浅井長政、初陣を申し付ける(9月1日、誤字訂正)
浅井軍の協力を取り付けた織田軍は、またたく間に北進を再開した。
「まったく何という速さでしょうか」
「わかっていたつもりではありましたが、本当いざ目の当たりにすると……」
長政与党であり織田寄りの姿勢を取っていたはずの清綱でさえ呆れるほど、織田の進軍速度は速かった。
確かに自分たちが味方になると言う確報さえ入れば即動けた状態だったろうとしても、長政が小谷城を出たのとほぼ同時に信長は高速で北進を再開した。
その織田軍に対し浅井軍が等間隔を保っていられたのは、織田軍が二万五千で浅井軍が五千だったからに過ぎない。
「考えてみればこうして織田と共闘するのも初めてかもしれませんがな」
「今思うと六角との戦いを積極的に行わんだ事がうらめしく思えても来るがな」
「一向一揆とのケンカを買う力がないからしょうがないですけどね、織田殿や徳川殿でさえ苦慮なさっているらしいですから」
「徳川殿も同じような関係なのに、全然交わって来なかったな」
長政の愚痴に、直経はわざとらしいぐらい陽気に笑った。久政が頑迷なほどに反織田の姿勢を崩さなかったのもあったが、婚姻を結んでからずっと美濃や南近江との戦いに参戦するなどの機会はあったはずなのにまったく兵を出さずに国内に閉じこもっていた自分がやたら情けなく見えて来る。
そして徳川家である。当主の徳川家康は二十八歳と、長政と二つしか違わない。だと言うのに三河から遠い近江までわざわざ丁重にやって来て、あの織田軍のせわしいほどの進撃に付き合えているらしい。
数は浅井と同じ五千だが、それだけになおさらである。
「これからは浅井も速くならねばなりませんな」
「兄上は美濃や伊勢だけでなく、まず国内で戦って来た。そして徳川殿もまた今川から独立したと思いきや今度は領内での一揆、善政を施して来たのも良し悪しなのかもしれないな」
「まあこれから否応なしに争いに巻き込まれるから速くならざるを得ませんがな」
くだらない戯れと共に将兵の間に広まりかかっていた不安も薄れ、それと共に直経の目線も長政から離れた。
そしてその直経の目線を向けられた男は、六尺もあろうかと言う肉体を深々と折り曲げた。
長政の直属軍の中にいる、ひとりの足軽。
ここに来るために闘気を使い果たしたのかと思えるほどにおとなしく、陣笠に打刀、木製の胴と言う十把ひとからげな兵装と共に行軍するその足軽は、それでもなお強い存在感を放っていた。
その足軽、藤堂高虎が阿閉軍を放り出され長政直属の軍勢に編入された経緯はもう浅井家の誰もが知っている。
「ったくさ、阿閉様も大変だったねあんなの抱えててさ」
「ずいぶん変な道の迷い方したもんだよな」
「しかしな、殿様や遠藤様からじきじきに言葉をもらうだなんてさ」
「最初からそれ目当てで」
「おいバカ、それこそ本望だろうがよ」
「だとしたらさ、あいつはきっと」
「きっと?」
「とんでもなく出世するか、ここで死ぬかのどっちかだぜ」
「俺は後者に賭けるね」
ほめ言葉けなし言葉問わず、様々な風説が高虎の周りを飛び交った。
ああいう事をした結果、丹羽長秀に会えたし、織田信長にも会えた。
そしてそのまま生きて浅井家の下に帰されて、罰と言えば直接の主である阿閉家から放り出された事のみ。ずいぶんと得をしたと言えなくもない。そんな存在が耳目を集めずにいる事など、桶狭間や野良田以上の奇跡だろう。
そして、尊敬している主君である長政とも会えた。阿閉軍の配下として訓練を行う時よりさらにさっぱりとした姿で織田家から送り出された高虎は、それこそどこに出しても恥ずかしくないと言う言葉に似つかわしい存在になっていた。
「ずいぶんと丁重に扱ってくれたようだな」
「なぜかはわかりませんが」
「それでその方の名は確か」
「藤堂与右衛門高虎でございます」
「さっそく阿閉殿から命令だ、そのような間抜けをやらかす男はわが軍にはいらぬと」
「心得ております」
「だがその上で、家臣の不始末は主君の責任と言うのもある。主君としてその身を預かる事とするがそれでいいか」
「ははっ」
織田がここまで自分を清めて浅井に送り返して来た意味を、高虎はわかっている。
そのためにも、この初陣である戦いで命を落とすような真似だけは絶対にするわけにはいかない事もわかっていた。転属して一日も経たない以上、訓練を積む暇はない。ただこれまで培って来たそれを武器にするしかないと思っていた。
「それでだ、高虎」
「はい!」
「まったく、愛い奴だな」
「は、はい……」
後方に構えゆっくりと進むか、あるいは必要な戦果を上げたと見たらさっとよける事に徹するかと考えながら行軍していた高虎の頭上から、いきなり直経の目線とそれ以上にとんでもない人間からの声が降って来た。
一応直属の存在になったとは言え依然として雲の上の存在であり、こんな短期間で二度もその声をじかに聞く事になるとは思わなかった浅井長政から声をかけられて、高虎はした事もない逢瀬の時のように顔を赤くしていた。
「金ヶ崎城はすでに織田殿が陥落させた。まったく本当に早い事だ」
「素直に驚きです」
「それでだ、そなたらに頼みたい事がある」
※※※※※※※※※
「あれは誰だ」
「わかりません!」
「ええい自分で確かめる!お前は至急援軍を寄越してもらうように行って来い!」
「しかしその書状を」
「そんな物は要らん!すぐ一乗谷まで駆け付けろ!ああわしの馬を使って構わん!」
「は、はい……」
「まったくどいつもこいつも何をやっているのだ!」
この時、木の芽峠のすぐそばにある木の芽城の守将を事実上務めていたのは朝倉家の奉行の富田長繁である。長繁の指揮により、急速に籠城の準備が進められていた。金ヶ崎城からの逃亡兵もかき集め、まるで一人きりで全てを務めあげるかのように走り回っていた。
ついさきほどまで米蔵で米粒の数を数えさせ、そのまた前にはありったけの武具を蔵から出させた。この城の本来の将たちがまるで何もしない間に動き回り、そして今度は自ら向かってくる軍勢の姿を見止めようとしている。
「しかし金ヶ崎城がああも簡単に落ちるなど」
「浅井も浅井でのほほんと北近江に引っ込んでいるのがいかんのだ、南近江や美濃にも出ずに!まったく、このままでは朝倉は滅びかねんぞ!」
長繁自身、本来はこんなに勤勉な人間であったつもりもない。だがいざこうなって見ると自分で何とかするしか方法がないのもまた事実だった。
(まったく、将兵以下誰もなっとらん!将も将なら兵も兵で、金ヶ崎から逃げてきた兵ですらまるで危機感がない!それはわしも同じだがな!)
義景の側近であったはずの彼は織田動くの報を聞くやほとんど事後承諾のような形で一乗谷城を飛び出し、兵をかき集めて金ヶ崎城に向かおうとしていた。
だが長繁にしてみれば自分なりに英断したつもりだったのに、木の芽城にたどり着いた時点で金ヶ崎城が落ちていると聞かされた時にはめまいがしそうになった。
久政がまったくどこにも出兵する気もなく長政をある意味食い止めていたせいでその可能性をすっかり忘れていた事を悔やみながら、長繁はわめき散らしていた。
織田はそれなりの時間、近江と越前の国境近くにいた。そして金ヶ崎城と言うのはそれこそ両国の国境と言うべき城であり、戦となればいの一番に狙われるべき場所であった。だと言うのに一日で陥落するような粗末な防備しかなかったと言うのが朝倉の現実だった。
「二つの軍勢が見えます」
「あれは浅井の旗の様だ」
「逃げているのですか」
「その後方には織田の旗が見えるな」
南から、二つの軍勢がやって来ていた。前にいるのは三つ盛亀甲に花菱の旗を刺した軍勢であり、後ろからは木瓜紋を差した軍勢が来ている。前者が後者に追いかけられているのは間違いなさそうだった。数は浅井軍らしき軍勢が五百、織田軍らしき軍勢が二千ほどだ。
(浅井を信じていいのか……)
浅井がどっち側にいるのか、長繁にはわからない。もし自分たち側にいるならば金ヶ崎城が一日で落ちたのは何だと言う話だし、織田方にいるとすればずいぶんと稚拙な芝居にも見える。
「とりあえずだ、城の守りに就け。守りさえ固めればそうそう落ちる城ではない」
一騎駆け同然でやって来た上に元より城兵は少ないとは言え、仮にも城である。とりあえず防備を固めて出方を見極めても遅くないと思いながら櫓を降りた。
「織田は一体どれだけの兵で来ているのですか!」
「二千ぐらいだ」
「えっ二万五千と聞いておりますが」
「馬鹿を言え!ここに迫っている兵の数を言っておるのだ!」
「え、えーっと、その……」
「二千だ、二千!その程度の兵何とでもなるわ!!」
「それにしても織田軍ってのは本当に田舎侍の集まりなんでしょうか」
「あーはいはいそういう事にしておけ」
だが櫓を降りて南門へと向かって歩を進める度に、意気が削がれて行く。誰も彼もまったく現状を理解していない。それこそこれから戦だと言うのに相手を過大に見積もる事ばかり口にしている。侮って油断するのはまずいが、恐れすぎるのもまずい。
二千と言う数自体、確実な論拠のない当てずっぽうでしかない。適当に旗の数を見た上で、なるべく城兵を悲観させないような数を口にしただけである。実際問題、籠城の準備がぜんぜん間に合わなかったせいでほぼ平常体制である今の木の芽城など、二万五千どころか二千五百でも落ちかねないほどに脆い城だった。
「とにかくだ、粘ればよいのだ、粘れば!」
実際、朝倉にもきちんと兵はいた。ただ動いていないだけなのだ。それが動けば何とかなると言う希望的観測だけは、長繁にもあった。
「大変です、織田軍が南門に攻撃をかけました!」
「ええい防げ防げ!わしも行くぞ!」
「大丈夫でしょうか」
「考えて見ろ、金ヶ崎城を抜いてからすぐさま来たのだ!どうせ兵たちは疲れも取れていない上に少数だ!そんな軍勢などほどなく力尽きる!」
「ですがその」
「ですがも何もない!織田に跪きたいのか!?」
口ばかりで手足の動かない兵たちの尻を懸命に叩きながら、長繁はわめき散らす。
この数年間、北の一向一揆以外とまともに戦った事がないのが朝倉軍だった。一揆は数こそ多いが基本的に民衆の軍勢で、戦の専門家の軍勢ではない。確かに一揆の上に立つ坊主は怖いが、それとてやはり戦では素人である。
それこそ武士との戦いは、いったい何年ぶりになるかわからない。こんなのが兵士では救援すら間に合いそうにないとひとりきりで絶望しながら、長繁は南門まで走った。
「どうせ敵軍は一点攻撃だ!それが兵法の基本だからな!」
「あの、その、守将様に」
「うるさい、そんな事を言っている暇があるか!」
それこそ兵法も何もない一向一揆でさえも、ここぞと言う所に数をぶつけて来る戦いを幾度も仕掛けて来ている。織田と言う大名の軍勢ならば、そんな事など簡単にこなすはずだ。その標的は、どう考えても侵攻方向に一番近い南門。そこに兵を集中して凌ぐしかない。
だが居竦んでいる兵たちを無視して南門へたどり着いた長繁が見たのは、既に南門を乗り越えて内側から城門を開けようとしている織田軍の兵士たちだった。
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