7-5

 階段はしかし、途中で柵扉に阻まれる。扉は厳重に施錠されており、少なくともここにある人手では突破できそうにない。

 わたしは一応、鴉に訊ねる。

「鍵を持っていたりはしないの?」

「持っていないね、残念ながら」

 押しても引いても揺すっても、施錠が解けることはない。

「諦めることはないさ」鴉が言う。「道は他にもある」

 わたしたちはその階層の廊下に出る。廊下を進む。向かう先はゴンドラである。

 吹き抜けに面した手摺りに、鴉がとまる。

「力を入れて引いてごらん。君にも開けられる」

 言われた通りにすると、スライド式の扉は初めこそ抵抗のあったものの、音もなく開く。

 縦長の空洞。ゴンドラを吊す鎖が風に揺れている。下を見ても、上へ目を向けても、その先には何も見えない。ただ、闇の彼方からゴンゴンと金属のぶつかるような音が響くばかりである。わたしは息を呑む。

「大丈夫。よく見て」

 鴉の言葉に、空洞の内側を見回す。入口のすぐ脇に梯子が掛かっている。鎖と同じようにずっと下から伸びてきて、遥か上まで続いている。

「保守点検用の梯子さ。屋上まで続いてる」

 空洞に腕の力だけで身を晒すことに変わりはない。だが、鎖を手繰って登っていくことに比べたら、格段に簡単なことに思える。

 問題は少年だ。彼の腕の力で、屋上まで辿り着けるとは思えない。

 取るべき選択は、すぐに決まる。

 わたしは背負っていたリュックサックを降ろす。中から衣類を出し、少年に着せる。自分も着込む。それから少年と自分のポケットに、詰められるだけの食糧を詰める。気球に乗った際に命綱として使う予定だったロープを取り出し、負ぶった少年とわたしの身体を結ぶ。それ以外の荷物は、リュックサックごと空洞に落とす。

 わたしは少年に向けて言う。

「わたしを信じて」

 頷く気配が、背中に伝わってくる。

 ゴンドラの入口に立った時点で、わたしはよろめく。少年は着実に成長し、大きくなっている。一方わたしは、元々の非力に加え、年齢的に見れば成長段階を終えている。この身体に、人間一人の命はあまりに重い。

 鴉が問う。

「今更、引き返すなんて言わないだろう?」

 わたしは小さく頷く。そして、闇の中で鈍く光る梯子へ手を伸ばす。


 上だけを見続ける。

 他には何も考えないよう意識する。

 

 今だけは、この考えに頭を委ねる。

 無心で、次の棒を掴んでいく。一段一段着実に、上昇していく。

 汗が目に染みる。

 ポケットから保存食が落ちていく。

 どうすることも出来ない。梯子から手を離したら、全てが終わる。

 鉄柵の向こうで、鴉が言う。

「もう一息だよ」

 先ほどから、何度聞いたかわからない。言われる度に、ゴールが遠のいていく気がする。黙るように言いたいが、そんな余裕はない。

 少年とを結ぶロープが身体に食い込む。

 腕の感覚がなくなっている。

 考えるな。

 呼吸が思うように出来ない。

 足に力が入らない。

 考えるな。

 汗で手が滑る。

 考えるな。

 滑るのは汗のせいじゃない。

 掌の皮が剥けて血が出ている。

 考えるな。

 わたしはこんな所で何をしているのだろう?

 考えるな。

 このまま手を離したら、どんなに楽だろう?

 考えるな。

 考えるな。

 考えるな。

 何も考えるな――


 腕から力が抜ける。

 わたしの手は、指は、何も掴んでいない。掴み損ねたのだ。

 フッと身体が浮き上がるような感覚に包まれる。

 終わった、と頭の隅でぼんやり思う。これで全て終わったのだ、と。

 それでもわたしの腕は、上へ向かって伸びている。

 闇の奥にある筈の。

 光の瞬くあの場所と繋がる空に向かって。


 誰かが、わたしの手首を掴む。


 頬に、冷たく固い感触が当たっている。

 闇の底に落ちたのだ、と直感的に思う。だが、そうだとすれば、それを認識するわたしは存在しない筈だ。

 手足に痺れと倦怠感はあるものの、肉体の感覚を持っている。

 カン、カン、カン、カン、カン――。

 甲高い〈鼓動〉が、耳から流れ込んでくる。

 わたしは生きている。

 首を動かすと、少年が膝を突いて、こちらを覗き込んでいる。自分でロープを解いたらしい。

 手摺りには鴉がとまっている。

「おめでとう、よく登りきったね。正直駄目かと思ったよ」

 わたしは身を起こす。それから、右の手首を確かめる。そこには何の痕跡もない。自分が何を探しているのかわからなくなるほど、何もない。

 鴉に問う。

「あなたなの?」

「何がだい?」彼は首を傾げる。

 わたしは答えを得るのを諦める。

 わたしたちはゴンドラ乗り場のある小屋を出る。

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