8-4

 一睡もしないまま、朝を迎える。

 少年は戻ってこない。わたしは部屋を出る。保管庫へ行き、食糧と、いくつかの医療道具を鞄に詰める。

 彼の行き先はわからない。そもそも、帰って来なかったのが昨日からなのかさえわからない。わたしが翻訳作業に没頭している間に彼は姿を消してしまったのかもしれない。わたしはそれに気付かぬまま、無益な作業に没頭し続けていたのかもしれない。

 漠然とした予感を抱えたまま、下の階を目指す。開けられそうな扉は全て開け、覗き込める部屋は全て覗く。しかし、彼は見当たらない。

 名前を呼ぼうとして、声に詰まる。

 わたしは彼の名前を知らない。

 わたしはいつだって、大切な人の名前を知らない。

 夜が来る。姿見の部屋へは戻らず、扉の開いていた部屋で夜を明かすことにする。

 ランプを灯し、壁に寄り掛かる。膝を抱え、揺らめく炎を見つめる。

 ボオオオオ、と塔が鳴く。

 少年もどこかでこの音を聞いているのだろうか、とふと思う。食糧は持っているだろうか。怪我はしていないだろうか。

 もう遅い、と別のわたしが言う。そんな心配しても、もう手遅れだ。今更贖罪にもならない。

 。ただそれだけが、事実としてあるだけだ。

 わたしは膝に顔を埋め、目を閉じる。

 眠ろうと意識する。

 一方で、眠ってはいけないという意識もある。眠る資格などわたしにはない、と。

 気付けばわたしは眠っている。


 姿見の部屋に戻らないまま三日が過ぎる。全ての階層を見て回り、とうとう〈白い庭園〉に辿り着く。

 これまで、どこにも少年の姿はなかった。床や天井が崩落したり、手摺りが壊れて彼が霧に転落した形跡もない。ただ忽然と、彼の姿だけが消えた。そうとしか思えぬほど、塔の中に異変はなかった。

 僅かな希望を胸に、姿見の部屋に戻る。誰もいない。姿見が揺れているだけだ。

 ボオオオオ、と塔が鳴く。

 風が吹く。冷たい風。この塔に来て初めて、寒さに身が竦む。

 塔は、鳴き続ける。

 ボオオオオ。

 ボオオオオ。

 パキッ、と何かの割れる音がする。入口の方だ。

 遠ざかっていく足音。少なくとも、わたしにはそう聞こえる。入口へ向かう。

 廊下へ顔を出す。薄暗がりに、小さな背中が消えていく。わたしにはそう見える。

 追い掛ける。廊下を走り、階段を駆け上る。

 息が上がる。脚に力が入らなくなる。それでもわたしは階段を上り続ける。姿見の部屋を覗いていた〈何か〉が、ずっと先を上っているから。

 やがて最上階に辿り着く。

 階段室の扉は壊れたままだ。それを踏み越え、屋上へと出る。

 空は薄曇り。冷たい風が、方々から吹き付ける。雨のにおいがする。

 所々ヒビ割れたタイルの上を歩く。行き先は、一つしかない。

 どうしてこの場所を探さなかったのか、と自問する。少年がここにいる可能性は充分にあった。むしろ、ここにいる可能性が一番高かったのではないか。

 明確な回答は出来ない。わたしにはわからない。自分のことが、わたしには随分前からわからない。

 気球の着陸した場所に辿り着く。

 萎んだ球皮。拉げた籠。わたしたちが乗ってきた時のままだ。誰かが手を加えた形跡はない。少年の姿も、どこにもない。

 風が吹く。立っていることが出来ないほどの、強い風。

 わたしは咄嗟に顔を覆う。

 風が通り抜けていくのを待ってから、腕を下ろす。

 先ほどまでとは違う景色。

 気球がない。

 見間違いなどではない。ついさっきまでそこにあった気球がなくなっている。

 探すまでもない。風に攫われたのだ、とすぐにわかる。力を失い横たわるだけだった布の塊が今まさに、屋上の縁から落下しようとしている。

 わたしには為す術がない。柵のむこうへ消えていくそれらを、見送ることしか出来ない。

 ボオオオオ。

 後ろの吹き抜けから、鳴き声が響く。

 顔に、何かが当たる。

 滴。

 雨粒だ、と認識するのと同時に、いくつもの滴が落ちてくる。

 雨はタイルを打ち、手摺りを打ち、わたしを打つ。

 わたしは打たれるまま、そこに立っている。身体が濡れることも、身体の熱が奪われることも厭わず、その場に立ち続ける。

 ボオオオオ。

 目を瞑る。塔の声に、耳を澄ませる。

 ボオオオオ。

 そうだ。

 それも悪くない。

 わたしは言う。

 誰に?

 塔に。

 ここにいる者たちに。

 自分に。

 わたしは雨に打たれ続ける。冷たい風に吹かれ続ける。

 形を失うまで、ずっと。

 いつまでも。

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