織田軍が一乗谷に迫っている。連戦連勝状態で勢いのある軍勢が、とどめを刺せるこの好機を見逃すはずはない。本当にいつ来てもおかしくない。



「わしはあの徳川とか言う奴らが恐ろしい!あれは餓狼の群れだ!まるで関係のないはずのわしら朝倉を食い尽くすような餓狼だ!」

「徳川とてこの谷には入って来られませぬ。今はとにかく守れば何とかなりましょう」


 義景は元から織田を見下し、浅井を配下だと思っていた。そして徳川の事は目に入っていなかった。


 だがその織田に越前が蹂躙され、浅井には反旗を翻され、徳川は恐ろしい存在として刻み込まれた。織田や浅井以上に、今の義景には徳川が恐ろしかった。



「だいたい何なのだ、織田はともかく浅井は長年の恩を忘れおって、そして徳川は三河からこんな越前まで延々と何しに来たと言うのだ!どうしてこの朝倉を攻めようとするのだ!」

「とりあえずこの場を何とかせねばなりませんが」

「将たちはどうしたのだ!」

「我ら二人だけです、後は……」



 将たちと言っても一族筆頭の朝倉景鏡は既に織田に降伏しており、前波吉継は逃げる際に傷を負ったと言う理由で出て来ない。魚住景固も大敗で気を病んだと言う理由で屋敷の中に閉じこもり、義景と今話しているのは景健と景紀と言う親族の二人だけである。


 二人して義景のわめき声を聞きながら、何とかしてこの状況を打開せねばなるまいとあれこれ案をひねり出そうとしてはいた。




 だが考えれば考えるだけ、自分たちが危機的状況だと思い知らされる。


 織田軍が来るからだけではない。

 いや、それだけならば耐えられるかもしれない。確かに足羽川の戦で朝倉軍はひどい負け方をしたが、それでも少なくとも七千以上の兵は無傷で一乗谷に逃げ込めている。その気になって籠城すれば戦えない数ではない。

 そして加賀との国境にはまだそれなりに朝倉の守備兵も残っていた。それに後方を突かせれば何とかなるかもしれない。



 だがもしそれを耐えたとしてどうなるのか。

 たった一戦で三千近い犠牲者が出たと言う事は、その家族に対する補償をしたり新たな兵を雇ったりしたりせねばならぬと言う事でもある。その費用は莫大な物になり、それだけでも朝倉家の財政は一挙に傾く。仮にすぐさま織田軍が撤退して越前一国を取り戻したとしても、戦前の状態に戻すのに一体何年かかるのかわからない。



 そしてそれ以前の問題として、東で郡司を務めるのは織田に下った朝倉景鏡であり、仮にそれを抜けてもその先は美濃でしかない。西と南は論外であり、北には長年の宿敵と言うべき一向一揆が待っている。



「結局のところ、どうせよと言うのだ!」

「延々美濃の岐阜城から織田は来ているのです。徳川に至っては三河です。そして浅井下野守殿は朝倉家に忠実です。籠城すれば織田と徳川の食糧は尽き、浅井下野守殿が不肖の息子を制してくれましょう」

「そうか、早急に籠城の準備を整えよ!」




 義景がそう言って景健を追い出しなんとか心を落ち着けようとした時には、もう既に谷の中は大混乱に陥っていた。













「織田軍がすぐさま攻めてくる!」

「その上にもっと強いらしい徳川まで付いてくるって話だぞ!」

「徳川の軍勢はそれこそ敵を皆殺しにするような連中らしいぞ!」

「ああ、朝倉はもうおしまいだ!」

「待て待て!まだ別に決まった訳じゃねえ、味方はまだいるだろ!って言うかそんなに動揺してたら織田に付け込まれるぞ!」

「味方って誰だよ!そしてそれが徳川とかをやっつけてくれるのか!」

「そうだそうだ、朝倉が本気になれば織田なんか一ひねりだっつったのどこの誰だよ!」



 職人や商家の人間、そして命からがら逃げ帰って来た足軽たちの家族。そう言った人間たちがさかんに恐怖を振り撒き、まったく正体を失っている。

 心ある者が必死に食い止めようとしても無駄であり、なおさら混乱が深刻化する。主君の心が通じたかのように徳川に対する恐怖であふれ、その上で直前の大敗と言う結果が伝播され二重三重の恐怖が谷を覆う。




「ああなんでも、小丸城の守将が織田に下っちまったとか」







 そしてこの言葉により一乗谷の住民の自制心は完全に壊れ、ただ声を出すだけの存在から逃げ惑うだけの存在へと変わった。


「おい!」

「殺されたのか!?」

「知らねえけどさ、小丸城の兵が何かした訳じゃねえし大丈夫じゃねえ?」

「そういう流言」

 

 飛語の二文字が出て来ることはなかった。

 そう言えば小丸城の守将は朝倉一族の景鏡様だった。それでも助かるのならば今ならまだ間に合う、織田に従うしかない。その流れで住民が一挙に固まり、真実をでたらめ呼ばわりした兵士を叩きのめしたからだ。








「おいどうなっている!」

「どうもこうもございません!」

「お武家様、止めてくだせえ!」


 景健がこの騒ぎを聞きつけ自分の兵と共に一乗谷に飛び出した時には、もう住民は三つに分かれていた。


 ひとつはこの城は終わりだとばかり逃げ出そうとする者、ひとつはどうせ織田が来ると諦めている者、そしてもうひとつはこのどさくさ紛れに略奪行為を働く者である。


 いずれにせよ、朝倉に期待する者はほとんどいない事だけは間違いなかった。



「お前たちは略奪者を斬れ!わしは城門を封鎖して来る!」



 景健は領主の家の人間らしい事を言いながら、手近な城門へ向けて走った。馬も用意できないまま、わずかな手勢を率いて走る。だがその度に略奪者に出くわし、兵士たちはそちらを斬りに向かう。

 それの繰り返しにより元々満足にいなかった手勢はますます減り、その上に血が流れ続け不安が増幅される。



 そんな状態でようやく城門の一つにたどり着いた頃には、すでに住民たちにより門がこじ開けられようとしていた。

「お前たち何をやっている早く城門を閉め」

 ふざけるなとばかりに刀を抜いた景健の背中にいきなり槍が刺さり、そのまま倒れ込んだ。

 そしてそのまま門が開けられ、兵たちは民と共に開けられた城門から飛び出し始めた。言うまでもなく、織田軍に投降するためである。













「それがその、兵士の大半が逃げ出してしまい、残っているのは略奪者と化した脱走兵と、それを討つ兵のみで……後は……」

「他にいないのか!ってなんだこの声は、悲鳴ではない声は!」


 大将は後方に構えていればいいともっともらしい事を言って屋敷に引きこもっていた義景に景健の死の報が届くまでの間に、空いた門から次々に兵が脱走して行っていた。最後まで義景の側にいた景紀も兵を引き連れて略奪者を討つとか言っていなくなってしまい、もはや義景の周りにはほとんど兵がいなくなっていた。


 酒に逃げる事だけはせずにいた自分をほめようと思っていた義景が二日酔い患者のように正体を失った顔をしている所に、今度は明らかにやる気のある声が聞こえて来た。




「前波様が反旗を翻しました!」

「魚住様、動きました!仮病を使っていた模様!」

「愛王はどうした!」

「既に手の者が脱出させました!四葩様たちもご一緒に!」

「そうか、それは良かった」




 ほんの一瞬だけ期待してすぐさま落とされた事を知った義景は、部屋の隅の刀を取りに行きながら家族の事を聞き、その無事を知るやさわやかな笑顔になった。


 親子の情とか、朝倉がどうとか言うつもりはない。ただ、自分の家族だけでも助かればいいと言うあまりにも小さな欲望がとりあえずかなったらしい事に安堵しながら、一国の主は畳の上に座り込んだ。


「毒酒は」

「ございませぬ」

「できればそうやって死にたかったがな」

「最期の望みもかなわぬとは、残念無念でしたな……」


 織田と戦う事も出来ないまま死にゆく運命を呪う事もなく、ましてや自らの望む死に方をするためのそれを用意していない愚行を振り返る事もなく、義景はひとりも人を斬っていない刀を抜いた。

 切腹などと言う普通の武士と同じ形で死にたくないと言う願望を口にし、その事だけを呪いながら義景は腹に刀を当て、腹に突き刺す事なく介錯人に刀を振らせた。


 その首はまったく苦しむ様子もなく転がり、これから自分はそちらに行くのだとばかりに天井を見つめていた。







※※※※※※※※※




「朝倉様は自裁したとの事です」

「父上はなんとおっしゃるだろうな」


 その言葉をとどまっていた木の芽城で直経から聞かされた長政が、何らかの感慨を抱く事はなかった。確かに父親は主家として仰いで来た身ではあったが、自分にとってはどれほどの物なのかわからない。

 わかるのは、これで戦国大名としての朝倉家が終わったと言う事だけだった。


「とりあえず約定通り、金ヶ崎周辺の領国をもらえるかどうかが問題ですな」

「ああ、そうでなければこの出兵に大した意味はない」

「それを行うのは下野守様ではなく、貴方ですぞ」


 約定としては金ヶ崎周辺ではあるが、実際には金ヶ崎以西越前若狭国境まで全てが含まれている。そのほぼ全てが浅井領である北近江にへばりついている以上それほど感触が悪いわけではない。元々横長だった浅井の領国に厚みが増す形となり、弾力性が増したように思える。



 そしてその領国の交渉や策定を行うのは、あくまでも長政である。


 それこそ朝倉氏が事実上滅亡したと聞けばそれだけで死にかねないほどに入れ込んでいると言うかもたれかかっている人間、小谷城に籠って織田や徳川の後ろを突かないだけありがたかっただけの人間にはもうほとんどできる事はない。


(これで「浅井家」はまた大きくなるな。この十万石を勝ち取ったのは備前守様の功績であり、織田殿や徳川殿の協力ありきだ。そして、備前守様譜代の家臣のな)


 久政を長政に代えたのは、磯野員昌や赤尾清綱であって長政ではない。だが今こうして新たなる領国を得たのは、長政であって員昌や清綱ではない。信長と言う協力者がいる事を除けば、武田信虎と信玄の関係とまったく同じだ。


 織田はこの戦いが終わった後、加賀一向一揆との戦いが始まるだろう。そしてそれ以外にも本願寺や伊勢長島と言ったやはり一揆勢との戦いは続いている。もちろん丹波や丹後の国人たちはまだなついていない。徳川も西は織田が全く抑えているとは言え、唯一接敵している武田はかなりの難敵である。


 だが、浅井には当分敵はいないかもしれない。


「やはり、あの男か……」


 藤堂高虎。まったく長政のために動き続けているあの男をなんとかせねば浅井はどうなるかわからぬ。まだ若いにもかかわらず不思議な力でもあるかのように浅井家を引きずり回す人間の事を思いながら、直経は高虎がとどまっていた徳川軍の方を眺めた。

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