8-3
目が覚める。
ランプの灯は消えている。だが、室内は明るい。蒼白い月光が、バルコニーから射し込んでいるのだ。
身体を起こす。寒さはない。固く分厚い毛布のお陰だ。
バルコニーの向こうでは、まだ雷雲が瞬いている。嵐は未だ塔を打ち続けているようだ。
強い違和感に襲われる。
原因を見つけるため、周囲に視線を走らせる。蒼白く染まった壁、天井、鏡面。灯の消えたランプ。蓋の開いた空き缶。毛布に包まり寝息を立てる少年。月光を除けば、全て眠りに就く前と変わらない。
だが、一つずつ確かめていくことで気付いたことがある。
一切の音が聞こえない。
風が止んでいる、といった程度のことではない。わたしの周りから音が抜き取られ、代わりに無音を流し込まれたように、静けさが満ちている。無論、遠くの雷鳴も聞こえない。
自分の呼吸は、辛うじて聞こえる。向きを変えた拍子に爪先が石の欠片を蹴る。甲高く硬質な音が、誇張されたような大きさで部屋中に響き渡る。音がなくなってしまったわけではないらしい。
まただ、とわたしの中でわたしが呟く。また、この夢だ。
わたしはこの状況を〈夢〉として捉える。同じ状況が前にもあった。鉄の壁が叩かれるのを聞いた時だ。あの時も、壁を叩く音だけが聞こえていた。
ドン、ドン。
そう、こんな風に。
ドン、ドン、ドン。
今、聞こえているのと同じように。
ドン、ドン。
ドン、ドン、ドン。
わたしは振り返る。部屋と廊下を隔てる扉へ、目を凝らす。
あの時と決定的に違う点がある。
音の近さだ。
音は、わたしの数歩先にある扉の向こうから聞こえてくる。
ドン、ドン。
ドン、ドン、ドン。
叩き方は単調だ。だが、何らかの意思があるようにも思える。わたしは少年が眠っているのを確かめ、ランプの隣に置いたナイフをそっと掴み、後ろ手に持ちながら扉へ向かう。
ドン、ドン。
ドアノブに手を伸ばす。
ドン、ドン、ドン。
ノブを掴む。
ドン。
扉を開く。
目の前には、闇。
遅れて、吹き抜けに面した手摺りが浮かび上がってくる。
そこには誰も立っていない。誰かが立っていた形跡も、立ち去った気配もない。わたしはナイフを手にしたまま、廊下の両方を窺う。闇に消えゆく影もなければ、遠ざかっていく足音も聞こえない。
代わりに頭上で何かが揺れている。天井から垂れ下がった、電灯の覆いである。これが振り子の要領で、壁に当たって音を立てている。コン、コン、コン、と。
わたしは、無意識のうちに詰めていた息を吐く。音の原因がわかったと己を納得させ、寝床へ戻る。毛布を引き上げ、瞼を閉じる。
扉を叩く音は、もう二度と聞こえない。
わたしが欲する眠りも、やって来ない。
気付けば朝になっている。記憶は連続していない。断絶している箇所を、しかしわたしは認識できない。
ここでのわたしに、するべきことなどない。強いてあげるなら少年との生存に必要な物資の確保だが、保管庫に残された食糧は当面の食事が賄える量であるし、飲み水も雨を濾過する装置を発見した。少なくとも、今すぐに飢えて死ぬ可能性はなくなった。
そんなわたしとは反対に、少年は塔の探索を続ける。わたしは彼を危険から守るという名目で後をついていく。実際に役立ったことはない。
図書室と思しき書庫を見つける。だが、そこに詰まった書物はどれ一つとして読むことが出来ない。図版と数字を覗けば、全てわたしの知らない文字で記されているのだ。それらの書物を数冊抜き取り、持ち帰る。
翻訳を試みる。
図版を頼りに文字の対訳表を作る。書物一冊分が済んだら、文字で構成された単語の発音を確かめる。わたしが使っている言葉と共通したものを探す。〈ランプ〉〈クッキー〉〈ナイフ〉〈バルブ〉などは同じ発音だ。それを手掛かりに、対訳表の穴を埋める。埋まった分だけ、また単語の発音を確かめる。同じ発音の単語を拾い上げる。やがてそこに、法則性が見えてくる。
数日続けると、文章の半分程度は単語を理解できるようになる。これで書物の概略は掴める。
書庫へ行き、題名の判読可能な書物を抜き取り、同じことを繰り返す。
何冊も、同じことを繰り返す。
わたしは知らない言葉を習得していく。読める文字が、言葉が、日に日に増えていくのを感じる。
だが、ある地点を境に書物を持ち帰るのを止める。書架の前に立った時、次に読みたい書物がないことに気付く。正確には、次に書物を読みたいという気持ちが自分の中にないことに気付く。
書物は、どれだけ読み進めたところで過去の情報が増えるだけだ。それを記した人々はここにはおらず、これからわたしがどうするべきかも書かれていない。
彼らの言葉を使う者は、わたし以外にいないのだ。
そして、わたしの後ろには誰もいない。わたしが彼らの言葉を学んだところで、それを伝える〈誰か〉はいない。
彼らの言葉だけではない。
わたしが使っていた言葉だって、もう使える者は残っていないかもしれない。
そう考えると、急に書物を開くのが無意味に思えてきたのだ。わたしは書架に書物を戻し、姿見の部屋へ戻る。バルコニーへ出る。
翻訳に夢中になっていたこの数日の間に、嵐はどこかへ消えたようだ。
そこには何もない。真っ白な霧と青い空。他には何もない。
保管庫で見つけた双眼鏡を取ってきて、空の彼方を探す。やはり何も見当たらない。霧と雲。それ以外には何も。
時間の感覚が飛ぶ。わたしは長い間、バルコニーにいたのだと日の傾きによって知る。
夜が来る。
空のどこかに火が灯ることはない。空には月も、一欠片の星さえも見えない。
わたしは諦め、部屋へ入る。
少年の姿はない。通常なら、夕暮れ時には戻る筈だ。
風に揺れた姿見が向きを変え、わたしを映す。
女が一人、彼女は暗がりの中から虚ろな眼をこちらへ向けている。孤独を体現したようなその姿は、とても見るに堪えない。
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