8-5
遠くの空に、光の明滅が見える。
夕暮れ時。わたしはいつものようにバルコニーに立ち、それを眺める。
チカ、チカ。
一拍置いて、
チカ、チカ、チカ。
何らかの意図が込められたような瞬き方だ。そこには誰かの意思が感じられる。わたしは手摺りを指で叩き、そのリズムを身体に覚えさせる。
「コ、コ、ニ、イ、ル、ゾ」わたしの物ではない声が言う。男性の声だ。「〈ここにいるぞ〉――。書物の通りなら、こういうメッセージになります」
わたしは隣に立つ彼を見上げ、頷く。
彼は続ける。
「この、光の瞬きを利用した伝達手段は古くから使われてきました。普段の会話で使うような言語とは違い、同じ約束事の元でメッセージを送るから、別々の集団同士でも意思の疎通が可能です」
わたしは訊ねる。
「では、わたしたちが解読したままの言葉を、あちらからも発信したのですか?」
「ええ」彼は頷く。「ほぼ、間違いなく」
「だったら、こちらからも言葉を送ってみてはどうでしょうか」
彼はしかし、わたしを見つめたまま何も言わない。
わたしは不用意な発言をしたと悟る。管理委員会の耳に入れば、処置の対象となる発言だ。
だが、彼の顔には次第に笑みが広がっていく。彼はわたしの肩を掴む。あまりに突然の接触に、わたしは竦む。彼は謝罪を口にしながらも、言う。
「やりましょう、是非。そんな行動、今まで思いつきもしなかった。確かに、考えてみれば可能な筈だ。向こうから届くのなら、こちらからだって」
「わたしも、今初めて思いました」わたしは言う。「一人だったら多分、口にはしてません」
「けれど、あなたの中にはずっとあった」
「そうでしょうか」
「そうじゃなかったら、言葉は出ません」
そうなのかもしれない。わたしは頷く。そして訊く。
「方法は? あそこまで光を届けるには、どうすれば良いのですか?」
彼は考える。しばし考え込んでから、言う。
「大きな鏡に日光を反射させましょう。そうですね――姿見ぐらいの大きさがあれば、充分かと思います」
姿見なら、どの部屋にも設置されている。準備するのは容易い。電灯を外し、姿見をロープで吊してみる。これならわたし一人でも、姿見の角度を自在に変えることが出来る。後は陽の当たる時間を見計らうだけだ。
「明日の、夜明けのタイミングで実行してみましょう。といって、僕はここには来られないのですが」
「大丈夫です。これならわたし一人でも」わたしは姿見を操作しながら言う。「それで、どんな言葉を送りましょう?」
「同じ言葉を」と、彼は言う。「同じ言葉を送りましょう。確実に、相手に伝わるように」
「コ、コ、ニ、イ、ル、ゾ」わたしは一音ずつ区切って言う。
「そう、〈ここにいるぞ〉。トン、トン、ツー、トン、トン、トン」
「トン、トン」わたしも繰り返す。「ツー、トン、トン、トン」
「初めのうちは難しいかもしれませんが、ゆっくりとやれば、きっと相手にも伝わる筈です」
「返事は来るでしょうか」
「直接訪ねてくるかもしれませんよ」
彼は笑う。
わたしも笑う。
わたしたちは目を覚ます。
起きたところで、するべきことは何もない。ただ漫然と、塔の中を巡るぐらいしか。
退屈や苦痛は感じない。初めこそ、〈鼓動〉を懐かしく思うことはあったが、今は何も聞こえないことに慣れている。行動や思考を縛り付ける音がない快適さを知りつつもある。
〈鼓動〉?
そういうものがあったのだ、あそこには。
ここにも昔はあった筈だけど。
覚えていない。
そう。いつかは忘れてしまうのかもしれない。
色々なことを忘れていく。
大事なことも、そうでないことも。
そうしていつの間にか〈なかったこと〉にしてしまう。
わたしたちは吹き抜けから屋上を目指し、空へ出る。
ボオオオオ、と塔を鳴らす。ここに塔があることを、空に向けて示すように。返事は未だ返ってきたことはない。
だけど、とわたしたちは思う。本当に誰かに気付いてほしいのだろうか?
わたしたちにはわからない。
答えはあったのだろう。だが、遠い昔に忘れ去られてしまったようだ。
そうしていつの間にか〈なかったこと〉にされてしまう。
見渡す限り、わたしたちの塔の周囲には雲と霧しか見当たらない。後は、空を駆ける太陽と月、星々だけ。初めから世界には、これだけしかなかったと言われても不思議には思わない。
保管庫の食糧は、もう必要ない。
図書室の書物は、手に取ることが出来ない。
霧の中へは、相変わらず足を踏み入れられない。
だが、それで良いのだ。わたしたちは、この暮らしに満足している。この暮らしに、幸福を感じている。
そろそろ時間だ。
いつの間にか、空が暮れかかっている。時間の感覚が、こうなってからはまるで違う。
姿見の部屋へ向かう。
部屋の中心には、変わらず姿見が吊されたままだ。
バルコニーからは橙色の夕陽が射し込んでいる。直視できないほどの、眩い光。それを鏡面で捉え、反射させる。
リズムを取りながら、姿見の角度を変える。
トン、トン。
ツー。
トン、トン、トン。
コ、コ、ニ、イ、ル、ゾ。
誰に向けるでもないメッセージ。
或いは、メッセージの発信先は外ではなく、わたしたち自身なのかもしれない。
わたしたちはここにいる。
ここにいて、考えと言葉を持っている。
確かにここに、存在している。
〈了〉
ワールズエンド・アパートメント 佐藤ムニエル @ts0821
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