鱓と空

紅野 小桜

水槽


 溺れる。息が出来ない。息が出来ない。溺れてしまう。

そう感じながら生きてきた。そう思いながら生きている。

陸にいながら溺れてしまう。私はここでは息が出来ない。酷く、酷く苦しいのだ。

私は陸に生まれた生き物だ。陸棲動物でありながら、陸で溺れる。

なんて滑稽だろう。けれど私は生きている。溺れながら、苦しい苦しいと喘ぎながら、生きている。

息を吸う。肺に空気が満ちる。数多の肺胞で、酸素と二酸化炭素のやり取りが行われる。

私の血液中にある赤血球は、その中にあるヘモグロビンは、甲斐甲斐しく全身の細胞に酸素を運び、そして二酸化炭素を持ち帰る。脈拍に合わせ、拍動に乗り。

息を吐く。吸って、吐く。吐く。吐く。吐く。

 吐いても、吐いても、何故か私の中には空気が充満しているような気がしてならない。

肺の中はもうきっと空っぽなのに、それなのに私の中には満ちている。苦しい。

嗚呼きっと、私の肺には穴が開いているのだ。そうしてその穴から体の中に、そこかしこに、空気が漏れ出ているんだ。だから空気が出て行ってくれない。そうに違いない。

吐いても、吐いても、吐いても、吐いても、空気が満ちているそのせいで私は息が出来ないのだ。

吸ったその空気が、新しい空気が、隙間を、逃げ場を求めて彷徨うから、私の肺が悲鳴を上げる。

行き場がない、居場所がない。

私には、居場所がない。


 いつからだろう。いつから私は息が出来なくなったのだろう。

人間ならば、私が人間であるならば、陸で息が出来るはずなのに。出来なければならないのに。

息が出来ないのならば、それならば、私はきっと人間ではないのだろう。誰かみたいに笑えない私は、きっと人間ではないのだろう。息が出来ずに溺れていれば、溺れている私には、笑うなんてそんな余裕、どこを探したってないのだ。見つからないのだ。空気が、酸素が、見つからない。

私は、ならば私は、いつから人間ではなくなったのだろう。一体いつから。私は、人間ではない私は、一体、何、何なのか。陸で息の出来ない、陸棲生物。私は、何か、どこかで、間違えたのかしら。


 幼い頃に行った水族館を、思い出す。大きな水槽。小さな私には、その水槽が海に見えた。そこは間違いなく海だった。どぷん、と沈んで、海の中。冷たくてあたたかな、海の底。何がいたっけ。何かがいたんだ。可愛くも、格好よくも、美味しそうでもない、何か。何だっけ。細長くて、口を開くと大きくて、変な魚だなと、そう思った。何だっけ、あれは、あの時のあの魚、あれは、そうだ、うつぼだ。うつぼ。海の底、うつぼが、私をじっと見ていた。淀んだ目で、私を見ていた。洞の中から、私を見ていた。

あれは私だった。

漠然とそう思った。

あのうつぼは、私だ。そうか、そうだ。私は生まれる場所を間違えたのだ。棲む場所を間違えたのだ。ならば仕方がない。水棲生物であれば、陸で溺れても仕方が無い。うつぼは陸で息が出来ない。皮膚呼吸も、表皮が乾燥してしまえば意味がないのだ。陸での生活には時間制限があるのだ。私はきっと、気付かぬうちにその制限を迎えてしまったのだ。そうだ。だから私は息が出来ないのだ。ゆっくりと、少しずつ、出来なくなったのだ。そうだ、そうに違いない。きっときっとそうなんだ。


 ならば、それならば、きっと水中でなら息が出来る。出来るはずなのだ。

水を張った浴槽に浸かり、頭を沈める。沈める。沈める。がぼり、と肺から溢れた空気が音を立てた。吐けた。息を、全部。これで、空っぽ。

冷たい水の中。あたたかい海の中。冷たくあたたかい海の底。岩穴がある。あれはあの時の岩穴だ。あのうつぼがいた洞だ。あそこだ、あそこ、私の居場所は、いるべき場所は、きっとあそこだ。目を輝かせて、洞の中を覗き込む。

そこには、何も、いなかった。うつぼなんて、いやしなかった。そこはただの、空だった。


 息を吐く、吐く、吐く。息を吸う。吸えない。息が出来ない。私は、息が、ここでも、息は、出来なかった。









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