浅井長政、心を決める
言いたい事を言うだけ言い、その上でまったく自分の望む結果が出なかった事に腹を立てた久政を下手人の貞征に任せ京極丸を抜け出した磯野たちは、仮に呼び止められても知った事かいと言わんばかりに本丸へと向かっていた。
自己満足と言う単語が、三人の頭を支配する。十年も前に半ば用済みとして放逐した人間がいったい何のつもりだと言うのか。
「大殿に阿閉殿の配下のような行動力がなくて幸いでしたな!」
「赤尾殿は元より織田家と親しくするおつもりで」
「いや何、単に優秀な方に従うだけの話ですよ。何なら今から引き取ってもいいんですけれどね」
「さすがに縁がなさすぎるでしょうけどね」
長政を当主にしたのは自分たちだと言う自負が三人にはあった。
長政があの野良田の戦いでいくら凄まじいまでの武勇を発揮しても、名目的には「浅井久政」配下としてのそれでしかなかった。
そしてその圧倒的な武勇を、主将である久政は認めようともしなかった。その時は長政の手前強引に引きずり下ろすだけで済ませておいたが、今になって思うとどこかに放り出すべきではなかったかとさえ思えて来る。
三人とも美濃が織田家の領国となってから初めて聞かされた話だが、美濃よりさらに東の甲斐信濃の大名である武田信玄は、三十年前に父親である信虎を姉の嫁ぎ先である駿河に追放して家督を強引に握り込んでしまった。
それから今までの間に、武田家は大きく領国を広げ織田や徳川を脅かしている。その追放を主導したのが信玄ではなくその家臣団だと聞かされた時には、その手もあるのかと自分たちの見識の狭さを恨み、同時に信玄のようにそれができる場所のない事を恨んだ。
お市が浅井家に嫁いでからもう六年になる。
その時にはすでに尾張一国と美濃伊勢の一部で六十万石を越える領国を有していた織田家の装備は、浅井家と比べかなり進んでいるように思えた。浅井家としては一応やってみるかと言う程度で作り、また相当な大金をつぎ込んでなんとか買っただけで未だに数十丁もない火縄銃も、この時既に三百を超える数があった。現在では下手をすれば千はくだらないかもしれない。
「あの藤堂なにがしとか言う足軽がどれほどまで情報をつかんだのか、それはそれで問題ではあるが」
「おそらく阿閉殿は責任を取らされて」
「落ち着いて下さい赤尾殿、我々ではたぶん御せませんぞ」
「ああ、お見通しですか。それでその足軽はいくつですか」
「十五です」
貞征はこれ以上、高虎を抱え込むことはできない。かと言って浅井家から放り出せば、今すぐ織田家が引っこ抜いて行くだろう。となれば浅井家のためにも、何より自分たちのためにもなんとか引き止めねばなるまい。ましてや家のためにあそこまで活発に動けるような人間が宙に浮く以上、欲しがるのは当然の話である。
だが同時にそれがいざとなったら自分たちの言葉も聞かないような暴れ馬となると話は違ってくる。ましてやその方向が自分たち部将ではなく、浅井長政及び浅井家のみとなるとなおさら障壁は高くなる。
そして何より、年齢である。十五と言う年齢からして、おそらく初陣すらまともに経験していない。しかしおそらくは朝倉家の事を何とも思っていない人間がこれから増えていき、中心になって行く。彼らの機嫌を損ねれば自分たちが久政のようになりかねない。
「殿」
「そなたたちか、ちょうどよい。頼まれてくれぬか」
「何なりと」
長政と長秀の下にたどり着いた三人がふすまを開けた傍から、いきなり長政の言葉が飛んで来た。
万福丸を授かった時の様な顔をした長政の顔に員昌が安堵のため息を漏らすと同時に、長秀もまた笑い、そして清綱と綱親も笑った。
「それでだ、まず海北は兵を整えておく旨をわしの名で出してくれ」
「はっ」
「赤尾はわしとともに場を温めてくれ。そして磯野はいざという時にこう言ってくれるよう頼む。その後これを喜右衛門(直経)に開かせる」
長政は立ち上がりながら三人の将に、それぞれの命を伝えていく。その度に長秀はいちいち深くうなずき、その度に内心から感心する。
三人ともあるいはここでもし長秀の言葉を袖にするようならば浅井から出ていくかもしれないと思ったことをいったん横に置き、改めて長政を盛り立てて行く事を決めた。
「それであの藤堂とか言う足軽に付いては」
「なんとも御しがたい男らしいからな、自ら請け負う事とした。阿閉には処分は不要である旨後で申し述べておく」
「はっ」
「では丹羽殿はこれにて」
「わかり申した、備前守様の誠実なる対応に深くお礼を申し上げます」
長秀が城から出て行くと共に、長政たちは本丸へと向かった。
(とりあえずここはこれで収まりましょう、ですが問題はむしろその後ですぞ)
まだ三十路だと言うのに、員昌は長政なり高虎なりと言った若者たちが担う明日の浅井がどうなるか、それを見極めてやろうと言う気持ちを抱きながら笑っていた。
※※※※※※※※※
ほどなくして、小谷城本丸に浅井の将たちが集められた。
中央に現在の家督である長政、右に久政が構え、長政の後方には側用人である遠藤直経が控え、左右には磯野員昌、赤尾清綱、海北綱親、阿閉貞征、浅井政澄、雨森弥兵衛と言った人間たちが集っている。
「で、何を言ってきおったのだ」
「昨晩の道に迷った兵の事です。その精強ぶりを丹羽殿は恐れられ、わが浅井家を敵に回したくない旨言われました」
既に隠居して十年になる久政が勝手に会議を始めると、長政はすぐさままったく誠実に答えを返した。
「フン、それでどうした?浅井として朝倉家などに手を出さんようにきつく言い聞かせたのだろうな?」
「その兵が言うには、浅井が織田と戦う事は何より恐ろしいと」
「何を言うか、たかが足軽の脱走兵ごときの言う事を聞くのか!」
「ではお伺いいたしますが、大殿様はどうやって勝つと?」
「にわか成り上がりの織田など張りぼてだ、少しつつけば簡単に瓦解する!」
「ずいぶん長持ちする張りぼてですな!ああその理屈だと朝倉家も張りぼてになりますがな!」
「貴様は黙っておれ清綱!」
清綱のらしくもない嫌味に、顔をしかめる人間は久政以外いない。尾張の守護代だった織田が張りぼてならば、久政の父の代まで国人だった浅井はそれ以下である。朝倉の事を言おうにも、朝倉だって織田と同格の元越前の守護代でしかない。
「それでまさかとは思うが、織田などに尻尾を振る気でもあるまいな」
「尻尾は振りませんが手は組みます」
「貴様は子どものくせに親に逆らうのか!」
「父上こそ当主にあらがうのですか!家の事を自由にできるからこそ当主ではないのですか!」
「わしは当主を譲ったつもりはびた一文ない!こやつらがやめなければ死んでやるとうるさいから聞いてやる事にしてやっただけだ!」
「記憶にございませんが」
「よく言うな、言った側は忘れていても言われた側は忘れておらんのだぞ!」
「野良田の戦いの後まぐれ当たり呼ばわりしたのはどなたでしたか」
簡単に揚げ足を取られるようなやり方で攻めかかった所で、誰一人屈する訳もない。長政が出るまでもないと言わんばかりに清綱は身を乗り出し、先ほどの意趣返しのように久政をなめつける。
だいたい、会議の場で黙れは相手の理論に対するいい返事が思付かないと言う何よりの証拠、ほぼ敗北宣言でしかない。だと言うのにほとんど何もせず同じやり方を繰り返す久政の株は、この時さらに落ちていた。
「おおそうかそうか、浅井が朝倉の大恩を踏みにじっても世間はすぐ忘れると言うのか」
「朝倉は浅井にかけた恩を忘れていなければそうでしょうな」
「毎年毎年こちらはずっと礼を怠っていないのだぞ、それが何よりの証拠ではないか」
「それを証拠と認めているのはどなたです」
「そんな物が必要か!」
「必要です。それがないから阿閉殿の配下の兵が不満を爆発させてしまったのです」
「たかがひとりの足軽の意見の方がわしより大事と申すか!」
「浅井家の領国が二百万石あれば話は別でしょうけどな」
「わかったわかった、どうしても織田が大事ならば書状の一枚でもしたためてやるわ!」
「隠居の人間がですか」
「黙れ!」
そして久政は長政ではなく、清綱に向かって吠え始めた。だがいくら言っても清綱は全く口を減らす事もなく、自分の高説を踏み付けに来る。そしてそんな男を、長政以下誰も止めようとしない。
なぜここまで頑固なまでに織田に固執するのか、何よりたかが一足軽の意見に固執するのかが全く久政には不可解だった。その上に絞り出した妥協点すらあっさりこの調子で返されたのだから、久政はもう他に言う事がなくなっていた。
「織田を取るか、朝倉を取るか。どちらかを迫っていると言う事なのでしょう」
「もはやなあなあではいけませんぞ殿」
綱親と弥兵衛が言う通り、今の浅井家には織田と朝倉の両方に喧嘩を売る力はない。下手をすればどっちつかず呼ばわりされて両者からいっぺんに攻撃を受ける可能性もある。そうなればそれこそおしまいでしかない。
信長のこの朝倉攻撃は、まぎれもなく朝倉を取るか織田を取るかのか最後通牒であると言えなくもない事を、さすがの久政も気づいていた。無論その上で朝倉を取れと言っているのだが、まったく誰も追従して来ない事にひどく失望していた。
「しかし実際問題として、仮に此度の織田の出兵に浅井が協力するとして一体何が得られると言うのだ赤尾殿」
「そうだそうだ、それこそ最重要課題ではないか!いったい何に釣られたと言うのだ?良い女ならばそれこそ朝倉殿からいくらでももらって」
「こちらをご覧くださいませ」
ところが完全に流れが長政に向いていた所で、員昌がいきなり褒賞の話を出して来た。なるほど大恩ある朝倉を滅ぼして何もないとなればこれこそただの馬鹿だ、しめたとばかりに自分の意を通せると思った久政は急に勢い込んで口を動かし始めた。
そんな久政を顧みる事なく長政が目で合図すると共に、直経が懐から一枚の書状を取り出した。
織田信長の名前が面に記されたその書状が開かれると共に、今まで久政の吠える声以上の音量のなかった広間が一気にざわついた。
「朝倉家滅亡の暁には金ヶ崎城以南の越前は浅井家の領国とする……!?」
「その北はどうなるんだ」
「越前の北は加賀です。正直あそこは」
「越前の東は美濃だからな」
金ヶ崎城から南だけでも十万石はくだらない領土があった。戦争の報酬としてはまったく安い物ではない。
越前全部ではなく金ヶ崎までかと言う事に対しても、さらに北の加賀と言う地のことを考えるとむしろ親切にさえ思えて来る。
加賀と言う国が一向一揆の支配地となっている事は、この場にいる誰もが知っている。加賀の守護であった富樫氏が一向宗に敗れてからもう八十年以上が経つが、朝倉家他隣国たちの大名はいまだにその一揆を崩せていない。そして浅井からしてみれば南西である摂津には一向宗の総本山と言うべき本願寺があり、それこそ大名以上の勢力を誇っている。
その本願寺の何が一番厄介かと言えば、彼らの唱える念仏である。その念仏が民百姓を信じ込ませ自らの兵卒に作り替えさせ、そして敵対する者に天魔外道の肩書きを投げ付けて寄こして来る。
その二つが合わさり、勝てば無論負けても極楽浄土に行けるのだと言う完全無欠の軍隊が出来上がる。無論武士たちとてそのほとんどが仏教徒であるからその念仏の恐ろしさが分かっており、また民百姓を殺し産業が失われたらどうしようと言う問題も浮かんで来る。正直な話、相手したくない軍勢だった。
「そうですな」
「なるほど、さすがは備前守様!」
「織田殿もずいぶんと誠意あるお方だ」
座が温まって行く中、久政の舌は止まってしまった。
仮に織田を利用するとは何事だとか言えば、それこそ織田の出兵を認めたような物である。かと言ってこんな虫のいい話がある物かと言おう物なら、今度は孤立無援状態に陥る。それでも無理矢理に我意を通せるような度胸など、久政は生来持ち合わせていなかった。
「大殿様、何かおっしゃりたい事があれば」
「ああ言ってやるとも!どうしても忘恩の徒になりたい人間は今すぐここを出て行け!」
「では失礼いたします」
「お世話になりました」
「それがしも続きますので」
その久政の言葉が散会の合図であるかのように、員昌を筆頭に、一人、また一人と本丸を去って行き出した。
自分としてみれば清綱に煽られた果てのやけくそとは言えそれなりに格好よく啖呵を切ったつもりなのに、付いてくる人間は誰もいない。
自分の与党であったはずの政澄さえ貞征がどう反応するかばかりを気にしており、その貞征が立ち上がると同時に追従していなくなってしまった。
「まったく……骨だけは拾っておいてやるわ。万一の時は祖父らしくしてやるからお前は好き勝手にしろ」
「では勝手にさせていただきます」
「この親不孝者の不届き者め……………………」
そして最後に長政が立ち上がって去って行くと同時に、久政は誰もいない本丸でふて寝を始めてしまった。
久政は、惨敗した。
あるいはもし久政に本気で朝倉を守る気があるのならば、ここでごくわずかな賛同者を引き連れて小谷城を抜け出して朝倉領に入るとか、それこそ会議の前に手勢でも配置して長政たちを拉致監禁でもするとか言う方法はあった。
成功するかは別にしても、本気を見せる事により何らかの影響を与える事ができたかもしれなかった。
(あれは織田の女狐にそそのかされた不孝の子が、それがしを幽閉して、それで……)
だがそのいずれもしないでただただ親であると言う事と前当主であると言う過去、そして忘恩の徒とか親不孝とか女色とか言うお題目にすがった結果を受け入れる事なく、もしもの際のための朝倉家への言い訳の口上を考える事ばかりに、久政はただひとり腐心し始めた。
「殿、さっそく軍備を整えましょう。織田様にお味方するのです」
「わかった。すぐさまその旨丹羽殿に伝えてくれ」
そして長政はそんな父親を全く顧みる事なく、軍備を整えていた。
ここに浅井軍五千は、まったく織田の援軍として朝倉攻めに参加する事を決めたのである。
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