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 綿を千切って散らしたような雲が見下ろせる。その下には、濃淡のない白が広がっている。雲はそこに、自身の影を映している。

 完全なまでの白は霧だ。隙間なく広がるそれは、わたしの眼からそこにある筈の地表を隠す。欠片すら見せてなるものかという確固たる意思が感じられるほど完全に。一つまみほどの余地もなく。

 雲の更に下を、小さな影がいくつか移動していく。V字を描いて飛ぶ鳥の群れだ。鴉とは違い、首と羽が長い。

 嵐はわたしたちの後方にある。雲が大きな渦を巻いた一画が、左後方に見える。渦に吸い寄せられつつある雲の中には、灰色で、時折雷鳴を轟かせているものもある。わたしは、塔の今を想像する。近づきつつある巨大な嵐に、あの塔には何が出来るだろう。

 吹き付ける強風は塔の内部までをも掻き乱し、鉄骨を曲げ、硝子を砕く。或いは、塔そのものが崩壊するかもしれない。崩れ、霧の中へ没していく塔。わたしは想像を止める。

 前方へ向き直る。

 霧の中から屹立している、黒い影が見える。

 塔だ。方角と距離からみて、あの光の明滅の出所として間違えなさそうである。

 バーナーのバルブを回し、火を弱めていく。その度合いは少年の合図に基づく。彼の指示は的確だ。少なくとも信頼に足る自信に満ちている。

 塔が着実に近付いてくる。気球は塔の周りを旋回する。

 高さは、わたしたちがやって来た塔よりいくらか低いだろうか。バルコニーがあり、中央部が吹き抜けになっている構造は同じだ。人の気配はない。わたしたちが居た塔も、空から見下ろせば同じように見えたのかもしれないが。

 塔の周りは晴れていて、気流も穏やかだ。籠が大きく傾くこともなく、屋上へ向けて降下することが出来る。気球は、見当を付けた通りの場所に着陸する。

 球皮が力尽きたように萎んでいく。布が所々破けていることに気付く。寒さか、或いは飛び立つ際に銃弾を受けたせいかもしれない。いずれにせよ、上空で裂けて墜落していても不思議ではなかったということは確かだ。

 少年が籠から出ていく。わたしも続いて屋上に下りる。

 気球は塔の内部からも充分に視認できた筈だ。だが、わたしたちを出迎えに、もしくは拘束しにやって来る人影はない。屋上には見渡す限り誰もいないし何もない。

 青い空を雲が流れていく。穏やかな風が、わたしたちを撫でる。

 茫漠たる印象を強めている原因の一つが音だと思い至る。ここには、風の音以外存在しない。わたしたちが居た塔のような〈鼓動〉がない。

 少年が歩き出す。わたしも続く。彼は、階段室と思しき建物に向かっていく。


 ドアノブが上手く回らない。

 扉は長いこと使われていないようで、拉げ、錆が浮いている。体重を掛けると金属が軋みを上げたので、蹴りを入れてみる。そう力を加えたつもりはなかったが、扉は内側へ向けて倒れる。

 開いた入口の向こうから、轟々と虚ろな音が響く。建物内部を風が吹き抜ける音らしい。

 行こうとする少年を制止する。まずはわたしが、危険がないかを確かめる。

 一歩踏み込むだけで、足音が何度も反響する。壁や天井が崩れることはなさそうだ。手摺りも、錆びてこそいるがしっかりしている。少年を手招きする。

 階段を下る。

 わたしたちの足音は何倍にも増幅される。それが余計に、辺りの静寂を際立たせる。

 わたしが見ていた光が、正確にどの階層から放たれたものかはわからない。だが、おおよその高さは少年が算出している。わたしは彼の導きに従って進む。

 ある階層で廊下に出る。廊下は、右手に吹き抜けがあり、左手には居室の扉が並んでいる。やはり、わたしたちが居た塔と似た印象を受ける。違うのは、あちらには〈生〉が感じられ、こちらにはないという点だ。

 廊下を進んでいく。四角い吹き抜けを囲う廊下の、どの一辺がわたしたちの塔の方を向いているのかわからない。わたしは既に方向感覚を失っている。しかし少年の頭の中には正確な見取り図が広がっているようで、その足取りには淀みがない。わたしは、小さな背中を見失わないようにするので手一杯になる。

 少年はある扉の前で足を止める。開いてみる。中を覗いて、すぐに隣へ行く。同じことを数回繰り返す。

 やがて彼は、扉を閉めずに立ち尽くす。

 わたしは彼に追い付き、部屋の中を覗く。目が眩む。

 外からの光が強く射し込み、部屋全体が白く発光しているようだ。わたしは眼を細めながら、少年と共に足を踏み入れる。

 靴の底で何かが割れる。足元には、壁や天井から剥落したと思しき石の欠片や硝子片、その他様々なものが散乱している。

 風が吹き込んでくる。窓には硝子が嵌まっていない。その向こうにはバルコニーの手摺りが見える。見慣れた光景のように錯覚する。

 視界の端で、何かが動く。

 人影。

 ハッとして振り向く。

 そこにはわたしが立っている。

 今、ここに立つわたしと、全く同じ姿で。

 風が吹く。

 彼女の姿は光に隠れる。そこでようやく、自分が鏡と向き合っていることを自覚する。

 天井から吊された、大きな姿見。

 誰がどんな意図で、こんな物を部屋の真ん中に吊したのかはわからない。自分の姿を確かめたいのなら、壁に立てて使えば良い。

 或いはこれを仕掛けた人物は、遠くに光を投げかけるためにこんな大掛かりなことをしたのかもしれない。だとしたら、その目論見は成功だ。光は遠く離れたわたしの所まで届いたし、それに導かれて遙々こんな遠くまで空を飛んでやって来た。ただ一つ、目論見通りにいかなかったことは、仕掛けの作成者が意図した以上の時間が掛かったことだ。

 わたしは姿見に手を伸ばす。長方形の鏡面が光を滑らせながらこちらを向く。再び、わたしの姿が現れる。鏡の中のわたしは、呆けた顔でこちらを見ている。

 少年がバルコニーに出ている。わたしも外へ出る。

 バルコニーの造りも、わたしたちが居た塔と変わらない。だが、こちらの方が位置が低いようだ。霧が、すぐ足元にある気がする。

 遠くに暗い、灰色の雲が見える。雷鳴が、風に乗って響いてくる。

 嵐だ。あの中に、わたしたちの居た塔があるのだろう。

 暗い雲が通り過ぎた時、塔はまだ残っているだろうか。

 それとも今まさに、なのだろうか。

 わたしは顔を伏せる。手摺りを離れ、部屋に入る。

 戸口に立ち、改めて室内を見渡す。

 姿見が吊されただけの部屋。

 壁にはヒビが走り、天井板は剥がれ落ちて床で砕けている。

 

 そんな言葉が相応しい光景だ。

 わたしたちには、帰る場所も術もない。わたしたちはこれから、ここで生きていかねばならない。

 ここが、わたしたちの居場所なのだ。

 ここにしか、わたしたちの居場所はないのだ。

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