東京倶楽部
三崎伸太郎
第1話
一言:東京倶楽部は1920年ごろロスアンゼルスにあった日本人の賭博場です。
東京倶楽部
三崎伸太郎 07・06・05、09:30PM
09・25・05 再スタート
階段があった。
階段は、彼の靴先の少し前にある。 彼は、歩くのを止め階段の一段目から徐々に上のほうに目を上げて行った。 階段を上がり詰めた辺りに男が一人タバコを吸っている。 男の目は、彼に向けられていた。
「ここ、東京倶楽部でっしゃろか?」建物の壁に揚げてあった看板で、ここが東京倶楽部であることは知っていたが、挨拶代わりのように言葉が出た。
男は腰を上げると、タバコを口にくわえてゆっくりと降りてくる。 階段の軋きしむ音が平井の耳を打った。 男は平井の手前、階段を数個残した辺りで立ち止まり、くわえていたタバコを片手にとって灰を落とした。 タバコを掴んでいる男の細長い指が小刻みに動く。 男は、平井を上から眺めおろすような姿勢にいる。
「十円あるかい?」男が低く聞いた。
「十円?」アメリカの十セントである。 ジュースが買えた。
平井は、上着のポケットをまさぐってみた。 有金はほとんどなかったが十セントぐらいは残っているはずだ。 手の先にコインが触れた。 掴んで持ち上げると一ドル銀貨である。 勘違いをしていたのであろう。 自分のポケットに入っているのはクォーター(二十五セント)かダイム(十セント)だと思っていた。 ポケットに戻そうとして、男の目線に気が付いた。
「どうする?」男が言った。
平井は、コインを握った手を男の方に差し出して開いた。 コインが彼の無骨な手に光った。 男は、手の平の中を覗き込むようにしてニタリと笑い、細長い指をゆっくりと伸ばして二本の指先にコインを掴んだ。 女のような華奢な手である。 コインが持ち上げられ男の顔の前で止まった。
「いいのかい?」男が言った。
「……」平井はコクリと首を振った。 金は、もう無い。
「おめえ……銭、もうネエだろう?」
「はい」咄嗟に言葉が出た。
「どこモンだい?」
「和歌山……」
「紀州モンか……」
「堺で働いておりまして」
「庖丁か?」堺を、男は何ゆえか庖丁鍛冶が多かった事を知っていたようだ。
「いや、ちょこと……」人差し指と親指をかすかに広げて示すと、
「ほおうや……」男は何を理解したのか変な言い回しでつぶやき、飯だったらフリー(無料)だ、と階段の上の方を顎で示した。 賭博場の東京倶楽部は、粗末な食事だが誰にでも無料で食べさせている。 その事を聞いて平井は、安ホテルから歩いてきたのである。
男の後について階段を上がった。 ドアがある。 男が開いた。 タバコの煙が顔を打った。 日本語が聞こえてくる。 入口を入ると直ぐにテーブルが目に付いた。 二人の男がどんぶりのようなものを手に抱えて食事をしている。 男達の箸を持つ手が孫一の目に入る……。
男は建物の一部にある調理場のようなところに行くと、丼を持って来て孫一に渡した。 丼の中にはゴッチャ煮があった。
「チャップスイ、嫌か?」男が言った。
「ちゃぶすい?」
「チャップスイ。 食った事ネエのか? 雑炊見てェなものさ」
「すんまへん……」孫一の言葉に男はニタリと笑い、奥のほうにあるドアをノックした。 小さな窓から別の男の顔が覗き込み、男を確認するとドアを開けた。 博打の掛け声がかすかに耳を打った。 孫一は、丼の縁の温かさを両手に感じながら、丼の中を見、近くの箸立から箸を取り上げた。 スプーンも置いてあったが、箸を手にした。
「どこからとな?」テーブルの端にいた男が孫一に声をかけた。 声の来たほうに振り向くと「どこから来なさった?」と、男が再び聞いた。
「わしゃあ、大阪ですわ」
「大阪となあ、じゃったら……」
「神戸、か。 神戸からハワイ……桑港サン・フランシスコ」隣の男が口を挟んだ。 最初の男は、うなずいた。
誰も、どこで働いているとかは聞かない。 ここに飯をありつきに来るのだから職がないか、博打で手持ちの金を全て摩ったかである。 孫一は頭を振って肯定した。口の中に熱い飯が入っていた。 孫一が丼を食べあげるまでに、別のテーブルでは数人の男が背を丸くして丼を抱え込んだ。
茶をすすっていると、例の男がドアを押して現れた。 彼は、つかつかと孫一のテーブルに来た。
「行こうぜ」と男は言った。
「どこでっしゃろ?」
男は、にやりと笑い「女だ」と言い孫一の背を押した。
建物から出ると、光が強く射た。 そこに、秋風がほほを打つ。
「くそ……」男がつぶやく。 怒った言葉ではないが、意に沿わない秋風に言葉を出したようである。
「うまく、いきよりません」孫一が男の背に声をかける。
「捨てたモンじゃネエ」
「?」
「おめェからもらった金で、これよ」男は、両手の平を孫一に向けた。
「ぱァ?」要するに、無くなったのかと孫一は聞いた。
「冗談じゃあねえ……負けては、遊べねェよ」
「ほな、十円(十ドル)ほど……」
男はホッホッと甲高い声を上げた。 おめェ、よっぽど銭と縁が無いやつだ。 百ドルだ。 俺が儲けたのは。
ひゃく、百ドル。 孫一は思わず立ち止って声を上げた。 おうよ、この金で、パッと……男は手を空中に上げて、ひらひら揺すって見せた。 白く細い指達が踊るように揺れた。 アバヨ、貧乏神奴!。 おめェにも銭をやる。 男は立ち止まるとポケットに手を入れ数枚の札を取り出して数え、三枚を孫一に差し出した。 分け前だ。 孫一の手に三枚の青い札が置かれた。「10」と言う文字が大きく見えた。 こ、こんな……アンさん。 こんな大金、もらえまへん……。
「分け前だ」男は再び言った。
「これ、大金ですがな……」
「銭、ねェだろうが? お互い様さ」
「へ……」空気のような言葉が孫一の口から出た。
それに、女もほしいだろうが? と、男は聞く。 孫一が返事に戸惑っていると、男は顔を崩した。 おめェ、考えたかったら女にまたがって人生、考えろ。 ケッ。
孫一は、あわてて顔の前で手を振り、そんなアンさん、そりゃあ、たまには……。 そうかい、そう来なくっちゃあいけねえな。 男は、さっさと歩き始めた。
男は、躊躇無く一軒の古びた建物のドアを押し広げた。
「あら?」女の声がした。 男は中に一歩入ったところで、立ち止った。
「いらっしゃい。 どうしたの?」と、中のカウンターの中にいた和服の女が男に言った。 親しそうである。 女は、男の後ろにいた孫一を少し身を乗り出すようにしてみると「お友達?」と男に聞いた。
「座敷だ、それに酒だ」男は奥に向かって歩き始めた。 孫一も後を追った。
「どっこい」と男は言って、ドッコイショと続け四畳半ほどの座敷に座った。 あがんねえかい、男は孫一を見た。 孫一は乱れている男の靴を直し、自分の靴をそろえて座敷に上がった。
「水野さん。 景気よさそうだネエ」と小柄な女が座敷に上がってきた。 女の持つ盆には、水の入ったコップが乗っている。 男は、女が盆を置く前に手をユラリと盆に伸ばして親指と細長い中指でコップを掴みあげた。
「酒は、ウメェや」一飲みして男が言った。 酒? 水ではと孫一は自分の前に置かれたコップを持ち上げ顔の前に運んだ。 酒のにおいが鼻をツンと突いてきた。 水と思っていたコップには酒が入っている。
「オイ、水じゃあネエよ。クッといけよ」と男は言い、ミーちゃんよ。 うめえモンねえのか?
「姐さんに聞いてみるよ」
「銭はあるぜ」
「あーら」とウエイトレスは、含み笑いをした。
「ケッ」再び男がつぶやいた。
孫一はコップに口をつけてチビリと飲んだ。 男と目が合った。 あ、あの「アンさんの名は「水野」言やはりまんのか?」
「水野だ」
「ワシ、平井孫一言います。 いろいろしていただき、すんまへん」
水野の指が空中でヒラヒラ動き、大した事じゃあねえよ。 いえ、大金までいただきまして……孫一は、言葉に詰まった。 感極まったのである。
「あの女は、どうだ? 今来た女」水野が突然言った。
「へ?」孫一は、コップから顔を上げた。
「五ドルも出すか?」
「五ドル?」
「あの女は、五ドルだ」
「……」
「女は汚れネェうちだぜ。 夕方になると、労働者が押し寄せるからな」
「へえ……」どうやら、先ほどのウエイトレスを買えという事らしい。
座敷に太り気味の女がつまみのようなものを持ってきた。 皿には田楽が乗っていた。 美人とはいえないが、なぜか孫一の気を引いた。 ああ、こりゃあ駄目だ。 アレは売らネエ。 単なる女中。 好みか?
「……」孫一は赤面した。
女は一重の目で孫一を見た。 丸い鼻の小鼻が少し退いている。 二重に近いあごだ。 女は寡黙で水野の言葉にも返さない。 田楽の皿ををテーブルに置くと、軽く会釈してさがった。
「おめェ、女知ってるのか?」水野が孫一に聞いた。
「まあ、まあですわ」
ホッホと水野は笑って、コップ酒をあおった。 男に女は必要さ、そうでなけりゃあ異国で腐らァ。 でもよ、日本の女だぜ、合うのは。 ホッホと水野は笑うのである。 そのたびに孫一の前で水野の白い手が振れた。
酒は、どこから? 孫一の言葉に水野は両手を後ろの方に伸ばして床に置き、身体を持たせかけると顎を引いた。 危ネェ質問だァ、そりゃあ……。
禁酒法が施行されていた。 さて、どこからでゲしょうね?
「日本からで?」
「知らネェな。 そんなこたァ」
「いらんこと聞いて……」孫一は持っていた田楽を皿に置いた。
「田楽たァ、田舎くせェよな」
「味は、良いでっせ」
「あの、田舎女。こんな物ばかりつくりやがってよォ」水野は田楽の串を空中で振って、ポイと皿に投げ入れた。
「田舎女?」
「太っちょ」
「先ほどの?」
水野はうなずいた。 孫一は女に好感を持っていた。 女にはふくよかさがあった。
おい。 女と寝るなら今だぜ。 労働者の連中が来やがる。 マンジュウが洪水にならァ。 水野は女性の性器を「まんじゅう」と呼称している。
いえ、わては女はいりまへん。 孫一は自分の顔の前で手を振った。
「エッ? いらネェてかッ? 女に興味がネェのか?」
「いや、人並みにもってまっせ。 けど……」
「けど?」
「今は」顔の前で手を振った。
「ほう」と言って水野は少し考え、仕事は、と聞いた。 仕事は、いりますなあ……なかなか、ええのが無いのですわ。
「おめェ……」と水野は言って後ろの壁を振り返り、奴やっこさんたちの遊びが始まったぜ。 階段辺りで女と男の話し声がし、やがて階段を上がってゆく気配だ。 ここは、置屋でっか? 料理屋だがよォ、酒と同じだ。 悪い事は隠れてヤルじゃあねェか。
「堺に居たと言ったな」先ほどの続きであろう。
「数年……」
「何、やった?」
「商いですわ。 台湾、フリィピン、ボルネオ、タイ、それにインドやハワイまで、まッ、アメリカ人の貿易商の手伝いをやってましたんやけど、いけませんな。 ついつい欲が出て手前でやり始めて直ぐ失敗……」
「じゃあ、おめェ、アメリカの言葉しゃべれるのか?」
「そら、アンさん、少しはできまっしゃろに」
「少し、か。 おめェ、俺の仕事手伝わねェか?」
「……」
「危ねェしごとじゃあねェよ」と水野は言い、少し間を置き、そりゃあ、ちィたァ(少しは)やべェが、仕事がないよりましだ。 どうだい?
やばい仕事でもかましません。 地獄に仏ですわ。
「そうかい」と水野は言い、おーい、ミーちゃんよと呼んだが太った女が来た。 おめェじゃねェよ。 美代子だ。
お仕事中。
「仕事?」二階を指差した。
女がうなずいた。
「汚れたのは抱けネェな」と彼は言い、すまんな。 女抱かせてやろうと思ったが、仕方ねェ。
女がチラリと孫一を見た。 女の目とあった孫一はあわてて「とんでもない。 わては、そんなつもりありまへんがな」と女に弁解しているように言葉を出していた。
「オイ、じゃあ、酒だ。 もう二つ。 それに、何か、チョイと気の利いたつまみをださねェかい」
私……「オイ」でないもの。 女が突然言った。 水野はあっけに取られて女を見「……」と孫一を見た。
「咲」女が言った。
「さき?」平井の言葉に、三崎の先か、と言った水野をチラリと見、花が咲く「咲」ですゥと言葉を返した。
「咲……か」
「ワシ、平井孫一言います」
女はゆっくりと孫一を見た。 孫一は女の顔を弁天様のような顔だと思った。
翌朝、平井孫一は何かの音に目を覚ました。
部屋にはベットと椅子、ほかに少しのスペースがある。 身体を動かすとベットが軋んだ。 ひとつだけの窓にかけてある陽にあせたカーテンから、光が漏れている。 隣の部屋から男の咳がした。 1926年、孫一の住んでいる大黒屋ホテルは最近リトル東京と呼ばれ日本人が多く住み始めた一角にある。 古ぼけた煉瓦造りの三階建で、週計算で部屋を賃貸している。
仕事があるので明日、東京倶楽部に来てくれという水野の言葉を思い起こした。 時間は昼飯時と水野は言った。
ベットから起き上がって背伸びをすると、部屋の空気に酒の匂いを嗅いだ。 肩を軽く動かして揉み解した後、鉄砲を手で構えているような仕草をしてみる。 頬を台座につけ、カーテンーの破れ穴が作る小さな光の点に照準を絞る。 呼吸を整えながら心身を「的」に集中させると、次第に小さな点が一円硬貨ほどに見え始め、硬貨の真中の点が見えてきた。 架空の引き金にかけた人差し指を、筋肉の動きを抑えながら自然に動かしてゆく。 架空の弾が的を射た。 和歌山の鉄砲集団である雑賀衆の一家系に生まれた孫一は、幼い時より銃の訓練を受け、銃が日常の動作に影響を与えていた。 孫一は毎朝、己の精神力の状態を銃の的ねらいで確かめている。
初めての仕事だと言うことで、服を代えた。 二着のうちの一つだ。 代えた後、共同の手洗いで服を洗い部屋の椅子に架けて窓側に置いた。 絞って水をだした後だが水滴が軽く木の床に落ちはじめた。 それを目で追いながら彼は部屋の外に出た。 靴が階段に音を立てるから足音を殺すように降りてゆく。 木造の建物は、隣近所の音がつつぬけである。 それでなくても、皆ひっそりと生活していた。 異国の地で貧窮の生活をしていると、他人に無関心になる。 関心を寄せようにも皆、今日を生きるのが精一杯なのだ。
仕事があると聞いて、孫一が喜んだのは言うまでも無い。 水野や東京倶楽部を考えてみれば、危ない仕事かもしれないが選択する余裕の持ち合わせはない。 昨日は水野が賭博で勝って金を恵んでくれるまで、途方にくれていた。 今、彼のポケットには三十ドルが手付かずにある。 水野は料理屋の料金を自分で払った。 客人に金は使わせネェよと彼は言ったが、孫一の金の無い事を考慮したような言い草だった。
ホテルの外に出ると、空を仰いだ。
空腹感があるが金を使いたくない。 ポケットに手を入れて十ドル札に手を当てた。 東京倶楽部で「ただ飯」をたびたび馳走になるのにも抵抗がある。 孫一は、通りの向こうにある小さな食料品店に足を向けた。 通りを横切り数軒の店が固まっている辺りで右に曲がった時、チラリと見覚えのある姿が目に入った。
昨日料理屋で会った咲に間違いない。 買い物籠を下げている。 咲は食料品店で足を止めた。 買物のようだ。 彼女は店頭で一つのオレンジを手に取った。
「……」孫一は言葉を出せず、咲よりかなり離れた同じ店頭でジャガイモを見ていた。 ジャガイモを買うつもりではなく、たまたま彼の視線の中にジャガイモが入ってきたのである。 アメリカに来るまで、この芋の存在を知らなかったが船の中で食べ、そして、ゆでたジャガイモは毎日のように食べている。 安い上に腹を満たす。
咲のほうを見て「……」やあ!と言葉を掛けたかったが、声にはならなかった。 彼女は孫一に気付いているのかいないのか、手にしたオレンジを少女のように眺めている。 気付いていても遊郭のような料理屋で会った手前、お客には声を掛けないようにしているのかもしれない。
孫一は店で小さなパンを二つ買い、ぶらぶらと東京倶楽部の方に向かった。 咲には昨日会っただけで、彼は懇意の客でもない。 硬いパンを口にして顎を動かしながら歩みを速めた。 太陽の位置から水野との約束の時間は近そうに思われる。 やがてロス・アンゼルスの市役所の時計が十二時の時を告げるかもしれない。 電車が通りを横切っている。
水野は、東京倶楽部の建物の前でタバコを吸っていた。 近くにトラックが止まっている。
「よッ、来たかい」と彼は言い、タバコを路上に投げ捨て足でもみ消した。トラックに乗れと言う。 荷台の方でっか? いや、助手席だ。 俺が運転する。 どこに行くんでっしゃろ? 水野は、無言でエンジンをかけた。 トラックは洗剤工場のある近くで右や左に曲がりアラメダ通りを南の方に走り始めた。 鉄道の駅がある。 川に掛かる橋を横切るとボイル・ハイツという小さな町でメキシコ人と日本人が多く住んでいる。 サンペドロに行くと水野が言った。 サンペドロ? 港である。 どなたはんか、日本から……。 いや、そんな甘めェ仕事じゃねェ。 そうでしゃろなあ、大体分かりますゥ。 まッ、そんなところだ。 抽象的な会話だけで理解できた。 つまり、酒を密輸入しているに違いない。
トラックがガタガタ揺れた。
「チッ……」
「?」
「ガタガタガタ」水野は口に出して、音をまねた。 大きな道路がサンペドロに向かって作られているが、未完成だ。
「どうやって、酒を日本から運ぶんですやろか?」
「それよ。 面白ェぜ」トラックはスピードを上げた。 時々電車がサンペドロから上がってくるのにすれ違った。 ロス・アンゼルス港はサンペドロにあった。
「おめェ、名……」水野の言葉に「平井孫一ですわ。 皆、マゴと呼びますよって」
「マゴか……まァ、いいや。 マゴで」と水野は言い、これ読んでみてくれとポケットから紙切れを出して孫一に手渡した。 英文で書かれているが、簡単な文である。
「西から飛んでくる鳥は、赤い一本マストにとまり、夕方五時に飛び発つ。 九月五日、千九百二十六年、アンドレア」と書いてありますが、半月ほど前の日付ですな……何の事でっしゃろ……意味がわかりまへん。 水野はヒヒと笑い「暗号や」と孫一の口調を真似た。
五時か……山崎の言った通りだ……それまでに、金を払い……まっ、そのまえに腹ごしらえだ、な。 水野は、道を離れて小さな町並みの一角に車を止めた。
「飯だ」車から降りた。
小さな繁華街で、英語で書かれた看板の立並ぶ中にポツリと「食事処」と日本語で書かれた看板が見える。 新しい建物でもないが日本食の店なのであろう。 孫一も空腹を覚えていた。
店には、テーブルが五個置かれている。 「うどん」と書かれている紙切れが貼られている。 太った壮年の女が現れて「いらっしゃい」と言い、お盆に載せていた水の入ったコップを二つ彼達のテーブルに置いた。 午後二時過ぎという時間帯のせいか他に客はいない。
「うどんを二つ。 それに握り飯を二個づつ付けてくれ」水野が注文した。
「あいよ」
「漬物はあるかい?」
「あるよ。あんたの好きなのが」
知り合いのようだ。
「粕漬けか? 酒もネェのに粕漬け」
「味噌漬けじゃあ無かったのかい?」
「味噌でも、いいよ」
太った女は女将おかみであろう。 注文を受けると奥に消えた。
「うどんに、おにぎりに、だ……」孫一を見た。
「かま、しまへん」
「アメリカだからよ。 仕方ねエ」奥を振返りながら言った。
うどん汁の匂いが流れ始めた。
やがて、彼達の目の前うどんが湯気をたてた。 大きな丼である。 どうやら、アメリカで作られた丼をうどん用に使っているようだ。 竹の箸が置かれた。
「さて、食うか」水野はチラリと女を見上げた。
うどんを箸で持ち上げると手打ちの麺である。 うどんが湯気をたてる。 口に流し込むと、汁とうどんの口当たりが良かった。
「うまいですな……」孫一は、数度すすって食べ水野に言った。
「あの婆ァ、うどんだけはうめェんだ」おにぎりを手にして齧かじった。
「うどんだけじゃあないだろう?」女将が暖簾のれんの中から声を上げた。
チッ、聞こえやがった。
「おにぎりも、うめェ」水野が言葉を付け加える。 女将が暖簾をあげて現れ、漬物の乗った皿をテーブルに置いた。
「うどんとおにぎりだけかい? 相変わらずだよ。 このシトは」
「変わりたくねェよ」
「天婦羅は?」
「ああ、あれも、なかなかだったな」水野は、ずるずるとうどん啜った。
「食べるかい?」
女は暖簾の中に消えて、天婦羅を手に持ってくると一つずつ彼達の丼に入れた。 魚のすり身を揚げたものだ。 美味かった。 こりゃあ、いけますわ。 こんな美味いモン、食った事ありまへんがァ。
「まァな」水野が照れたようにつぶやく。 天婦羅を齧かじり、うどんを啜すする。 丼に顔を突っ込むようにして、汁を飲み干した。 顔を上げると、女将が目に入った。 おにぎりは? ああ、いただきますよって……うどんがあまり美味いモンで、忘れておりました。 あんた、関西かい? 和歌山です。 そう、ほかにもだれかいたねえ。 思い出せないけど。 鉄道に行った人で……なんていったかしらねえ。
孫一は、おにぎりに手を伸ばした。 一齧りすると、キュウリの味噌漬けに手を伸ばした。
「橋本大五郎。 橋本の野郎は和歌山だぜ」おにぎりを食べ終えた水野が言った。
「ああ、そうそう。 橋本さん。 あの人、和歌山。 あの人は出世されたもんだ。 あんたも、頑張んなさいよ」店の女将は水野の肩を叩いた。
「今に、なるさ」
「あんたに博打癖がなけりゃあねえ……」
「……」水野は味噌漬けポリポリと齧った。
「その、橋本さんは、何を?」孫一が聞いた。
あん人かい? 人夫斡旋業で成功してね「橋本商会」という大きな会社をつくって羽振りがいいようだよ。 橋本さん、サンペドロで住んでいたことがあってね、ここにも良く来ていたんだよ。 もちろん、水野さんもよ。 女将はチラリと水野を見やった。
「ありゃ運が良かったのさ。 サンペドロ・ロスアンゼルス・ソルトレーク鉄道が、うめェ具合に鉄道工夫を探してやがった。 女将、ありゃあ、本当だぜ。 運だ」
「運をうまく掴む人の勝ちだねえ」と女将はため息混じりにつぶやき店の奥に引き返した。
運をうまく掴む……どこかで聞いたような言葉だと孫一がチラリと思い出したのは、戦国に生きた最強の紀州鉄砲集団「雑賀衆」を率いた雑賀孫一の言葉だ。 運はどこにでも転がっているが、うまく掴まないと消えうせる泡のようなものだ。 運を活用するには、瞬時の判断が必要であると孫一は伝えた。
橋本大五郎は、運を瞬時に活用できる能力を持っていたのであろう。
「ケッ……」水野が楊枝を使っている。 孫一は茶を飲んだ。
堂から出ると、水野はトラックを再び大通りに走らせた。 やがて右前方に海が見え始め船が見えた。 サンペドロ港である。
「海、ですな」孫一が声を上げた。
「金(かね)と女と海、選ぶと金だな。 金があれば何とかなるけどよォ」水野はなげやりに言いトラックを海とは反対の方向に向けた。 倉庫が立並んでいる。 しばらく走ってトラックを道の端の寄せて停めた。 少し待ってくれと孫一に言い、倉庫の端にある事務所のようなところに入っていった。 そして、水野は直ぐ小走りに出てきて再びトラックを走らせ始めた。
「アンドレアだ」水野が言った。
「あんどれあ?」
「その、事務所ってことよ」
「ああ、先ほどの紙に書いてあった船の?」
「まあ、そんなところさ」
やがて海が直ぐ近くに見えて来た。 ちょいと時間がある、船でも見るかと、水野は広い埠頭の片隅にトラックを乗り入れて停めた。 水野がトラックから降りたので孫一も後を追った。 タバコはどうだ? 水野が紙巻タバコを孫一の方に差し出した。 孫一はタバコを吸わなかったが手に取った。 水野の細い手が火のついたマッチを突き出してきた。 スパスパとマッチの炎につけた紙巻タバコを吸う。 直ぐにむせた。 水野は、そ知らぬ顔で自分のタバコに火をつけマッチを海に向かってポイと捨てた。 マッチが弧を描いて海に落ちてゆく。 平井の目は、マッチが落ちてゆくのを、まるでスローもションを見ているかのように的確に捉えた。 日ごろの訓練からか、物体の動きがハッキリと描写され視覚に映るのである。 鉄砲でマッチを狙っていたなら、弾をマッチに命中出来ると思った。
水野がくわえタバコで岸壁の杭に腰を落とした。 静かだなと彼が言った。 波音が聞こえる。 本当ですなあ。 船員さん達は、丘でしょうな。 埠頭に横付している船に人影は無い。
「マゴさんは、なぜアメリカくんだりまで来たんだい?」突然水野が質問してきた。
「ワシ、でっか?」
「つまらねェ訳ありだったら、聞かなかった事にしてくれ」
「とんでもない。 簡単な理由ですよって……堺で商いに失敗しよりまして、それで」
「とんでもねェ理由だな」
「そ、そうですな」確かに、大した目的があってアメリカに来たわけでもない。
「ほとんどの日本人は、一旗揚げようとして来ているんだぜ」水野は短くなってきていたタバコを細長い二つの指で掴むようにしてスパスパと根元近くまで吸うと、払いのけるように海の中に投げ込んだ。
「すんまへん」
「あやまるこたァねえよ。 あまり欲のないのが何よりだ。 おめェ、今度俺の代わりにソートレークに行ってくれ」
「へえ……」
「何、大した仕事じゃあねェよ。 女どもを連れて行くのさ」
「道案内でっしゃろか?」
「見張り役だ」水野の言葉に、孫一は直ぐに分かった。 娼婦を連れて日本人の働いている僻地の鉄道路線とか鉱山を回るのであろう。 もちろん博打付である。 誰かに聞いた覚えがる。
「何でもやりますが、大丈夫でっしゃろか?」
「何が?」
「荒くれどもに、女の方達が……」
「心配ねェ。 荒くれも、不思議に女にはしおれて見せる」
「しおれて?」
「意気地(いきじ)が無くなるのよ」
「意気地無しに?」
水野はハハと笑って、所詮男は女から出てくるのよと再びハハと笑った。 しかも裸で、だ。 裸一貫で、勝ち抜くには……てェへんだ。
確かに、裸一貫に生まれて人生を勝ち抜いてゆくのは大変な事である。 一人の成功者を作るには多くの人間の犠牲が必要になる。
「……」孫一は、水野にアメリカに来た理由を聞こうとしてやめた。 アメリカにいるやくざ者の常識で、たぶん船員上がりであろうと思ったからだ。
「俺は、一肌揚げるためにアメリカに来たぜ」水野が先手を取った。
「………」
「親父の死に目にも会えなかった」
「そらァ、アメリカですさかいに……」
「いや、京都に居てな……間に合わなかった」
「京都?」
「女を連れて逃げてよォ、親に勘当されたと言うわけよ。 面白くネェ」
「はァ」孫一は言葉に詰まった。
「死んだ親父が肌身離さず持っていたものなァ……俺が親父に買ってもらった時計と同じものだ。 死ぬときまで枕元に置いてやがって……」
アメリカに来て、皆を見返してやろうとは無駄な事を考えたものさ。 水野は遠くに目をやった。 思い描いたように人生は行かない。 平山孫一は目で、飛んでいるカモメを撃った。
「そのうち良い事もありまっせ」孫一の言葉に、そうだなと簡単に答えた水野が腰を浮かして、さて行くかと言った。
トラックは走り出し再び倉庫の立並ぶ一角に入って行った。
アンドレアと言う船の事務所の前に再び停まり、水野は事務所から文章の書いた紙をもらって来た。 これが、大切……と言いながら彼は紙を折って上着のポケットに入れた。 トラックは走り出して建物の裏手に出た。 樽が積まれている。 樽には白いペンキで飲料水と英語で書かれていた。 水野が先ほどの紙切れを一人の男に手渡すと、倉庫から樽が六つ出されてきて、無愛想な男達が手早く樽をトラックの荷台に載せた。 水野は直ぐにトラックを発進させた。
「水の樽でっか?」
「俺はミズノ(水野)だからよォ。 水運びサ」と彼は軽く冗談を言いヒヒと笑った。 皆悪い野郎ばかりだぜ。
「樽には水が入っているんでっしゃろ?」
「ああ、水。 正真正銘。これが化ける」ヒヒと水野は再びトラックを港の方に向け、スピードを落として停泊中の船を確認しながら走った。 やがて、彼はハンドルを切り一艘の貨物船に向かった。 船には「アンドレア」と英語で書かれている。
「この船ですかアンドレア言うのは?」
「仕事、仕事」
トラックは船の後尾付近で停まった。
船の甲板に設置されている木のクレーンが動き始めた。
クレーンの鉤には網がかけてある。 そして、一人の船員がロープにぶら下がっていた。 船員の体がゆっくりとトラックに近付いてきて近くに降り立った。
「ヘイ(おい)」と体格の良い男が声をかけた。 水野はポケットから封筒を取り出して渡した。 男は封筒を開けて、中身を目で追った。 ドル札が入っている。 彼は、確かめた後、甲板に手で合図をした。 甲板には二人の男が立っている。 もう一人の船員がクレーンで運ばれて来た。 二人の船員は網をクレーンからはずすと路面の上に広げ、トラックの樽を移した。 樽を入れた網はゆっくりとクレーンで船の甲板に持ち上がった。 やがて、甲板からは別の樽がクレーンに吊り下げられた網で運ばれて来た。 二人の船員が、この樽をトラックに載せ代えた。 水野は数枚のドル札を二人に手渡し、アバヨと日本語で言った。
この酒樽は、いや水樽に入っている酒は一体どこに運ばれるのであろうか。 禁酒法に違反した行為であるから、見つかると重い罰則を受ける。
ロスアンゼルスの近く町並みが途絶えた辺りで「おめェ、銃撃ったことあるか?」突然水野が言った。
「銃?」
「……」水野がうなずく
「あります」銃とは先祖雑賀孫一からの腐れ縁である。
「よし……」と水野は片手をハンドルから離し、片手を座席の下に突っ込んで拳銃を取り出した。 三丁の拳銃を孫一の座席の横に置いた。 好きなのを使え,弾は入っていると物騒な事を言う。
孫一は銃身の長いコルトのアーミー型を手に取った。 銃を手にすると、銃の性能が手に伝わってきた。 なかなかのモノでんな。 銃が分かるのかい。 少しなら分かりまっせ。
この辺が狙われやすい。 へ? 警察やろか? 警察は味方だ。 味方? 問題は、他の組織さ。 最近チャイニーズと組んで、闇商売をし始めた日本人野郎達がいてよ。 襲われるかも知れねェんだ。 それで、ワシを? いや、こんなアブねェ仕事を続けらせるつもりはねェよ。 マゴさんは、女の方だ。 ま、そっちも女で危ねェか。 水野はハハと笑った。
「ほう……」水野がサイドについているミラーに目をやった。 後ろにいるゼ。 見な。 水野がトラックの後ろの方に顎をしゃくった。 孫一は後ろを振り向いて見た。 なるほど、怪しげな乗用車が後ろについている。 さて……ぶっ飛ばすか。
「いえ、逆ですわ。 スピードを落としてもらい……」といった時、銃の音が上がった。 弾がトラックの後部に当たったようだ。 鈍い振動音がした。 くそ、水野がスピードを上げようとしたのを孫一は、チョイト辛抱して遅くしてもらいまッ。
孫一は窓からコルトで相手の前輪を狙って照準を合わせた。 再び銃声がして彼の目の前を空気音が走った。 孫一は弾のはしる音になれている。
「おい、でェじょうぶか」ハンドルを固く握っている水野が声をかけた。 孫一は、照準の中に大きなタイヤが現れてくるのを捕らえた。 ゆっくりと引き金に手をかけてゆく。 銃声が上がった。 相手の車がブレーキ音を上げて道の端に突っ込んでゆくのが見える。
「当たったのか?」水野がサイド・ミラーを見ながら聞いた。
「はあ、まぐれで当たったようでっせ」
「まぐれ?」
「まぐれでんがな」
「まぐれか……それでも、一発だからよォ」
「チョイトお相手をしたんですが、運が良かったですわ。 弾が当たりましたよって」
水野はうれしそうにハンドルを軽く叩きながら小唄を歌った。 なかなか上手い。 かなりの遊び人だったようだ。
「マゴさんのおかげで助かった。 前回は、やつらにやられた」
「襲撃されたので?」
「逃げたが酒樽に穴が開いて半分が駄目になりやがった。 クソッ!」水野は思い出して怒った。
「水野さんが生きていて、良かったですわ。 おかげで、私も助かりました。 おおきに」
「今度、別嬪抱かしてやるぜ」
孫一は咲を思い出して「とんでもない。 銃はまぐれですよって」
「女、嫌いか?」
「いや、嫌いなわけでは……」同じように小料理屋でしゃべり、同じように咲の顔を思い起こしていた。
水野はヒヒと笑い、再び小唄を口ずさんだ。
トラックは町並に達した。 この辺りまでくれば大丈夫だと水野が言った。 前に来たときゃあ、酒樽に穴が開いたモンでよ、てェへんだった。 酒は、皮袋に入れて樽の中に入っているんだがよ、穴が開いて漏れてやがる。 何とかやつらを撒まいて家の陰に隠れてよォ、穴をふさぐのに一苦労したぜ。 酒は臭ェし、漏ってェんで口つけて飲んだ。 でもよ、とても飲みきれネェ。 仕方ねェんで、ゴミ缶をかっぱらってぶち込んで、終わりよ。 蒸留すりゃあ元にもどる。
「警察には?」
「酒の匂いプンプンじゃあ、何も出来ねェ」
「プンプン? それで、街中を走りましたんか?」
「また、街の外にでるとやばいんでな。 塵ゴミをかぶせた」
「ゴミ、で?」
「臭せェ仕事ってことさ」
「酒ですさかいなあ……」
水野は運転手席の直ぐ横についてるラッパの警笛をププと鳴らし右に曲がった。 結構大きな通りである。 二階建ての煉瓦造りの建物が並んでいる。 最近、自動車が増えてきた。 あちこちの建物の前には車が停まっている。 馬車を目にすることは少ない。 水野は車を左に進ませまっすぐ北に上がっている道を走った。 ロス・アンゼルスの市街に入った。 人々がせわしく動いているのが目に付く。 路面はアスファルトで舗装してあるが電車道が縦横に走っているので、車は時々ガタガタと揺れる。 平井は、珍しい市街の動きに気をとられていた。
東京倶楽部にトラックが着いた時は、既に辺りは薄暗くなっており心細い街灯がともり始めていた。 あの建物は警察だと水野が手で示したのは直ぐ近くにある三階建ての建物である。 警察? あまりにも近くにある警察の建物に平井は戸惑いを覚えた。 密輸入した酒を運んできたのであった。 しかも、禁酒法に触れた行為である。 トラックは東京倶楽部の裏手に回り停まった。 水野は小走りで木のドアを開けて戻り、再びトラックを動かして建物の中に入れた。
建物の中は倉庫のようだ。 酒の匂いがした。 水野が電灯をつけた。 樽や酒瓶が並んでいる。 麻薬より、ましさ。 それは、そうでっしゃろが、警察があんなに近いんでは、危ないのと違いまっか?
それよそれよ……水野は、長い板をトラックの荷台にかけながら言葉を重ねた。 酒など、麻薬に比べれば薬だぜ。 チャイニーズの奴等、麻薬を運び込んでいやがる。 おめェ、知らねェか。 ハリウッドの不動産王の娘が麻薬中毒で捕まりやがったんだぜ。警察は、酒どころじゃないさ。 それに、禁酒法など続くわけがねェよ。 法は、やがて改正されらァ。 さて、手伝ってくれ。 酒樽をおろしてしまわねェとな。
酒樽をおろし終わると、水野と平井は東京倶楽部のある二階に上がって行った。 明りの中にただで食事にありついている日本人達の姿が見える。 水野は賭場の方に歩いた。
小さな窓口で軽く手を上げるとドアが開かれた。 賭博が行われている。 ビリヤードの台に向かって日本人達がかたまっている。 トランプや花札、サイコロ賭博と分けられているようだ。 台の真ん中には金貨が積まれていた。
水野は平井を連れて近くのドアを開いた。 入口にはソファが置いてありやくざ者のような男が二人座って、花札をしていた。 一人が水野を認めて立ち上がると頭を下げた。 他の一人は軽く手を上げて挨拶をした。
水野は相手に親指を立てて見せ「事務所か?」と聞いた。
相手は黙ってうなずいた。
「一人か」
「富士屋のだんなと話してる」
水野は、もう一つの木のドアをノックした。
「だれじゃ?」と声が上がった。
「水野で…」
「おお、入れ」声が返ってきた。
水野と平井が部屋に入ると「客人か」と坊主頭の男が平井の事を聞いた。 いえ、仕事を手伝ってもらいまして、おかげで上手くいきました。
「ほうか。 ようやった。 富士屋、何樽いるんじゃ?」一緒にいた男に聞いた。 どうも、男は富士屋と言う店の主人らしい。
「三本だな、正月が来る」
「それまでには、二つ引く。 料理屋連中に言っといてくれ」
「それなら、今日は二樽でいい」
「積むか?」
「いや、運んでくれ」
明日配達すると坊主頭が水野に目を向けた時、
「おやっさん……」と言いかけた水野を手で制した坊主頭が「わかっちょる。 客人は働きたいのじゃろうが?」
「へい……」
「いいじゃろう。 ここに街の顔役もいなさるし」と富士屋と呼ばれていると男を手で示した。
孫一は西村という坊主頭と街の顔役という富士屋に「平井孫一言います」と挨拶した。
「言葉できるんか?」英語の事であろう。 坊主頭が聞いた。
「ほんの少しですわ」
「ほうか、少しでもええ。 来週にネヴァタじゃ」早速仕事の話のようである。
「酒、酒、酒……か」富士屋が言った。
「富士屋。 酒、女、博打じゃ」
「かなわんがァ」富士屋の口に金歯が光った。
「富士屋のだんな、酒は明日の朝?」水野が聞いた。
「一袋もらって行くが。 寝酒がなくなってしもうて……」
「寝酒か、ちょいと待て」西村は立ち上がり、近くの箱を開けて一升瓶を取り出した。
「越後のピカ一じャ」
どれどれと、富士屋は酒瓶を西村から受け取り赤子を抱くようにしてビンを眺めた。
「雪、中、梅か……雪中梅。 金粉が入っとる」
「ワシが入れた。 ただの金粉じゃあ…」と西村は言い、ヘヘと笑って自分の坊主頭を片手でたたいた。
富士屋がよく見るためにビンを動かすと、中の金粉がゆっくり回った。
「こりゃあ、金塊じゃ!」驚いたように富士屋が顔を上げる。
西村は、得意満面でガハハと赤ら顔を崩し、ワシが入れた。 よく見てくれと意味ありげにビンを手で示した。 富士屋が酒瓶の首を手で握り、そこを別の手のひらで受けて顔に近付け、驚いたように“まことの金じゃ!“と声を上げた。 ワシが入れたと再び西村が坊主頭を揺り動かした。 かなり大き目の金塊が底の方に転がっていて、ひっそりと鈍い光を放っている。 ほう! さらに富士屋が顔をビンに近付け、ほう! ほう!と声を出している。
「あんたに、やる」
「いいのか?」
「何なら、もうちょこっと金塊を入れてやろうかい?」
「これで十分。 金塊の分酒が少のうなる」
坊主頭はガハハと笑い、富士屋は合点したように何度も頭を振った。
事務所から水野と地下の倉庫に戻ると、薄暗い電気の中で水野が孫一に椅子を進めた。 まあ、座れ。 酒の味見だ。 彼は、今日、船から引き取ってきた水樽を開けた。 中にはゴムで出来た袋が詰まっていた。 水野が一つ取り上げて、口を止めてあった留め金をはずすと、ビンに差し込んだ漏斗じょうごにドクドクと流し込んで、下に受けた一升瓶を一杯にした。
「大丈夫でっしゃろか?」
「何がだい?」
「酒」
「ああ、これか。 OKだぜ。 いつもの事さ。 味見はボスの命令だからよォ。 心配いらネエ。 それよりゃ、ツマミ、ツマミ……」水野は机の引き出しから二三の缶詰を取り出して蓋を開けた。 さあ、飲め。 湯飲に酒をついだ。 彼は酒を口に含み、飲み込んだ。 相変わらず大した味じゃあネェ。 船で何日もかけて運ぶからよォ。 しかも、ゴムの袋だぜ。 しかたねェよな。 こんな味で。 彼は、もう一つの湯飲に酒を注いで、孫一に渡した。 孫一も、口に含んで舌の上で転がしてみる……なるほど、元は良い味であったような……かすかにゴムの味が残り、味がだるい。
「まあ、いい」
「料理屋では、味がようおましたのに…」
「炭すみで濾こすからよ」
「炭?」
「仕方ねえよ、こんな味じゃあ、高く売れねえ。ウイスキーに負けるってヤツさ」
「ウイスキーも出回っているんでしゃろか?」
「闇には、何でもあるさ。禁酒法だけ、看板」水野は湯飲の酒をクイと空け、缶詰の魚を箸で持ち上げて口に運び又、酒を湯飲にそそいだ。
孫一も湯飲の酒に口をつけた。
「ところで、水野さん。 私ら、ネヴァタのどこに行くんでっしゃろか?」
水野は、がぶりと湯飲の酒を飲み干し、ぷっと息を吐き「あちこちだ、な。 マギルとか、それにユタまで行って、ソートレーク、オクデンとまわるかもしれねェな」とつぶやくように言った。
「遠いですなァ……」
「いつものことだぜ。 近くの{瓜(うり)もぎ}や{米作のブランケット担ぎ}では大してもうかりゃあしねェ。 だからよ、景気の良い炭鉱とか鉄道にしているって寸法さ。 酒、博打、女と担(かつ)がしやがる」
{瓜もぎ}や{米作のブランケット担ぎ}など、ブランケット(毛布)に身の回りの物を包んで次々と野菜農家や米作農家の労働をして回る日本人労働者は、遊ぶ金を持ってないと言うのが見解だった。
「誰の、案でっしゃろ?」
「へっ、決まってるじゃあねェか。 ボスよ。 人夫周旋業のボス達よ。 あまり、日本人労働者に金を貯めらせると、奴等日本に帰りやがるからってよ。 労働者から金を巻き上げてしまおうって事さ。 悪だぜ、まったく」
ネヴァタに行く前日、雨が降った。 軽い雨で、降った後は冷え込んだ。
「あそこは、暑い」水野は言うが、孫一には見当がつかない。 山本貞江と言う男が一行を取り仕切り山本の舎弟と博徒、それに娼婦が数人行くらしい。
「ワシは、何を?」水野に聞くと、まあ、山本の言う事を適当に聞いてやってくれ、などと軽い返事である。 ふと、孫一は咲の顔を思い浮かべた。 彼女は一般の女だ……行く訳がない。
「咲」と言ってベルトに差していたピストルに思い当たった。 水野に返すために持ってきていたのである。
「サキ?」水野が聞き返した。
「そうですわ。 “さき”先に借りていたピストル」と言って誤魔化し、ピストルをベルトから抜いて水野に差し出した。 本当は、咲と言う女性は? と聞くつもりだったのである。
「ああ、それか。 やるよ。 護身用に持っとけ」
「ほんまですか?」
「危ねェ事もあるかも知れねェ」
「……?」
水野は孫一に近寄り、軽く肩を叩いて「冗談だよ。 でもよ、危ない事だってあらァな。 たまには、よ」
「仕事が無いより、エエですわ」街にはアメリカ経済の不況のあおりを受けて、失業者がゴロゴロしていた。 多少の危険は覚悟の上だ。
「孫さんの銃は、銃身がながすぎゃあしねェかい。 短いのと、取り替えてやってもいいぜ」
「銃身は、長いほどよろしいでしょう」孫一は、雑賀衆の火縄銃の伝統的な射撃の技術を受け継いでいた。
「予備の弾だ」水野が弾の詰まった小箱を孫一に渡した。
「おおきに。 心強いですわ」
「おめェぐれェなものだ。 銃をもらってビクらない素人さんは……」
「日本で、狩猟に興味がありましたもんですさかい」と孫一は誤魔化し、手にしている銃を手になじませている。 いずれ、自分の一部のように銃が撃てる。 銃の持つ重みが、心地よい。
今日は、帰ってよいぜ。 水野の言葉に、孫一は東京倶楽部を出た。 午後二時ごろだ。 リトル東京の通りに向かって歩いていると煉瓦つくりの建物の近くで、誰かが孫一に声をかけた。 振返ると咲である。
「こんにちは」と彼女は言い、軽くお辞儀をした。 孫一も反射的にお辞儀をしていた。
「……」孫一は、なぜだか言葉が出てこなかった。
「すみません。 突然、お呼び止めして……」
孫一は、凝視している自分の顔をあわてて崩し、すんまへん。 わし、無愛想で……陳腐な言葉しか出てこなかった。
咲は、微笑んだ。 いえ……ところで、平井さんは東京倶楽部でお働きになっていらっしゃいますの?
咲の話し方は、料理屋で話しているときと違って高尚なような気がする。 孫一も思わず東京弁のような言葉が口をついた。 はい、実は仕事をもらったばかりです。
「そう……」咲は、少し考えて。 お時間あります? と孫一に聞いた。
「明日からはネヴァタに行きますが……今日は、まるで暇ですわ」
「少し、お話したい事が……」
「はァ……」孫一は、こんな夢のような事が……と思いながら咲と一緒に歩き始めた。 歩きながら話します。 他の人に聞かれるとまずいものですから、と彼女は孫一と一緒に川の方に歩いた。 孫一は咲と歩く事で、なんとなくうきうきとしていた。 石鹸工場のそばを通り、煉瓦つくりの建物の並ぶ一角を過ぎると突然展望が開けて川岸の草原が見えた。
「もう直ぐ夏が終わりますわねぇ」咲が言った。 八月の半ばなのにススキの穂が出ている。 草々は未だ夏の青さを残しているが、秋を探せばいたるところに秋の気配を見た。
「青踏」と言う雑誌をご存知ですか?
咲が突然と飛来に聞いた。
「青踏? 平塚らいてう(雷鳥)はんの雑誌ですやろ?」
「はい」
「その、雑誌がどうかしましたんやろか?」
「私は、青踏に参加しています」この言葉だけで、孫一は咲が社会運動家であるのではないかと思ったが「ある某社の記者です」と聞いて戸惑った。
「何しに、アメリカに来やはったんですか……」孫一は、小さく言葉を出した。 咲が、自分から遠い位置にいるような気がした。 自分は、ピストルをベルトに差込、博徒や娼婦達と日本人労働者の働いた金を巻き上げに行く身である。 確かに、金の為とはいえヤクザ組織に加担している。
「婦人運動のことで」
「婦人運動?」少し、考えていた事と違う。 明らかに違う。 孫一の頭の中で、何かがすれ違った。
翌日は晴れ。 ネヴァタに行く者達が東京倶楽部の倉庫に集まって来た。 東京倶楽部からは山本と彼の舎弟二人、伊藤、石橋と言う博徒が二人、それに孫一が加わっている。 娼婦は四人来た。
孫一は咲の言葉を思い出していた。
娼婦の仕事を強制しているのはヤクザ組織の東京倶楽部です。 娼婦達の名前と年齢、大体で良いですけど……出身地、それに何時どこからアメリカに入国したのか調べてくださらないでしょうか?
ワシがですか?
そうですわ。
また、ワシが……どないしてだす?
勘です。 あなたは、他の方達と違うもの。
ちがう? とんでもない、これを見てくれまっか。 孫一は服の裾を持ち上げてベルトに挟んだピストルを咲に見せた。 ま、このように……物騒なものをもってまっせ。 咲の小鼻がかすかにうごめいて、チラリと孫一を見上げて微笑んだ。 どうして、私に見せますの?
わても、ヤクザの仲間と言う事ですわ。
ピストルでは証明できませんわ
大儀やなあ……。
お願いします。 平凡な言葉ですけど、この言葉より他にありませんもの。 他に言葉が必要ですの?
もう、よろしいわ。 できるだけのことをしますよって。
ほんとう? 咲が孫一を見上げた。
この銃に誓います。 銃に誓うと言う事は平井孫一にとって命を懸けてと言う事になるのだが、咲は知らない。 雑賀衆の血を引く孫一が銃に誓って咲の頼みを受けたのである。 咲の弁天様のような顔が微笑んだ。
「はい。どうぞ」咲が何かを孫一に差し出した。
「何でっしゃろ?」
「ちゅういん がむ」「へ…?」「ゴムみたいなものに、味が付いてるのよ。 口の中が掃除できるのですって」
孫一は、口に入れた。
「飲み込まないでね。 ただ噛むだけ」
「噛むだけでっか? 食いもんじゃ無いので?」
「ええ。 でも、口の中が清潔に出来る。 これを、日本の女の方達に広げてみようと思っているわ」
「……」
「遊郭で働いている女の方達、歯が悪い人が多くて、もちろん遊郭自体を無くさなければならないけれど、今できることもしないと」
「……」孫一には、咲が理解できなかった。
東京倶楽部に集まったユタとネヴァタ行きの者達には、酒の担ぎ屋の役もさせられる。 男達はスーツケースの中に六個の酒の入ったゴム袋を入れた。 娼婦達は二個である。
「ダイスを振る腕がくるうぜ」博徒の一人が不平を言った。 心配するな、ダイスも、味方にしてある。
酒を飲まし、少し勝たした相手には女を抱かし、少しづつ出稼ぎ労働者達の金を巻き上げてゆく。 山本は、元金を金貨と札束で持っているはずだ。 金貨は賭け事をする人間を狂わした。 賭場の真中に積み上げられている金貨の山は、一獲千金を狙ってアメリカに来た男達の夢を反映していた。
汽車の駅は「ユニオン・ステーション」と呼ばれている。 彼達は水野の運転する車で送られた。 水野は一度に全員を運べないので二度に分けた。 駅を新しくすると言う計画もあるらしいが、未だ二階建ての煉瓦つくりである。 右往左往する旅人達を避けて駅の片隅に集まった。
北村と言う東京倶楽部の事務のような仕事をしている男が、切符を買って一人一人に手渡している。
「孫さん。 例の筒の長いモノは、持ってきたか?」と水野が聞いた。 ピストルの事である。
「鞄にいれてますゥ」
「小さいのも持っていけ」水野は自分の上着のポケットから、さっと取り出したものを孫一の上着のポケットに入れた。 ポケットの重みが銃であることを孫一に伝えた。弾の入った箱もよこした。
「よろしいので?」
「使ってくれ」と水野は小声で言った。
「おおきに」
労働者の金を巻き上げる賭場だ。 危険は付き物である。 覚悟の上だ。 孫一は咲の顔を思い浮かべた。 できるだけ、彼女に頼まれた娼婦に関する情報を集めてやろう。 それに、彼女達が危険な目に遭ったときは、申し訳ないが銃のお世話になろうと決めていた。 銃は、孫一の手足のようなものである。 それが二つもあれば鬼に金棒のようにさえ思えた。
汽車が駅に入ってきた。 旅人達が汽車の動きに目線を当てている。 巨大な機関車が騒音を上げて向かってくる。 彼達は自分達の輪を無意識に少しちぢめた。 機関車は彼達の想像以上の力強さで動いている。
「オール・アボード!」(全員、乗車!)駅員の声に客達が汽車に乗り込み始めた。 日本のように向かい合うような席ではない。 二人席が進行方向に向いて両サイドに並んでいる。 席に着くと、なんとなく博徒や山崎さえも寡黙になった。 その点、女達は喋りを止めない。
孫一は一人の娼婦と同じ席に並んだ。 水野と一緒に料理屋であっている美代子と言う名の女性である。 彼女は、うふふと笑って孫一が彼女の横の席に座ったのを迎えた。
「すんまへんな。 山本はんに、この席やと言われましてん」
「あら、良かった」と美代子は言った。 昼間の顔は娼婦に見えない。 普通の女性である。 一体、どうしてアメリカまで来たのであろう。 咲でなくても、聞いてみたくなる。 孫一は、目を閉じて背を席にもたせた。
孫一にとって汽車の旅はこれが初めてではない。 機関車の音が大きくこだまし、客車が動き始めた。 彼の身体にも汽車の動きが感じられた。 何と言う鉄道路線を走っているのかは知らない。 人の話では、とても人の住めそうも無い赤茶けた山肌の大平原や草原を汽車は横切って走ると言う事だった。 鉄道は蛸の足のようにアメリカの大地に絡み付いていると言う。 そして、そういった鉄道の線路をつくる仕事に従事した日本人や中国人の話が日本人の間では繰り返されているし、ここにいる東京倶楽部一行の旅は、荒野の中の鉄道路線や鉱山で働く日本人労働者達から金を巻き上げに行く旅である。
ユニオン・ステーションから出た汽車は、やがて直ぐに山間部を走り始めた。 ここさえも荒野の様だ。 禿山に近い峡谷を汽車は登っている。
「ねえ……」隣の美代子が孫一に語りかけた。
「何でっしゃろ?」
「あんた、大阪?」
「ワシでっか? さて、どこですやろな?」
だって、話し言葉が……。
そうだすな。 これは、あきませんわ。 でもな、生まれも育ちも紀州でっせ。
「紀州?」
「大阪は、堺に住んでましたんや」
「あ、ら…」
「あんさんは?」
「あたし? 東京、でも、しばらく京都に住んでいたこともあるの」
「京都でっか? ほんなら、堺も近いですわ」
「でも、堺はしらない」
「そらァ、近くても遠い……いや、ワシだって京都に行ったことありませんし」と孫一は言いながら、ふと水野が女と京都に逃げて住んでいたと話した事を思い出していた。 美代子は、水野が孫一に抱かそうとした女である。 まさか、自分の愛人を少しでも知った男に抱かそうとするわけが無い。
「この仕事は、長いので?」知らず、孫一は咲から頼まれた質問をしていた。 まずい事を言ってしまったかと思ったが、相手は案外と気楽に「ええ……」と肯定し、五年になるかな? と軽く小首をかしげている。 娼婦の仕事を割り切っているような思いがした。
「アメリカは?」
「三年……」
「一人で来たんでっか?」
「ふ、た、り、で……相手は、男、ヤクザな男」
「……」孫一は、言葉に詰まった。
「他に?」
美代子の言葉に、孫一は首を振って答え身体を再び席にもたせた。 おろかな質問をしてしまったような後悔が彼を無口にさせた。
美代子は、窓ガラスに顔を近付け灰色の山に目をやっている。 山肌は、眼前に広がっていた。 やがて汽車は峡谷を登りきり峠に出た。 突然と展望が広がり車窓から広い平原が霞にかすんで見えた。
「広い土地出んなァ……」こんな近くで、こんなに広いところがおましたやなんて……。
「広いだけ」
「?」
「何にも無いのよ」
「?」
「ほら、日本のように野菜が植えてあるとか、米や麦の畑……懐かしいね……でも、ここには綿の畑や、果樹園が見えるだけ」美代子は、何度も同じ鉄道で旅をしている様子だ。
「こんなに広いのに、なんでですやろな?」
「水がないのですって」
「水ですか……気がつきよりませんでした……水、忘れてしもうとりました」
「これ……」美代子が包紙を差し出した。 おにぎり、おなかすいたでしょう?
「すんまへん。 おおきに」孫一は素直に受け取って包を開いた。 おにぎりが二個、並んでいる。 中には鮭しか入ってない、梅干だとおいしいのに。 美代子の言葉に孫一は、梅干でなくてもおにぎりは好きですわ、ほんまに、ありがとさんです。 身体をねじって、ペコリと頭を下げた。 はい、お茶も。 美代子が水筒の茶をコップに注いで孫一に差し出した。 えろう、すんまへん。 返すもの、あらしません。 あら、そんなものいらないよ。 水野が持って行けと言ったのよ。
「えっ? 水野さんがでっか?」
「そ……」
「ええ人ですわ……水野さん。 あの人は、命の恩人でっせ。 一銭も無いワシに銭と仕事をくれましたんや……ほんまに、ありがたいことです」
孫一の言葉に、美代子は微笑んで再び顔を車窓の方に向けた。 彼女の顔がガラスに斜めに映っている。 孫一は、水野と美代子の関係が深い事を知った。 水野が女と京都に逃げた相手……。
水野が銃を使うのがうまいと思った孫一に自分の銃を二挺も与えたのは、美代子の身を守ってくれと言う意なのであろうか。 しかし、なぜ自分の愛人を娼婦にしているのであろう。 単に金ほしさのためなら、違う方法もあるだろうに。 孫一は、不可解な水野の動きに戸惑いながら、美代子からもらったおにぎりにかじりついた。
汽車は、峠を越えて平原に出た。 線路の近くで、路線区の鉄道工夫達が見送っている。 孫一は、お握りを食べていた。
「アメリカ、なかなか良いとこですな」食べかけのお握りを手にして、ふと言葉を漏らしていた。
窓の顔を向けていた美代子がゆっくりと孫一の方に顔を戻した。 良いとこ? はいな。 この国の力強いとこだす。
「そ……」ため息のような小さな言葉が彼女の口から漏れた。 美代子は再び窓の方に顔を向けなおした。
孫一は飯粒を噛んでいた口を止めた。
つまらぬ事を口にした。 身を売っている女性の気持ちも考えないで……。
「ほら、綿の畑」美代子が孫一に窓の外を示した。 孫一は、口の中の飯をゴクリと飲み込み目を向けた。 脛(すね)ほどの高さのような低い茶色い作物には白いモノが転々と咲き誇るように見える。 花のようでんな。 でも、花でなくて綿よ。 私の田舎でもつくっていたから。 へえ……綿を……。 美代子の田舎とは……どこでっか? えっ? すんまへん。 アンさんの田舎ですわ。
「ああ……田舎……」美代子は遠くを見るような仕草で田舎と言う言葉を息をはくように出して黙った。
こりゃあ、つまんことを聞きましたわあ……ワシも、そうですがアメリカにまで来て田舎もクソも無いですなあ、と孫一はその場をつくろった。 美代子の横顔がかすかに微笑んだ。
汽車は、荒野の中の小さな駅に停まるところだった。 木造の家が線路の横に点々と見え始め、ブレーキの音が軋んだ。
「駅をステーションと言うのは、面白いですなあ」孫一は、思いついた事を何でも口にしていた。 よく見ると、美代子は眠っていた。
静かな駅である。 数人の客が乗り降りをした。 少しの時間だけ止まっていた汽車が再び動き始めて加速した。 再び綿の畑が見え始め、綿の茂みに人々の姿が見える。 孫一は、ふと堺の港を思い出した。 彼は綿をインドから輸入していた事がある。 泉州の紡績工場や大阪郊外の紡績会社に綿を卸していたのである。 あの頃は、羽振りが良かったものだ。 自分の船を持とうとした事が事業の失敗だった。 アメリカの綿に押されて倒産した後味の悪い思い出があった。 彼は、美代子の寝顔を見た。 自分とまるで違った経験をし、アメリカに来た女である。 身を売っている。 仕事を見つけてくれた水野と関係があるようだが分からないところがある。 なぜ娼婦をしているのかと言う事である。 これを聞き出すことは、青踏という雑誌の編集に携わっていると言う咲に頼まれた事でもあった。
汽車が揺れるたびに、美代子が目を覚ましたのではないかと注意したが彼女はしっかりと目をつむっている。 まるで、目を覚まして現実の世界の戻る事を拒否しているように思えた。 孫一は、汽車が揺れるたびに美代子を気にした。
しかし、彼も何時しか眠って、目を覚ました時は夕暮れになっていた。 美代子は起きていた。 窓ガラスに彼女の顔が映っている。
「もう、夕暮れでっか……」
「あら?」美代子が振返って微笑んだ。
乗車員が毛布を配り始めた。 車内の温度が下がり始めている。 汽車は荒野の中を走っていた。
「どのへんですやろな……?」孫一が車窓の外を覗き込むようにつぶやくと、美代子は窓の外に目を向け、夕暮れ前にサクラメントを過ぎたから……ネヴァタの国境近くかしら。 今夜は汽車で一泊ね。
一泊か……大変でんな。
「でも、仕方ないよね……」美代子が言った。
「……」
「こんな仕事、おかしいでしょう?」
「……?」
「仕事って言えないけど…」
「嬪夫(ピンプ)がいて、女の人がいて、色々聞きますが、よう分かりませんわ」孫一は戸惑いながら水野を思い出した。 ピンプとはヒモの事で、英語のPimpから日本語に転化した言葉だ。 最近日本人達の間で使われていた。
「水野、画家だったのよ」料理屋では他人行儀のように“水野さん”と呼んでいた美代子だった。
「絵描きでしたんか?」
「あたしは、モデルだった」
孫一が聞くまでもない。 咲の言葉が脳裏に現れて消えた。 調べろたって、無理ですがなと孫一は、咲を頭の中で押し返した。
水野の白いながい手が彼の中で揺れている。 ああ、アレは絵筆を握る手であったのか。 孫一は鉄砲の引き金を引く手の指を思い起こしている。 絵筆を通して自分の感情を絵に移入する画家と、鉄砲の引き金に指をかけて全神経を的に集中する射手。 似たところがある。
咲が孫一を後押しする。
どこの波止場から。 ああ、神戸でっか、わてもですわ。 何時ごろでしゃろ、アメリカには、四年前、すると1922年ですなあ、わては未だ大阪にいましたわ。
元子さんや悦子さんも、同じ頃、元子さんが神戸で悦子さんは横浜、皆、頑張ってますなあ、いえ、すんません、なんとなくそう思えますんで。 えろうスンません、話をこじらせて、水野さんは絵描きハンでしたんか。
「画家の息子で、画家。 私と一緒になると言い出して勘当されたのよ」
「そんな……複雑ですなあ」
「身ごもって、流産。 それから、水野は絵を描かない。 博打に手を出して、しばらくは良かったけど、上手くゆかないわよね。 ギャンブルなんて……気が付いたら、私で稼ぎ始めていた。 ああ、これで責任が取れたと思ってスーと楽になった」
「辛いですなあ」
「流産したモノを見て、水野は言ったのよ。 横山大観の絵だって」
「……」孫一はうなずいて見せた。
車外は既に闇だ。 汽車がどこの辺りを走っているかは分からない。 しかし、川の近くらしく反対側の車窓を通して、チラリと光る川の流れのようなものを見た。
夜中でも、汽車は定期的に駅で止まった。 毛布に包まって寝ていても、夢の中のように汽車の動きが感じられていたがいつの間にか熟睡していた。 客車の暖房は動いていたが微かな冷気に毛布をかぶりなおして目が覚めた。 明方のようだ。 車窓から朝の日差しを受けた山々が遠くに見えている。 頭を振って美代子のほうを見た。 彼女は窓のほうに身をよじって丸くなって毛布に包まっている。 未だ若い娘の顔だが肌が少しくすんでいる。
次第に人の話し声が増えて行き、通路を歩く者が増えてきた。 美代子も目を覚ました。 少し身体を正して車窓に目を向けた。 汽車は平原を走っている。 だだっ広い荒野だ。 低い朝霧の層が遠くに見える赤茶けた山すそに見える。
「日本とは、違いまんなァ・・・・・・」孫一は言葉を出した。
美代子は軽くうなずき、アメリカですものと小さく言った。
「孫さんよ」山本が孫一たちの席のほうにやって来て声をかけた。
「なんでしゃろ?」
「次の駅で朝飯を食うんで、あんたは先に車内で飯を食って荷物を見張ってくれねえか」
「よろしいでっせ」
「頼むぜ、現生盗まれねェようにな」と山本は言い自分の席に戻った。
孫一は内心、盗まれたら賭博で銭を失う日本人労働者が少なくなり皆幸福でんがなと思ったが兎に角仕事である。 食堂車で軽く朝食を済ました。
自分の席に戻って美代子に何か話しかけようとした時、汽車は汽笛を鳴らしてスピードを落とした。 孫一は話すのを思いとどまり車窓に目を向けた。 建物の影がチラホラと見え始めている。
汽車が駅に止まると、山本と舎弟二人が女性達を連れて駅に降りた。 孫一と博徒二人は自分達の席に重要な鞄や荷物を置いて見張った。 孫一の席には金貨の入っている鞄が置かれている。 水野が孫一の射撃の腕を話したに違いない。 彼は万が一の為に、右ポケットに入れている銃身の短いピストルに手を触れて確認した。 水野からピストルを譲り受けて以来、孫一は銃の練習に励んでいる。 おかげで、結構ピストルの扱いにも慣れた。
何でこうなったのか、自分でも分からない。 用心棒と言えば聞こえは良いが東京倶楽部という賭博組織に加担しているという自己嫌悪もある。 食うに困ってのことだ、仕方ありまへんやないか。 こう考えると、なおさら自己嫌悪が強くなる。 餓死、それとも何が何でも粘り強く生きるのが良いのか。
「婦人公論」の記者であり「青鞜」に参加している咲は言った。 女性達は耐えています、そして生きています、醜業などと呼ばれるような仕事に身を任せている女性は、日本の親兄弟のために耐えているのです。
孫一は車窓の汚れた点に的を絞り、頭の中で銃を撃つ。 自分に出来ることは銃を撃つことだ。 いかなる条件の下においても弾の当る点に集中し、的を外さない。 紀州鉄砲集団「雑賀衆」の血が孫一の身体には流れている。
山本達が帰ってきた。 真っ先に孫一の席から金貨の入った鞄を取り上げて、ありがとよと言った。 美代子が席に着き、車掌の「オール・アボード」と言う声が上がり再び汽車が動き始めた。
土地勘が無い旅先に於いては自分がどこにいるのか分かりにくい。 汽車の走る先に目的地があるからと言う軽い認識から、座席に身をもたせて到着の時を待っているだけだ。 旅人達は、目新しく変わる周囲の景色に注意を惹かれていたが直ぐに飽きてうつらうつらと浅い眠りに身を任せた。
やがて、山に隠れていた朝日が車窓より差し込んだ。 皆が一斉に窓のブラインドを下ろして眩しそうに車窓の外に目をやり風景を確認した。 旅人達は寡黙だ。
隣席の美代子も目を閉じている。 孫一は、日課としている仮想の射撃練習をする。 小さな的に焦点をあわせ右のポケットに入れている銃を握る。 軽く引き金に手を当て、仮想の引金を引いた。
「そろそろかしら・・・」美代子の声がした。 彼女も朝日の眩しさに目を覚ましたに違いない。 孫一はゆっくりと美代子に目を向けた。
「そろそろ?」
「乗換えの町」
「乗換えますのかいな」
「だって、辺鄙(へんぴ)な炭鉱の町に行くのよ」
「炭鉱の町でっか・・・」孫一は日本で何度も行った事のある三池炭鉱を思い出した。
鉱山から出てくる石炭で黒く汚れた男達の姿が脳裏によみがえってくる。 鉱山会社との商売は上手く行っていた。 孫一の働いていたアメリカ人の貿易商は神戸、博多、横浜と支店を構えていて手広くアメリカの商品を輸入販売していたので鉱山会社とも取引を持った。 孫一もアメリカ人のボス(社長)や技術者に同行し石炭の香りが漂う炭鉱の町に足を運んだものである。
汽車が汽笛をあげた。 次に停車する駅が近いのであろう。 しかし、町並は未だ見えない。 灰色の岩肌が車窓の外を覆っていた。
「次で、降りる用意じゃ」山本の舎弟が声をかけて回った。
やはり乗換ですな。 こんな場所に町があるんでっしゃろかいなと、孫一が美代子に語りかけた時、目先の車窓を覆っていた岩肌がすっと途絶えて右斜め向こうに盆地が見えた。 町並が光っている。 ああ、ありました。 あれですやろな。 なんて町ですやろ。
「多分ウエルズって町。 私、上留守と書いてウエルズと覚えているもの」
「ああ、それはええ考えですがな・・・上が留守」
汽車は当たり前のように止まった。 ウエルズと言う駅のようだ。
辺りはだだっ広い平地だ。 そこに張り付いたように小さな町がある。 汽車は幾十にも走っている線路の一つに止まり、周囲の広さとは不釣合いに見える小さな木造の駅が車窓の向こうにあった。 ウエルズで降りる旅行者は客車から線路上に降り立った。 汽車の吐き出す石炭の煙が風邪になびいて鼻先をかすめて行く。 線路を横切って階段から駅のプラット・ホームに上がり駅の裏手の町に出た。
幅の広い道路の反対側にホテルと書いた二階建ての建物や様々な店先が連なっている。 所々の店の前には自動車が止まっていた。
未だ二時間ほどありまっせ。 汽車の時間を見に行った山本の舎弟が懐中時計を取り出して言った。
「豊田に電話したか?」豊田とはマッギル精錬所の人夫周旋人で監督の豊田清太郎のことである。
「へい。 時間を言っときました」
「人数は?」
「大丈夫でっさ」
よし、飯を食うかと山本は東京倶楽部の一行を連れて土の道路を横切り始めた。 彼の足はホテルから数件横にある中国語で書かれた看板の店に向かった。 平井を除いたほかの者達は慣れているのか自然にその方向に歩いている。
「中国人の店.・・・・・・」 レストランのようである。 赤く塗られた板に金文字の漢字で「華園酒」と書いてある。 中国人の店であると強く印象つけられるが当時におけるアメリカ人の中国人や日本人に対する人種差別を考えると危険ではなかろうか。
ドアを開けるとドアに掛けられている鈴が鳴った。 未だ昼食には早いせいか中には一組の客だけしかいない。
「さて、飯だ」山本がテーブルに座ると皆に声を掛けた。 彼は元相撲の力士だったらしい。 あまり大きくも無いがガッチリとした体形で、支那(中国)大陸にも暮らしたことがあり中国語が話せた。 中国人博徒組織と日本人博徒組織の争いに度胸のあるところを見せ、日本人の博徒の間では大親分と呼ばれていた。 東京倶楽部のボス(親分)である西村は山本に賭場を任せている。
食事を終えて駅に戻るとホームには小型の蒸気機関車が停まっていた。 機関車には三両の客車が連なっている。 エリーまでは数時間の旅だという。 孫一は座席に身を任せてエリーと言う最終の目的地を思った。 そこに賭場を開き、マッギルという銅の精錬所の町やルース銅山で働く日本人労働者から金を巻き上げるのである。
マッギルには豊田静太郎という人夫周旋業者のボス(監督、仕事の世話)がいて、今回の賭博に協力するらしい。 当時のアメリカには二十人以上の人夫周旋業者がいて各地の鉄道、鉱山、農園に労働者を斡旋していた。
ボスの中には日本からの出稼ぎ労働者が語学やアメリカの法律に弱い為、手数料や給料のピンはねを行い莫大な利益を得た者もいた。 さらに労働者が財を得て日本に引き上げるのを抑制するために賭博場を開いたり売春婦を斡旋したりして其の蓄えを減らさせ、労働から離れられないように仕向けた。 日本人の出稼人夫達は、日頃過酷な労働を強いられているにもかかわらず質素な食事で勤勉に働いた。 彼達は蓄えを夢にしていたのであるが夢は軽く遊ぼうとして手を出す賭博に砕けることが多かった。 賭博人たちは金貨を賭博場の博打台の上に積上げ、労働者の心を奪ったのである。
車窓の遠くに見える山々は既に軽く雪を被り静かだ。 線路の両側は荒野でセイジブラシ(ヨモギの一種)と呼ばれる雑草が地面を覆っている。 所々には砂と荒く砕けた石ころの区域があり逞しい繁殖で知られるセイジブラシさえも寄せ付けていない。 日本の穏やかな山々とは余りにも違う。 時々機関車は思い出したように汽笛を上げた。 旅人達は其のたびに窓の外に視線を向け場所を確認した。 ガラス窓に手を触れて見ると冷たい。 ロスアンゼルスと違い気温はかなり低いようだ。
三時間ほど経ったときの汽笛は、汽車が青々としたなだらかな峡谷に鼻先を入れるときだった。 久し振りに眺める木々の在る光景が周囲に現れた。
「もう直ぐじゃ」日本語が聞こえた。 それにあちこちから英語でエリーと言う言葉が聞こえてきた。
一等車両の方には銅や鉱山関係のビジネスマンが乗車している。 二等には労働者や家族達がいた。 少し勾配になっている丘と山の間の線路を汽車が力強く走る。 斜め向こうに湖が見え始めた。 荒野の中で比較的水に恵まれた町がエリーだと云う。
汽車は町外れでもう一度汽笛を上げ、スピードを落とした。 エリーは結構大きな町のようだ。 周囲の景色が突然と家々に変わった。 道を行く人たちが汽車に目を当てていて子供が手を振っている。 人々の日常の生活が見え始めた。
汽車は汽笛を上げ駅の構内に入ってゆく。 二階建てのモダンな駅の建物が近付いて来る。 プラット・ホームは無く、板張りの床が線路の近くまで地面の上に張られていた。 気温は低く肌寒い。
駅には山本の舎弟がウエルズから電話連絡を入れていたので、マッギル精錬所のキャンプ・ボスである豊田と妻のカメが出迎えた。
「遠いとこ、ごくろうさんでしたなあ」豊田が一行をねぎらった。
「豊田ァさん。 色々たのんますがァ」と山本はゆっくりとした口調で言い、オイと舎弟に言った。 ヘイと舎弟が袋から包みを取り出し、社長からで、と豊田に渡した。
豊田は手にして、ああ、味噌とイリコか、東京倶楽部の西村さんと電話で話したときになんか欲しいものはないかと言われて、ついつい甘えてしまいましたわいと包みを嬉しそうに受け取り妻のカメに手渡した。 カメが深くお辞儀をした。
東京倶楽部の一行は、豊田の用意したトラックと乗用車に分乗してエリーの街外れに借りている賭博場となる建物に向かった。
建物は使われていない倉庫だったが結構掃除が行き届いていた。 山本の親分さんがいらっしゃるでェ、と豊田が言葉でつくろった。
豊田が配下のものに石炭のストーブを焚かせていたので室内は暖かい。 ストーブが無いとォ寒くて寝れしませんがと彼は話した。
近くには線路があり貨車が一台引き込まれていた。 娼婦達の荷物を担いで孫一は貨車に入った。 小さなストーブが燃えている。 線路工夫たちの宿舎用に改造されていた貨車で、中は数室に区切られていた。 孫一は娼婦達に付き添って賭博場では酒を売ることになっている。
娼婦達は酒を売りながら貨車の中で身を売るらしい。 美代子によると、娼婦達が自ら進んで荒野の賭博場に出向くのは、ここでの売春が金になるからだと言う。 稼ぎの半分が自分達のものになるから三日で三十人以上の相手をする娼婦もいた。 しかし、稼いだ金はロス・アンゼルスに帰ると“ヒモ”に巻き上げられた。
その夜から,賭博は始められた。 夕刻になると数人のグループ単位で日本人労働者達が現れ始めた。 皆こざっぱりとした服装で来た。 最初は静かに酒とか賭博を行っていた労働者達も,酒の酔いが回ってくると声を高めて賭博での勝負けを呪文のように唱えた。
一部の労働者は賭博にも酒にも手を出さず娼婦を抱いては再び娼婦の元に戻り、日頃満たされない性の欲求を満足させている。
孫一は荒野に生きる人間の不思議な本能の営みを感じた。 酒は飛ぶように売れた。 過酷な労働の憂さを酒と女と博打で晴らすかのように、労働者達は持金をつぎ込んで行く。 山本は入ってくる金を目の前にして満足気だ。 このまま行くと何事も無く無事に旅行が終わりそうである。 孫一は酒場にしているキッチンでゴム袋から瓶に酒を注ぎだしていた。 その時、パンと音が賭博場の方から聞こえた。 ピストルの音だ。 続いてパンパンと音がした。 辺りが騒然となった。
孫一は本能的にポケットの中のに手をいれてピストルを握っていた。 美代子に問題が無ければピストルなどは使いたくない。 美代子は客を取っているようで酒場にはいない。 孫一は足早に貨車の方に移動すると、中に入った。 むっとする性の匂いと石炭の燃える匂いが鼻をつく。 男が一人顔を見せると慌てて外に出て行った。 しばらくして美代子が出てきた。 孫一を見ると少し目をそむけ、近くのいすに座った。
「賭博場で物騒なことがありまんのや。 ここから出ェへんほうがよろしいでェ」
美代子が大儀そうに顔を上げて孫一を見た。 なぜ? と言った。
「なぜって、そらァ、危ないからですわ」
「私、別に……」小さく答えた美代子の言葉で孫一はすべてが読めた。 汽車の中での美代子とはうって変わって自暴自棄の感である。 水野は、なぜ美代子に売春をさせているのであろう。 彼は東京倶楽部でも兄貴分なので金銭にはさほど困っていないはずだ。
「水野ハンが、心配されてましたでっせ」思い切って水野の名前を出した。
「水野が?」
「はいな。 良い人でっせ」
その時、他の娼婦達が貨車に駆け込んできた。 危ないので逃げてきたようだ。 孫一は入口の戸を閉めた。 確かに、貨車の中の方が安全である。 娼婦達は貨車の奥の方に固まって身をこわばらせている。 美代子だけが入り口付近にいた。 誰かが貨物車のドアを叩いた。 孫さん、孫さんョと孫一を呼ぶ山本の舎弟の声だ。 なんですやろ? 近くのドアにかかっているカーテンを開けて声を掛けた。
ああ、やっぱりここか。 てェへんだ。 兄貴が危ねェんだ。 山本ハンですかいな? アンさん、あん人だったら、強いでっせ。
それが、よォ。 ピストルを突きつけられてやがって、何もできねェ。 誰にでっか? 工夫の野郎だ。 孫一は貨車のドアを開けた。
「このドア、閉めてくれまっ(か)。 鍵かけて、誰も入れんことでっせ」美代子に言った。 孫一が貨車から降りると、舎弟は「たのみますよ」と両手を合わせて孫一を拝むようにした。 わてに、何ができますやろな。 水野の兄貴がいざとなったら孫サンに頼め言うことでェ、へい。 と、舎弟は孫一に低姿勢だ。 兎に角どういう状況なのか孫一は舎弟と賭博場の方に向かった。
近くのドアから賭博場のほうを除くと、二人の工夫らしい男と山本が見える。 他は逃げたようだ。 山本は銃を付きつられていた。 一人の工夫がロープで山本を縛り始めた。 賭博台の上には山積みにされた金貨が光っている。 工夫達は計画をして犯行に及んだに違いない。
「ポリスは呼びましたんか?」
ポリスなんか、呼べネェよ。 やべぇじゃネェか。 それに、豊田の兄さんに迷惑をかけちゃあならねえし……。
孫一は、取り敢えず東京倶楽部で職に有りついている。 彼は、銃身の長いピストルを鞄から取り出して来た。 相手に怪我をさせないように相手の持つ銃を撃つ事だが問題は二人とも銃を持っているか、それとも一人だけかだ。 少し間違うと,怪我人が出るだろうし、それに犯人達は逃げる準備をしているようで、時間が無い。 彼は銃身を入れる破れ目を探すために外に出た。 辺りは既に薄暗くなっており夜の冷気が彼の身を包んだ。 吐き出す息が白く濁る。 孫一は手とピストルを懐に入れて温めた。
音を立てないように裏口の方にまわった。 拳銃を撃ち落としたとしても、相手が再び拾わないようにすばやく誰かが銃を奪うか、それとも銃を使用不能にすることが必要だ。 窓にはカーテンがかかっていて中が見えない。 これと言った破れ目も無かった。 孫一は再び豊田の舎弟がいる場所に戻った。
「どうだい?」舎弟が聞いた。
「これと言った場所がありませんな……」
「……」
孫一は再びカーテンの隙間のある窓から中を見た。 山本を縛り終えた工夫が台の上の金貨を袋に入れ始めた。 どうやら銃を持っているのは一人だけのようだ。 もしかすると銃を持つ男が金貨を入れるのを手伝うために銃を置くかもしれない。 孫一は銃のレバーを引き、呼吸を整えた。 置いた瞬間に銃を打ち砕く。
そして、やはり工夫は金貨を袋に入れるために銃を台の上に置いた、その瞬間、孫一は入口から銃を撃った。 弾けた銃の一部が金貨当たり、金貨が跳ねとんだ。 工夫達は腰を抜かしたように床にへたばった。
舎弟達がすばやく飛び込んで工夫達を取押さえた。 山本と盗みを働こうとした工夫達の立場は逆転した。 しばらくすると、工夫達を監督する立場である豊田が事態を聞きつけて駆け込んできた。
大丈夫ですかと言う豊田の問いかけに山本はヤクザらしい態度で示し、とにかくアンさんに預けまッせと工夫二人を顎で示した。
東京倶楽部の一行はマッギルの営業を切り上げて他の州に移る事にした。
警察沙汰になったらマッギル精錬所のキャンプ・ボスである豊田に迷惑がかかると思われたからである。 豊田が収益の取分を取り下げたので、その一部が孫一に渡された。
「あんたのおかげで助かったぜ。 ありがとよ」と山本は気前良く金貨100枚を孫一に手渡した。 それにしても、水野があんたの射撃の腕は並じゃネエと言ってたがテェしたもんだ。
孫一は上着のポケットに金貨を入れて貨車に戻った。 事件は解決されたと言うことで娼婦達は貨車から出て行ったが孫一は美代子を呼び止めて、これ……と80枚の金貨を美代子に手渡した。
「まあ?」美代子が驚いて孫一を見返した。
「もらいまいしたんや。 盗んだのじゃありまへん。 山本ハンに仕事のお礼にともらったんでっせ」
「じゃ、どうして私に?」
「お礼ですわ」
「お礼?」
「はい、お握りをもらいましたよって」
「おにぎりならニッケル(五セント)で買えますもの」
「水野さんにもお世話になってまッ。 それに、アンさん、わては金儲けにアメリカに居るんじゃありませんよって。 結構、これで楽しんでます……」と孫一は銃の入っているポケットをポンポンと叩いて美代子に見せた。 雑貨衆の末裔である孫一には金よりも射撃の腕の方が重要である。
「でも、こんなに……」美代子は金貨を前にして言葉を詰まらせた。 80ドルもあれば、もう客を取らなくても良いのだが東京倶楽部の掟もあり、旅を続ける以上拒むわけには行かない。
「いずれ役に立ちまっせ」孫一は美代子の肩を叩き貨車から外に出た。 冷気で建物や貨車の窓が曇っている。 暗い場所から星の輝きが見えた。
雑貨孫一、マギル編、了
03・30・08
東京倶楽部 三崎伸太郎 @ss55
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