他人の家

1103教室最後尾左端

「他人の家」

「あ」


 扉を開けて玄関に入るなり、彼女は小さく声を上げた。

 

「どうしたの?」

「この家、君のにおいがする」

「え、どこかくさい? ちゃんと掃除はしたんだけど……」


 昨日はかなり念入りに掃除をした。地面を拭いて、下駄箱に入っている靴が臭わないように脱臭剤をまいておいた。いつも出しっぱなしにしていたレインコートや傘のたぐいもきちんと乾かして棚にしまっておいた。それでも何か気づかない落ち度があっただろうか。


 僕の不安が顔にでたのだろう。彼女は微笑みながら首を横に振った。


「いやそういうんじゃなくて……なんか他人の家ってその人のにおいしない?」

「そうかな?」

「においっていうか、なんていえばいいんだろ。オーラ? 雰囲気? みたいな」

「……よくわからないな」

「まあ、君が住んでる家なんだなーって実感できるにおいだよ。住んでる人は気づかない、その人の生活が家には染みついている……みたいな」


 彼女は笑って、「私、このにおい好きだよ」と付け足した。


「そっか。でも、そのにおいも変わるかもな」

「ん?」

「だって住む人が増えるじゃないか」

「……そうだね。いいにおいになるといいな」


 ふわり、と彼女が放った言葉はそれこそいいにおいがして、僕の家の空気に彼女の存在が混ざっていくような気がした。そうやって少しずつこの家のにおいは変化していくのだろう。


 もしかすると、僕らが「家族」になる瞬間は、指輪を渡すときでも、婚姻届けを出すときでもなくて、彼女がこの家のにおいに気づかなくなったときなのかもしれない。


「靴、脱いであがってよ」

「うん。おじゃまします」

「いや、これからここは君の家だから」

「そっか……じゃあ、ただいま」


 ちょっと照れくさそうに彼女は言った。

 

 部屋に入るまでの五メートルほどの廊下を歩きながら、僕は自分が言った言葉を振り返りながら若干後悔した。


 さっきのセリフは、さすがにクサかったかもしれない。



 〇



 公園のベンチにすわって、煙草に火をつける。煙草の先から漂う白い煙が空気と混ざっていくのを眺める。煙は上にのぼるほどにその色を薄めていき、いつの間にか跡形もなく消えていった。


 どうしてこんなところに来てしまったのだろう。あの家を手放し、彼女と別れてからもう五年も経っている。今更、昔住んでいた家に行ったところで何も変わらないことは頭では分かっていた。


 なのに、営業先から直帰する途中、かつての最寄り駅が近づくとなぜか胸騒ぎがして、思わず電車から降りてしまった。五年前からほとんど変わらないホームに立つと、懐かしさが薄い膜のように僕の脳を包んだ。


 心地いいような、でも同時に死にたくなるようなノスタルジーに襲われながら、僕の足は勝手にホームを降り、改札を出ていた。誤作動した帰巣本能が、僕の足をほとんど自動的にかつて住んでいた家に運んでいく。頭と身体の連動が上手くいかないことに混乱しながら、僕は無抵抗に足の動きに従った。


 そして、ここを曲がればかつての我が家が見える、という曲がり角にたどり着いた瞬間、足が止まった。足が止まると、先ほどまで一種のトランス状態に陥っていた僕の頭の中に、急に言葉があふれた。


 何をしているんだ僕は。早く駅に戻らなければ。この家に用なんかない。せっかくここまで来たのだから一目見るのもいいんじゃないか。僕の家を買ったあの男がどんな風に僕の家を使っているか興味がある。行ってどうなる。かつての生活が戻ってくるわけじゃない。空しくなるだけだ。それに、僕の家? 違うな。あれは既に僕の家じゃない。僕はあの家を借金の返済のために売り払った。今、あの家と家財道具一式の持ち主は、あの時金を出したあの男だ。僕のものであるはずがない。だけどそこにある思い出まで売り渡した覚えはない。物体としての、空間としての家はあの時売ったが、あの家で過ごした日々まで売り渡した覚えはない。だから、あの家はまだ僕の家なんだ。だから……


「何を考えてるんだ僕は……」


 浮かんでは消える言葉の応酬に足が動かない。自分が何をしたいのか、さっぱり分からない。欲望と理性がちょうど同じだけの力で引っ張り合っていて何をすればいいか途方に暮れてしまった。

 不自然な場所で立ち止まっている僕を、みんなが不審げに一瞥して追い抜いていく。このままではいけない。とにかくどこかで落ちついて、考えをまとめてから動こう。そう結論を出して、僕は近くにある公園に足を向けた。



 公園で煙をはきながら、僕は何となく今までのことを思い出していた。彼女との結婚のこと、独立のこと、事業の失敗のこと、多額の借金のこと、家を売ったこと、離婚のこと。彼女と別れたのは、僕が彼女を養うだけの力がなくなったことが原因だったが、僕のせいでどんどんやつれていく彼女をもう見ていられなかったという身勝手な理由もあったように思う。彼女は最後まで僕と一緒にいてくれようとしたが、最終的には離婚届に判を押した。


 家を売るとき、彼女は一緒にいた。競売にかけられた我が家を買ったのは、やせ細った、猫背の男だった。目がぎょろぎょろとせわしなく動いていたことが印象的だった。男は相場よりもはるかに高い金額を提示し、家財道具一式もそのまま買い取った。


「あこがれだったんですよ。家族の温かみがあるような家が」


 契約の時、男が不自然に笑いながら、そんなことを言っていたことを覚えている。僕と彼女が作った家の温かさを男に横取りされるような気がして、心臓をかきむしられるような思いをしたが、そもそも売りに出したのは僕らの方だ。僕は愛想笑いを返すしかなかった。隣に座っていた彼女は、ずっとうつむいていた。


 ふと、視線を感じて顔を上げると、小さな子供を連れている母親が、軽蔑と警戒をない交ぜにしたような冷たい目でこちらを見ている。目を合わさないように目線を外すと、「園内禁煙」の文字が見えた。苦笑いしながら火のついた煙草を携帯灰皿に押し付けて消した。


 あの家に住んでいたころは彼女とよくこの公園に来たけれど、隣に彼女がいる時は煙草を吸うことはなかった。というより、彼女と一緒なら煙草なんていらなかった。なんだかいたたまれなくなって、僕はベンチから立ち上がり、公園を去った。


 考えがまとまらないまま、足の向くままに歩いていると、あの男を見つけた。僕らの家を買った男だ。がりがりに痩せていて、猫背。目が妙に大きくてせわしなくぎょろぎょろと動いている。何かに怯えるように早足で歩いている。僕は何となく彼に見つかりたくなくて身を隠した。男は僕に気づくことなく、僕の家とは反対方向に歩いていった。


 その様子を見て、僕にとある邪な感情が浮かんだ。確かあの男は独身だったはずだ。あの様子ではまだ結婚なんてしていないだろう。



 つまり、あの家には今誰もいない。



 その事実に気が付いた瞬間から、動悸が激しくなってきた。僕は何を考えているのだろう。そんなことをしても意味がないことは分かっている。なのに、どうして僕の足はあの家に向かって進んでいるのだろう。分からない。なのに、僕はいつのまにかほとんど走るような速さで進んでいた。


 ちょっと、眺めるだけ。近くで見るだけ。アルバムを見て懐かしむようなものだ。そうやって誰にしているか分からない言い訳を繰り返す。


 そんなことをしているうちに、僕は家の前までたどり着いていた。


 僕らがかつて毎日通っていた、黒い扉の前に立つとめまいがするようなノスタルジーが襲ってきた。明らかに走ったこととは別の息切れがする。肺が苦しい。脳に酸素が上手く送れていない。


 もう十分だ。引き返そう。僕の理性が警鐘を鳴らす。にもかかわらず、僕の手は吸い込まれるように扉の取っ手をつかんでいた。少しだけ、確かめるように力を入れると扉に鍵がかかっていないことが分かった。



「……ただいま」



 混濁する頭の中で、かつての習慣が顔を出した。僕はほとんど無意識に、家の中に入ってしまった。



 玄関の内装は、僕らが住んでいた時からほとんど変わっていなかった。下駄箱の位置や郵便受けはもちろん、使っている小物類にも変化がなかった。彼女と選んだ絨毯も、像の形をしたドアベルも、趣味の悪いと彼女に不評だったスリッパも、そのままだった。にもかかわらず、この玄関は僕に対してひどくよそよそしかった。人間にそっくりなロボットを見ているような、言葉にできない違和感がある。



「なんか他人の家ってその人のにおいしない?」



 彼女の言葉がフラッシュバックする。確か、初めて彼女がこの家に来た時言っていたセリフだ。その言葉の意味がようやく分かった。



「……知らないにおいがする」



 僕らが住んでいたときにはなかったにおいだ。僕と彼女が染みつけ、僕ら自身はもう気づくことができなくなっていたにおいとは明らかに別のにおいだった。それは、もうこの家が僕らの家ではないという、はっきりとした証拠だった。


 もしかしたら、かつての幸せが残っているかもしれない。僕と彼女が過ごした日々が変わらずそこにあるかもしれない。持ち主が変わっても、この家は僕らのことを覚えていてくれるかもしれない。そんな無意識の期待は粉々になった。


 思い出も幸せも、残す努力が必要だったなんて、そんな単純なこと、僕はどうして気づかなかったのだろう。


 扉から五メートル。置いてあるものは何一つ変わっていない。なのに、全部がもう他人のものだった。


 僕は、もうそれ以上先に進むことはできなかった。踵を返し、外に出た。そして扉が閉まる瞬間、こみ上げる嘔吐感をこらえながら、一言だけつぶやいた。



「……おじゃましました」

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