7-6
扉を開けるなり、湿った強い風が吹き付ける。
黒い雲が、濃紺の月夜を意識できる速度で流れている。嵐が近付いているのだ。
屋上は暗い。庭園の園舎の明かりも消えている。唯一視界を照らすものは、雲の切れ間から覗く月光だけだ。息を詰めて何かを企てるには絶好の状況だが、こちらの視界も利きづらい。現にわたしには、気球が真っ暗な屋上のどこにあるのか見分けることは出来ない。
すると少年が、わたしの袖を引っ張る。
「気球の場所、わかるの?」
少年は何も言わない。だが、袖を引く力の強まるのが、首肯の役割を果たす。
少年に導かれるまま、わたしは暗い屋上へ踏み出す。
いくらか目が慣れてきたとはいえ、わたしにはほとんど何も見えない。だが、少年には進むべき道筋がはっきりと見えているようで、彼の足取りには迷いがない。わたしも躊躇する気持ちを捨てる。彼に行く先を委ねる。
少年は、ただ直進しているだけではない。月光に照らされないよう、雲の位置を逐一確認しながら歩みを進めている。遠回りしながらも着実に、かつ安全に、気球があると思しき位置に近付いていく。
やがて、地面に横たわる大きな影が、わたしにも視認出来るようになる。影は、大きな布で何かを覆っているようで、中心部分が僅かに盛り上がっている。
「気球はこの布の下だ」鴉が言う。
大きく厚い布は四隅を重しで留められている。わたしは長大な辺を駆け巡り、重しをずらしていく。
二つ目の重しをずらしたところで布は大きくはためき始める。三つ目をずらしたところで、最後の重しが堪えきれず風に攫われていく。布は、その大きさや重さからは信じられぬほど簡単に、夜空の闇に消えていく。
布の下から現れたのは、球体を萎ませたような別の布と、ゴンドラ大の籠である。闇の中で横たわるそれが空を飛ぶ姿を、わたしは上手く思い描くことが出来ない。
少年は違う。彼は物怖じすることなく籠に乗り込んでいく。どうすれば気球が浮き上がるのかを熟知している。
「ぼんやりしていて良いのかい?」
「わかってる」
鴉の言葉を振り切り、少年の元へ行く。彼の手足となり、準備に参加する。
組み立てにはそう手間は掛からない。既に飛び立つ準備はほとんど出来ている。管理委員会が夜が明け次第、気球を飛ばすつもりでいるのがわかる。
少年がバーナーで火を焚くと、萎んでいた布の球体が膨らみ始める。横たわっていた巨大な生き物が再び起き上がっていくようだ。
足元から、ゆっくりと持ち上げられるような感覚が伝わってくる。籠の縁から覗くと、僅かだが地面から浮かんでいる。
気球はしかし、途中で上昇を止める。
籠の四隅がロープで地面と繋がれているのだ。
わたしは気球を一旦下りる。ロープを解きに掛かる。ロープは荒く、しかも地面に打った楔に固く結ばれている。掌を擦りむいた手には力が入らず、上手く解けない。わたしはナイフを取り出し、ロープに刃を突き立てる。少しずつだが確実に、ロープの縄目が断線していく。
一本目の切断に成功する。
二本目も同じように、刃を突き立てる。何度か振り下ろしたところで、ナイフが手から擦り抜ける。掌が出血し、血で濡れている。わたしはナイフを拾い上げ、服の裾を破り取る。その切れ端を巻いて、ナイフと右手を固定する。再びロープへ刃を振り下ろす。
三本目が切れる。右の腕が取れ掛かっている気がする。少なくとも、自分の物のようには感じられない。
それでも止まるわけにはいかない。
腰を上げた瞬間、目の前が真っ白になる。
光。
時折射していた月光とは異なる種類の。
誰かの意思によって、わたしの周りが照らされている。
サイレンが鳴り響く。大きな揺れがあった後のような。
誰かが〈処理〉される時のような。
塔が鳴いているみたいだ。
目の眩みが収まってくると、闇の中に、いくつもの人影が動いているのが見える。彼らはこちらを目指して駆けてくる。
わたしは銃を手にした係官たちに取り囲まれる。合計八つの銃口が、わたしの方を向く。
「やれやれ。すんなり行くとは思っていなかったけど」鴉が言う。彼はわたしの頭の上を旋回している。「僕が合図したら、君は気球に乗り込むんだ。後は上手くやっておくから」
「まだ一本残ってる」
「大丈夫」
「どうする気?」
「僕を信じて」それから鴉は「今だ」と嘴を開く。
問い返す前に、わたしの身体は反射的に動く。気球の籠に取り縋り、縁を乗り越えるようにして内側へ入る。背後で破裂音が聞こえる。わたしに向けられていた銃口から発せられたものだと、容易に想像がつく。
「顔を出しちゃ駄目だ!」
下を覗こうとしたわたしを、鴉の声が諫めてくる。
いつの間にか辺りには、いくつもの鴉の鳴き声が響いている。黒い鳥の群れが屋上の空を飛び回っている。
発砲は断続的に行われる。ロープに当てぬように、との指示が、鴉の鳴き声に混じって聞こえる。それでもいくつかの銃弾が籠の縁を掠める。わたしと少年は籠の隅で身を寄せ合い、出来る限り身体を小さく折り畳む。
籠に、大きな揺れが加わる。かと思うと、再び上昇する感触が、尻の下から伝わってくる。
「ロープが切れた!」鴉が叫ぶ。「このまま上昇するんだ! 彼らの弾が届かないほど高く!」
わたしは手を伸ばし、バーナーのバルブを回す。橙色の揺らめく炎が蒼く鋭いものに変わる。
気球は上昇を続ける。鴉たちの鳴き声と発砲音が遠のいていく。
鴉の姿は見当たらない。
「残念だけど、僕はここまでみたいだ」
声がする。わたしは辺りの空を探すが、彼はやはりどこにもいない。
わたしは言う。
「何を言っているの。早く来て。わたしをあの光まで連れて行く約束でしょう?」
「大丈夫。後は君たちだけでもやっていけるさ」
「無責任」
「そうとも言えるね」
「そうとしか言えない」
「また嫌われてしまったようだね」
「大嫌い。元々。初めて会った時からずっと」
彼は笑う。
わたしは籠の縁を掴む手に力を込める。
「本当に、嫌い」
しかし、いくら言語化してもこの気持ちは実体を持たない。わたしの口から滑り出ただけの、音の連なりでしかない。
「さようなら、またいつか」鴉は言う。「僕の大切な友達。いつまでも元気で」
鴉を呼ぼうとして、何と口にして良いかわからなくなる。わたしは彼を〈鴉〉としてしか知らない。彼の本当の名前を知らない。
わたしはまた、大切なひとの名前を呼ぶことが出来ない。
気球はやがて、冷たい雲の中に入る。
球皮と籠とを繋ぐワイヤーが軋んでいる。
流れる靄が、バーナーの火さえも霞ませる。時折雨粒も打ち付ける。籠が、立っていられないほど傾いている。風を裂く音だけが、気球が前進していることを実感させる。
不意に、風の音が止む。
籠の傾きが収まる。ワイヤーの軋みは穏やかになり、わたしは少年を抱えていた腕を緩める。立ち上がり、外を見る。
気球は、雲の上に出ている。眼下の闇には黒々とした雲が敷き詰められ、頭上には濃紺から青に変わりつつある空が広がっている。遥か遠くに見える空と雲の境目は、橙色に染まっている。初めは兆しでしかなかった暖色は、見る間にその色合いを増していく。
やがて、眩い光がわたしの目を射す。
手を翳しながら、徐々に目を慣れさせる。
黄みがかった火の球が、暗い雲の絨毯から浮上する。
冷たい夜が見る間に溶かされていく。世界が裏返っていくような光景が、音もなく繰り広げられる。
わたしたちはそれを、白い息を吐きながら眺める。寒さはない。熱を帯びた光が、浴びる者全てを暖める。
言葉など出ない。今の気持ちを、言語化することなど不可能だ。
だが、わたしの胸の中では、何かが確実に揺らめいている。
この揺らぎは、確かに存在している。
右手をそっと掴まれる。
少年が、空の彼方を見つめたまま、わたしの手を握っている。
わたしは、止血のための布を雑に巻き付けた手で、彼の小さな手を握り返す。
布越しにも、彼の体温が伝わってくる。
彼はここにいる。
わたしもここにいる。
言葉は必要ない。
互いの体温を触れさせるだけで、それは伝わる。
火球は完全に雲を離れる。夜は溶かし尽くされ、わたしたちの頭上には青が広がる。その向こうには、深い紺色が見透かせる。
空の向こう側の色。星々の世界の色。
大昔、人間は、夜空の星を目指す術も持っていたという。もっともそこには何もなく、人もおらず、空気すらもないとのことだった。
何故人々はそんな場所を目指したのか。
今ならわかる。
何もなくとも。誰もいなくとも。
もし飛び立つ術があるのなら。
もし心を引く何かがあるのなら。
遠くから眺めるだけで終わることが、どうして出来るだろうか。
わたしは、少年と繋いだ手に力を込める。
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