第一章 朝倉、滅ぶ

浅井久政、空威張りする

「まったく、どういうつもりだ!」




 翌朝、丹羽長秀が二千の手勢を率いて小谷城に高虎を届けに来た事を知った久政は顔を真っ赤にして吠えていた。


「どこの誰だ、その逃亡兵の主将は!おい磯野、赤尾、海北、貴様らの中に誰か心当たりのある者はおらぬのか!」




 久政の隠居部屋と言うべき小谷城の京極丸の寝室で久政から直に責められた磯野員昌、赤尾清綱、海北綱親の三将は、何も言わずにじっと座っていた。


 実際、身に覚えのない話であるから何も言いようがないのだ。



「申し上げます」

「何だ!」

「丹羽殿の軍勢が城外にて控えておりますが」

「ふん、とっとと帰らせろ!まったく新九郎(長政)も織田なんかに媚を売りおって!まったくとんでもない忘恩の徒に育ってしまったものよ!」



 久政は息子の嫁の実家に向かって、まったく雑な文句をぶつける。

 そうして久政が吠えるたびに、真犯人と言うべき阿閉貞征がどんどん小さくなっていく。



 そして員昌たち三人は、貞征のみならず久政の存在までどんどん小さくなっていくのを感じた。




 だいたいの話として、たかが脱走兵ひとりに熱くなる必要はこんなにない。

 浅井家の秘密を知り尽くしているような有力武将ならともかく、あくまでも雑兵は雑兵なのである。たかが雑兵ひとり逃げたぐらいで一体何だと言うのか。


 さらに言えば、自分たち三人ばかりを責めているのも単純に気に入らなかった。

 今この場には久政以外に員昌、清綱、綱親、貞征、そして他に浅井政澄がいる。この内貞征と政澄は久政派であり、残る三人は長政派である。

 と言うか野良田の戦いの後、長政を浅井家の当主に押し立て久政を無理矢理隠居させたのはこの三人であり、長政派の最大の人物と言っても差し支えない存在だ。



「まったく、こんな時にこんな事件を起こすとは全くなっとらん!逃げた兵も逃がした奴も、全部この手で叩き斬ってくれるわ!」

「将をむやみに失うなど」

「うるさい!やっぱり貴様か海北!」

「そうであればとっくにはっきりと申し上げております」

「ならば誰だ、わからぬのか?」

「それがしも急報を受け確認いたしましたが、兵は一人も減っておらず」

「赤尾、忘恩の徒になりたくはなかろう?」

「なりたくないので申し上げますが、減っておりません」



 久政はいやらしく、なめるように三人の長政派の男たちを見渡しながら下手人を探していた。

 どうにかして小生意気の小僧の尻をなめている連中をぶん殴るべく何とかしてやろうと思案を全く隠さないその行動が、また別の一人の男を動かした。



「おい阿閉!」

「申し訳ございませぬ大殿様、実はそれがしの組下の足軽が一人、昨晩行方知れずになった事が朝になりわかり申して」

「ちっ……」


 今のうちに逃げようとしたのか腰を浮かして足音を立てた貞征に向かって吠えた久政は、すぐさま想定していた最悪に近い回答をぶつけられてますます顔を赤くした。


「貴様の足軽大将は何をやっておる!そ奴をすぐさま首にせい!」

「ははっ……」

「まったく、これだから浅井は!あの女めどこまでわしの息子を腑抜けさせれば気が済むのだ!」

「恐れながら阿閉殿はお孫様に」

「人を勝手に老け込ませるな!」


 お市が久政の孫である万福丸、次代の浅井家当主の筆頭候補を産んだのは六年前の話だが、久政はまったく顔を合わせようともしていない。他にも茶々や初と言った孫娘たちにも祖父らしい顔を見せてやる事もなく、ずっと知らぬ存ぜぬを貫いている。

 久政派である貞征もまたその三人の子供にも産まれた時に適当に礼と祝いの品を贈っただけで、員昌たちのように何度も会っている訳でもない。それだけでも久政に対する礼儀としては十分なはずなのに、それでもなおその疎遠な人間に毒されているのだと言わんばかりの物言いをしてくるのが久政なのだ。



「と言うか新九郎はどうした!」

「殿ならば丹羽殿をお迎えすべく饗応の準備を整えております」

「織田などに媚を売りおって、その結果家中から脱走兵を産み出しそれを届けてもらうなどまったく呆れて物も言えんわ……ああ嘆かわしや、忘恩の徒どもめ!」



 嘆かわしいと言うだけならば、誰にでもできる。嘆かわしいと言うならばそうでないようにすればいい。それをどうやってやるのか、どのような結果を望むのか。そして何より可能なのか不可能なのか。

 この久政と言う人間にはそういう視点が全くすっ飛んでいた。

 

 と言うか長政派の三人だって、決して朝倉を攻める事に全面的に賛同する気持ちはなかった。


 あくまでもここでの問題は「逃亡兵」であり朝倉などではなかったはずであると言うのに、忘恩の徒とかわずか数分の間に三度も連呼して、従わない人間を悪逆の徒に祀り上げようとしている。



 貞征はおろか政澄さえ賛同する向きのない事にまるで気付く様子のない久政が、三人はただただ哀れに思えて来た。




※※※※※※※※※


「下野守(久政)殿はそなたを許すまい」

「わかっております、もともとここに戻る事すら許されていないのですから」


 小谷城で久政が一人相撲を取っている中、ただの阿閉貞征軍配下の足軽である藤堂高虎は真っ当な足軽の装束を着せられてひざまずいていた。




「丹羽様、一体何ゆえ」

「何も複雑な事はない。ただ単に武士としてするべき事をしているだけよ。もう一度聞くが、そなたは浅井家が惜しいか」

「惜しゅうございます」


 たかが一足軽がまるで浅井に連なる他の全ての人間を差し置くかのように、織田家の中でも十指に入る様な権力者と互角に近い立場で話し合っている。昨晩のような熱気こそ失われたものの、以前としてその背筋は伸び切っていた。


「よく織田の人間は常識が通用しないとか言われる。そう言われる事に付いておぬしはどう思う?」

「正直な話恐ろしゅうございます。これまでずっと身に着けて来たはずのやり方が通じないのではないか、体に染みついたやり方を通せなくなったらどうすれば良いのか」

「まあそうなるな。だがお館様は別に道理の通らぬ事をしている訳ではない。道理に従い、いずれが得でいずれが損か見極める事の出来るお方よ。雑兵とか簡単に言うが、その雑兵の働きがなければ戦になどなる訳がない。もし浅井家の雑兵がみなおぬし並なら、お館様はとっくのとうに美濃に帰っておるよ」

「あまりにも過ぎたお言葉」



 信長の高笑いに当てられたかのように高虎を持ち上げる長秀であったが、やはりその背筋は伸び切っていた。まるで心情を糊塗する事もなく、好き放題に言いたい事ばかり言いながらも筋は曲げていない。


「だがいささか欲張りでもある。御家と御身、二つを諸共に守ろうとするなどとてもできる事ではないのだぞ。お館様はおぬしに織田に鞍替えせぬかと」

「備前守様が健在である限りはお断りします」

「ほぉ、備前守様がか……何ならここで浅井との戦のきっかけを作っても良いのだぞ」

「ずいぶんと理に合わない事をおっしゃられるのですな」

「ほんの戯れよ。どうせその次は万福丸様になり、そして茶々様や初様になるのだろう?わかりきった事を言わせるでないわ」


 予想通りの展開に持って行かれた事に心の中で舌打ちしながらも、高虎は信長のように笑う長秀の口を見つめていた。大きく開く事はない物のそれでも楽しいゆえに笑うと言う本音を隠す事のない笑い声は、正しく勝者のそれだった。



「で、だ。おぬしは朝倉義景と言う人物をどの程度知っている?」

「名家である朝倉家の当主です」

「ずいぶん表面的だな、まあ十五歳の足軽からすればそんな物か」

「と同時に浅井家の禄を奪っていく存在でもあります」

「無理をしてひねり出さなくてもいいぞ、いくら織田の人間しかいないからとは言え」

「それでは丹羽様は」

「そんなに違っておらん。まあ戦の前に相手をある程度飲んでかからせるのも将には欠かせない技量なのだがな。少しは話を盛るのもまた同じだ」

「さようでございますか」

「それではだ、仮に織田が朝倉を滅ぼしてもおぬしは痛痒を感じぬと言う事か」

「ええ」




 高虎の言葉には裏も表もなかった。


 庇護者を気取り自分たちが収穫した物やそれで買った何かを持って行くのならば、それ相応のことをして欲しかった。だが野良田の戦いだけでなく、その後数年間ずっと義景は、自分たちが南近江の六角氏や東の斎藤氏との戦いの際にも越前にいるだけで何かをしてくれた訳でもなかった。


 土豪と言っても型ばかりの存在からしてみれば、民百姓の苦労は長政や長秀よりはっきりと感じ取れる。その存在からしてみれば、年長者や上位者が唱えて来た朝倉の恩と言うのは非常に空虚な存在になっていた。



 そして高虎の無自覚な優越からひねり出された言葉は、長秀にとっては尾張の民のそれよりもさらに価値があった。一人の例から集団を推し測るのは危険だと言うのは長秀もわかっているが、それでも臆病とも逆心とも違う理由で逃げ出した人間が言うとなると話も違ってくる。


「わかった。備前守様に向けておぬしの思いを伝えよう。おい誰か、彼に水を飲ませろ」




 対朝倉遠征を敢行してからと言う物、長秀の頭の中にはずっと久政が勝手に動かないかと言う懸念があった。

 お市とて織田の人間であり、そして織田から付いて来て留まっている者たちも多数いた。彼らは無論ただお市と長政のためにではなく、信長たちにその近況を伝える役目も担っている。その際に久政との軋轢もまた、伝わっていた。


 孫にすらまともに会おうとしないほどの久政の憎悪を支えているのが織田への軽蔑であり、それ以上に朝倉への盲信である事もまた織田家の中では知られていた。


(この藤堂とか言う男、逃してはなりませんぞ備前守様!)


 もしこの機会とこの男を逃すようならば、いずれは信長の起こす波に飲まれて消えてしまう。これは貴方のためでもあるのですよと、昨晩の高虎の決意が伝染したかのような力強い足取りで長秀はゆっくりと小谷城へと向かって行った。

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