徳川家康、藤堂高虎と会う

「あまりにも簡単すぎませぬか」

「無論その事を警戒して索敵は怠っておりませぬ」


 家康は旧朝倉本陣で、織田軍先鋒の池田恒興に向かってそうこぼしていた。


 仮にも越前一国の守護大名であり、自分の倍近い石高を誇る存在だと言うのに、朝倉の兵はあまりにも弱かった。その上ではっきりと危惧を唱える家康の隣で、徳川軍の副将である大久保忠世が自慢と不安のないまぜになった表情で主君にへばりついていた。


「殿、正直な所を申し上げますれば」

「おぬしの心配はよくわかっている、だが今こうして池田殿と話せているではないか」


 長政とふたつしか違わない二十代の主君が陽気な顔をしているのに対し、三十九歳の家臣の顔はどうにも晴れない。武田と比べればずっと弱い敵を相手にして浮かれ上がりはしないだろうか、三河に残る酒井忠次や石川数正と言った宿老たちにとがめられないか心配で仕方がなかったのである。












 織田・徳川軍一万七千と朝倉軍一万三千による足羽川の戦いは、簡単に終わっていた。





※※※※※※※※※




 織田・徳川連合軍二万が小丸城を攻めようとする中、ようやく朝倉軍が動き出した事を知った信長はすぐさま佐久間信盛の三千を小丸城への押さえとして振り分けると、残る一万七千で朝倉軍と対峙した。



「何、もう織田が来たと申すのか!」

「ど、どうやらそのようでございます!」

「小丸城を囮に後方を突くはずではなかったのか!」

「そう言われましても、織田の行動が予想外に速く……」


 もし自分が信長なら、小丸城に全力を注ぎゆっくりと確実に落としている。確かにここまで勢いで来られたとしても、もうさすがに息切れしており、その上に数もこれまでの城に散らしまくっている。だからいくら援軍があったとしてもさすがにここは慎重になり勢いも鈍ると義景は思っていた。


「とにかくだ、陣形を整えよ!」

「ハッ……」


 行軍の体勢からあわてて陣を組んだものの、その間に織田軍はどんどん近づいて来た。自分たちとしては半ば奇襲のつもりだったのにせいぜいがただの対陣でしかないと言う状態での戦いを強いられると言う時点で、義景の元々ない士気はさらに萎えていた。

 言うべきことは言ったし少し休ませろと思い馬上でぐったりとする義景の方を見ないようにして、朝倉の将兵は何とか寸での所で陣形を整えた。




「数はそんなに変わらん!この戦は日が暮れれば我らの勝ちだ!」


 義景が無理矢理気力を絞って後方で震えまいとしている中、朝倉の猛将真柄直隆は必死に声を上げながら織田勢に向かって槍を振るった。

 一向一揆ばかりが相手だったとは言え戦には慣れていたつもりだった、だからこそ今度の敵である織田は違うと言う事がすぐにわかった。


 一揆のような数を頼みの軍勢ではなく、明らかに統率された軍事集団だ。


(しかしまったく無茶な速度でやって来る……しかもそれをまったく無茶だと思っていないような連中だ……その上に速いだけではない。その速さを可能にする全てが揃っている!)


 それでも自分が何とかせねばならない、ここで負ければ小丸城どころか朝倉そのものが終わってしまう。そんな悲壮な思いを込めて戦っていた。


 魚住景固、朝倉景健、前波吉継と言った朝倉の将たちにもその悲壮感が伝わる。今の今まで出陣を許さなかった義景に対する恨みはなかったわけではないが、それでもここで何とかせねばならぬという思いが声となり、兵士たちを駆り立てさせる。


「大丈夫です、このまま粘っていれば小丸城からも攻撃が来ます!」

「う、う、うむ……」

「浅井だって、浅井だってここまで織田軍が伸び切ってしまえば後方を付く機会も生まれ立ち上がってくれます!下野守(浅井久政)様を信じて下さい!」


 側近たちにそんな確信はない。ただただ、義景をここに居座らせたいだけだ。そのためなら何の確信もない事でもいくらでも言えるし、また単純に主が昔から見下していた織田に負けたくなかった。




 そういう彼らの奮闘もあって最初の二、三十分こそ織田軍と朝倉軍はまともに戦っていたが、膠着状態になりかかっていたのを見て後方の家康が半ば抜け駆けのように義景の本陣を突きに行くや、あっと言う間に形勢は傾いた。


「あの軍勢は!どこの誰だ!」

「三河の徳川家康と思われます」

「徳川!?なおさら何のつもりだ、とにかく何とかしろ!」


 あまりにもあっけなく城を落とし続けている三者連合軍に対する恐怖心をごまかすように後方で必死に督戦していた義景には五千の直属部隊がいたが、その五千がほぼ真っ正面からやって来た同じ五千の徳川軍の前にまったく抵抗できなかった。

 義景の言う通り浅井以上に自分と縁遠く、ましてや領国を得られる可能性もまるでない家康が全力を出す理由など本来ないはずだった。それが全力で半ば無謀とも言える突撃を敢行するなど、義景以下朝倉家の知る兵法書の中には存在しない文だった。


「うるさい、ここを食い止めれば何とかなるのだ、何とかなるに決まっている!そうだろう!?」


 義景はそう吠えたが徳川軍と義景直属軍を除いた軍勢、すなわち織田軍一万二千と朝倉軍八千の対決となってはある程度本陣が耐えられたとしてもその内他の部隊が持たなくなる。ましてや連戦に連戦を重ねて来た織田勢と軟弱な主の元で越前に籠っていただけの朝倉軍では、数の差以上の戦力差がある。

 元々将たちが奮闘してようやく押されている程度で済んでいたのだから、余計な兵力など誰の手元にもない。前で織田勢と当たっていた武将たちも内心では義景の下にいた将兵を当てにしていたぐらいだから、それこそその援軍が出せないも同然の状態となってはたまった物ではない。




「もう無理だ、速く退かせろ」

「だ、だ、黙れ!こんな徳川の無謀な突撃などいずれくじける!そうなれば朝倉の勝ちだ!」

「そうだそうだ、こんなのがいつまでも持つ訳はない!」


 戦場に出る事をあれほど嫌がっていたくせに、いざとなると退きたくないとだだをこねるのが今の義景だった。もはや意地だけで逃げまいとしているその男を側近たちが無理矢理馬に乗せ、強引に引きずって退却させようとした。その一方で義景と共に戦っていた朝倉家の一族である朝倉景紀は主君を必死に督戦し、徳川軍と戦わせようとする。


 ――どっちも正解だった。


 もしここで総大将が我先に逃げ出そう物なら、必死になって戦っていた前線の将兵も一気に崩れ去る。そして足羽川と言う戦場はそれこそ本拠地である一乗谷の目前であり、ここで負ければ朝倉はもう崖っぷちまで追い込まれる。

 かと言ってここで無理矢理に戦って徳川軍に義景が討たれよう物なら、それこそ跡取りの愛王は乳児であり朝倉家はここで終わったも同然となる。


 だがいずれにせよ、もう一方の問題を解決できる訳ではない。要するに、朝倉家そのものが滅亡の瀬戸際まで来ていただけの話である。ましてや、本陣内部でもこうして分裂状態になってしまっていては軍も何もあった物ではない。







 そして義景は結局、逃げる方を選んだ。



 義景が当主となって二十年以上経つが、戦と言っても加賀の一向一揆相手ばかりでありもちろん直に出て行く事もなく配下の将兵任せだった。それで南の浅井はすっかり配下だと思っていたし西に朝倉の脅威となる勢力はなく、そして東の斉藤とも大した争いをして来なかった義景にとっては、戦と言うのはまったく遠い物になっていた。


 だから目の前でこうして命のやり取りが起こること自体、何かの間違いだと思っていた。それでもこうして側近にかつぎ出され戦場に引きずり出された際には後方で督戦していればいいとだけ言われてようやく心を守って来たのに、徳川軍と言う存在がまったく理解が及ばないまでの殺意を持ってやって来たのだ。むしろここまで耐えたと言う方が正解かもしれない。




 だが無論こんな事をすれば朝倉軍は総崩れになり、千人単位の犠牲者があっという間に生まれた。徳川と織田で挟撃体勢になった前線の軍勢が次々と刃にかかり、さもなくとも捕虜になっていく。



「ええい!誰かとどまれ!」

「魚住様や前波様の軍もすでに壊乱、もはや我らのみが」

「お前らは逃げろ!我々は残る!」


 真柄直隆もまた殿軍を必死に勤めようとしたが、自分の手勢だけでどうにかなるはずもない。逃げろ逃げないの押し問答の合間に、義景を討てばいいのだとばかりに多くの織田軍の兵が自分たちを通過して行く。

 実に正確な兵の動かし方だなと感心する暇もないまま、直隆はせめて一太刀とばかりに槍を振り回した。だが圧倒的な数の差で封じ込められ、そのまま自らの手勢ともども織田軍の中に溶けて消えた。

 この直隆の奮闘も全体から見ればただの徒労であり、織田軍と徳川軍の進撃を止める事は出来なかった。逃げ遅れた兵は次々と織田・徳川連合軍の手にかかり、この地の肥やしとなって行った。信長と家康こそ朝倉の本陣で追撃をやめたものの、余力を残していた兵たちはさらに朝倉勢を追い続け、そこでさらに犠牲者・投降者を生み出して行った。



 結果的にこの一戦で朝倉は、死者・投降者合わせて三千近い将兵を失っていた。ちなみに織田・徳川連合軍の犠牲者はその一割以下である。




※※※※※※※※※




 この戦いの一番手柄は言うまでもなく家康であり、信長自ら相当な金穀を贈る約定を取り付ける誓書をこの本陣で記した。その事に対し家康は無理に渋面を作り、もったいなき言葉と二度も繰り返してみせた。



 家康とて計算がないわけではなかった。織田や浅井にとってはともかく、徳川にとっては大した事のない戦で全力を振るえば、徳川家康という男は誠実であると言う印象を世間に植え付ける事ができる。


「浅井勢もようやく追いついて来たようですな」

「浅井殿がああして木の芽城を一日で落としてくれたから一乗谷を見る事ができるのだな、まったく縁もゆかりもない身として礼を申しておかねば」


 理屈としてはお説ごもっともとは言えどうにも心臓に悪い思いをした忠世にしてみれば不満の一つや二つも言いたくて仕方がなかった。だから浅井に対して軽く嫌味をぶつけたつもりだったのに、家康はまったく言葉を崩さない。

 とにかく同盟相手である織田家に対して誠実であろうとするのは、東の武田と言う難敵から身を守るための打算であると家康は自分たちの前で言いふらしていたが、そんな言葉を真に受ける気分はもう失せていた。

(朝倉が弱いのではない、あまりにも予想外の手段を取られて崩れただけだ)


「浅井の使者です」

「通せ」


 釈迦に説法とわかっていても戦が終わり次第言わねばならないと思いながら忠世が家康と共に座を囲んでいると、浅井から一騎の伝令がやって来た旨が忠世に告げられた。






「おい大丈夫か」

「申し訳ございませぬ、それこそ馬に乗るのは初めてな物で」

「わかったわかった、手紙は丁重に受け取って」


 どんなのを寄越して来たのか思い若干の好奇心を込めて見に行った家康が見た伝令は、右手の棒に手紙をくくり付けていた。


 だが陣笠を目深にかぶる姿こそ整っていたがいかにも桃尻であり、それが徳川軍の失笑を誘った。その桃尻の状態で下手に棒を動かした物だから完全に平衡感覚を失い、たいして暴れてもいないのに落馬すまいと手足を振り乱す姿は失笑に値するそれだった。


「まったく、本当の本当なんだな初めてって」

「ええ、どうせ味方しかいないからと安心してしまった結果がこれで申し訳ございませ、ああしまった!」




 徳川の兵によってようやく体勢を整えたが、その代償のように陣笠を地に落としてしまった。あわてて陣笠を拾おうとするその姿は、まさしく子どもの使いだった。あわてて馬を降りた男は顔の汗をぬぐいながら、陣笠を被り直して頭を下げた。


「もしやそなた、藤堂高虎ではないか」

「はい……」

「おい誰か、使者殿に肩を貸せ!」




 藤堂高虎と言う名前は、家康の耳にも入っていた。いきなり陣を抜け出して信長の陣に駆け込み、必死に浅井の許しを乞うたと言う男。

 足軽だったはずなのにいきなりこんな地位を与えられたと言う事の意味を理解した家康は、すぐさま高虎に対し身を低くした。そして忠世が止めるのも聞かず、本陣まで連れ込んだ。




「まだ乗りなれぬか」

「何せこれが初めてな物で」




 足羽川の旧義景本陣で、家康と忠世の前で高虎は座っていた。


 忠世が高虎を迷惑そうに見下ろす中つながれていた高虎の馬、木の芽城落城の功績により当座の勲章として与えられただろう馬は、忠世と一緒に主人であるはずの高虎を見下ろしながら鼻息を鳴らしていた。


「それで、備前守様のお言付けとは」

「小丸城はどうなるのかと」

「小丸城はすでに織田勢の佐久間殿が入っております。朝倉の将はすでに降伏したとの事で」

「なればその、越前は一乗谷の北はどうなるのかと」

「そんな話はどうでもよい!」

「落ち着け忠世」

「しかしその、退路を塞ぐために一乗谷の北に回り込むなど」


 忠世にしてみれば、今回の戦いはあくまでも後方支援かせいぜい予備隊のつもりだった。だと言うのに敵本陣にわざわざ自ら突っ込みに行くなど、心臓がいくつあっても足りない話だった。

 その上に一乗谷の北、つまり越前と加賀の国境にいる朝倉勢に後方を突かれてもまったく驚けない場所の存在を教えるなど言語道断だった。


「何、池田殿が後方に構えている意味を考えればよいだけの事。忠世、少し熱くなりすぎてはいないか」

「いえ、その、しかしご子息様が……ああその……」

「あの、用件は済んだようなのでお暇させていただいてもよろしいでしょうか」

「構わぬ、しばし休むが良い。忠世、織田殿に伝言を頼むぞ」


 決して過保護なつもりではなかったが、桶狭間の戦いのどさくさ紛れから十年近くかけてようやく大名としての体をなし始めて来た徳川家と言う存在を壊したくなかった。それをさらに危険な場所へと巻き込もうとする高虎に対し、忠世は敵視めいた視線を向けながら陣を飛び出した。








※※※※※※※※※




「藤堂とか言う男、まったく大した奴よ」

「ええっ」

「備前守の懸案を余さず述べるとはな、実によくできた忠義の武者よ」



 半ば告げ口か八つ当たりのつもりで高虎の名を出した忠世が目を白黒させるのも構う事なく、信長は大声で笑った。

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