8-2
姿見の部屋を拠点に定め、探索に出る。
第一の目的は、食糧と水の確保。それから居住可能な部屋と、物資の調達という目的が続く。望みは薄いが、生存者との接触も頭の隅に入れている。
残るように言ったが、少年も同行する。姿見の部屋に残ったからといって安全というわけでもない。恐らくこの塔には、全く安全という場所はないだろう。この塔に限らず、世界の何処にも、そんな場所はない。
霧がどこまで来ているのかを確かめる。階段を、下りられる所まで下りる。
鉄の壁に行く手を遮られることはない。階段はどこまでも続いていく。
だがやがて、足を止めざるを得なくなる。
階段の先が、真っ白な霧に沈んでいる。
辺りには、壁や天井のヒビ、コンクリートの割れ目など、至る所からシロクシナダが首を伸ばし、花弁を広げている。霧を、水の張った池に見立てれば、その光景はまるで〈白い庭園〉のようだ。
わたしは少年を促して引き返す。
軋みながら、扉が開く。
目の前に現れた廊下には崩壊した様子もない。わたしたちは廊下に出る。
〈白い庭園〉を最下層として、一階ずつ上がってきた。廊下が崩落したり、廊下に瓦礫が積まれていたりして進めない階ばかりだった。そもそも扉が歪み、開けられない階もあった。どうにか探索出来そうなこの階は、最下層から数えて十二階分上がった所にある。
廊下には点々と白い花が咲いている。階段の底に咲いていたのと同じ花だ。先ほどは無考えにシロクシナダと認識したが、考えてみれば霧の中でもないのにあの花が咲く筈がない。それにシロクシナダは、咲いてから枯れるまでの時間がそう長くはない。ここにあるのは別の花、或いは、シロクシナダが咲き続けられる何らかの特殊な要因が、ここにはあるということだ。
居室の扉を、一枚ずつ叩いて回るような真似はしない。ノックしたところで、中から扉を開けるような人物がいるとも思えない。そうした可能性を自動的に排除し得るほど、廊下には砂埃が足跡も付けられないまま積もっている。
ボオオオオオ、と身体の芯を揺さぶる低い音が響く。風が吹き抜けに侵入した時に、こうした音が鳴るらしい。
塔が鳴いているようだ。
自分の存在を報せるために。
広い空のどこかにいる、仲間に向けて。
わたしはその叫びに耳を澄ませる。
少年が服を引っ張る。
何かを見つけたらしい。わたしは、導かれるままついていく。
辿り着いたのは、廊下の突き当たりにある扉だ。これまで通り過ぎてきた扉には数字が振られていたが、この扉には文字のようなものが書かれている。わたしの知らない文字だ。画のようにも見える。その扉に、少年は体当たりを始める。彼は立ち尽くすわたしに、加勢するよう眼で促してくる。
何度目かの体当たりで、扉は開く。
扉の向こうには窓がない。真っ暗で、空気も長いあいだ閉じ込められていたのだと、においでわかる。
手近な木箱の上にランプが置かれていたので火を灯す。暗闇の中から、幾列もの棚が浮かび上がる。
棚には箱が並んでいる。
箱の中には物資が詰まっている。缶詰に燃料、毛布、防毒マスク。どれも埃を被ってはいるが、まだ使用することは可能なようだ。缶の表面に書かれた文字を読むことは、やはり出来ない。形から察するに、扉に書かれていたものと同種の文字だ。
ここにいた人々は恐らく、わたしとは違う言葉を話したのだろう。
書物で読んだことがある。かつて、人が地上で暮らしていた頃は、いくつかの集団に分かれ、その集団ごとに別々の言葉を使っていた。言葉が違えば思考方法も異なり、それが生活様式の差違にも繋がった。
やがて、そうした差違を認めない人間が現れた。自分たちの言葉を使うよう他の集団に強制し、それに従わない者は排除するようになった。
そうして地上に住んでいた人々は争いを始めた。
争いを繰り返した。
気付いた時には、地上は霧で覆われていた。
塔で生活するようになってから、人々は言葉を統一した。今ならわかる。塔を統べる者たちは、自分たちの話す以外の言葉は存在しないことにした。言葉は一種類しか存在しないと、その後に生まれてくる者たちにそう教えた。
自分たちの他に言葉を操る人間は存在しない、と。
ここにない言葉は存在しない、と。
人々は信じた。そうすることが楽で、安心出来るからだ。そうして長い時間を経るうちに、目の前に存在するものしかないのだと考えるようになった。ここにないものは、そもそも存在しないのだ、と。
あなたたちは、そう思考するようになった。
あなたたちは、その道を選んだのだ。
「あなたたち」
少年が振り向く。彼のそうした動きを見て、わたしは自分が声を発したのだと知る。
「今、わたしに何か言った?」
少年は首を振る。
「わたし今、何か言った?」
少年は頷く。
「わたし、誰かと話していた?」
少年は首を捻る。
ボオオオオオ、と背後で塔が鳴く。誰かに、何かを伝えるような音が響き渡る。
その〈誰か〉は、或いはわたしなのかもしれない。
塔がその存在を訴えかけているのは、わたしに対してなのかもしれない。
どうしてそう考えるのかはわからない。誰かにそう考えるよう仕向けられた気が、しないでもない。
ここには、わたしたち以外の、言葉を使う誰かがいるのかもしれない。
日が暮れると、遠くの稲光がよく見えるようになる。
姿見の部屋から雷の瞬きを眺める。嵐は停滞している。即ち、わたしたちの居た塔を覆い続けている。
わたしは目を瞑る。
風と雷が、鞭のように塔を打つ。外壁を砕く。
塔は揺れる。その度に、自身を構成するあらゆる部品を落としながら。
振るい落とされた部品は霧の中に消えていく。或いは、自ら進んで霧へ飛び込んでいく。
塔は徐々に終わっていく。
予感していたその時が、すぐ側まで迫っている。
雷雲に取り囲まれ、死にゆく塔を、わたしは眺める。
眺めることしか出来ない。
もう終わった場所に立って。
ただただ、眺めることしか。
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