天魔の子・藤堂高虎
@wizard-T
序章 藤堂高虎、走る
藤堂高虎、走る
「なんてすごいお人だ……」
それが織田信長と言う人間について初めて話を聞かされた、藤堂高虎という十五歳の男の素直な感想だった。
北近江の大名である浅井家家臣を気取り十年前の野良田の戦いを誇りにしていた十五歳の高虎が聞かされた、「織田信長」という人間。
主君である浅井備前守長政の義兄である尾張と美濃の大名、それ以上の存在と思っていなかった人間を自分はあまりにも知らなさ過ぎた事に打ちひしがれるかのように、高虎は地べたに腰を下ろした。
野良田の戦いと言えば、長政がその勇を振るい倍以上の南近江の六角勢を打ち砕いた戦いである。この大勝利をきっかけに、浅井家臣団は父親の久政を隠居させ当時自分と同じ十五歳だった長政を当主に祭り上げた。
この時まだ五歳であった高虎は、一丁前に天と地の差のある身分の人間の功績を誇りに思い感じ入り、すっかりほれ込んだ。
小さなそれとは言え土豪でありそこそこの学があり、また次男であるゆえに土地にしがみつく事を余儀なくされるような身分でないのをいい事に、長政のような武士になるべく武芸の真似事をしていた。
その主君に取って何より誉れ高き戦いがあるいは模倣かもしれない、そう聞かされた時はまずその噂をした年かさの男に向かって掴みかからんばかりに迫り、そして桶狭間と言う言葉を聞かされてある程度気持ちは治まった。
五千対二万五千とか二千対四万五千とか言われているが、いずれにせよ倍以上どころではない兵力差の相手を打ち砕いたことには変わりはない。これだけでもずっと主君より上だ。
そして上と言えば、美濃の斎藤家である。この北近江にとっても厄介な勢力であった、美濃の蝮こと斎藤道三が興した斎藤家を桶狭間から数年かけて滅ぼすと、信長はためらいもなく本城を肥沃な地であるはずの尾張からその美濃に移してしまった。
小谷城を本城とする浅井家が戦国大名になったのは長政の祖父の亮政の時代であるが、その時からずっと小谷城が本城である事は変わらなかったし、変わる事すら想像できなかった。
その日から高虎の頭の中に、長政といっしょに織田信長が住み着いた。一体どれほどの存在なのか、どれほどの家臣がいるのか。どんな兵隊なのか。一応、お市が輿入れした際に織田家臣団が付いて来ていたが時に九歳だった高虎がそれを見ていたはずもなくどんどん狭い世界の中で存在が肥大化して行った。
足軽に過ぎない自分の身を恨み織田についての情報を集めようと図り、そしてそれができない分の不満を全て武芸に注ぎ込んだ。
そして修練の甲斐あってすっかり浅井家の兵として板に付いていた高虎の耳に、とんでもない話が飛び込んだ。
織田信長が、越前の朝倉義景を攻撃しようとしていると言うのだ。
この前長政が信長に連れられて三河の徳川家康と言う大名と共に上洛を果たし、室町幕府十五代目征夷大将軍である足利義昭に会った事は雑兵である高虎の耳にも入っている。その際に義景は出て来なかった、それこそ将軍様に対する反逆ではないかと言うのが信長の唱える理屈である。もちろんそんな事など高虎の知った事ではないが、織田と朝倉が戦になると言う事だけはわかった。
そしてこの事態に対し、真っ先に答えを出そうとする人間がいる事も高虎は知っていた。主君である長政の父、久政である。
先に述べたように、すでに隠居の身であって家督は長政である。だが時に長政はまだ二十五歳、久政は四十四歳。十二分に現役が務まる年齢でありその分だけ影響力も大きかった。
久政という人間にとっては、朝倉家は大きな恩のある存在でしかない。自分たちがこうして大名面をしていられる事はすべて朝倉家のためだと信じて疑っておらず、その朝倉家に逆らう事ほど毛頭考えられないような人物である事は高虎すら知っていた。
でなければ六年も前に長政がお市を嫁にもらって、つまり織田家と縁者になってなお朝倉家にご丁重に貢物をするような事はやめない理由が高虎にはわからなかった。久政からしてみれば織田家など、どさくさ紛れに現れたただの成り上がりに過ぎないのだろう。
近江と言う国は京の都を有する山城と距離的には近い地であるが、それでも高虎は無論長政にとっても京の都は遠い国だった。
だと言うのに織田家は、近江よりも遠い美濃を手に入れてから三年もしない内に京の都の道筋までを確保し、百万石をとうに超える領国を有している。
まったく織田家の力であり、それと同盟関係にあると言う事の強みでしかない。長政が上洛したと言う話を聞いた時高虎は阿閉貞征の配下として主君不在の近江の警護を任された運命を恨み、ひとりぼっちで枕を濡らした。
考えれば考えるだけ、久政が無謀な人間に思えて来る。そんな相手と戦ってどう勝つと言うのか。お前のような雑兵が何を考えていると言われるのはわかっているが、それでもなお頭から不安が離れない。
「おいどうした」
「いえその、戦で活躍したいと思いまして」
稽古で精一杯得物を振るった結果少しは武勇を褒められるようになったものの、それでも寝食の度に不安が増大していく。
息が荒くなり、得物を持って駆け出したい衝動にさいなまれる。
織田と戦ってはいけない。織田と戦ってはいけない。
その言葉が高虎の頭を駆け巡る。
夜のとばりが落ち切った中、阿閉軍の兵士たちが雑魚寝する宿舎で横になりながらも高虎の目は冴え切っていた。
ああどうしよう、ああどうしよう。誰にも言えない悩みを一人抱え込みながら、高虎は布団をはいで跳ね起きた。
みな、ぐっすりと眠っている。
「門番すらも……か」
まったく無警戒な門を見た高虎の足が、勝手に動き出した。いつの間にか草履を履き、まるで忍びのように音もたてずに陣から姿を消した。
そして音を立てても平気だとわかるや、これまで貯めていた力を一挙に吐き出すかのように走り出した。
織田の人間に会わなければいけないと言う思い一つを武器に、十五歳の青年は四肢を全力で振るった。
どちらにいるのかなど、そんな事はわからない。先ほどひそかに聞いた、織田軍が朝倉領に向かって進軍していると言う情報を信じるより他ないとばかりに、ひたすらに走った。
「北だ、北に走れば今こそ追い付くはずだ!」
どっちが北かなど知った事ではない。宵闇の中をただただ走り、織田の旗を求めた。
今の高虎は、脱走兵以外の何でもない。得物こそ何もないが鎧下は兵卒のそれであり、見る者が見ればすぐさまそれとわかる。浅井の兵に捕まれば即処刑だろうし、織田の陣に入り込めた所で処刑されない保証もない。
山野がすべて高虎に迫って来る。
宵闇だけが救いであるかのように、ただ浅井家のためだけに走っているつもりになる。
自己満足ではないのか。逆効果ではないのか。もしかしてただの自滅ではないのか。そんな思いが頭をかすめる余地もなく、ただただ走り続けた。
自分がどこにいるのか、織田軍がどこにいるのかもわからない。若さと情熱だけが、この男の頭を支配していた。
そんな脱走兵の足を止めたのは、二本のたいまつと柵、そして織田木瓜の旗だった。
「止まれ!」
「あ、浅井家の者でございます!どうか、どうか!この陣のお方にお知らせ下さいませ!」
たいまつをかかげた者たちは、当然のように高虎を怒鳴りつけ槍を突き出した。
「不審者」を前にしてまったく当たり前の反応だったせいか、高虎は冷静に頭を下げ土下座の体勢に持ち込む事ができた。その弾みのように言葉を吐き出すと、すぐさま背中に痛みが走った。
「怪しい男め!」
「待て、この者がお前は暗殺者にでも見えるのか」
「いえその」
「ここで斬る必要はない、とりあえず引っ立てい」
槍の柄で殴られた痛みでわずかに体を倒したスキを付くかのように、両腕を上げられて後ろ手に縛られた。そして手を引かれ、陣の中へと連れ込まれた。
覚悟の上とは言え、縄が腕に食い込みやはり痛い。その上に安堵したせいか息が切れていたのにようやく気付き、呼吸も荒くなった。
「だいたい一体何の用だ」
「それはその、死にたくないので」
「何を言っているのか……」
支離滅裂な発言にうんざりしたのか、最後には投げ出すように転がされた。そして強引に座らされ、そのままたいまつを持った兵に囲まれた。
「浅井の者を名乗る怪しき男です」
「その方、名は何と申す」
「藤堂、与右衛門高虎にございます!」
「誰か水をくれてやれ」
「は?」
「やれ!」
陣の大将らしく悠然と構えている男の命により、高虎の口に水が押し込まれた。幾里をもわき目もふらずに駆けて来た人間に取って何よりの甘露であり、気力を取り戻すに絶好の道具でもあった。
「さて浅井の者とやら、何が望みかな」
「浅井の安泰にございます!」
「浅井の安泰か、わしにどこまでできるかわからんがな……」
「ぶしつけながら、御名の方は」
「丹羽五郎左である」
「あの、確か……!」
「そうだ、これでも一応織田家の重臣とか言われている」
ようやく人心地付いた高虎が仰ぎ見た丹羽五郎左こと丹羽長秀の顔は、あまりにも優しかった。自称浅井の足軽などに何の偏見も持たず、平気で話しかけて来る。
浅井家で言えば直接の主人である阿閉貞征や磯野員昌、赤尾清綱に匹敵するような存在。それが今、自分とこんな顔をして向き合っている。
「こんな男に何を!」
「名乗ったとして何ができる?答えられるのか」
「…………」
「気にするな。さて与右衛門とやら、なぜまたこのような事を」
「織田家の皆様、どうか浅井をお守りくださいませ!」
「何を言い出すかと思えば!お市様の嫁ぎ先でお館様の妹婿である浅井家を守る事など当たり前ではないか!」
織田と浅井は同盟関係である。その同盟先の相手を守るなど至極当たり前のお話ではないか。それをわざわざ言いに来るなど、はたから見て頭がおかしいとしか言いようがない。
丹羽の兵たちが高虎に殺せそうな程の軽蔑の視線を浴びせかけたのは当たり前のお話でしかない。
「落ち着け、なぜそう思ったのか言うてみよ」
「浅井の中には、大殿様のように織田家を軽んずる人間は少なくありません。下手をすれば織田様の軍勢を後方より刺しに来る可能性がございます!
もしそうなれば織田様は決して我ら浅井をお許しになりますまい、約定をたがえて人間がいかに扱われるか、そのような事はまったく火を見るよりも明らかゆえ!」
それでも温和な態度を崩さなかった長秀に向かって高虎がそこまで吠えると長秀はゆっくりと立ち上がり、誰かに声をかけてすぐに床几に腰掛けた。
その顔は相変わらず優しく、そして同時に強かった。主君に似た顔をした長秀に少しだけ安堵しながら、とりあえず言うべきことが言えた事で少しだけ満足もした。
「まったく、こんな敵の間者かもわからぬ者に陣構えを見せるとは、丹羽様も」
「もしこれが間者なら、すぐさま撤兵するわ。お館様は逃げる事を恥と思わぬ」
そんな自分を見下ろす丹羽の平侍たちの言葉に、高虎はまたも不安に包まれた。
織田軍とて不敗ではないのはわかっていたが、それでも逃げる事を何とも思わないと言う話は初めて聞いた。そこまで頭を回せるような人間が頭にいる軍勢と戦うかもしれないと思うと、ますます体が重くなった。
「浅井を守りたいのか」
「無論!」
「なればなぜこんな真似を」
「恐ろしかったからです、死ぬのが!」
嘘も偽りも逆効果でしかないことを察した訳でもないが、この際とばかりに言えることを全て言ってしまう事を高虎は決めた。
浅井軍を優秀でないとは思わないが、この丹羽と言う軍勢はもっと優秀だ。それを部下にしている織田軍がどれほどの物か、改めて恐ろしさを感じた。
「それでも貴様は兵士か!」
「真っ先に死ぬのは我々です!」
「落ち着け。それで自分だけ助かろうとか」
「めっそうもございません!こんな雑兵の命と言葉では無意味でしょうが、どうか殿だけは!」
「そなたの心意気はよくわかった。だがわしにも」
「よい、縄を解いてやれ。よく分別してくれた、五郎左」
「お館様!」
地面と長秀の顔ばかり見ていた高虎は第三の人物の登場に気づく事もなく、口を開けたまま声のした方を見つめた。
織田信長。
紛れもない織田家の当主であり、主人の義兄でもある人物。その人間の顔を見るやゆっくりと体から力が抜け、それと共に手足の拘束が解けて行った。
実は浅井長政の姿でさえ二度しか見た事のない高虎だが、さわやかで力強く男にも女にも歓心を集めそうな人物だと言う印象だけは強く残っていた。
だが目の前の信長は違う。長政にまったくないひげのせいでもあるまいが、顔を覗き込もうとするだけで気圧されそうになる。
それでも必死に自分の目的のため、自由になった手足を動かして頭を地にこすり付けた。
「その方の名は」
「浅井家足軽、藤堂高虎でございます!」
「その足軽がこうして備前守の助命嘆願に来たのはなぜだ」
「単純なお話でございます、織田様には勝てる気がしないからです!」
「何ゆえだ」
「織田はとても強うございます!それがしは浅井の人間として野良田の戦を誇りに思うておりましたが、それがその、織田様の桶狭間の戦の後追いと言うお話をうかがいまして!野良田はおよそ倍でしたが桶狭間は五倍とも十倍とも、いえ二十倍とも!」
この時の高虎には自分が巨漢の部類に入ると言う事実を直視する余裕はなく、足軽が掴んだ誇張された情報を垂れ流してどうにかなる物かという気持ちもなかった。ただただ、浅井の破滅を恐れ、目の前の巨人に向かって許しを乞う哀れな雑兵と化していた。
自分の面相がひたすらに歪み、涙を流すのをこらえている事を悟られるまいとしているのがわかる。長政や貞征とも、いや長秀とまったく違う目の前の存在の顔から目を背けまいと気力を振り絞り首を上げる。吠えるだけ吠えておきながら言葉を詰まらせ、叩頭さえも忘れていた。
「フッフッフッフッフ……ハッハッハッハッハッハ!」
その沈黙を叩き壊したのは、ほかならぬ信長であった。丹羽陣内に響き渡るほどの笑い声を上げ、高虎のみならず長秀以下丹羽家の者全ての動きを止めた。
「備前守も果報者よ!」
「あの、これはその……」
「五郎左、道に迷ったこの男を小谷城に返してやれ」
「はい」
「ああその前に飯を食わせろ、たっぷりとな!」
信長が去って行くと共に、高虎は全身を地面と平行にした。文字通り力を使い果たしたこの屍を、丹羽の兵士たちは丁重に立ち上がらせた。
(この果報者め!)
朦朧とした意識の中でわずかに入った言葉に、先ほどと違って嫉妬めいたそれがあった事によりようやく許されたらしい事に気付いた高虎は、差し出された湯漬けを口へとかき込んだ。
その中身がめったに喰えない米である事に気づく事もなく、ただただ空腹を潤すかのように。
そして腹を満たし天幕に連れ込まれるやあまりにも無邪気な顔をして寝込んでしまった自分の顔を見て長秀が笑っていた事など、全く知る由もなかった。
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